平安時代中期の反乱「前九年の役」をもっとよく知ろう

平安時代中期、東北地方で朝廷に対する大規模な反乱が起こりました。その反乱の名は前九年の役。今の岩手県辺りに強大な勢力を誇っていた「安倍頼良(あべのよりよし)」による反乱です。朝廷からすると東の端で起こった反乱の一つなのですが、この前九年の役と同じ地で起こる後三年の役の結果、東国で源氏が力を持つことになったのでした。歴史的に源氏台頭の一つのきっかけとなったこの前九年の役とはどのような反乱だったのか。簡単にまとめてみました。

前九年の役が起こるまでの東北地方とは

平安時代の東北地方

平安時代の東北地方

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平安時代の日本は、今の日本の形とは違っていたのです。
平安時代の東北地方は蝦夷地と呼ばれ、日本とは別の、外国として扱われていたのでした。
その蝦夷地を日本の占領下として治めようとした人物が平安時代のスタートとなる「桓武天皇(かんむてんのう)」でした。
この「桓武天皇」は「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」と言う人物を征夷大将軍に任命、東北地方の遠征に向かわせたのでした。

「坂上田村麻呂」の遠征は成功、胆沢城・志波城を建設、蝦夷軍を率いていた「阿弖流為(あてるい)」を降伏させたのです。
しかし蝦夷地の完全征服とはいかず、3度目の遠征軍は朝廷の財政事情から起こすことができなったのでした。

そのため軍事力による蝦夷地の征服を諦め、朝廷と蝦夷との交渉による蝦夷地征服を実現させたのです。
その交渉の中身とは「蝦夷が朝廷による東北地方の征服を認める代わりに、朝廷は東北地方の統治をそのまま蝦夷の民に任せる」と言った内容でした。
朝廷は蝦夷地を征服したと言う名誉、蝦夷の民はそのままの権利を与えられる実を取ったのです。

そのような状態だったので東北地方は、日本なのか蝦夷地なのか、何とも微妙な状態だったのでした。

そのため前九年の役の首謀者である「安倍頼良」は蝦夷の民なので、彼が起こした反乱は「乱」と言う文字が使われず「役」と言う、外国との戦いを表す文字が使われたのです。

日本による東北地方統治

日本による東北地方統治

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東北地方は日本国の支配下に置かれたため、国司が派遣されるようになりました。
しかし平安京からかなり離れた東北地方に朝廷が目を光らせておくことは至難の業です。
結局蝦夷の民を従えるには巨大な軍事力しかなく、朝廷は陸奥国(現在の岩手県あたり)に鎮守府を設置し、軍隊を置いたのでした。

このような関係なので、蝦夷の民は朝廷の強大な軍事力が怖いから従っているだけで、心から従っている訳ではありませんでした。

しかし1020年ごろに任命された鎮守府の将軍が陸奥国で略奪行為を繰り返すようになったのです。
困ったのは陸奥国の国司でした。
略奪行為により税収は減るわ、蝦夷の民の反感を買い不穏な空気が高まったのです。
陸奥国の国司はこの鎮守府の将軍の行動を朝廷に報告。
事態を重く見た朝廷も素早く行動に移し、将軍を解任、しばらく鎮守府に将軍を置かないようにしたのです。

そして陸奥国の中でも重要な地点であった奥六郡の統治を任されたのが、この地で力を持っていた「安倍忠良(あべのただよし)」でした。

ただこの「安倍忠良」に権限を与えたことで、結果的に前九年の役につながっていくのです。

前九年の役の首謀者である安倍頼良

鬼切部の戦い

鬼切部の戦い

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父「安倍忠良」の跡を継いだ「安倍頼良」は朝廷の命令を無視するような反抗的な人物でした。
さらに朝廷への税も納めないようになり、その上奥六郡の外側に柵を設置、明らかに対立する姿勢を取り始めたのです。
また、自分の近くに居る権力者には自分の娘を嫁がせ、「藤原経清(ふじわらのつねきよ)」・「平永衡(たいらのながひら)」と親せき関係を結んだのでした。

そして奥六郡以南の地域にまで勢力を広げ、独立国家のように振る舞うのです。

「安倍頼良」の傍若無人の振る舞いに業を煮やしたのが、陸奥守であった「藤原登任(ふじわらのなりとう)」と言う人物でした。
陸奥守は税を徴収する業務が主だったので、税を納めない「安倍頼良」と何らかのトラブルがあったと思われます。
「藤原登任」は隣の出羽国(現在の秋田)の協力を得て、「安倍頼良」の領土に数千の兵で攻め込んだのでした。
「安倍頼良」は息子の「安倍貞任(あべのさだとう)」に兵の指揮を任せ、玉造郡鬼切部で迎え撃ったのです。

