遺産総額70億円?!応仁の乱の原因を作った日野富子は金の亡者か?

1467年~1477年、室町時代末期のこと。京都では町中を飲み込み焼き尽くすほど激しい内乱が続きました。世に言う「応仁の乱」です。将軍後継者争いと有力一族同士の対立が発端となって始まった争いは、京都在中の武将や役人たちを巻き込んで、もう誰が何のために戦っているのか分からなくなるほど混乱。およそ10年も続き、京都は荒れの原になり、将軍の地位は失墜します。そんな史上最悪の”勝者なき争い”の原因を作ったと言われ、「日本三大悪女」に名を連ねるのが、八代将軍足利義政の妻、日野富子です。いったいどんな人物だったのか、当時の時代背景なども含めて追いかけてみたいと思います。

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日野富子とは

悪女?金の亡者?日野富子の生い立ちとは

悪女?金の亡者?日野富子の生い立ちとは

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誰が言ったか「日本三大悪女」とは、日野富子、北条政子、淀殿の3人。
それぞれ、見方によって評価の分かれる女性ではありますが、3人とも絶対的な権力を持ち、女帝として君臨した人物には違いありません。
中でもひときわ強烈なのが日野富子でしょう。

日野富子は1440年(永享12年)に山城国(やましろのくに・京都の南部)に生まれました。
実家の日野家は足利将軍家と縁戚関係にある名家で、大変優秀な人材を輩出した名門の家柄。
そんな家で富子は何不自由なく育ちました。

1455年(康正元年)、16歳のときに室町幕府八代将軍足利義政と結婚。
将軍の妻となり順風満帆かと思いきや、1459年に授かった第一子を生まれてすぐに亡くしてしまいます。
呪いや怨念が強く信じられていた時代のこと。
将軍義政の乳母で富子と対立関係にあった今参局(いままいりのつぼね)が呪いをかけたせいだと言い出し、琵琶湖の沖島に島流しにしてしまいます。
さらに怒りの矛先は義政の側室4人も向けられ、全員を都から追放。
正室と側室の確執なんて珍しいことではなかったのかもしれませんが、それにしても激しいです。

夫の足利義政は将軍でありながら、政治より庭造りに没頭するような文化人タイプ。
京都にある銀閣寺を造らせたのもこの人で、わび・さびを重んじた「東山文化」というものを確立します。
文化的な面では非常に評価の高い人ですが、政治にはまったく興味を示さず、まったくのお留守状態でした。
そんな夫の代わりに、富子は政治に深く関わり、大きな影響力を持って権勢を振るい始めます。

将軍としての職務を果たしきれず、お飾りのような存在であった夫と、我が子を失った悲しさも手伝って幕政を掌握せんとする富子。
このとき既に、応仁の乱へのカウントダウンが始まっていたのかもしれません。

芸術家?ダメ将軍?日野富子の夫・足利義政とは

芸術家?ダメ将軍?日野富子の夫・足利義政とは

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日野富子の夫、足利義政の人柄が、応仁の乱勃発のきっかけを作ったと言ってもいいのかもしれません。
この人が全然将軍らしくなかったので、余計、富子の悪女っぷりが目立った、とも考えられます。

足利義政は第六代将軍足利義教の三男として生まれました。
兄がいたため将軍になることもなかろうと親戚の家で育てられていましたが、1441年(嘉吉元年)に起きた嘉吉(かきつ)の乱で父親を殺されてしまい、七代将軍となった兄も病気ですぐ亡くなってしまいます。
そのため、全く注目されていなかった義政が八代将軍として選ばれたのです。
このとき義政はまだ8歳。
畠山持国など有力武将が後見人として義政を支えていくことになりました。

思えば義政の父・義教も、三代将軍足利義満の五男として生まれ、一時は出家して僧侶になっていましたが父や兄が亡くなりやむを得ず俗世に戻って将軍になった、という経緯を持つ将軍。
義教は将軍になるにあたって、無理やり引き戻され将軍になるのだから、自分のやりたいようにやる、と周囲に話していた模様。
自分に対して不誠実な言動をとった者たちを容赦なく処断(言いがかりと思われる節も)するなど、厳しくヒステリックな政務を行い、ほうぼうから反感を買っていました。

義政は、始めのうちは政務に熱心だったようです。
しかし幼くして将軍になったため、口出しをする大人が大勢いて、なかなか仕事をさせてもらえません。
実際の政治は管領と呼ばれる役人たちや有力武将たちが執り行っていて、義政のモチベーションも下がり、次第に政務から心が離れてしまったようです。

室町時代後期とはどんな時代だったのか

室町時代後期とはどんな時代だったのか

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日野富子が将軍の妻となった室町時代後期とは、どんな時代だったのでしょうか。

