東海道最強の戦国大名「今川義元」の生涯。ホントにマロ眉でお歯黒?

さて皆さん、今川義元という名は聞いたことがあるでしょうか。大半の方は、「信長にやられた人」ということでご存知かと思います。もう少し知っている方だと、「眉毛を貴族みたいに抜いて書いてて、お歯黒してた」など。それだと、義元が何だかすごく軟弱でやられキャラみたいなイメージになってしまいますが、実はどうして、義元は「海道一の弓取り(東海道一強い武士)」と呼ばれ、周囲に恐れられた戦国大名だったんですよ。義元の波乱に満ちた生涯を見直していきましょう!

今川家ってすごく格式高いんです

今川家ってすごく格式高いんです

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義元は永正16(1519)年、駿河国・遠江国(静岡県)の守護大名・今川氏親(うじちか)の五男として誕生しました。
母は正室の寿桂尼(じゅけいに)で、こちらは公家出身の女性です。

さて、今川家というのはとても格式ある家柄でした。

当時は、弱ってきているとはいえ室町幕府、足利将軍家が支配する世の中。
その同族の吉良(きら)家の分家が今川家なんです。
だからこそ、国の警備や行政を任される守護大名だったんですね。

吉良と聞いて、おやっと思った方、そうです。
赤穂浪士(あこうろうし)が活躍する「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」で悪役として登場する吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)、彼はその吉良家の人間なんですよ。
ちなみに、吉良家は将軍の継承権まで持っているほどでした。

そんな今川家の家柄も頭に入れて、義元の生涯を見ていきましょう。

実は一度、出家しています

実は一度、出家しています

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正室の息子とはいえ、五男だった義元には、当然世継ぎの地位など回ってくるはずもありませんでした。
そのため、彼は4歳で寺に出されたんです。
将来的には僧侶になる予定だったんですよ。
そして、名前を栴岳承芳(せんがくしょうほう)と改めました。

栴岳承芳、なんだか雅な香りがしますよね。
義元には僧侶になった兄弟が何人かいますが、みんなこんな雰囲気の名前なんです。
玄広恵探(げんこうえたん)や象耳泉奘(しょうじせんじょう)などなど…もうすでにこの辺が貴族的?

僧侶となる予定の将来とはいっても、ちゃんと教育係がつけられていました。

その教育係が、太原雪斎(たいげんせっさい)。
れっきとした僧侶ですが、この人がいたからこそ、義元は後に家督争いに勝つことになりました。

雪斎は政治と軍事、両面で義元を支え、「黒衣の宰相」の異名を取るほどの人材だったんです。
そんな彼と出会えたことが、義元の最大の幸運だったかもしれません。

そして2人は京都へ行き、多くの禅寺を回って学問と教養を深める日々を送りました。

本来ならばこういう日々が続くはずだったのですが、義元が18歳になる年、運命が動き出したのです。

兄の死と家督争い「花倉の乱」

兄の死と家督争い「花倉の乱」

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天文5(1536)年、義元18歳の時、突然長兄の氏輝(うじてる)が24歳で亡くなってしまいます。
そして、次兄の彦五郎(ひこごろう)もまた同じ日に亡くなってしまったんですよ。
2人の死はどうにも原因不明で、疫病とも毒殺とも、はたまた自殺とも言われているんです。
同じ日に亡くなったというのが、どうにもキナ臭さを感じてしまいますよね…。

さて、そこで問題となったのが後継ぎでした。

三男は側室の子である玄広恵探。
四男は亡くなっているか身分が低いのか名前が出てきません。
そして名前が挙がったのが、正室・寿桂尼の子である義元だったんです。

やはり正室の子ということで、義元には還俗(僧侶が一般人に戻ること)待望論が出てきました。
しかし、異母兄の玄広恵探を担ぐ一派もおり、両派による内乱が起こってしまったんです。
これを「花倉/花蔵(はなくら/はなぐら)の乱」といます。

