明石城観光前に知りたい!日本100名城「明石城」ってどんなところ?

「明石城」のある明石市は、東経135度にある日本標準時にあります。瀬戸内海の明石海峡をはさんで淡路島が展望できる風光明媚な場所でもあります。現在ある明石城は、江戸時代にできました。町割りなどの都市計画は、かの有名な「宮本武蔵(みやもとむさし)」が行ったといわれています。
歴代のお殿様は、徳川家の親戚の「松平(将軍と御三家以外は「徳川」を名乗れなかった)」さんでした。ここまで書くと「ふーん、そうなんだ」という方もおられるかもしれませんが、なんと明石城は江戸時代になる前に、もうひとつあったと知っていますか?そこには「豊臣秀吉(とよとみひでよし)」がやってきたという記録もあります。
いったい明石という街は、どんなところなのか、そこに建つ明石城ってどんなものなのかと知りたくないですか?

明石藩ができるまでの明石ってどんなところ?

明石藩ができるまでの明石ってどんなところ?

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まず、明石とはどんなところなのか紹介しましょう。

日本の歴史教科書を開くと、一番最初に出てくるのは「明石」だと知ってますか?

それは「明石原人」に「明石象」です。
明石原人の骨は戦災で燃えて現物はありませんが、明石象の骨は「明石文化博物館」に展示されています。
その他にも珍しい日本の歴史の凝縮したような展示がありますので、もし一度明石に行かれたらのぞいてみるのもいいかもしれません。

大和朝廷の時代から、明石と淡路島との間にある「明石海峡」は「大門」といわれています。
西へ行く時この海峡を過ぎれば大和が見えなくなり、西から帰ってくる時この海峡までくると大和が見えることから名づけられたそうですね。
ちょうどゲートのように思えたのでしょう。
この風景を「柿ノ本人麻呂(かきのもとひとまろ)」や「松尾芭蕉(まつおばしょう)」などが作品を作っています。

もうひとつの明石城

もうひとつの明石城

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城としてはじめて登場するのが平安時代。

明石郡の大領(朝廷から任官された長官)だった「明石氏」が「枝吉城(えだよしじょう)」を造ったのが始まりといわれています。

時は過ぎて「豊臣秀吉」の時代。

関白になった秀吉は「天正の国替え」と呼ばれる大規模な国替えをします。
それまで支配していた「明石則実(あかしのりざね)」に代わって、キリシタン大名で有名な「高山右近(たかやまうこん)」が「高槻城」より明石に来て枝吉成に入り「船上城(ふなげじょう)」を建築・町割りをして、1586年には完成したのではないかといわれています。
しかし1587年に高山右近はキリスト教を禁じる「バテレン禁止令」によって追放されてしまいました。

1592年3月、朝鮮出兵のために作った九州の「名護屋城(なごやじょう)」に向かう途中に船上城にやってきた秀吉は、土地の語源ともいわれる「林崎」の沖にある「赤石」を船に乗って見学したという記録があります。
「関ヶ原の合戦」の後は「姫路城」の管轄になりますが、「大坂の陣」が終わると姫路城主だった「池田輝政(いけだてるまさ)」が「鳥取藩」の藩主として移動したため、信州松本城の「小笠原忠真(おがさわらただざね)」が船上城に入り「明石藩」ができました。

現在の明石城は江戸時代の建築

現在の明石城は江戸時代の建築

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徳川幕府が、1615年に1つの国に1つの城を作るという「一国一城令」を出しました。

1617年に小笠原忠真が船上城に入ります。
その時に姫路城の管轄から独立しました。
池田輝政の後に姫路城主になったのは、徳川四天王と言われた「本多忠勝(ほんだただかつ)」の長男の「本多忠政(ほんだただまさ)」でした。
小笠原忠真の奥さんは本多忠政の娘でしたので、そのあたりはスムーズにいったのではないかと思います。

その年に、二代将軍の「徳川秀忠」が「譜代大名(関ヶ原の合戦以前から徳川の味方だった大名)である小笠原が入ったからには、新しく、10万石にふさわしい城郭を作るように」という命令を出したのでした。

建築地が決まるまで

建築地が決まるまで

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小笠原忠真は、義父でもある本多忠政と相談しながら建築の準備をはじめます。

候補となったのは3カ所でした。
塩屋町(神戸市垂水区塩屋町)・かにが坂(明石市和坂)・赤松山(人丸山とも)。
赤松山には「鴻ノ池(現在は剛ノ池)」と呼ばれる29,000㎡の広さの池があり、城を防備するのに役に立つということで決定したといわれています。