義政が将軍になるより150年ほど前、日本には奈良と京都、二カ所に都があって天皇がいる、という状態に陥っていました。
いわゆる「南北朝時代」というやつで、奈良に後醍醐天皇が、京都には足利尊氏がバックアップする形で光明天皇が、それぞれ朝廷を作って対峙します。
60年ほどこんな状態が続いてから朝廷はひとつに戻るのですが、この間のごたごたを利用して力をつけていった守護大名なる者たちが政務に深く関わるようになっていました。

南北朝をひとつに戻したのは、室町幕府三代将軍足利義満。
あの金閣寺を建てさせたことで知られる、非常に力を持っていた将軍で、義教の父、義政の祖父に当たる人物。
しばらく止まっていた中国大陸(このときは明王朝)との貿易を再開したり、精力的に政務を執り行い、室町幕府は栄華を極めました。

南北朝の動乱が鎮まった後、地方の守護大名たちは、自分の領地ではなく京都に住んでいました。
そのため、守護代や国人といった役人に、自分の領地のことを任せていて、京都での勢力争いや後継者争いなどが忙しくてほとんどまかせっきり状態になっていたようです。
日本全国の大名が京都の限られた範囲に集まって始終顔を突き合わせていて、年貢を集めるためにしっかり管理しなければならない領地のことがおろそかになる…そんな状態が続いていました。

日野富子は如何にして金の亡者になったのか

応仁の乱勃発

応仁の乱勃発

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多くの人々が権力や勢力争いに傾倒していた室町時代後期。
とうとう、決定的な出来事が起きてしまいます。
将軍の後継者争いです。

第一子を亡くしてから、義政と富子は2人の女子を授かりますが、男子には恵まれませんでした。
そこで1464年(寛正5年)、義政は自分の弟を後継にしようと都に呼びます。
弟は出家して仏門に入っていましたが、義政に呼ばれて俗世に戻り、名前も足利義視(よしみ)と改めました。
政務に興味のない義政は、早く将軍職を譲りたかったのかもしれません。

ところがその翌年、富子に男子・足利義尚(よしひさ)が誕生します。
我が子を将軍にしたい、そう願う富子は有力守護大名で大きな力を持つ山名宗全(やまなそうぜん)や自分の実家を後ろ盾にして義視と対立。
一方の義視も有力守護大名の細川勝元を後見人にしており、山名家と細川家という二大勢力の対立構造も浮かび上がってきます。
時を同じくして後継ぎ争いなどの問題を抱えた大名たちが参戦。
より優勢なほうに味方して自分も優位に立とうと暗躍し、京都はあっという間に「義尚派」と「義視派」、「山名派」と「細川派」に分かれて争い合うようになります。
応仁の乱の始まりです。

将軍足利義政は、義視からは「将軍にしてやるって言ったじゃないか!嘘つき!」と詰め寄られ、日野富子からは「義尚を将軍にしてください!」と攻め立てられ、きちんと返事をせず、どちらかに将軍職を譲るでもなく、宙ぶらりんの状態のまま、庭造りなど趣味に没頭。
優柔不断な態度を取り続けたため、事態はどんどん悪い方へ。
およそ10年間、細川派を東軍、山名派を西軍とし、両軍合わせて20万以上の兵が入り乱れることになります。
10年の間には裏切り寝返りが何度も起き、事態はどんどん複雑になっていきました。

応仁の乱と日野富子

応仁の乱と日野富子

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東軍西軍入り乱れ、京都の町は真っ二つに。
大混乱となります。
どうしたらいいかわからなかったのか自分は関係ないと思っていたのか、この期に及んでもまだ、足利義政は趣味の庭造りに精を出すなどして、傍観者を決め込んでいました。

義政と対照的に、日野富子は戦いに乗じて精力的に動きます。
都の出入り口七カ所に関所を作り、関税の徴収を始めたのです。
そうして得た金を元に、東軍西軍問わず両軍の大名に金銭の貸し付けを行い、米を買い占め相場を操るなどして金儲けに走ります。
何が彼女をそうさせたのかはわかりませんが、とにかく儲けに儲けまくって、一時は7万貫(およそ70億円)もの資産があったのだそうです。

1473年、東軍西軍の総大将、細川勝元と山名宗全が相次いでこの世を去ると、両軍の間で和睦交渉の動きが見られましたが、この戦を利用しようとする大名家に阻まれて思うように進みません。

翌年、義政も隠居を敢行。
義尚が元服して九代将軍に就任します。
総大将を失い、義視ではなく正式に義尚が将軍になっても、誰も振り上げたこぶしを降ろそうとしません。
富子はますます幕政で力を持つようになり、戦続きで疲弊する都は富子の持つ財によって成り立っていました。

応仁の乱の終息と日野富子

応仁の乱の終息と日野富子

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そんな金と権力にとりつかれた富子の姿に、愛する息子・義尚は次第に距離を置くようになっていったようです。
夫・義政とも別居状態に。
また、関所で徴収した金を独り占めしたことに腹を立てた民衆が、暴動を起こして関所を破壊するという事件も。
富子は財を守るためこれらを弾圧し、速やかに関所を再建しましたが、そのやり方に、近しい人々からも反感を買うようになっていきます。

