世に聞こえたる「鬼玄蕃」佐久間盛政、無敵の若武者の潔い最期

佐久間盛政(さくまもりまさ)という戦国武将をご存知ですか?柴田勝家(しばたかついえ)を叔父に持ち、織田信長に仕えた彼の異名は、その名も「鬼玄蕃(おにげんば)」。聞いただけでド迫力ですが、その通り、彼は戦場で無類の強さを誇った武将でした。しかし、その生涯はわずか30年と本当に短いものだったんです。盛政が駆け抜けた、太く短く、濃い人生を知れば、きっと彼の魅力のとりこになるはず。彼が貫いた武士の誇り、感じてみませんか?

織田家を支える佐久間一族に生まれて

織田家を支える佐久間一族に生まれて

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盛政が生まれたのは天文23(1554)年のことでした。
時期的には、今川義元・武田信玄・北条氏康らが勢いを誇り、この3者による「甲相駿(こうそうすん)三国同盟」が結ばれた年でもあります。
同年代の武将なら、1つ上に毛利輝元(もうりてるもと)、2つ下に上杉景勝(うえすぎかげかつ)らがいます。

盛政の父は佐久間盛次(もりつぐ)と言い、織田信長の重臣である佐久間信盛(のぶもり)とは同族でいとこ同士でもありました。

そして母は、同じく織田家の筆頭家老にもなった柴田勝家の姉。
つまり、盛政は勝家の甥でもあるわけです。
織田の重臣一族として、家臣団の中でもかなり毛並みの良い生まれでした。
特に柴田家との結び付きは強く、弟のひとり・勝政(かつまさ)は勝家の養子に入っています。

他にも弟がいますが、みなすべて兄と同じく勇猛な武将に成長しているんですよ。

戦の経験を積みまくった少年~青年期

戦の経験を積みまくった少年~青年期

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盛政の初陣は永禄11(1568)年、15歳の時でした。
当時とすれば平均的な年頃です。
参戦したのは観音寺(かんのんじ)城の戦いで、室町幕府で力を持っていた六角氏と信長の戦いでした。
当時の信長は「天下布武(てんかふぶ/武力をもって天下を平定する)」を実行に移し始めた頃で、この戦いは畿内(きない/京に近い国々を指す)平定に乗り出した節目の戦でもあったんですよ。
もちろん、信長の勝利に終わっています。

その後、盛政は着々と戦場経験を積み、猛将へと成長していきます。
その中には撤退を余儀なくされたものもありましたが、父や叔父のそばでその戦いぶりを見ていたことでしょうね。
叔父・柴田勝家もまた「鬼柴田」という異名を誇った武将でしたから、「叔父上、カッコいい…!」と思っていたかもしれません。

叔父・勝家の与力となる

叔父・勝家の与力となる

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信長が室町幕府最後の将軍・足利義昭との戦いに勝って彼を追放し、幕府が滅びた後の天正3(1575)年、叔父・勝家が越前国(福井県)を与えられ、盛政はその与力(よりき)となりました。

さて、与力って聞いたことがありますか?

時代劇をよくご覧になる方は、町奉行の下で警察みたいな役割を果たす人たちを思い浮かべるかもしれませんね。
十手(じって)を手にして「御用だ!」みたいな。

しかし、この時代の与力は違います。

戦国時代は、主君の下である程度の力を持った武将に、加勢をするように言いつけられた武将のことなんですよ。

盛政だけでなく、前田利家(まえだとしいえ)や佐々成政(さっさなりまさ)らといった武将たちも勝家の与力となり、柴田家家臣団のようなものを形成していたんです。

盛政にとって勝家は実の叔父ですから、結び付きは一般的な与力よりも強かったとは思いますが。

信長も手を焼く一向一揆に対峙!

信長も手を焼く一向一揆に対峙!

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柴田勝家が任された北陸方面には、一向一揆(いっこういっき)という信長にとって厄介な存在がいました。

一向一揆とは、浄土真宗本願寺教団の信徒による、支配権力に対する一揆のこと。
特に北陸の勢力は強く、戦国大名を滅ぼすこともあったんですよ。

おそらく信長は、家臣の中でもトップクラスの柴田勝家に成長目覚ましい若武者・盛政をつけることで、さらなる力を発揮してもらおうと考えていたんだと思いますよ。

北陸方面の中でも加賀一向一揆というのは、長享2(1488)年から天正8(1580)年まで、およそ百年も続いた手ごわい勢力でした。

それに盛政は対峙することとなったんです。

盛政、一揆勢を壊滅させる

盛政、一揆勢を壊滅させる

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さすがの勝家と盛政でも何度か敗戦を喫することとなりましたが、鳥越(とりごえ)城の戦いでようやく一向一揆勢に勝利を収めます。
この一揆勢は特に強いと評判でしたが、それに勝った彼らの粘り強さもまた、信長からの評価を大きく上げるものでした。

それだけでなく、盛政は一揆勢の最後の拠点である寺院・尾山御坊(おやまごぼう)を攻め、ついには陥落させたんです。
これが、一揆の終焉を告げる天正8(1580)のことでした。

