島津義久の大将としての器とは?島津家を九州最強の戦国大名に押し上げた人物

戦国時代、薩摩を本拠地として薩摩藩の礎を築いた最重要人物こそ、島津義久(しまづよしひさ)と言ってもいいでしょう。武将として優れた3人の弟たちとの強い絆により臣下や民衆を統率した彼ですが、実は戦にはそれほど出ていません。では、彼はどんな人物で、どのように島津家を九州最強の大名に仕立て上げたのでしょうか。島津四兄弟の長兄・島津義久の生涯に迫ってみましょう。

祖父に見込まれた器

 

祖父に見込まれた器

image by PIXTA / 3215544

島津義久が生まれたのは天文2(1533)年。
この翌年には織田信長、さらに2年後には豊臣秀吉が生まれていますので、その辺と同世代と認識して下さい。

幼い頃の義久はとても大人しい性格だったと言われています。

島津家の将来の当主たるものがそんな感じでいいのかと思われたかもしれませんが、島津家中興の祖と言われた名君でもある祖父の忠良(ただよし)は、義久について「三州(薩摩/鹿児島県西部・大隅/鹿児島県東部・日向/宮崎県付近)の総大将としての徳が備わっている」と高く評価したんですよ。

この忠良、「日新公(じっしんこう)いろは歌」という人間の行うべき道を示す歌をつくった人物でもあります。
これは薩摩藩の教育の規範にもなっており、現代にまで受け継がれているんですよ。
島津家がどれだけ影響力を持っているかがわかりますね。

薩摩統一、そして三州統一を果たす

 

薩摩統一、そして三州統一を果たす

image by PIXTA / 33026912

天文23(1554)年に初陣を果たした義久は、父に従い薩摩の統一に乗り出します。
その途上の永禄9(1566)年、32歳で家督を相続し、島津家16代当主となりました。
それから4年後には薩摩の統一を果たし、その6年後の天正4(1576)年には、ついに三州の統一を成し遂げたのです。

祖父・忠良の見立ては合っていたというわけですね。

ここまでの道のり、そしてこれからの道のりには、義久を支えた弟たちが深く関わっています。

二男・義弘(よしひろ)は戦国時代最強をうたわれた戦上手。
朝鮮出兵では「鬼島津」との異名を取るほどの猛将ぶりでした。
彼がいなければ島津家の版図拡大はなかったでしょう。

三男・歳久(としひさ)もまた、兄を支えるにはなくてはならない存在でした。
武将としてだけでなく、下戸の義久の代わりに家臣たちの献杯を受けて回るなど、兄を気遣うことも欠かさなかったんです。

そして四男の家久(いえひさ)は、二男の義弘に劣らない武勇の将でした。
彼が早くに死ななければ、島津家はもっと勢力を広げることができたかもしれません。

こうした優秀な弟たちと家臣の支えの元、義久は九州平定に乗り出していったのです。

あの義久だって戦に出た!耳川の戦い

 

あの義久だって戦に出た!耳川の戦い

image by PIXTA / 28657967

最初にご紹介したように、義久はあまり国から出ず、前線で戦うということもほとんどありませんでした。

そんな彼が出陣し功績を挙げた、唯一と言ってもいいほどの有名な戦いが、天正6(1578)年の耳川(みみがわ)の戦いなんです。

これは、義久が日向攻略時に追い出した武将が、豊後(大分県)で大きな力を持っていた大友宗麟(おおともそうりん)の元へ亡命したところから始まります。

自分の元へ逃げ込んできた武将を助けてやろう、あわよくば自分の領地も増やそう…そんな思いはこの時代なら誰にでもあるはず。
宗麟もまた同様で、島津家の領地となった日向へと侵攻してきたのでした。

大友軍は約4万、島津軍は約3万と数的には不利です。

しかし、ここでこの後島津家の十八番ともなる戦法が炸裂することになりました。

炸裂!「釣り野伏せ」戦法

 

