台車に船を載せて線路で運んだ?琵琶湖疏水の一部「蹴上インクライン」とは?

皆さんは蹴上インクラインというものをご存知ですか?京都の蹴上、南禅寺の近くにある、線路の上に台車が乗っている産業遺構で、琵琶湖疏水の一部なのですが、ではその琵琶湖疏水とはどういうもので、どのような経緯で作られたのか?その琵琶湖疏水の中で蹴上インクラインはどのような役割を持っているのか?また蹴上インクラインは現在どのように残っているか?などのことについて見ていきたいと思います。

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琵琶湖疏水はなぜ作られた?

首都でなくなった京都のために何が行われた?

首都でなくなった京都のために何が行われた?

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蹴上インクラインのことを説明するには、まずは琵琶湖疏水(びわこそすい)のことからお話しなければなりません。
前回の今川氏真のときと同じように、しばらくインクラインの話は出てこないのですが、辛抱して読んでみてくださいね。

慶応4年(1868年)9月、改元されて明治となり、東京遷都で当時23万人の京都市民は王城としての地位を失い、「天皇陛下がいなくなったら、衰退して何もない町になってしまうのでは?」と動揺。

初代京都府知事となった長谷川信篤(のぶあつ)は、太政官(今の内閣に相当)に地子銭(今の市民税)の免除と産業積立金の下賜を出願し、それぞれ5万円ずつが与えられ、これと先に交付された産業積立金15万円を加えて、新事業を起こすことを考えました。

いろいろな事業の推進役となったのは第2代の府知事となった植村正進(せいしん)で、舎密局(せいみきょく、「chemical」を日本語にしたもので、化学のこと)などを設立しますが、これらの官営工場で利益を上げることは難しく財政の負担となり、第3代府知事の北垣国道(くにみち)によって打ち切られました。

琵琶湖疏水は京都の起死回生の策?

琵琶湖疏水は京都の起死回生の策?

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そして、京都の起死回生の策として考えられたのが、琵琶湖の水を京都市内に引くこと。
しかし、琵琶湖の水を引くことが、どう京都を盛り返す策になるのでしょうか?

工業化するには火力を使用する場合、京都は陸揚げした石炭を陸路で運ばなければならず、水力を利用するには、市内を流れる鴨川は水量不足。
しかし琵琶湖の水を市内に引くことができれば、この目的を達成できるのです。
当時は水力発電をするわけではなく、水車を回してこれを動力とするもので、鴨川の水を増やして水車をたくさん回そうというのが当初の狙いだったのでしょうか?

新知事は上京して、工部大学校(東大工学部の前身)の大島圭介校長に協力者を求めると、校長は日本横断運河計画に興味を示していた学生・田辺朔郎を紹介し、田辺はさっそく2ヶ月かけて現地調査し、概略設計をまとめると共にこれを卒業論文に。
この論文は外国の雑誌にも掲載され、世界的に画期的で新しいものでした。

明治15年(1882年)には高知県庁の嶋田道正に疏水計画線の測量をさせ、翌年には実測全図が出来上がり、この測量の間に福島県の安積疏水(あさかそすい)に係官を出張させ、琵琶湖疏水の参考に。

京都府は勧業諮問会(かんぎょうしもんかい)を設置し、経費予算60万円が全会一致で可決されました。

さらに同年5月5日に改めて主務3省に「琵琶湖の水を京都へ疏水する事業の起工について伺いたい」と正式に書類を提出。
これに対し6月27日内務卿より指令があり、「京都側が考えているより、もっとたくさんのお金がいるぞ!」とのこと。
総合区会は増額についても了承し、増加費用は協議費(市税)による特別税で、疏水は全市合わせての大事業に。

琵琶湖疏水の工事は?そのどんな建造物がある?

ようやく工事が開始

ようやく工事が開始

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さらに滋賀県と大阪府から着工について強い抗議がありましたが、これは両者に費用を負担して一切が完了し、ようやく準備が整いました。

田辺は明治16年(1883年)、23歳で大学校を卒業すると、さっそく京都府に採用され、破格の准番任御用掛(じゅんばんにんごようかかり、技手補担当)としてこの工事を担当することに。

「(当時の)日本の技術ではとても無理だ!」という内務省のお雇い外国人の意見も強かったのですが、この大工事を若者に任せた知事も「今度来た餓鬼極道(北垣国道)」と皮肉交じりの声を受けましたが、メンタリティの強い人だったのか、気にせず工事に向けて邁進。
自分のやるべきことにまっしぐらな人だったでしょうか?

疏水工事は全線をほとんど一気に完成させる予定で、その難易に応じて着工時期をずらしました。
特に第1隧道(ずいどう、トンネルのこと)(長等山(ながらやま)隧道2.4km、今のJRびわこ線山科ー大津間の山)は当時日本最長の北陸本線柳ヶ瀬隧道(1.3km)の約2倍にあたり、両口から着手するだけでは間に合わないので、地形を利用してシャフト(竪坑、地表から坑内へ垂直に設けた坑道施設)を設け、また「あかり部」でも通水時の漏水を防ぐため、着工がやや早められました。

なぜ工事計画が再検討された?