この山には現在の「楊柳寺(現在の月照寺)」という曹洞宗のお寺があり、その裏には古墳があったといわれています。
郷土歴史家の「大西昌一」氏によると、明石市立図書館(2017年に駅前ビルに移転して、現在は「明石ふるさと図書館」)へ行く道を作るために半分に分断されているといわれました。
887年の当時の住職が「柿ノ本人麻呂の神霊がとどまっている」という神託をうけたとかで、人丸塚という祠もありました。
それで人丸山と呼ばれていたそうです。

建築準備はすごく豪華

建築準備はすごく豪華

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場所が決まると、徳川秀忠は普請奉行として派遣して、築城費として銀一千貫をくだされました。
西の大名たちがもし動いた時に、姫路と明石で食い止めようとしたともいわれています。

さて、城を作る時は他の城の資材をそのまま使ったり移転することがあります。
1つの国に1つの城なので、近くの使わなくなった「三木城」「高砂城」、明石にあった「枝吉城(しきつじょう・現在は神戸市西区枝吉)」、元々のお城である「船上城」の木材を使用して着工。
城の裏鬼門(南西)に作った「坤櫓(ひつじやぐら)」は伏見城、鬼神も善神もくるという方角(東南)に作った「櫓巽(たつみやぐら)」は船上城の木材が使用されたといわれています。

いよいよ建築

いよいよ建築

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城郭の形は、本丸に城主の3階建ての居館と、坤櫓(桁行6間・梁間5間・高さ7間2尺9寸。
入母屋根造・妻部は南北に向く)と、櫓巽(桁行5間・梁間4間・高さ7間1寸。
入母屋造・妻部は東西に向く)と、北東の艮櫓(1881年に解体)・北西の乾櫓(1901年に解体)。

最初の予定では天守閣を作る予定だったのが台石まで積まれたのに建設されず、坤櫓が代用されていたといわれています。
本丸を中心にして東側に「二の丸」とその東隣に「東の丸」、南側に「三の丸」、西側に「稲荷郭」が配置されました。

本丸・二の丸・東の丸は明石城の核になる部分で、そこの石垣・土塁・堀などは徳川幕府が担当して、三の丸と町屋は小笠原氏と徳川幕府の共同事業として進められました。

城下町はどのような形?

城下町はどのような形?

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町割りなどの都市計画は、姫路城主の本多家と交流があり、明石藩の客分として滞在していた「宮本武蔵」がしたと『赤石市中記』『播磨鑑』『播州明石記録』『小笠原忠真一代覚書』という史料に残されています。
他にもお城の庭園、寺院の作庭(本松寺・円珠院・雲晴寺)をしています。
これが縁で、1626年に武蔵の養子である宮本伊織が小笠原忠真の家来となって、後に家老まで登り詰めることになりました。

さて、この町割りなのですが、さすが戦いにあけくれた武蔵らしいといえばそうなんですが、もし戦になった時に敵を混乱させるためか、目の前にあるのに行くことができないという行き止まりの道とかがあり、観光客の人に「あそこに行きたいんですが!」と道を聞かれることがけっこうあります。

また、海上交通の監視の役割もあり港が整備されました。
この大がかりな工事は、現在の中崎海岸の堤防として残っていて、今でも淡路島への船の発着場、全国にも名だたる漁港として残っています。

明石藩の江戸時代

明石藩の江戸時代

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ようやく苦労して完成させた小笠原忠真ですが、1632年に三代将軍「家光」の命令で、10万石から15万石に加増されて北九州の小倉藩(小倉城)に転封(今でいう転勤)させられました。
これからは九州と本州のカナメである小倉で九州全体ににらみをきかせろということのようでした。

明石の人々は小笠原忠真と別れがたく、一緒に商人や職人がついていっています。
「明石焼(たこ焼きではありません)」と呼ばれる陶芸もその時に移ったといわれています。
明石にその焼き物が復活するのは明治になってからという話が残っています。

その後、たくさんの藩主が代わりますが、中には大変な人もいたのでした。

出入りの激しい殿様たち

出入りの激しい殿様たち

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小笠原忠真が小倉に移ってからしばらくの間は、天領(幕府直轄地)となります。

1633年、信濃松本藩より 「松平庸直(まつだいらやすなお)」が7万石となってやってきました。
来てすぐに亡くなったので兄の息子である「松平光重(まつだいらみつしげ)」が城主となりました。
しかし松平光重も1639年に、美濃加納藩(加納城)に転封しました。
この人は最後は大坂城代にまで出世します。

徳川の譜代大名の名門である大久保家の一員「大久保忠職(おおくぼ ただもと)」が7万石で入城やってきましたが、1649年のたった10年間で13000石加増されて肥前唐津藩(唐津城)に転封しました。

名君だけど、ちょっと変わった殿様

名君だけど、ちょっと変わった殿様

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丹波篠山藩より「松平忠国(まつだいらただくに)」が7万石でやってきました。

