あだ名は「鮭様」!謀略家・最上義光の実像は涙もろくてすごくいいヒト

最上義光(もがみよしあき)は、出羽国(山形県)の戦国大名です。ぴんと来ない方は、伊達政宗の伯父さん、とイメージして下さい。伯父と甥とは言っても、しょっちゅう小競り合いをしていましたが…。そんな義光、政宗の影に隠れてちょっと地味な存在ではありますが、東北において政宗に拮抗する実力の持ち主でした。しかしそこに至るまではたくさんの苦労や悲劇があったんです。「鮭様」という興味深いあだ名を持つ彼の実像、知れば知るほど面白くなりますよ。

大きく生まれ、大きく育つ

大きく生まれ、大きく育つ

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江戸時代に初代出羽山形藩主となり57万石もの領地を築きあげた最上義光は、天文15(1546)年の元旦に、最上義守(よしもり)の長男として生まれました。

永禄3(1560)年に元服し、室町幕府将軍・足利義輝(あしかがよしてる)の一字をもらって「義光」と名乗るようになります。

体格に恵まれた彼は、5歳の時に12歳くらいの体つきをしていたそうですよ。
力も強くて、大人7、8人でも動かせない大石をやすやすと転がしたんだそうです。
成長すると背丈は約180㎝、当時の男性の平均身長が157㎝くらいなので、とんでもない大男になったわけですね。

この頃の最上家は伊達家に従う立場でした。
しかし伊達家の内乱により、独立を目指すという変革の時期でもあったんです。

そんな中、妹の義姫(よしひめ)は伊達輝宗(てるむね)に嫁ぎ、3年後には政宗が誕生しています。

ここから、くっついたり離れたりを繰り返す、油断できない親戚関係が始まったのでした。

父との確執、伊達からの独立

父との確執、伊達からの独立

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元亀元(1570)年、義光は父と不仲になります。
いったんは和解し義光が家督を継ぎますが、4年後に再び険悪になってしまい、これに乗じた伊達輝宗が舅を助けるという口実のもと、最上領内に侵攻してきたのでした。
加えて、出羽の豪族たちもみな父方についてしまい、義光の周りは敵だらけになってしまいました。

しかし義光はこの危機を切り抜けます。
そして父と和解を果たし、伊達家とも和睦して完全に独立すると、ようやく出羽国平定に着手したのでした。

存在したのか怪しい弟

義光が父と険悪になったのは、父が弟の義時(よしとき)をひいきして後を継がせようとしたからだという説もあります。
しかし、そもそも義時の名は確たる史料には登場せず、現在、これは作り話だったのではと考えられています。
義時の存在自体が怪しいものなんだそうですよ。

調略を駆使して出羽統一へ

調略を駆使して出羽統一へ

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まだまだ義光に従わない勢力もたくさんいました。

この中の一人、白鳥長久(しらとりながひさ)などは、時の権力者・織田信長に贈り物をして「自分を出羽守にしてほしい」と申し出たくらいです。

安定しない国情ですから仕方ないのですが、室町幕府から羽州探題(うしゅうたんだい/東北地方を統括する)に任命されたこともある最上家のプライドが許しません。

義光はすぐさま信長の元へ使者を送り、系図を見せて贈り物をし、こちらが出羽守だと認めさせたのでした。

それでも不穏な動きの白鳥長久に対し、義光はいったん懐柔を試みますが、それも効果がないとわかると、危篤を偽って長久を城に呼び出し斬殺してしまいました。

ちなみに、この血しぶきを浴びた「血染めの桜」があると言われていますが、これは後世の作り話です。

しかし、こうしたことで義光のイメージが「残忍で知恵が回る危険な奴」となってしまったわけですね。

調略は決して悪いことじゃない

策謀を巡らせて相手を懐柔、または陥れる「調略」ですが、戦国時代にはよくあること。

それに、義光は降伏した相手の兵はすべて許してきたんです。
不要な血を流すことは避けたからこそ、長久のみを排除したのではないかとも思えます。

このように、敗者に寛大な面を見せた義光は、主としての器は大きかったと思います。
それを周りも知っていたからこそ、調略もしやすかったのではないでしょうか。

甥っ子や上杉とのしのぎ合い

甥っ子や上杉とのしのぎ合い

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さて、天正14(1586)年、義光の正室の実家・大崎家の小姓同士の争いから、大崎合戦が起きました。
義光は大崎家に味方しますが、甥の政宗は相手側に付き、代理戦争のようになります。

しかしここで登場したのが義光の妹にして政宗の母・義姫。

自身が乗った輿を両軍のど真ん中に居座らせると、停戦を要求したんです。

義光は可愛い妹のため、政宗は頭の上がらない母のため、停戦に応じることとなりました。

ちなみに、義光と義姫のまめな手紙のやりとりから、「義光」が「よしみつ」ではなく「よしあき」と判明したんですよ。

同年、天下人への階段をのぼる豊臣秀吉から改めて羽州探題に任命された義光ですが、今度は日本海側の庄内地方で何やらキナ臭くなってきます。

越後国(新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)が侵攻してきて、庄内を奪われてしまったんです。

