「平将門」の歴史。天皇になろうとして失敗するも、後世に残した影響とは?

平安時代中期、関東地方で一人の男が「新皇」を称し、朝廷に反旗を翻しました。その男の名は「平将門(たいらのまさかど)」。武士による初めての大規模な反乱であり、「自らが天皇になる」と公言した日本の歴史の中でも珍しいタイプの反乱でした。同時期に瀬戸内海で発生した「藤原純友(ふじわらのすみとも)」の乱とセットで承平・天慶の乱と呼ばれるこの反乱。朝敵となった平将門は反乱後わずか2か月ほどで鎮圧されてしまうことになってしまうのですが、しかし後世の武士に大きな影響を与えるのです。この平将門の乱の流れを簡単にまとめてみました。

関東に勢力を張る平氏一族

桓武天皇の血を受け継ぐ男

桓武天皇の血を受け継ぐ男

image by PIXTA / 27358715

「平将門」の一族が関東に勢力を張ることができたのは、祖父である「平高望(たいらのたかもち)」のおかげでした。
この「平高望」は元々「高望王(たかもちおう)」と言い、「桓武天皇(かんむてんのう)」の孫であったのです。
しかし「高望王」は天皇に即位できる可能性はほとんどない上、出世も難しい立場であったため、「平」の姓を受け、臣下となり自ら関東に移り住んだのでした。
さらに関東で巨大な権力を得ようとする野望のあった「平高望」は任期終了後も都には残らず、息子たちの妻として関東の権力者の娘を迎え政略結婚により結びつきを強めた上、また未開墾地を開発し、その土地を守るため武士団を結成し、勢力を広げていったのです。

そして「平高望」は広げた関東の土地を5人の息子に与えたのでした。

その5人の息子たちは「平国香(たいらのくにか)」・「平良兼(たいらのよしかね)」・「平良将(たいらのよしまさ)」・「平良正(たいらのよしまさ)」・「平良文(たいらのよしふみ)」と言い、「平将門」は三男の「平良将」の息子であったのです。

そのような血筋だったので、「新皇」と名乗ってもおかしくはなかったのかもしれません。

平将門の土地を狙う叔父たち

平将門の土地を狙う叔父たち

image by PIXTA / 34529328

5人の息子たちの中で、「平良将」が先に亡くなってしまったのです。
本来であれば「平良将」が所有していた領土は子である「平将門」が引き継ぐはずでした。
しかし「そうはさせじ」と虎視眈々とその領土を狙う人物が居たのです。
それは「平国香」と「源護(みなもとのまもる)」でした。
「源護」は娘を「平国香」・「平良兼」・「平良正」に嫁がせた、関東の有力者だったのです。

先手を打ったのは「平国香」と「源護」でした。
935年「源護」の息子であった「源扶(みなもとのたすく)」が野本で「平将門」を待ち構え、戦いを始めたのです。
退くことも進むこともできなくなった「平将門」は一戦を交え、見事「源扶」を討ち取ったのでした。
そして余勢をかって「源護」の本拠地を焼き討ちし、その際に「平国香」も討ち取ってしまったのです。

その報に驚いたのが「源護」と姻戚関係のあった「平良正」でした。
「平将門」を滅ぼすために軍勢を集め鬼怒川沿いに兵を置き、「平将門」と対峙したのです。
しかしその「平良正」の軍勢も簡単に「平将門」に打ち破られ、命かながら逃げ出す始末でした。

冷静沈着な平国香の息子にいらだつ叔父たち

冷静沈着な平国香の息子にいらだつ叔父たち

image by PIXTA / 32681781

「「平国香」死す。」の報を聞いて驚いたのは京で仕事をしていた息子の「平貞盛(たいらのさだもり)」でした。
朝廷に休暇を申請し、急いで帰国、焼け落ちた自宅から「平国香」の亡骸と山中で隠れていた母と妻を見付けたのです。
しかしこのような仕打ちを受けても親族の争いで自身の出世に影響が出ることを嫌ったことと「この事件は父である「平国香」と「源護」が引き起こしたことであって、「平将門」に非はない。」との考えで「平将門」との和睦を望んだのでした。