この活躍ぶりに対し、信長は加賀の半分と尾山御坊をそのまま盛政に与えます。
そして盛政は尾山御坊を金沢城とし、初代城主となりました。

金沢城といえば、加賀百万石・前田家のイメージがありますが、実は、初代城主は盛政だったんですよ。

一族の過失は自分の過失!自ら蟄居

実は、一揆勢を攻める直前の天正8(1580)年8月、父のいとこで信長の重臣でもあった佐久間信盛が、信長の不興を買って高野山に追放されています。
戦のやり方がまずかったとか、何も働いてないとか、信長的に何か気に入らないところがあったようですが、まあ気分的なものもあったんでしょう(たぶん)。

一族の過失ということで、盛政は自ら蟄居(ちっきょ/家から出ず謹慎する。
当時は刑罰のひとつでもあった)を選びます。
別に誰かに言われたわけじゃないんですよ。

それでも、盛政はそうすることで自分の信長への忠義が揺るぎないものであることを示そうとしたんでしょう。
そのためか、すぐに蟄居は解かれたようで、それで盛政は同年11月の尾山御坊の戦いで大活躍を見せていたんですね。

鬼玄蕃・盛政の誕生

鬼玄蕃・盛政の誕生

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このように、戦での大活躍とその潔い武士の精神から、盛政はいつしか「鬼玄蕃」との異名を取るようになりました。
玄蕃とは「玄蕃允(げんばのじょう)」という役職から来ています。

身長六尺(約182cm)を超えた、堂々たる体格だった盛政ですから、戦場ではいっそう鬼のように見えたんでしょうね。

その鬼玄蕃・盛政は、数々の活躍によって信長から感状(かんじょう)ももらっています。

感状とは、当時の武家にとってはものすごく名誉なものだったんです。
主が家臣に対してその武功をたたえた文書で、公文書でもありました。
武士にとっては自分の能力の証明であり、これを持っていると、再仕官の道を選んだときにもとても有利だったんですって。

盛政の能力に、あの信長が太鼓判を押したということになるわけです。
この時、まだ盛政は20代後半。
すごいとしか言えません…!

運命の分かれ道・本能寺の変

運命の分かれ道・本能寺の変

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天正10(1582)年、本能寺の変が起き、信長は明智光秀の手によって討たれてしまいました。

その頃の盛政は勝家と共に越前に逗留中で、しかもちょうどその時、信長の死を知った上杉景勝が一揆を扇動したため、そうした上杉勢力と交戦している最中でした。

信長自害の報せに、勝家はすぐさま撤退して明智打倒に向かおうとしますが、それを盛政が制止したとも言われています。
そのため柴田勢は越前にとどまり、その間に羽柴(のち豊臣)秀吉が光秀を打ち倒したのでした。

そんな功績もあって、秀吉の発言権は織田家内で高まることとなります。
加えて、信長の後継ぎを決める清洲(きよす)会議で、秀吉と勝家は対立してしまいました。
秀吉は信長の孫・三法師(さんぼうし)を推し、勝家は信長の三男・信孝(のぶたか)を推したのです。
結局、三法師が織田家の正当な後継者であるということとなり、両者の間には溝が深まることとなったんですよ。

賤ヶ岳の戦いにての鬼玄蕃

賤ヶ岳の戦いにての鬼玄蕃

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秀吉と勝家の対立は、ついに戦いへと発展することになってしまいました。

これが、天正11(1583)年の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いです。

両軍は、余呉湖(よごこ)畔で対峙しましたが、戦線は膠着。

さてどうするか…と盛政は考えていたことでしょう。

その時、ある者が彼の陣へと駆け込んできました。

それは、勝家の養子・勝豊(かつとよ)の家臣でした。
勝家は、養子の中でも盛政の弟・勝政を特に可愛がったため、不満を抱いた勝豊は早々に秀吉側へ寝返っていたんです。
しかし、その勝豊の家臣がわざわざ盛政の元へ知らせに来てくれたのでした。

「秀吉はいまここにいません。
美濃(岐阜)へと移っています!」

秀吉は他方面への備えのため、いったん美濃へと本隊を移していたんです。

盛政はこれこそ「時が来た!」と思ったでしょう。
そして、秀吉側の武将・中川清秀(なかがわきよひで)が守る砦に急襲をしかけたのでした。

盛政の攻撃はすさまじく、あっという間に清秀を討ち取り、砦を陥落させ、賤ヶ岳の戦いの緒戦に大勝利を収めます。
鬼玄蕃ここにあり!と、彼自身も彼の率いる兵たちも気勢をあげました。