篠山藩では建築中の城下町を完成させたという人で、厳格で有名だったらしいのですが、茶道・和歌・俳諧・文学を好む文化人だったといわれています。
この文学好きがこうじて、明石が『源氏物語』や『平家物語』の舞台となっていたことから、なんと「光源氏」や「明石入道」の碑を造って句碑を作っています。

他にも光源氏が明石の君のいる「岡辺の館(神戸市西区にあるらしい)」へ通った道とされる「蔦の細道」や、光源氏が「秋風に 波やこすらむ 夜もすがら あかしの浦の 月のあさがほ」と詠んだ「朝顔光明寺」の「月見の池」とかがあります。
おかげで年配の人には「本当に光源氏は実在していた」と信じている方もおられたりして、けっこう罪な話です。

源氏物語オタクな忠国さんですが、その次の藩主となった息子の「松平信之(まつだいらのぶゆき)」共々名君として名が残っています。
中でも林崎掘割の押部谷から水を引く用水路、一里塚の設置、海岸の防風林、新田の開発などに尽力をつくしていました。

父親ほどでもなかったようですが文化人としても知られていて「喜春城(きしゅんじょう)」という別名を明石城に付けました。
しかしその松平信之も、1679年に大和郡山藩(郡山城 (大和国))に転封してしまいました。

殿様ようやく落ち着く?

殿様ようやく落ち着く?

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その次に入ったのは、郡山城 にいた「本多 政利(ほんだ まさとし)」。
領民に過酷な政策を強いたり、幕府から派遣された「巡見使」に対する作法が不適切だとか、天守閣を作る!と言い出したりして、1682年たった3年で領民に訴えられて、陸奥岩瀬藩に1万石に減知されて転封されてしまいました。
名君の後にこんな殿様が来たら本当に困りますよね。

たった50年で、入れ代り立ち替わりの殿様ですが、越前家の「松平直明(まつだいら なおあきら)」が6万石で入ってから、ようやく落ち着く気配となりました。

直明の始祖は、二代将軍の秀忠の兄である「結城秀康(ゆうきひでやす)」の六男という血筋。
明石松平家の始祖といわれています。
新田開発に力をいれて、特にタバコ栽培を奨励したといわれています。
昔は美女をたくさんはべらせて歌舞に興じていたらしいですが、後にはやめたという逸話があります。
これより明石藩は直明より数えて7代目までは穏やかな日々が続きます。

大事件勃発!

大事件勃発!

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みなさん「十三人の刺客」という話を知っていますか?明石の殿様がモデルの時代小説で、映画やドラマになったりしました。

将軍の異母弟にあたる明石藩主は残忍で・無法の振舞い多く、それが老中になるというので刺客を放たれて殺されるというやつです。
実は明石に残っている伝説と全く関係なく、反対に被害者の7代目の「松平斉韶(まつだいらなりつぐ)」が、とんでもない人物として描かれていますので、名誉挽回もかねて事実をお伝えします。

突然の無理難題

突然の無理難題

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時は十一代将軍「徳川家斉(とくがわいえなり)」の時、この将軍はわかっているだけでも大奥を含めて16人の妻妾がいて、男子26人・女子27人という子供がいました。
成人したのは半分の28人といわれてます。
しかし将軍になれるのはただ1人。
残りの男子は親藩や大名たちの家に無理矢理に跡継ぎ養子として押し込み、女子は嫁がせるという、ある意味血族支配を目論んだような恐ろしい暴挙にでました。

明石藩もその中のひとつでした。

藩主の松平斉韶には「松平直憲(なおのり・後の慶憲(よしのり))」という跡継ぎがいましたが、将軍の命令では断ることができません。
慶憲の母である「至誠院(しせいいん)」は悲憤の中で死去(自殺という説あり)。
その死を明石藩中の人々が嘆き悲しんだといいます。

やってきたのは二十六男の「松平斉宣(まつだいらなりこと)」。

斉宣は「自分は将軍の子である」というプライドが高く、6万石の明石は養子に行ったことで8万石に加増されましたが、それでは他の兄弟と差が出る(御三家に挨拶に行く時に、10万石以下は表門から入れない)と老中に抗議して、実質は8万石だけど10万石扱いという沙汰をもらいます。
困ったのは明石藩。
将軍の息子だけに色々と出費がかかるうえに、10万石格の維時をしていかなければなりません。
財政は一気に苦しくなっていきました。

1844年、斉宣は病気で倒れて20歳の若さで亡くなりました。

斉宣には子供がいませんでしたので、本来の跡継ぎである直憲が藩主になることができたのです。

明石に残る文献には、斉宣は 粗暴でもなく、学問を愛して穏やかな人だったという小姓が書いた日記が残っています。

無礼討ちという伝説の真実

無礼討ちという伝説の真実

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時代劇になる「十三人の刺客」という話はどこから出てきたのでしょうか?

