裏切り者の代名詞「小早川秀秋」、内に秘められた苦悩

日本では「裏切り者」の代名詞的存在となってしまっている小早川秀秋。関ヶ原の戦いで彼が寝返ったために勝敗が決した…彼の存在をざっくりと語るなら、それに集約されてしまうかもしれません。しかし、それは本当に裏切りだけで片付けてしまって良いものなのでしょうか。普通の少年が豊臣家に選ばれてしまったがために歩むこととなった苦難と狂気の道のりを、もう一度じっくりと見直してみませんか?

普通の家に生まれた少年

普通の家に生まれた少年

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小早川秀秋(何度も改名しますが、ここではこの名前で統一します)は、天正10(1582)年、本能寺の変が起こった年に、近江国長浜(滋賀県長浜市)に誕生しました。

父は木下家定(きのしたいえさだ)、豊臣秀吉の正室・おねの兄に当たります。
秀吉の出世に伴い、家定もそこで仕えるようになりました。

秀秋は五男でしたので、将来的に木下家を継ぐ見込みは限りなく低いものでした。
そのため、4歳の時に、子供が生まれずにいた秀吉の養子となっておねに育てられます。

養子とはいえ、秀吉の子供になったわけですから、ずっと周りから大切にされていたことでしょう。
ちやほやされたかもしれません。
秀吉にはすでにもう一人、年長の養子・秀次(ひでつぐ)がいましたが、秀秋は彼に次ぐ有力な豊臣家の後継者だったわけです。

秀吉の養子だから…異例の出世

秀吉の養子だから…異例の出世

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武士が大人になる儀式を元服(げんぷく)と言いますよね。
幅はありますが、通常は中学生くらいの年齢でするものです。
しかし秀秋の場合、史料などから天正16(1588)年、7歳のころにはすでに元服していたようなんですよ。
名前も、木下秀俊(ひでとし)となり、やがて羽柴秀俊と変わっていきます。

戦国時代の元服年齢が早まっていたとはいえ、小学生で大人の扱いとは、早いですよね。

実子に恵まれず、秀次という養子をすでに迎えていたとはいえ、一族を強化しようとする秀吉の思いが見えるようです。

そして翌年には丹波亀山(京都府亀岡市)に10万石の領地を与えられ、大名にまでなっているんですよ。
周囲のサポートがあるとは言っても、これでは、秀吉の目も曇ったか?と思わざるを得ません。

その後、豊臣姓を与えられて豊臣秀俊となり、文禄元(1592)年には11歳で権中納言(ごんのちゅうなごん)兼左衛門督(さえもんのかみ/近衛兵などを扱う)という官位を朝廷から授かっています。

当時の官位は有名無実化していましたが、これでは、傍から見てもおかしな昇進です。

秀秋が「金吾」と呼ばれるわけ

納言になってから、秀秋を呼ぶ際には「金吾(きんご)様」と言うことが多くなります。

これは、左衛門督の唐名(中国の官制での名前)が執金吾(しつきんご)ということからなんですね。

ちなみに、かつての中国王朝では、執金吾は憧れの役職でもあったようです。

後漢(25年~220年)の初代光武帝(こうぶてい)は、若かりし頃に「仕官するなら執金吾」と野望を述べていたほどでした。

それほどのエリート官職が11歳の少年に与えられる、そんな時代に当時の日本はあったわけです。
当然、まだ何もわからないはずの秀秋に、光武帝の器はなかったでしょう。

位だけが独り歩きし、彼の心中はどうだったのか、推し量ることも難しいですね。

運命の流転の始まり:豊臣秀頼の誕生

運命の流転の始まり:豊臣秀頼の誕生

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天正19(1591)年に秀次が関白職を秀吉から譲られ、秀秋は実質上、第2の後継者となります。

ところが、その2年後。

文禄2(1593)年、秀吉の側室・淀殿(よどどの)が秀頼(ひでより)を生んだのでした。

老境にさしかかり生まれた我が子は、誰よりも可愛いはず。

秀吉はおそらく、思案したことでしょう。
秀次の後に秀頼を据えればいいが、さて、秀秋はどうするか…。

そこで、当時40歳近くなっても子供のなかった毛利輝元(もうりてるもと)に、秀秋を養子にしてはどうかと打診したんです。
これは、秀吉の軍師・黒田官兵衛(くろだかんべえ)の提案ともいう説がありますね。