この時、義光は割と仲の良かった徳川家康に取り成しを頼みますが、上杉の軍師・直江兼続(なおえかねつぐ)が石田三成を通じて秀吉に了解を取り付けてしまい、庄内は上杉のものになってしまいました。
悔しいですね。

秀吉の配下となる

秀吉の配下となる

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秀吉は天下統一のため、小田原の北条氏を征伐することとなりますが、この際、彼は東北諸将にも参陣を要求します。
政宗が遅刻して秀吉にチクリと言われ、冷や汗をかいたという話がありますが、義光は父の葬儀がある旨を報告してから参上したので、お咎めはありませんでした。
「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」、この頃から大切ですね。

こうして秀吉の配下となった義光ですが、二男の家親(いえちか)は家康の小姓として仕えさせています。
三男の義親(よしちか)は秀吉の人質として送られており、義光は両者に取り入るようにしたんです。
外交戦略の一端ですね。

15歳で散った娘の悲劇

15歳で散った娘の悲劇

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この頃、秀吉の後継ぎと目された養子・秀次(ひでつぐ)が義光の娘・駒姫(こまひめ)を見初め、側室にと強く望んできました。

何とか延ばし延ばしにしてきた義光ですが、駒姫が15歳になり、ついに秀次の元に送り出します。
これが文禄4(1595)年のことでした。

ところが、駒姫が出立して間もなく、秀吉の原因不明の怒りを買った秀次は切腹を申し付けられてしまったんです。
しかも、秀吉は秀次の妻子まですべて殺せと命じたんですよ。

この時、駒姫は上京したばかり。
もしかすると秀次にお目見えすらしていなかったかもしれません。
なのに、彼女も死を命じられたんです。

義光は慌てて娘を救おうとしました。
家康や秀吉の親友・前田利家(まえだとしいえ)なども助命嘆願を行いましたが、秀吉の意思は変わらず、駒姫はたった15歳で処刑されてしまいました。
なんという悲劇…。

義光はショックのあまり食事を摂ることもできずにいましたが、追い打ちをかけるかのように、娘の母である彼の正室までもが心労で亡くなってしまったんですよ。

娘と妻、両方をいっぺんに失った義光の心には、豊臣家に対する決定的な恨みが生まれたというわけです。
そして、彼はここから明らかに家康寄りの姿勢を取るようになったのでした。

因縁の上杉とお隣さんに

因縁の上杉とお隣さんに

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慶長3(1598)年、会津国(福島県)の蒲生(がもう)氏がお家騒動によって国替えとなります。
その代りに会津へやってきたのは、義光から庄内を奪った上杉景勝でした。

お隣同士仲良く…といくわけもなく、両者には緊張が走ります。
義光は上杉の軍備増強を家康に告発しました。
すでに秀吉は亡くなっており、家康が力を拡大し始めていたところですしね。

そして、家康は上杉征伐へと乗り出すこととなります。
義光や伊達政宗ら東北の大名はみな家康側に付き、最上領内に対上杉の兵が続々と集まってきました。

ところが、ここで、石田三成が打倒家康を掲げて挙兵します。
家康はこれに対抗すべく軍を転進させる羽目になり、義光ら東北の諸大名らに上杉を牽制せよと伝えて西へ向かってしまいました。

さあ、いったい東北の情勢はどうなるのでしょうか。

「北の関ヶ原」慶長出羽合戦

「北の関ヶ原」慶長出羽合戦

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上杉景勝に対して集まった東北の諸将ですが、国元で一揆が起きたと帰国してしまう者もいましたし、政宗に至っては上杉と講和してしまいました。
残ったのは義光のみ、上杉軍2万4千に対し、最上軍はたったの3千余りしかいなかったんです。

どう見ても形勢不利ですが、義光の兵たちは主のために死闘を演じました。
たった350人で相手に千人の損害を出し、全滅していった隊もいたんですよ。

そして、上杉軍の将・直江兼続が長谷堂城(はせどうじょう)を攻めた際には、千人の最上軍が奮戦し何とか相手を退けたのです。

一方、政宗は援軍を派遣はしましたが、状況を見守っているだけでした。
というのも、彼はこの機に乗じて一揆を起こさせ、領地の拡大を考えていたんです。
本当に食えない甥っ子ですね。

領地は昔の2倍以上に大出世

領地は昔の2倍以上に大出世

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ピンチに次ぐピンチの連続でしたが、やがて関ヶ原にて西軍が敗北したとの知らせが舞い込みます。
ここに至って、上杉軍は撤退を始めました。
そして、義光はこの間に庄内を奪い返すことに成功したんです。

しかし義光はハッスルしすぎ、自分も逃げなくてはいけないのに、逃げる敵を追いかけて兜に被弾しています。
勇ましいですが、さっさと逃げて欲しいですよね、部下的には。

こうして、なし崩しに終了した慶長出羽合戦ですが、上杉軍を退けた功績により義光は出羽山形57万石を得ることとなったのでした。
秀吉時代には24万石でしたから、相当の出世です。
今まで頑張ってきて本当に良かった、と義光も思ったでしょうし、彼の生涯を追いかけている私たちも、どこかほっとするものがありませんか?