乱の名前まで雅だなとお思いでしょうが、「花倉」というのは地名です。
もしくは、異母兄・玄広恵探が「花蔵殿」と呼ばれていたためという説もあります。

この乱では、義元の師・太源雪斎などの活躍があり、義元側が見事に勝利を収めました。
そして、義元は19歳にして今川家の家督を相続し、11代当主の座についたのです。

義元が当主となったころの周辺各国

義元が当主となったころの周辺各国

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では、この頃の勢力図を確認してみましょう。

駿河・遠江を支配する今川家の東には、甲斐国(山梨県)の武田信虎(たけだのぶとら)がいました。
武田信玄の父親ですね。

そしてその向こう、関東一辺には北条氏綱(ほうじょううじつな)が大きな力を持っていました。
下剋上のはしりでもある北条早雲(そううん)の息子です。

甲斐国のさらに北方には長尾景虎(ながおかげとら)、後の上杉謙信が勢力を張っています。

北条早雲の姉は、義元の祖父の妻となっていたこともあり、これまで、今川家は北条家との結び付きを強めていました。
しかし義元は武田信虎の娘を正室に迎え、同盟関係を結びます。

ところが、北条家と武田家は仲が悪かったので、これで義元は北条氏綱の怒りを買ってしまいました。
そして、花倉の乱の傷跡も癒えないうちに北条家に攻められ、いったんは領土を縮小させられてしまうことになったんです。

領土回復、拡張への外交と戦い

領土回復、拡張への外交と戦い

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しかし、後に義元は、北条家と関東で小競り合いを繰り広げていた山内上杉家(やまうちうえすぎ)と結び、北条家に対して勝利を収めています。
また、これによって北条家は関東に集中することとなり、両家の対立はだんだん収まっていったのでした。

一方、西方の尾張国(愛知県西部)からは織田信秀(おだのぶひで)、信長の父が今川領に侵攻の動きを見せます。
こちらへの対策も怠ってはならず、義元としては大忙しでした。

しかし、義元は、織田と今川に挟まれた三河国(愛知県東部)の松平広忠(まつだいらひろただ)を配下に収めることに成功します。
そして、広忠の息子・竹千代(たけちよ)を人質に取ったのでした。
この竹千代こそ、後の徳川家康ですね。

広忠は天文18(1549)年に急死したため、竹千代がまだ幼いという理由から、義元は今川勢力を三河国に入れることに成功しました。

これで、織田家との戦いの準備は着々と進んでいくこととなったのです。

甲相駿三国同盟の成立

甲相駿三国同盟の成立

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北条家との対立はなんとなく収まっており、武田家との争いも特になくなってきたこの頃、織田攻めに集中したい義元としては、後顧の憂いを断っておきたいのが本音でした。

そこでアイディアを出したのが、黒衣の宰相・太源雪斎です。

天文23(1554)年、今川・北条・武田の三家は歴史的な大同盟を結ぶこととなりました。

義元の息子・氏真(うじざね)に北条氏康(うじやす)の娘・早川殿(はやかわどの)を嫁がせ、武田信玄の息子・義信(よしのぶ)に義元の娘・嶺松院(れいしょういん)を嫁がせ、そして北条氏康の息子・氏政(うじまさ)に武田信玄の娘・黄梅院(おうばいいん)を嫁がせるという、トライアングルな婚姻関係を結んだのです。

これが、甲相駿(こうそうすん)三国同盟という大同盟なんですよ。

さんざん競り合ってきた三家がこうした同盟を結ぶというのは、とんでもなく大きなニュースでした。

しかし、この立役者でもあった太原雪斎は翌年に亡くなっています。
義元は右腕を失うという痛恨の一撃にも見舞われることとなったのでした。

とはいえ、永禄元(1558)年に氏真に家督を譲った義元は、よりいっそう織田家との戦いに集中できる環境にあったわけです。

戦だけでなく、内政にも力を入れた義元

戦だけでなく、内政にも力を入れた義元

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では、ここで戦から少し離れましょう。

義元は「海道一の弓取り」と言われるほど数々の戦に勝ってきた武将ですが、それと同時に内政にも優れた手腕を見せたんですよ。

元々、父・氏親が制定した「今川仮名目録(いまがわかなもくろく)」という東国最古の分国法(その国での法律、決まり事を条文化したもの)があったほど、政治体制を整えていたのも今川家の特徴なんです。
義元はその仮名目録に追加を加え、土地の訴訟など現実的な問題に取り組んでいました。

また、これによって室町幕府が決めた「守護使不入地(しゅごしふにゅうち)」という幕府の直轄領を廃止することを宣言し、幕府からの事実上の独立を果たしたんです。
つまりは、守護大名から戦国大名への転身ということでした。