この「平貞盛」の行動にいらだったのが「平良正」と「平良正」を保護した「平良兼」です。

「平良兼」も「源護」の娘を妻として迎えている上、自身の娘を「平将門」に取られているので、「平将門」を恨んでいたのでした。
「やられたらやり返せ」の風潮が強い武士の世界で、このような「平貞盛」の行動は、二人には理解しがたく、有り得ないことだったのです。

二人は「父「平国香」の恨みをはらすべし」と粘り強く「平貞盛」を説得。
やっとのことで味方に引き入れたことで、再び「平将門」を滅ぼすために攻め込むのでした。

平将門の知略

平将門の知略

image by PIXTA / 18572281

936年「平良兼」と「平良正」が「平将門」を滅ぼすべく攻め込んできました。
しかし「平将門」は反対に奇襲などで撃退したのです。
そして今回は滅ぼすことはせず、わざと一部隙間を作ってうまく「平良兼」と「平良正」が逃げられるようにしたのでした。

なぜこのようなことをしたのかと言うと以前「平国香」を滅ぼしたことが、朝廷内での自分の立場を不利にしてしまったからです。
「平将門」からすると「平国香」から攻め込まれたのですが、やり返して滅ぼしてしまったことはやりすぎと思われたからでした。
今回は「「平良兼」と「平良正」が攻め込んできたから追っ払っただけ。
悪いのはこの二人です。」と朝廷内で有利にことが進むようにしたのでした。

関東では戦争、朝廷内では裁判と「平将門」vs「平良兼」と「平良正」による争いがおこなわれていたのです。
そして戦争も裁判も「平将門」の勝利に終わったのでした。

朝廷内での裁判の後も、戦いは続いていました。
しかし938年「平良兼」が病死してしまうのです。

これにより「平将門」は「平国香」・「平良兼」・「平良正」との争いを制し、関東一帯に大きな勢力を持ったのでした。

平将門の乱に向かって

争いに巻き込まれる平将門

争いに巻き込まれる平将門

image by PIXTA / 34850402

938年、武蔵国に新たな受領として「興世王(おきよおう)」と部下である「源経基(みなもとのつねもと)」が京からやってきました。
しかし郡司として任務に当たっていた「武蔵武芝(むさしのたけしば)」と言う人物が新たな受領への接待・賄賂を拒否したのでした。
当然歓迎されると思っていた「興世王」と「源経基」は激怒。
「武蔵武芝」を潰すために、朝廷にあることないことを報告、逮捕状を用意させたのです。

この受領と軍事との争いを聞いた「平将門」は仲裁役を名乗り出ました。
関東一帯に大きな勢力を持つ「平将門」は仲裁役にうってつけでした。
「平将門」は「興世王」・「源経基」・「武蔵武芝」を招いて酒宴を開いたのです。
その酒宴はあと一歩で成功を収めたのでした。
しかし「武蔵武芝」の部下が「源経基」を殺害しようと勝手に動いたのです。
その空気を察知した「源経基」は一足先に脱出、そして「源経基」は朝廷に「「平将門」と「武蔵武芝」が受領の部下である私を殺そうとした」と報告したのでした。

「源経基」の報告は嘘であるとわかり、「平将門」の濡れ衣は晴れましたが、強大な力を持つ「平将門」は警戒されていくのです。

さらなる争いに巻き込まれた平将門

さらなる争いに巻き込まれた平将門

image by PIXTA / 34530648

939年、次は常陸国で争いが発生しました。
昨年の武蔵国と同じく受領と国人による争いでした。
受領は税を徴収する立場、郡司や国人は税を納める立場なので、元々仲良くできる立場ではないのですが、関東は京からはるか遠く、朝廷の目も届きにくいので、頻繁に争いが起こっていました。

受領であった「藤原維幾(ふじわらのこれちか)」が、全く税を納めず反抗的な態度を取り続ける「藤原玄明(ふじわらのはるあき)」の逮捕状の発布を朝廷にお願いし、出させることに成功したのです。