なぜ工事計画が再検討された?

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工事は当初、直営方式でトンネル工事で始められましたが、ここでは技術技能者の確保が難しく、後に請負方式に。
請負業者に工事命令書、設計図、工事仕様書、工事心得等を与えて施工に当たらせました。
請負工事は藤田組および大倉組(現・大成建設)の受注が多く、監督には各工区の監督員が当たりました。

工事中の大きな計画変更は水力発電に絡むもの。
当初、水力の利用については、アメリカのホリヨークの水車場を参考に、階段状の運河で3段階の工業用水車場が考えられていましたが、明治21年(1888年)に田辺朔郎と高木文平がアメリカに出張、水力発電が有利だとわかり提言され、ここから急速に計画の再検討が進められました。

つまりは幹線すなわち通船水路はインクラインによって南禅寺付近に落とし、それから夷川(えびすがわ)の方へ通ずる運河を開削するとともに、これとは別に蹴上(けあげ)に水力発電所を設け、そこへは多数の鉄管により多量の水を送ることにしました。

琵琶湖疏水にはどんな施設がある?

琵琶湖疏水にはどんな施設がある?

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このように日本で初めて水力発電を導入したことは、疏水の開削計画に大変化をもたらし、水運、灌漑(かんがい)、動力だけだった当初の計画が、電灯、動力、工業、交通運輸にまで絶大な威力を発揮。
もしこの計画変更がなかったら、疏水の評価はかなり低くなっただろうと言われています。

この成功で明治35年(1902年)4月には第2疏水の新水路開削が決定しましたが、第1疏水の特筆すべきものは以下の通り。

疏水の取り入れ口となる琵琶湖畔は、遠浅で風浪によって濁りやすくなり、水の中のゴミも吹き寄せられる場合もあるので、水の取り入れ口には相当の設備が必要でした。

このために作られたのが「京都築地」(きょうとつきじ)と呼ばれた施設で、運河口の東西に約72mの間隔を置いて、湖中に突き出した二条の突堤がそれです。

また「大津運河」の中間に「大津閘門」(こうもん、水位の異なる河川や運河、水路の間で船を上下させるための装置)を設け、これは湖水の水位の上下にかかわらず、毎秒8.35㎥の水量を通過させるためのもので、通船にも支障をなくしました。

落盤の大事故もあった?日本で最初のコンクリート建造物とは?

「長等山トンネル」(ながらやまトンネル)とも呼ばれる「第一隧道」の工事は最大の難工事。
工期を短縮するために竪坑(シャフト)を設けましたが、坑内湧水を排水するため、12馬力の蒸気エンジン付き動力ポンプを用い、さらに8馬力エンジン付き予備ポンプを増設。
ポンプを2台使わないと排水できないほどの量だったのですね。

さらに明治21年(1888年)10月5日、落盤による大事故が発生、65名が生き埋めとなりましたが、翌々日全員無事に救出されました。
落盤は怖いですよね。
「自分が生き埋めになったら」と思うとゾッとします。

また、この隧道に用いられた竪坑は施工の促進を図るほか、新鮮な空気を送るためと、竣工時、自然光を投射させるのが目的でした。

明かりの運河には8個所の橋梁が架けられ、第3隧道(日岡トンネル)際の歩道橋はメラン式鉄筋コンクリート床版橋で、田辺が設計した日本最初のRC橋(桁にRC(鉄筋コンクリート)を使った橋)として明治36年(1903年)に架けられ、現存する日本で最初のコンクリート建造物。
こう聞くと、行きたくなってしまうのは私だけでしょうか?

蹴上インクラインとは?

インクラインとは?

102169:インクラインとは?

撮影/カワタツ

蹴上船溜りと南禅寺船溜りでは約36mの高低差があり、この水差を利用して、後日蹴上発電所が作られました。
これによって得た電力で両船溜り場を結ぶインクライン(高瀬舟を台車に乗せて運ぶ斜路)を作りましたが(ようやくインクラインが出てきましたね)、延長582m、直高35.8m、敷地幅21.8m、勾配15分の1で、35kg/mの鉄軌条4条を横枕木の上に敷設した伏線軌道。
インクラインが動き始めたのは明治24年(1891年)11月で、当時世界最大規模のものでした。
(ということは、インクラインは当時は世界中にあった?)運転用の巻き上げ機は蹴上発電所の電力で運転し、通過時間は10分から15分だったそうです。

一般に運河の落差がある場所で船を通行させるには、ロック(閘門)方式、インクライン方式、リフト方式の三つがあり、パナマ運河やイギリスのテムズ川と運河はロック方式。
これは船を水門と水門で区切った閘室に入れ、その閘室の水を排水したり増水したりして、船を低い方や高い方へ進めるもので、インクライン方式は勾配のある水路にレールを敷き、台車に船を載せて、ケーブルカーのようにケーブルで引っ張り上下させるもの。
自走するのではなく、ケーブルで引っ張る所が現代の電車と違うところでしょうか。
台車に直接船を載せるドライ式、水を入れたケージに船を入れてケージごと台車に載せるウェット式があり、蹴上インクラインは、ドライ式のインクライン方式を採用しました。

現在の蹴上インクラインは?