炸裂!「釣り野伏せ」戦法

image by PIXTA / 19676419

義久は直々に1万の兵を率いて耳川付近の戦場へ出ます。
弟たちもそれぞれ兵を率いていました。

島津軍の前衛部隊は大友軍の攻撃を受けて壊滅状態となります。
勢いに乗って攻撃を仕掛けてきた大友軍ですが、実は両脇に島津の伏兵が多数潜んでいたことは知りませんでした。

左右から襲いかかった島津軍、そして前衛部隊は失ったものの健在な本隊が攻撃を開始し、大友軍は大損害を受けて敗走することとなりました。
島津軍が討ち取った相手の首級は2千から3千にも及んだといいます。

この戦法こそが、義久が考案したとされ、後に多くの戦いで採られるようになる「釣り野伏せ」でした。

釣り野伏せは、3つに分けた軍の2つを左右に伏せて隠れさせます。
そして、残りの1隊が敵とぶつかり、敗走するふりをして後退します。
それを追ってきた敵に、伏せていた左右の隊が襲い掛かり、敗走していた隊も反転して攻撃を加え、壊滅させるというものなんですよ。
少数で多数に勝つために用いられた作戦でした。

こうして耳川の戦いで圧勝を収めた義久。
この戦いは、大友家の衰退と島津家の隆盛を招くきっかけとなったのでした。

次なる敵は「肥前の熊」

 

次なる敵は「肥前の熊」

image by PIXTA / 33026778

耳川の戦いで大敗を喫した大友宗麟の力が弱まると、次に出てきたのが肥前(佐賀県・長崎県)の戦国大名・龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)でした。
彼の強さは、「肥前の熊」と呼ばれ恐れられるほどだったんです。

義久の目指す九州平定には、龍造寺に勝利することは必須条件でした。

そんな時、ちょうど、龍造寺に圧迫されて領地を追われた有馬(ありま)氏が、義久に助けを求めてきたのです。

そして天正12(1584)年、島津と龍造寺との間で、沖田畷(おきたなわて)の戦いが起こりました。

この戦いに、義久は弟の家久を派遣しました。
家久は有馬勢と合わせて5千余りの兵力でしたが、それで2万5千の龍造寺軍に見事勝利を収めたのです。
龍造寺隆信以下、重臣など3千人余りを討ち取ったとされています。

家久の才覚も素晴らしいですし、やはり、家久をここに配置した義久の采配もまた、優れた判断だったと言ってもいいでしょうね。

この後、肥後(熊本県)や筑前(福岡県西部)は弟の義弘の力によって平定され、島津家による九州平定はもうすぐそこまで来ていました。

しかし、ここで新たな敵が現れたのです。

豊臣秀吉の停戦命令を無視

 

豊臣秀吉の停戦命令を無視

image by PIXTA / 29890566

九州平定に残された敵は、もはや大友宗麟のみでした。
しかし、宗麟がなんと天下統一事業をすすめる時の権力者・豊臣秀吉の元へ直接助けを求めに行ったのです。

そこで秀吉は、島津家と大友家に対して停戦命令を発令しました。

これが「惣無事令(そうぶじれい)」です。
大名同士の勝手な戦を禁止するもので、もはや天下人に等しい秀吉からのものとあっては、その効力は絶大なものでした。

島津家中では議論が白熱しました。
そして、義久が出した答えは、なんとこれを無視することだったんです。
すごい胆の座りようですね。

そして、義久は大友領への侵攻を命じました。

いつものように彼は薩摩本国にあって指揮の大元となり、実際に戦場へ赴いたのは臣下や弟たちです。

やがて九州征伐の先発隊ともなる豊臣方の連合軍も、大友軍の援軍として九州に上陸してきました。
しかしここで家久が目覚ましい活躍を見せ、兄譲りの釣り野伏せを駆使して豊臣方を撃破します。
それから島津の軍勢は大友宗麟の城を包囲し、ついに追いつめました。

ところが、この直後、10万を超える豊臣の本隊が到着したのでした。

秀吉の九州征伐に屈する

 