やがて、どちらが勝者とも敗者ともならず、何も生み出さないまま、応仁の乱は空しく終息。
京都は草木も生えないほど焼けて何も残っていなかったのだそうです。
そんな中でも富子は、要職を失いたくない大名たちからわいろを受け取ったりして私腹を肥やしていました。

義尚は富子の元を離れ、酒に溺れて堕落した生活を送っていましたが、やがて25歳の若さで他界。
やがて夫・義政もこの世を去ります。
富子は次の将軍に自分の甥っ子を推挙し、権力を保ち続けますが、その甥っ子からも疎まれ、次の将軍からも疎まれ、側近からも民衆からも嫌われ、悪妻と言われ続けた日野富子。
晩年は近江で過ごしたのだそうで、1496年(明応5年)、57歳でひそかに息を引き取ります。
彼女が固執し続け貯え続けたはずの巨万の富は、彼女の手元には何も残っていなかったのだそうです。

悪女?守銭奴?日野富子の素顔とは

なぜそこまで金に固執したのか

なぜそこまで金に固執したのか

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こうした話を単につなげてみると、日野富子は金の亡者そのものに見えます。
混乱する都において、傷つき倒れる諸大名たちや戦乱に苦しむ民衆をよそに、高利貸しや米の投機をやり、関所を設けて関税を徴収し、それらを全て自分の懐に入れていた、となれば、守銭奴と罵られても同情の余地もありません。
また、夫・義政が銀閣寺の造営のための費用捻出に困っていたときも、お金は一切出さなかったのだそうで、こういった話から悪妻と呼ばれるようになっていったものと思われます。

しかしそれは、夫への怒りや苛立ちの表れだったのかもしれません。
のんきに庭とか造ってる場合じゃないでしょう!と一喝したい思いもあったのではないでしょうか。

この時代、大名同士の争いだけでなく、日照りや天候不良で不作が続いたことで、何度も飢饉が起きています。
しかし義政は政治に興味を示さない上に花の御所(足利将軍家の邸宅)を造営するなど、幕府の懐事情を顧みない無神経な振る舞いを続けていました。
そんな義政の悪政によって傾きかねない幕府を救うには金が要る、そう思い立ったのかもしれません。
夫の趣味にはびた一文出さなかった富子ですが、火災で焼けた朝廷の御所の一部の修復に莫大な費用が必要になったときには、自分の懐から費用を捻出したとも伝わっており、金に固執するにしても明確な目的があったのではないか、との見方もあるようです。

富子は若いころから非常に勉強熱心で学問もよく修め、非常に頭のよい女性だったと考えられています。
義政がもう少し幕政に熱心な将軍であったら日野富子の才覚は、足利将軍家を支える力となっていたかもしれません。

日野富子ゆかりの地を訪ねて

京都府上京区、京都御所から西方へ行ったところにある華開院(けかいいん)という小さなお寺に、日野富子のものと思われる墓があります。
岡山県赤磐市にある自性院常念寺というところにも日野富子のものと言われる墓が伝わっており、どちらが正しいのかについてはわかっていないのだそうです。

どちらも、小さな石塔が残っているだけで、墓というより供養塔かもしれません。
観光客が立ち寄るようなところでもありませんが、歴史を良く知る人がときどき、お花を手向けに訪れることもあるようです。

もう一カ所、同じく京都市上京区にある宝鏡寺(ほうきょうじ)の阿弥陀堂には、日野富子の尼僧姿の木像が安置されています。

宝鏡寺の近くに、応仁の乱の激戦地として知られる百々橋(どどばし)の跡が。
応仁の乱の後、富子は出家して大慈院(大徳寺)に入ったのだそうです。
そのため、木像が大慈院に納められ、それが後に、宝鏡寺と大慈院を合併させることになったため、この寺に移されるこになりました。
日野富子の像として残っているものは、宝鏡寺が所蔵しているこの木像のみ。

権力を欲しいままにしていた女帝・日野富子。
京都では嫌われていたでしょうし、大きなお墓や肖像などを建ててもらえなかったのかもしれません。
でも、悪妻と呼ばれ守銭奴の道をまっしぐらに突き進んできた希代の悪女がどんな顔をしていたのか、才媛なのか醜悪だったのか、知る術がないとは、何とも残念でなりません。

日野富子の埋蔵金?70億円は今どこに?

晩年、日野富子の手元には、莫大な資金はなかったそうです。
息子に疎まれながらも貯めこんだ巨万の富はどうしてしまったのでしょう。
何かに使い切ってしまったのか、それともどこかに隠してあるのか?それともすべて泡沫の夢だったのか?パワフルでたくましいキャリアウーマン、日野富子。
悪女であることには違いないかもしれませんが、単なる金の亡者ではなかったのでは、と、近年では少し見方が変わってきているのかな、と感じました。
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