名君がなぜ?父子の確執が悲劇を招く

名君がなぜ?父子の確執が悲劇を招く

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太平の世となり、義光は城下町やインフラの整備に取り掛かり、名君として領民に慕われます。
東北地方ではしょっちゅう起きる一揆も、義光のもとでは起きなかったんですよ。

また、彼が庄内平野の開発を行ったおかげで、今もその地が米どころとなっているわけなんですね。

しかし、嫡男・義康(よしやす)との間に確執が生まれます。

二男の家親は早くに家康の小姓となっており、徳川政権での覚えもめでたいものでした。
家康もまた、家親を義光の後継ぎにと望んでいた節もあります。

加えて、家臣が主と世継ぎの離間を謀り、義光に義康の悪口を吹き込んだようなんです。
どうして義光がそれを聞き入れてしまったのか、それも疑問なのですが、彼は義康に高野山への退去を命じました。
そして出立間もなく、義康は家臣によって暗殺されてしまったんです。

まさか殺されるとは…と義光は息子の首を見て涙しましたが、もうどうにもなりません。

義光自身、父との確執がありましたが、自分もそれを繰り返すことになるとは思わなかったのでしょうか。

義光の死と最上家の末路

義光の死と最上家の末路

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慶長16(1611)年頃から、義光は体調を崩すようになりました。
それでも病を押して家康のもとを訪れ、後を頼みこみ、家康からは「天下呑分(てんかのみわけ)の杯」や薬を贈られています。
天下呑分の杯とは、内側に上・下の文字が書かれており、「上」の方から家康が、「下」の方から義光が酒を口にしたというものです。
それだけ、2人は仲良くしていたんでしょうね。

そして、慶長19(1614)年、山形へ戻った義光は69歳で生涯を終えたのでした。

義光が必死で築き上げた最上家・出羽山形57万石でしたが、後を継いだ家親は急死し、その後継ぎが幼かったためにお家騒動が起きてしまいました。

江戸時代のお家騒動は、大抵の場合、改易(かいえき/領地没収、もしくは国替え)です。
最上家は近江(滋賀県)と三河(愛知県)に1万石となってしまい、後に所領はさらに減り、旗本の身分となってしまいました。
草葉の陰で義光は泣いたことでしょう…。

実はちょっと憎めない人情家

実はちょっと憎めない人情家

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義光は調略活動を盛んに行ったためか、謀略家や陰険、残忍なイメージを持たれがちです。

しかし、戦場に輿で乗り付けた妹に我が子が懐くのを見て号泣したり、妻の侍女と恋仲となったため罰しようとした家臣が討死し、その侍女もまた後を追ったと聞くと号泣して弔ったりと、結構人情のある殿様なんですよ。

また、自ら敵陣に突撃し、敵の首を取って意気揚々と帰ってきましたが、家臣が「そんなつまらぬものを取ってくるなんて、大将として軽々しい…」と涙して諌められると、シュンとしてしまったこともあったそうです。

慶長出羽合戦の時にも、自分こそ逃げればいいのに、撤退する上杉に突撃して被弾したくらいですから、家臣としては「危なっかしいけど、だからついて行かねば!」と思わせるような主だったんでしょうね。

ニックネームは「鮭様」

義光の実にカッコいい銅像が山形市の霞城(かじょう)公園にありますが、武勇と知略に優れていたにもかかわらず、彼は面白い呼ばれ方をしているんですよ。
その名も「鮭様」。

鮭が好きだったからなんだそうですが、家康や政宗、家臣にまで鮭を贈りまくっていたんです。
ちなみに、彼の家臣には鮭延秀綱(さけのべひでつな)という人物までいますが、さすがに鮭とは関係ないと思います…。

鮭様はこんなにも魅力的

東北でちょっとくすぶっていた感のある最上家を、伊達家と並ぶ大名に押し上げた義光の器量は、そんじょそこらの大名より格段に上だったことでしょう。
やることなすこと派手な甥っ子とは対照的に、地道に勢力と信頼を築いていった義光は、娘の悲劇など中央のやり方に翻弄されながら、こんなにも頑張っていたんです。
戦国時代の東北地方を語る上で欠かせない存在・最上義光。
身体も器もでっかい、魅力的な殿様だったことをおわかりいただけたかと思います。
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