一方、当時は仕える主をしょっちゅう変えることも珍しいことではなかった中、寄親(よりおや)・寄子(よりこ)制度を設け、主従関係をある程度は固定、家内の結束に加えて戦時の動員数を安定させることも行ったんです。

戦に強いという理由は、こういった内政手腕にもあったということですね。

世紀の大番狂わせ・桶狭間の戦い

世紀の大番狂わせ・桶狭間の戦い

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永禄3(1560)年、義元は大軍を率いて尾張への侵攻を開始しました。
この頃、織田家は信秀から信長へとすでに代替わりをし、徐々に勢力を広げ始めていたところでしたが、それでもまだまだ今川家に対抗できる勢力とはとても見なされてはいなかったんですよ。

そのため、前哨戦では織田側を蹴散らした今川軍ですが、桶狭間(愛知県名古屋市と豊明市の境付近)で休息を取ったのが、運命の分かれ道でした。

突然の豪雨により、織田軍の接近に気付かなかったのです。

信長の号令によって奇襲をかけられた今川軍は大混乱に陥り、義元も自ら太刀を振るっての乱戦となりました。
しかし、織田側の毛利義勝(もうりよしかつ)に討たれて最期を遂げることとなったんです。
義元はまだ42歳でした。

これは天地を揺るがすほどの大番狂わせでした。
約350年後、日露戦争で日本がロシアの海軍を日本海で破った時くらいに世間を驚かせた出来事と言っていいでしょう。

そして信長の名が天下に知れ渡ることとなったのでした。

義元亡き後、今川家の急激な没落

義元亡き後、今川家の急激な没落

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義元の戦死により、今川家は急速な弱体化を余儀なくされました。
後を継いでいる氏真は、基本的にぬるま湯に浸かって育った坊ちゃん気質があり、頼りにはなりません。

そんな中、「尼御台(あまみだい)」と呼ばれた義元の母・寿桂尼が氏真を補佐してきましたが、その彼女も永禄11(1568)年に亡くなり、翌年には武田信玄と徳川家康によって氏真は国を追われてしまうこととなったのでした。

義元の死からたった9年だというのに、今川家は戦国大名として滅亡を迎えてしまったのです。

なお、氏真は家康の庇護などを受けながら、なんと大坂冬の陣が起きた慶長19(1615)年まで生き永らえています。

その後、今川家は江戸幕府に旗本として迎えられ、続いてくこととなります。

貴族趣味は本当?

貴族趣味は本当?

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さあ、ここで義元最大の特徴とも言われる、マロ眉とお歯黒について見ていきましょう。

眉毛を抜いて書き、お歯黒をつけ、薄化粧までしたと言われていますが、これは後世の創作だという説もありますね。

もし本当だとしても、足利将軍家に連なる家柄に生まれ、幼少から青年期を京都で過ごし、典雅な公家文化を会得していた義元だからこそのものでしょう。
お歯黒などは、教養の高さを表してもいたんですよ。

また、太っていたから馬にも乗れず、輿に乗って移動していたから桶狭間で討ち取られてしまったという説も一般的ですよね。

しかし、当時、輿という乗り物は位の高い人にしか乗ることを許されないものだったんです。
義元は将軍からの許しがあったからこそ輿に乗っており、それは自身の特権の誇示だったんですよ。
その辺の戦国武将ではできなかったことなんです。

そして、太っていたから武芸もできないというイメージまでつくられてしまっていますが、桶狭間において、義元は最初に斬りかかってきた武士を撃退し、次に襲い掛かって来た毛利良勝の指を食いちぎるほどの猛攻を見せて息絶えたとも言われているんですよ。
軟弱だったとしたら、這って逃げるくらいのことしかできないはずですよね。

教養も武勇も持ち合わせたマルチな戦国大名

この後、織田信長や豊臣秀吉など多くの大名による天下争いが繰り広げられていくこととなるわけですが、すでにその頃には義元の持っていたような優雅な公家文化は脇に追いやられていきました。
そんな中、教養と武勇を持ち合わせた今川家、特に義元の存在は特異でありとても貴重だったと思います。
タラレバは歴史に不要ですが、もし義元が桶狭間で死んでいなかったら、戦国時代の勢力図はかなり変わってきたのではないでしょうか。
信長は、秀吉は、家康は?そんなことを考えさせられるほど、当時の義元は最強クラスの戦国大名だったんですよ。
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