秀吉の九州征伐に屈する

image by PIXTA / 33026773

戦上手の義弘や家久らでも、圧倒的な数を誇る豊臣軍の前には敗北を喫し、本国へと退却せざるを得ませんでした。

今まで平定してきた九州の各地はすでに豊臣方の手に落ち、大軍が薩摩に迫ってきます。

義久、ひいては島津家に危機が迫っていました。

そこで義久が取った行動は、剃髪でした。
剃髪とは出家のこと、つまりは世を捨て僧侶になるということです。
名前も「龍伯(りゅうはく)」と改めました。

そして、ついに秀吉と対面した義久は降伏の意思表示をしたのです。

弟たち(義弘や歳久)は降伏を受け入れずに抗戦を続けていましたが、義久は彼らを強く説得し、そこでようやく全面的な停戦に至ります。

あともう一息のところにまで迫っていた九州平定の夢は、砕かれてしまいました。

弟・義弘を優遇する豊臣政権、義久はどうなる?

 

弟・義弘を優遇する豊臣政権、義久はどうなる?

image by PIXTA / 33026301

九州征伐後、豊臣政権は義久よりも義弘を重視しました。
義久には自分のかつての羽柴姓を与えただけなのに対し、義弘には羽柴姓と豊臣姓の両方を許したんです。
そして、豊臣政権との交渉窓口を義弘としました。

しかも、検地が終わると義久の領地は大隅と日向が主となり、島津家の本拠地・薩摩は義弘のものとなってしまったんです。
豊臣方は義久を当主とみなしていなかったんですね。
確かに、戦場で無敵の強さを誇る義弘の評判を知っていれば、そちらを手なずけておきたくなるのもわかるのですが…。

それだけでなく、秀吉はこうすることで兄弟の離間をはかろうとしたとも言われているんです。

義久自身は出家し、表向き隠居の身となっていましたが、島津家の実権は依然として彼のものでした。
一方、豊臣との交渉は義弘が行っていたため、この状態を「両殿体制」と呼んでいます。

こんなこともありましたが、それでも、兄弟の仲が悪くなるということはありませんでした。
島津四兄弟の絆は、これくらいのことでは揺らがなかったのです。

弟を自ら討たねばならない悲劇

 

秀吉に降伏したものの、歳久だけはずっと不満を溜め続けていました。

そして、秀吉の駕籠に矢を放つという暴挙に出たんです。
加えて、この後の朝鮮出兵にも体調不良を理由に参加しませんでした。

それから5年後の1592(天正20)年、島津家臣の一人が豊臣政権に対して一揆を起こし、これに歳久の家臣が多く参加したことに対して秀吉は激怒し、義久に対して歳久の首を要求したのでした。

義久はやむなく弟に追討軍を差し向けます。

追われた歳久は自害しますが、その際「やましいところは何もなかったし、兄に対して弓を引くつもりもない」と遺書を残していました。
島津家の存続と安泰のために腹を切ったのです。

義久の心情はいかばかりだったでしょう。
彼と義弘は歳久を追悼する歌を何首も詠んでおり、その悲しみが深かったことがわかります。

この頃には末弟の家久も亡くなっており、四兄弟は2人だけとなってしまいました。

関ヶ原の戦い不参加の理由

 

関ヶ原の戦い不参加の理由

image by PIXTA / 29438952

慶長4(1599)年、義久の後継者・忠恒(ただつね)が、重臣の伊集院忠棟(いじゅういんただむね)を斬殺してしまいました。
忠棟は秀吉に優遇されて半ば独立した勢力となっており、島津家内でも評判は良くありませんでした。

すると、忠棟の息子・忠真(ただざね)が島津家に反旗を翻します。
これが「庄内の乱」で、島津家の歴史のなかでも一番の大乱となってしまいました。

そのため、この翌年に起きた関ヶ原の戦いに島津家は参加できなくなったんですよ。

内乱は、徳川家康の仲介もあって収束に向かい、義久は最終的には忠真の降伏を受け入れています。
ここまでの乱を起こされておきながら、器が大きいですよね

しかしこれには後日談があります。

忠真はやはり仇討ちを諦めていませんでした。
それを知った忠恒は彼を許せず、数年後、狩りの場で誤射を装って忠真を射殺してしまったんです。
激しい一面のあった忠恒ですが、まさかここまでとは…。