それは、肥前平戸藩主である「松浦静山(まつうらせいざん)」が書いた随筆「甲子夜話(かっしやわ)」の中にありました。

話は、斉宣が参勤交代で尾張藩を通っていた時のこと、3歳の幼児が行列の前を通り過ぎました。
「将軍の息子の前を通り過ぎるとはけしからん」と、家来達は幼児を宿である本陣に連れて行きます。
村人達が押しかけて助命を嘆願しますが聞き届かれず、幼児は処刑されます。

怒ったのは尾張藩。
その時の藩主は斉宣の異母兄でしたが、御三家である尾張藩を馬鹿にしているとばかりに「今後一切、参勤交代の時には明石藩は通さない」と告げます。
そのせいで斉宣が亡くなるまで、明石藩は尾張藩の手前で行列をといて、通り過ぎたらまた行列をしつらえるということになったというものでした。

しかし、この話はこの本以外には記されていないので信憑性に欠けます。

史実には、美濃路萩原宿で馬方の佐吾平が、暴れ馬を取り押さえようとしているなか行列を横切ってしまったために、先駆の武士が無礼討ちにしたという事件が伝えられています。
事実一宮市明地字新田橋上南に「佐吾平遭難遺跡碑」というものがあるそうです。

もしかしたら、面白おかしく脚色したのかもしれませんね。
オチは、幼児の父親が木の上から鉄砲で狙撃して殺したという話だそうです。

明治から現在にいたる明石城

明治から現在にいたる明石城

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幕末は徳川家の親戚ですので幕府側でしたが、鳥羽伏見の戦いの時に出兵はしたものの十五代将軍「徳川慶喜」が、さっさと江戸に帰ってしまったので明石に帰ります。
同時に今や官軍となった新政府がやってきて恭順しました。

廃藩置県で明石藩は明石県となり藩主は県知事となりました。
そして姫路県・飾磨県とかわり、最終的に兵庫県に編入されました。

兵庫県立明石公園へ

兵庫県立明石公園へ

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1881年、全国のお城が壊されていく中、 旧士族ら14人が兵庫県に城跡の保存を出願します。

1888年、 明石公園保存会が設立されて経営が始まりました。

1898年、 皇太子(大正天皇)の離宮候補となって 明石離宮造園が内定しましたが、天皇即位してしまったので取り消しになります。

1918年、ふたたび県立明石公園として開園することになりました。

1945年、 戦闘機・飛燕を作っていた「川崎航空機(川崎重工業)」明石工場が関西発の空爆された2回目に、明石公園に避難した住民や汽車から避難してきた乗客が被災しました。

1957年、坤櫓と巽櫓が「国の重要文化財」に指定されました。

1957年(昭和32年)6月18日、国の重要文化財に指定1995年1月17日、 阪神・淡路大震災で、櫓や石垣が崩れるなどの大被害があり、修復が始まります。
公園内に被災した人達の仮設住宅も建ちました。

2000年、修復が終り、坤櫓と巽櫓間に壊されていた土塀を復元しました。

2003年、宮本武蔵が作った庭園が整備されて「武蔵の庭園」として公開することになりました。

2004年、明石城跡が「国の史跡」に指定されました。

特筆しなければならないのは、公園内の「ローカロ球場」は「もうひとつの甲子園」といわれる「全国高校軟式野球選手権大会」が行われていて、2014年の準決勝で中京と崇徳が3日にわたる延長50回という大勝負があり全国をわかせました。
中京は戦前に甲子園で明石中(明石高校)と1933年に甲子園史にのこる25回延長戦をしているので縁が深いですね。

現在の明石城

明石城跡の明石公園は市民の憩いの場所として無料開放されています。

入り口の「大手門」には「時うち太鼓」があり、ロボットが2時間ごとに太鼓を叩き、その真ん中の時間には舞を舞ってくれるというものができています。
本物の時うち太鼓は、県立公園になったためにお城から移転された「明石神社(祭神は徳川家康)」に奉納されていて、震災前は荘厳な神社でしたが震災後はモダンな神社になっていて、そのおかげでガラス越しに見ることができます。

史跡になってから、それまでは年に数回だけ公開されていた櫓も、坤櫓は5・9・11・3月、巽櫓は4・6・10月、毎週土日と祝日は雨天は中止になりますが、内部が一部公開されています。

なんにもないようで奥が深い明石、美味しい明石焼きや魚を食べて、芝生の中も自由に入れる公園でのんびりしてみませんか?

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