鬼切部の戦いは「安倍貞任」が勝利を収めたのでした。
土地を熟知した地元民の強みを発揮し、「安倍頼良」が作った強固な親族関係も有利に働いたのです。
この鬼切部の戦いで負けた「藤原登任」は、兵隊を戦場に残し、自分だけ我先にと京都に逃げ帰ったくらいの大惨敗でした。

しかしこの「安倍頼良」「安倍貞任」親子が取った行動により、理由はどうあれ国司の軍を攻撃したことで朝敵とされたのです。

そしてこの反乱を抑えるべく、「源頼義(みなもとのよりよし)」を陸奥国の国司と鎮守府の将軍に任命し、「安倍頼良」「安倍貞任」親子の討伐に向かわせるのでした。

手のひらを返す安倍頼良

手のひらを返す安倍頼良

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討伐に向かっていた「源頼義」にとって驚くできごとが起こったのです。
それは「一条天皇(いちじょうてんのう)」の中宮であった「藤原彰子(ふじわらのしょうし)」が病気にかかってしまい、その病気が治るようにと大赦をおこなったのでした。
大赦とは罪人の罪を軽くしたり、許したりすることであり、この大赦で朝廷に逆らった「安倍頼良」「安倍貞任」の罪も許されたのです。
そして「源頼義」は一度も安倍氏を攻撃することなく、陸奥国の国司と鎮守府の将軍として着任したのでした。

「源頼義」が着任してからは反抗的だった「安倍頼良」の態度が一変。
徹底した服従姿勢を見せたのでした。
そして「源頼義」と漢字が違えども、読み方が同じになる「頼良」の名前を「頼時(よりとき)」と変えたのです。
同じ読み方では失礼にあたると言う理由からでした。

そこまで徹底的に「源頼義」には服従していたのでした。

このような「安倍頼時」の服従姿勢と大赦のおかげで、東北地方で戦争が起こる理由がなくなったのです。

「源頼義」が1052年に東北地方にやってきて以来、「安倍頼時」は税をしっかりと納めるようになり、「源頼義」が望むときは、贈り物をするなど対立する姿勢はみじんも見せませんでした。

しかし「源頼義」が任期を満了する1056年に事件が起こるのでした。

陰謀?阿久利川事件

陰謀?阿久利川事件

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「源頼義」の部下が、阿久利川で野営をしている時、何者かに突如襲撃を受けたのです。
この襲撃に対し、「源頼義」の部下は、「「安倍貞任」の仕業に違いない。
仕返しに来たのだ。」と報告したのでした。

この報告に「源頼義」は激怒。
すぐさま「安倍頼時」に対し、「「安倍貞任」を出頭させろ。」と命ずるのでした。
しかし「安倍頼時」は、「例え「貞任」がおろかだったとしても私と「貞任」は親子であり、息子を渡すことはできない。」と拒否。
「源頼義」と徹底抗戦の構えを見せて挙兵したのでした。

この阿久利川事件ですが、「源頼義」による陰謀説もささやかれています。

「安倍頼時」からすれば、ずっと服従姿勢を取り続け、任期があとわずかで切れ、京都に帰るであろう「源頼義」を敢えて刺激する理由がないのです。
この事件の直前にも食事会に「源頼義」を招き、接待していたと言われています。
反対に関東武士を束ねる「源頼義」が京都に戻って貴族たちと権力争いをするくらいなら、金や馬の産地である東北地方での生活を夢見て欲しがったのかもしれません。

真実はわかりませんが、「安倍頼時」が立ち上がったことにより、前九年の役が勃発したのでした。

前九年の役

安倍頼時戦死

安倍頼時戦死

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「源頼義」は「安倍頼時」が作り上げた強固な親族関係から壊すよう調略を掛けるのでした。
「安倍頼時」が敵対姿勢を示しても「源頼義」に従っていた「藤原経清」と「平永衡」でしたが、この二人を亡き者にしようと動き出すのです。

「平永衡」は合戦の際、きらびやかな銀の甲冑を身に着けていたのですが、それが「「安倍頼時」に居場所を知らせ内通しているのでは」と難癖をつけ、処刑したのでした。

このことを知った「藤原経清」は「次はわが身に来る」と感じ、脱出するために安倍氏が多賀城を襲撃すると言う噂を流したのです。
その噂を信じ、多賀城に「源頼義」が引き上げた隙に、「安倍頼時」の元に走ったのでした。
この「藤原経清」は「安倍頼時」軍の主力として「源頼義」軍を散々苦しめたのです。