弟と甥が関ヶ原で大暴れ、島津家改易のピンチ

 

弟と甥が関ヶ原で大暴れ、島津家改易のピンチ

image by PIXTA / 26897103

関ヶ原の戦いには義久をはじめとした島津家は不参加と先程述べましたが、実はごく一部が参加していました。

それが、義弘と甥の豊久(とよひさ)です。

彼らはわずかな兵で参加し、成り行きで西軍に付いた上に、東軍に猛攻を加えて中央突破し、やっと帰国してきたんですよ。

これでは、島津家が東軍(徳川家康)に刃向ったとされても仕方なく、最悪、領地を没収され取り潰されてしまいます。

そこで、義久はまず義弘を蟄居させました。
そして、家康に「あれは弟がやったことで、島津本家は何も関係していない」と弁明したんです。
ある意味、シラを切るというすごい大芝居を打ったわけですね。

その後、後継ぎの忠恒が上洛して家康に謝罪し、結果、島津家は領地を安堵されることになりました。
義弘にも咎めはなく、最初に蟄居させた義久の判断は正解だったのです。

歳久を自分の手で追討したからこそ、義弘は守らなければと思ったのかもしれませんね。

穏やかな晩年を迎えたのか?

 

穏やかな晩年を迎えたのか?

image by PIXTA / 12629996

慶長7(1602)年、義久は忠恒に家督を譲って隠居します。
と言っても亡くなるまで影響力を持ち続けたため、義久・義弘・忠恒の「三殿体制」がしばらく続きました。

そして慶長16(1611)年、79歳で没します。

忠恒は義弘の息子で、義久の娘と結婚して養子に入った形でした。
しかし夫婦仲が悪く、そのため義久と義弘、義久と忠恒との仲が悪くなっているという噂も流れていたんです。

しかし、こんな逸話が残っています。

ある時、義久の元を義弘と忠恒が訪れましたが、いつになっても出てきません。
もしや成敗されてしまったかと家臣が気をもんでいると、やがて奥から3人の楽しそうな笑い声が聞こえてきました。
それを聞いて、3人の仲に何ら問題ないことに皆が安心したということです。

逸話ではありますが、こうあってほしいと思いませんか?

長兄としての心遣いを忘れない

 

長兄としての心遣いを忘れない

image by PIXTA / 9721735

義久にはこんなエピソードも伝わっています。

兄弟4人で狩りに行った後、馬を眺めていたところ、歳久が「馬の毛色というのは母馬に似ていますが、人間も同じでしょうね」と言いました。

実は、4人のうち上の3人は正室の子でしたが、末子の家久だけは側室の子だったんです。

それを歳久は暗にあてこすったわけですが、それを察した義久はこう答えました。

「そうでもないだろう。
父に似るのもいるし、何より人間には徳があるのだから、それを磨けば誰だって優れた人間になれる」

側でこれを聞いた家久は感激し、以後学問と武芸に励み、あのように立派な武将となったのでした。

また、ある臣下が立ち入り禁止の義久の狩場で、無断で狩りをしてしまったことがありました。
義久の姿を見て逃げ出しましたが、彼は名の入った傘を落としてしまったのです。

義久はそれを拾うと、笑って名前を消し、そのまま不問としました。

この臣下はその恩を一生忘れず、義久が死ぬまで忠義を尽くし、殉死したんです。

薩摩藩の礎として

 

明治維新において、長州藩や土佐藩と共に中心となったのが薩摩藩。
西郷隆盛なども輩出しましたよね。
その薩摩藩主を代々つとめたのは、島津氏でした。
初代藩主は忠恒ですが、その先代の義久こそ、島津家の繁栄の基礎を築いた偉大な存在だったわけです。
戦に出なくとも配下をまとめ上げるカリスマが、彼に備わった主の資質だったのでしょうね。
だからこそ、優れた弟たちが率先して従ったのだと思います。
逸話にも見られる優しさや寛大さも、義久の性格だったと考えてもいいのではないでしょうか。
photo by PIXTA