足利義輝の生涯を追う。室町幕府末期に鮮烈に散った剣豪将軍

公開日:2020/3/5 更新日:2020/3/5

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三好長慶との因縁のはじまり

それは、細川晴元の家臣だった三好長慶(みよしながよし)の存在が原因でした。
実は、晴元は長慶と仲が悪くなってきており、長慶は細川氏の同族・氏綱(うじつな)を担いで晴元を攻めたんですね。

そのため、この時晴元とは和睦し共に行動していた義輝と父・義晴は、またも近江へ逃げなければならなくなってしまいました。
これが、義輝が将軍となった翌年のことでした。
そして、父は近江の地で無念を抱いたまま亡くなってしまったんです。

父の無念を引き継いだ義輝は、まだ15歳。
何とか三好勢力と戦おうとしますが、なかなかうまくいきません。

それでも彼の執念はすさまじく、天文20(1551)年には部下を長慶暗殺(失敗に終わる)に派遣しています。

ところがその翌年、義輝は長慶と和睦を結びます。

ただ、これは決して対等なものではなく、長慶の言いなりである細川氏綱を管領として認めるのが、義輝に提示された条件でした。

このため、義輝は都に戻ってきたものの、当時の幕府は実質上三好長慶による政権となってしまったんです。

負けても、逃亡しても、それでも三好に挑む

歴代将軍の屈辱を見てきた義輝は、それに甘んじることのできない誇りを胸に強く秘めていました。
そして天文22(1553)年には、三好長慶に追放された細川晴元と連携し、三好勢力に戦いを挑みます。
しかしあっさりと敗北を喫し、義輝はまたも近江へ逃れざるを得なくなってしまったんですよ。
いったい何回目でしょう。

以後5年間、義輝の近江生活は続きました。
この間に、正式に「義輝」と改名しています。

近江では、父ともどもかつて世話になっていた六角(ろっかく)氏を頼ります。

その支援により再度、三好方に挑みますが、他勢力にも兵力を割かなければいけなくなった六角氏側の事情で支援を打ち切られてしまい、やはり三好勢力に勝つことはできませんでした。

三好長慶との和睦

しかし、運命が好転する時がやってきました。
六角義賢(ろっかくよしかた)が間に入ってくれることとなり、義輝は三好長慶とついに和睦し、京都へ戻ることとなったんです。

まあ、和睦とはいっても、今までの経緯が経緯なだけに、両者は距離を置きつつ穏便に行こうと考えていたんでしょうね。

義輝は長慶の息子・義長(よしなが/のち義興/よしおき)に自分の名前の一字を与え、御供衆(おともしゅう/将軍の出行に付き従う側近)に取り立てます。

一方、長慶を牽制するかのように、長慶の重臣・松永久秀(まつながひさひで)もまた御伴衆としたんですよ。

名前の一字を与える「偏諱」

義輝は、自分の名の一字をたいへん多くの武将に与えています。
これを偏諱(へんき)と言います。
本当はもう少し複雑な説明になるんですが、ここではそれは省略しますね。
時代が進み、特に室町以降の歴代将軍になると、上の者から下の者へ偏諱を与える風習が出てきました。
つまりは、主従関係の証になったんですよ。

義輝は偏諱を多くの武将に与えることで、将軍としての自分の権威を高めようと考えていたわけです。

「輝」なら伊達輝宗(てるむね/政宗の父)や上杉輝虎(てるとら/後の謙信)、ついには偏諱でない方の「義」の字まであげています。
九州の勇・島津義久(しまづよしひさ)や三好長慶の後を継いだ三好義継(よしつぐ)、東北の大名・最上義光(もがみよしあき/政宗の伯父)など、列挙していったらきりがないくらいなんですよ。
ざっと数えれば、3,40人はいたかもしれません。

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