102168:現在の蹴上インクラインは?

撮影/カワタツ

昭和期に入ると、鉄道などの交通機関の影響で舟運の利用は大きく減少し、太平洋戦争後の昭和23年(1948年)に運行を休止。
昭和35年(1960年)に電気設備も撤去され完全に稼働を停止。
昭和48年(1973年)以降、送水管を敷設するため残っていたレールも撤去されましたが、産業遺産として保存するために復元され、現場には復元された台車が2台(坂の途中と、蹴上船溜り)残されていて、1996年(平成8年)には国の史跡に指定されました。
現在の話になりますが、インクラインの線路沿いにはソメイヨシノやヤマザクラが植えられており、春には満開の桜並木の中、線路内を歩いて観賞することも。
桜の本数は約90本。
満開になる4月初旬にはたくさんの観光客が訪れるそうです。

また、インクライン下の船溜りから鴨川の東に約1.8kmの運河、すなわち「鴨東運河」(東高瀬川)を設け、川幅18m、深さ2.1m。
途中に水位差5.2mの閘門(こうもん)を設置、この落差を利用して水力発電所を設けました。

琵琶湖疏水は京都市にどんな恩恵をもたらした?

南禅寺水路閣とは?

102170:南禅寺水路閣とは?

撮影/カワタツ

また、インクライン下の船溜りから鴨川の東に約1.8kmの運河、すなわち「鴨東運河」(東高瀬川)を設け、川幅18m、深さ2.1m。
途中に水位差5.2mの閘門(こうもん)を設置、この落差を利用して水力発電所を設けました。

また、蹴上から京都市街の北方に至り、さらに西方に進んで堀川に合流する約8.4kmの「分線工事」が行われました。
疏水の流量毎秒8.1㎥のうち83%を発電に向け、残り17%の毎秒1.35㎥を分水。
これは洛北と京都御所用水の供給を目的としたもの。
ここには三隧道と有名な「南禅寺水路閣」があります。
私は蹴上インクラインと共にこの南禅寺の水路閣も訪れましたが、この立派な橋が水を運ぶためにかかっていると思うと、なんとも不思議な気持ちになりました。

琵琶湖疏水は4年8カ月の歳月を要して、明治23年(1890年)3月15日に通水しましたが、これに引き続き京都3大事業が行われました。
今まで府の事業だった疏水工事が行われているさなか、市制・町村制が交付され、明治22年(1889年)実施。
京都市は誕生しましたが、当初は市長も府知事が兼任し、市役所も府の中に置かれ、京都3大事業は名実ともに京都市の事業となったのです。

琵琶湖疏水はどんな恩恵をもたらした?

3大事業とは、第2水利事業(第2疏水工事)、水道事業、道路拡築および電気鉄道事業のこと。
第2疏水工事は水需要拡大と電力の増強、水道事業は近代都市としての発展、道路拡築および電気鉄道事業京都七条から伏見までの京都鉄道(のち京都市電)整備と市内交通網の整備で、日本最初の市電が京都を走り、これらの恩恵は今でも続いています。

最後に、私はたしか一昨年の冬に蹴上インクラインと南禅寺を訪れたのですが、たまたま大雪の日で寒い中、インクラインの台車を見て「何だこれは?」と思ったのを思い出します。
現代の電車を見慣れている人間にとって、異質な印象を受けると思うのです。
線路は見慣れていますが、上に乗っているのは電車とは程遠い、無骨な台車。
しかし、「明治時代の、京都市初期の遺物」という感じがすごくあって、さらに線路の上を歩けるのでおもしろいですよ(ただし歩きにくいです)。
しかし、この日は本当に寒かったです。
雪の京都も良かったですが、インクラインは桜の季節に訪れたいですね。

明治の京都市民の思いの詰まった琵琶湖疏水の一部・蹴上インクライン

蹴上インクラインは琵琶湖の水を京都市内に引く琵琶湖疏水の1つの役割として作られ、東京遷都後の京都の衰退を避けるために作られました。
工部大学校を出たばかりの田辺朔郎が工事を担当し、水力発電が途中で採用され、その電気でインクラインも動かされることに。
今回、インクラインより琵琶湖疏水の説明の方が多くなってしまいましたが、蹴上インクラインは琵琶湖疏水の一部分であるため、このような構成になりました。
私は南禅寺と一緒に蹴上インクラインも訪れましたが、たまたま雪の日で、静かで良い景色の写真が撮れて良かったです。
よろしければ明治の京都市民の思いが詰まった琵琶湖疏水の一部、蹴上インクラインを訪れてみてください。
それでは、今回も読んで頂いてありがとうございます!
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