しかしそこで危惧を覚えたのが、毛利家重臣の切れ者・小早川隆景(こばやかわたかかげ)でした。

このままでは毛利家を乗っ取られてしまうし、秀吉に遠ざけられた秀秋が養子に来て、毛利家まで政権から遠ざけられてはたまったものではありません。

すでに甥の秀包(ひでかね)という養子がいた隆景ですが、ここで苦渋の選択をすることにしました。

小早川家の養子となる

小早川家の養子となる

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隆景は秀包を廃嫡すると、輝元にはすでに秀元(ひでもと)という養子が内定しているので、自分が秀秋を引き受けると秀吉に申し出たんです。

こうして、文禄3(1594)年、秀秋は小早川家へ入ることとなりました。
この時13歳。

これくらいの年齢になれば、自分がある意味厄介払いされたということは理解できていたでしょう。
複雑な気持ちにもなったかもしれませんよね。

しかし、小早川家にとっては痛恨でした。

秀包はとても優れた人物でしたから、もしこのまま彼が当主となっていれば、後に訪れる小早川家断絶もなかったかもしれないからなんですよ。

とにかく、小早川家に入った秀秋は、その翌年には家督を譲られ、筑前名島(福岡県西部)30万7千石の大名になったのです。

秀吉からの非情な仕打ち:突然の国替え

秀吉からの非情な仕打ち:突然の国替え

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その頃、天下統一を果たした秀吉は、次の目標を大陸へと定め、朝鮮出兵を行っていました。

2度の朝鮮出兵のうち、2回目の出兵である慶長2(1597)慶長の役には、小早川家として秀秋は渡海しています。
それでもまだ16歳なんですよ。
そしてこの間に養父・隆景が亡くなり、この時ようやく名前を小早川秀俊から「小早川秀秋」と改名します。

しかし、朝鮮にいた秀秋に、秀吉が帰国を要請します。
そして秀秋が帰国するなり、越前北ノ庄(福井県福井市)15万石への国替えを命じたのでした。
元々が30万7千石ですから、一気に半分の石高になってしまったわけです。

国替えの理由はいったい?

国替えの理由はいったい?

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いったい秀秋が何をしたのでしょうか?

理由ははっきりとはしていません。
朝鮮での彼の戦い方に軽率な面があったとも言われているのですが、しっかりした裏付けがないんです。
晩年の秀吉には暴挙とも言える行動が多く、かつての兄でもあった関白秀次もまた、謀反の罪を着せられ自害させられていたんですよ。

とにかく、この大幅な減封により、秀秋は多くの家臣をクビにしなくてはなりませんでした。
そのため、気心の知れた側近が軒並みいなくなってしまったんです。

おそらく、秀秋の孤独感と不安は最大限に達していたことでしょう。

しかし、翌年の8月に秀吉は亡くなります。

そしてその次の年、秀吉が秀頼を託した有力大名5人(五大老)の計らいにより、秀秋はかつての筑前と、筑後(福岡県南部)を加えた領土に復帰することができました。

五大老の筆頭は徳川家康。
これで、秀秋には家康にも恩ができたということになります。

これが慶長4(1599)年のことでした。

その次の年、何が起こるかご存知でしょうか。

関ヶ原の戦いです。

関ヶ原の戦い本戦に至るまでの秀秋

関ヶ原の戦い本戦に至るまでの秀秋

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慶長5(1600)年、秀吉の側近だった石田三成は、家康が東北の上杉氏を征伐しに行っている間に挙兵します。

本戦に至るまでには、各地で三成側の西軍と家康側の東軍勢力による前哨戦が幾つも起きています。
そのうちのひとつ、伏見城の戦いには、秀秋は西軍として参加しました。

秀秋は西軍の総大将・毛利輝元の家臣である小早川家の当主でしたし、その前は豊臣家の養子でもありました。
そのため、彼が西軍に参加するのは誰の目から見ても当然のことだったはずです。

しかし、すでに秀秋の元には家康からの調略(ちょうりゃく/政治工作のこと)が及んでいました。

小早川家の家老・平岡頼勝(ひらおかよりかつ)と東軍の武将・黒田長政(くろだながまさ)は親戚筋でもあり、日ごろから仲良くしていました。
その筋もあってか、黒田長政から秀秋に東軍への寝返りが打診されていたんですよ。
そのため、秀秋は開戦前から寝返りを約束していたとも言われています。

一方、西軍の石田三成もこうした動きは察知していたと考える説もあります。

秀秋に対し、秀頼が成人するまでの関白職を約束し、領地を加増するという話を持ちかけていたというんです。

さて、秀秋はいったいどちらを取るのでしょうか…。

心乱れる秀秋の思い

心乱れる秀秋の思い

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やがて家康ら東軍の本隊も関ヶ原に到着し、両軍の布陣が整いました。