そんな一進一退の攻防にしびれを切らした「源頼義」は「安倍頼時」を挟撃しようと、奥六郡のさらに北の津軽に住む蝦夷の民に買収工作に入るのでした。
そして買収工作が成功。
これに慌てた「安倍頼時」が説得に津軽に向かうのですが、反対に津軽の伏兵に攻撃を受け、深手を負い亡くなってしまうのでした。

「安倍頼時」の跡は子である「安倍貞任」が継ぎ、前九年の役は終わりを見せないのです。

安倍貞任の攻勢

安倍貞任の攻勢

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1057年、跡を継いだ「安倍貞任」に対する追討命令が朝廷から「源頼義」に下されました。

そして大義名分を得た「源頼義」は「安倍貞任」追討のため兵を送るのでした。
しかし追討命令が出たのは秋、そして今は1057年の冬。
京都や関東地方であればそこまで気候の変化がなかったのかもしれませんが、ここは東北地方。
全く違う気候が「源頼義」を悩ませるのでした。
肌を刺すような寒さと大雪のため、まともな行軍ができなかったのです。
反対に気候にも慣れている上、地の利もある「安倍貞任」軍は戦意喪失気味の「源頼義」軍を散々打ちのめしたのでした。

「源頼義」自身命からがら戦場から脱出するほどの大惨敗を喫してしまったのです。

もしかしたら「源頼義」も東北地方の気候を知っていたのかもしれません。
ただ想像以上だったのか、追討命令が出て功を焦り過ぎたのか、勢力を回復するのに物凄い時間が必要なほど仕返しをされてしまったのです。

「源頼義」が勢力を回復しているその間に「安倍貞任」は、着々と地盤を固めて行ったのでした。
そして今まで多少は朝廷の言うことも聞いていた「安倍貞任」ですが、東北地方を荒らされた上、父も殺されてしまうような事態になり、朝廷の言うことを全く聞かなくなり対立姿勢を取ったのでした。

源頼義の切り札

源頼義の切り札

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1057年の戦いで大惨敗を喫してしまった「源頼義」の信用はがた落ち。
父が築き上げた東国での源氏の地位を揺るがせかねない事態でした。
勢力を回復しようにも、評判の落ちた「源頼義」軍につこうとする兵もなかなか集まらないのです。
そのため「源頼義」は中立を保っていた第三の勢力に味方につくよう貢物を送り続けるのでした。

その相手とは出羽国(秋田県)で勢力を張っていた「清原光頼(きよはらのみつより)」と言う人物です。

同じ蝦夷の民であったため、「安倍貞任」と敵対するのをためらっていた「清原光頼」でしたが、1062年とうとう「源頼義」の説得に応じ、援軍を送ることにしたのでした。

そして「源頼義」軍3000兵と「清原光頼」軍10000兵が、「安倍貞任」が勢力を張る奥六郡に攻め込んだのです。

「安倍貞任」軍優勢の旗色が「清原光頼」の軍が参戦したことにより一気に悪化。
各地で敗れ続け、とうとう奥六郡の北端で「安倍貞任」は戦死、そして「藤原経清」は捕えられたのでした。
「源頼義」は自軍を裏切り、朝廷に特に反抗的な態度を示していた「藤原経清」を特に恨んでいました。
その処刑方法は一瞬で終わるものではなく、さびた刀でゆっくり首を切り、痛みを味あわせたそうです。
それだけ「源頼義」からすれば恨みが強く、厄介な人物だったのでした。

「安倍貞任」を滅ぼした「源頼義」は、前九年の役を終わらせたのでした。

前九年の役による影響

「安倍貞任」を滅ぼした「源頼義」は前九年の役によって、東国に源氏の力を広げたのでした。
また「源頼義」には朝廷から恩賞があったのですが、一緒に戦ってくれた部下にも恩賞をと努力をし、結果「源頼義」と部下との主従関係もより強固なものになったのです。

そしてこの前九年の役により、一番おいしいところを持って行ったのは「清原光頼」でした。

「清原光頼」は前九年の役の最後にちょこっと参戦しただけで「安倍貞任」が統治していた陸奥国も任され、出羽国と陸奥国と言う広大な地域を統治する人物となったのです。

しかしこの前九年の役で命を助けられた「藤原経清」の子により、「清原氏」のお家騒動が発展し、東北地方はまた戦乱の渦に巻き込まれるのでした。

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