ただ、盛政はこの時、叔父との約束を破ります。

「砦を落としたらすぐに戻ること」という勝家の言いつけを、彼は守らなかったんです。

これが、賤ヶ岳の戦いの勝敗の行方に関係してくるとは、さすがの盛政も予想しなかったことでしょう…。

予想外の出来事の連続と勝家の自害

予想外の出来事の連続と勝家の自害

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盛政は勝家との約束を破り、前線に部隊を置き続けました。

すると、ここで予想もしないことが起こりました。

砦を落とした翌日、秀吉が戻ってきたんです。
しかも増援付きで。

秀吉がいた美濃からここまで、距離は約13里(約52km)。
それを、秀吉はたった5時間で走り抜けて来たんですよ。

「天魔といえども、まさか戻ってくるまい」と思っていた盛政には、大きすぎる誤算でした。

それでも盛政は秀吉の大軍相手に奮闘し、秀吉を手こずらせます。

ところが、ここでまたも予想外のことが起きたんですよ。

勝家の与力として一緒に布陣していた前田利家が、突如として撤退を始めてしまったんです。
利家は勝家との主従関係もありましたが、同時に、秀吉とは親友でもありました。
その葛藤により、軍を引いたと言われています。

このため、盛政の隊は敵の真っただ中に孤立することとなり、やがて撃破されてしまったのでした。

秀吉軍はそのまま勝家のこもる北ノ庄(きたのしょう)城に押し寄せ、勝家は自害し、城も落城してしまったんです。
本当に、「まさか」の連続だったんですね…。

しかし、盛政はまだ諦めていませんでした。

戦場から落ち延び、再起を図ろうとしていたんです。

捕らわれてもなお、誇りは捨てず

捕らわれてもなお、誇りは捨てず

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なんとか自分の領地まで落ち延びようとした盛政。

ですが、秀吉の追っ手に捕らわれ、引き渡されてしまいました。

捕らわれた盛政を見た旧知の武将・浅野長政(あさのながまさ)は、「鬼玄蕃ともあろうお人が、負けたというのになぜ自害せなんだか」と嘲りの言葉を投げかけます。

しかし盛政はきっと視線を返し、「源頼朝公もかつて敵に敗れた時には木の穴に隠れ、逃げ延びた後に大事を成した(平家を倒し鎌倉幕府を創設した)のだ」と言い返したといいます。
盛政の胸の内には、何としてでも秀吉を倒そうという気概が燃えていたんですね。

秀吉の誘いをきっぱり断る

秀吉の誘いをきっぱり断る

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ところで、秀吉は敵であろうが優れた人物なら部下にしたいという、別名人材コレクター、もしくは人たらしで有名でした。

そして、盛政のことも高く買っていたんです。

そのため、捕らわれた盛政と直に対面すると、秀吉は「一国やるから部下にならぬか」と彼を誘ったんですよ。

しかし、盛政の答えはこうでした。

「もしここで助けていただいても、私は後にきっとあなたを殺しに行くでしょう。
ならばいっそ死罪にしていただきたい」と。

そして、「切腹でなくて構いません。
縛り上げて京の市中を引き回し、打ち首にしてください。
そうすれば、秀吉様の威光も世に広まりますぞ」と付け加えたんですよ。

これには、さすがの秀吉も諦めざるを得ませんでした。

切腹と打ち首の違い

切腹と打ち首とでは、意味合いが大きく違うんです。

切腹は武士として尊重されて死ぬのですが(時にはあっぱれと言われることもあります)、打ち首は罪人としての死に方。

ここに至っても、盛政は敗軍の将として、秀吉に背いた罪人としての死に方を選んだというわけです。
彼の心には、依然として叔父・勝家への忠義と恩があったんですよ。

何とも泣ける話ですよね…。

世に聞こえたる鬼玄蕃、最期を遂げる

世に聞こえたる鬼玄蕃、最期を遂げる

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「死装束は思いきり派手にして、あれが佐久間盛政かと言われて死にたい」という盛政の願いを聞き届け、秀吉は紅色の小袖を用意してやったそうです。

それを身に付けた盛政は、望み通り、市中を引き回されました。

人々は、世に聞こえたる鬼玄蕃を一目見ようと、身分も男女も問わず、大勢が見物に詰めかけたといいます。

それでも、やはり秀吉は最後まで盛政を死なせたくなかったようで、部下に命じて彼にひそかに短刀を渡し、切腹させてやろうとしたそうです。
しかし盛政は丁重に断ると、静かにその首を差し出しました。

享年30。

鬼玄蕃・佐久間盛政は、太く短く、濃い人生に幕を下ろしたのでした。

今も受け継がれる鬼玄蕃の血

その後の佐久間家はと言うと、柴田家へ養子に行った勝政は行方不明(おそらく討死)となりましたが、弟の安政(やすまさ)と勝之(かつゆき)は落ち延び、流浪の果てに徳川家康に仕え、後にそれぞれ藩主にまでなりました。
また、盛政の一人娘である虎姫は、盛政が討ち取った中川清秀の二男に嫁ぎ、7人の子供に恵まれました。
そしてその末っ子が佐久間家を継ぐことを許され、今も盛政の命脈は続いているんだそうです。

戦国時代のほんの一瞬に過ぎなかった盛政の生涯ですが、彼の潔さと忠義、誇り高さはひたすら尊敬に値しますよね。
こんなふうに誇り高く散って行った武将が戦国時代には大勢いたのでしょうが、中でも佐久間盛政の名をぜひ、この機会に覚えていただければと思います。

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