その時、秀秋は西軍の一員として、関ヶ原を一望する松尾山(まつおやま)に陣を敷きます。
その数、1万5千。
西軍の中ではなかなかの大軍でもありました。

秀秋の眼下では、西軍と東軍がぶつかり死闘を繰り広げています。

しかし、彼はなかなか軍を動かそうとはせず、ただ傍観していたのです。

おそらく、彼は迷っていたのでしょう。

東軍への寝返りを約束したとはいえ、自分は毛利家の重臣・小早川家の当主。
そして何より、13歳までの約10年間、秀吉の養子として豊臣姓を名乗り、後継者と目された時期もあったわけですから。
秀吉に良くしてもらったこともあったはず。
けれどひどい仕打ちも忘れられず、19歳の青年武将の心の中は様々な思いに乱れていたはずです。

秀秋の選択が天下を決めた?関ヶ原本戦の動き

秀秋の選択が天下を決めた?関ヶ原本戦の動き

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しかし、ここで家康からの催促の使者が再三やってきます。
一説には、家康がしびれを切らして鉄砲を撃ち込んだと言われていますね。

ここに至り、秀秋はようやく心を決めたのでした。

松尾山を駆け下り、西軍の勇将・大谷吉継(おおたによしつぐ)軍の側面へ突撃したのです。

加えて、秀秋の裏切り行為がさらなる裏切りを誘発しました。
西軍所属の他の4人の武将もまた寝返ったんです。
大谷軍はまさかの展開に壊滅状態となり、これが勝敗を決しました。

天下分け目の戦いと目され、長期戦が予想されていた関ヶ原の戦いは、たった半日で決着がつくこととなったのでした。

主家・毛利家もまた関ヶ原で動かなかった

主家・毛利家もまた関ヶ原で動かなかった

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実は、勝敗を決したのは秀秋の選択だけではありません。

毛利家の重臣・吉川広家(きっかわひろいえ)がひそかに東軍と通じ、毛利家の領地の保証と引き換えに軍を動かさないことを約束していたんですよ。
吉川軍が毛利本隊の前に陣取って動かなかったため、結果として毛利軍も戦いに参加しなかったんです。

西軍にとって頼みの綱だった毛利と小早川、この2隊が機能しなかったことが、勝敗の分かれ目だったというわけですね。

裏切り者とのそしりを受け…

裏切り者とのそしりを受け…

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戦後の新たな領地分配により、秀秋は西軍だった宇喜多秀家(うきたひでいえ)の旧領・岡山55万石を得ました。

新たな領地で行政に取り組んだ秀秋でしたが、世間からの「裏切り者」というそしりを免れることはできませんでした。
この頃「秀秋」から「秀詮(読みは同じ)」と改名していますが、何か後ろめたさなどから解放されたかったのかなとも思ってしまいます。

元々、酒に溺れがちだったという秀秋ですが、世間からの冷たい目に耐えられなかったか、さらにこの頃は酒に逃げてしまったようです。

そして、関ヶ原の戦いからわずか2年後の慶長7(1602)年、21歳の若さで急死してしまったのでした。

秀秋の死因は大谷吉継の呪い?

秀秋の死因は大谷吉継の呪い?

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秀秋の死因は不明とされていますが、アルコール依存による肝硬変、内臓疾患とも言われています。

世間では、大谷吉継の祟りだという噂がまことしやかに囁かれました。
確かに、肝硬変などの重い肝臓病になると、肝性脳症という意識障害が起き幻覚などが表れることもありますから、もしかしたら、亡くなる直前の秀秋は大谷吉継の亡霊を見ていたかもしれませんね。

若くして亡くなったため、秀秋には男子がいませんでした。
徳川政権の下では、後継ぎがなければ改易(かいえき/領地を没収し武士の身分を剥奪する)となるため、小早川家もここで断絶となってしまったんです。

小早川家の復興はこれから250年以上先の明治時代のことになります。
主家の毛利家の願いによるものでした。

時代に翻弄された哀れな少年

そもそも、おねの兄の息子という身分は、当時からすれば大したことはなかったはず。
しかし、おねの夫が天下人・豊臣秀吉となり、その養子に選ばれたことが秀秋の運命の分かれ道でした。
世継ぎも有り得ると皆から大事にされたかと思えば、秀頼が生まれれば用無しとばかりに養子に出され、生き残る道を東軍への裏切りに選んだけれど、裏切り者の烙印を押される…世の不条理を短い人生で目いっぱいに感じた秀秋の心中は、私たちの想像の及ぶところではないかもしれません。
彼の人生を知ると、ただ裏切り者呼ばわりするのはあまりに哀れだと思うのですが、いかがでしょうか。
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