朝廷からの逮捕状が出、朝廷の敵となった「藤原玄明」は妻子を連れて常陸国から下総国に逃げることにしたのでした。

下総国は「平将門」の本拠地であり、「藤原玄明」は「平将門」に助けを求めたのです。

助けを求めてきた「藤原玄明」を「平将門」は守ってあげることにしたのでした。
「平将門」は「藤原玄明」と直接やり取りはありませんでしたが、「藤原維幾」とは因縁があったのです。
以前「平貞盛」が和睦を破って「平良兼」と「平良正」と共に攻め込んできた時、「藤原維幾」は「平貞盛」の味方をして、攻め込んできた人物だったのでした。

そのような経緯があったため、「藤原維幾」に攻め込まれている「藤原玄明」に親近感を覚えたのです。

「藤原維幾」から再三「藤原玄明」の身柄の引き渡しの要求が来ましたが、ことごとく無視するのでした。

歯車が狂いだした平将門

歯車が狂いだした平将門

image by PIXTA / 34850891

「「藤原維幾」憎し」の気持ちが強い「藤原玄明」は「平将門」の力によって「常陸国に帰らせて欲しいこと」と「身の安全を保障して欲しい」ことをお願いしたのです。
「藤原維幾」に対し不信感を抱いていた「平将門」はこのお願いも聞き入れ、常陸国に兵を送り「藤原維幾」を攻めたのでした。

常陸国には「藤原維幾」と「平貞盛」の軍勢が待ち構えていたのです。
3000兵が居るところ「平将門」軍はわずか1000兵でしたが、散々打ち破り、「藤原維幾」を降伏させ、本拠地である下総国に強制連行したのでした。

残された「藤原維幾」の息子と「平貞盛」は、「平将門」の所業を全て報告、訴えたのです。
しかし朝廷の逮捕状を散々無視し、あげく常陸国の受領である「藤原維幾」を攻め込んだことによって「平将門」は既に朝敵となってしまったのでした。

もう後戻りができなくなってしまった「平将門」は、「朝廷と対等に話をするには、朝廷が簡単に攻めて来ることができないような強大な力が必要。
そのために他の国々を攻めましょう。」との部下の進言を受け、さらに下野国・上野国と次々と攻めこんだのです。
そしてそれぞれの国に居る受領を追放、関東一帯を完全に制圧したのでした。

新しい天皇となった平将門

新しい天皇となった平将門

image by PIXTA / 19713443

関東の支配者となった「平将門」は、関東の民に非常に人気があったのです。
武蔵国・常陸国で多額の税で苦しめる受領を結果的に追っ払ったことになったからでした。
そしてその強い関東の民の支持のもと、「平将門」は「新皇」を称したのです。
「自分は新しい天皇で、京に居る天皇は古い天皇。
自分は「桓武天皇」の子孫でもあるため、天皇になってもおかしくはない。」と言うことなのでしょう。
「平将門」はただ朝廷と対等に話がしたいがために「新皇」を称しただけで、朝廷に逆らう気はなかったのかもしれません。

しかし朝廷はそのようには捉えませんでした。

朝廷が逮捕状を出した「藤原玄明」をかくまい、関東地方の各地で朝廷が任命した受領を次々と攻め込んでは追い出し、そして「新皇」を称した「平将門」を許すことはできなかったのです。
940年、朝廷は「平将門」追討令を発布、破格の恩賞を用意し、有力な武士を関東に送り込んだのでした。
そしてこの平将門の乱に参加をし、活躍するのは「平貞盛」と「藤原秀郷(ふじわらのひでさと)」です。
「平貞盛」は終生「平将門」のライバルでありました。

平将門の最期

平将門の最期

image by PIXTA / 25720618

「平将門」が兵をそれぞれの地元に帰している時に「平貞盛」と「藤原秀郷」は4000兵を集め攻め込んできたのです。
「平将門」が急ぎ兵を集めたのですが、集まった兵はわずか1000兵ほど。
「平将門」が陣頭に立ち奮戦するが、数に勝る「平貞盛」・「藤原秀郷」軍がじわじわと追い詰めます。

退却を余儀なくされた「平将門」は地の利がある本拠地に誘い込み逆転を狙いますが、「平貞盛」と「藤原秀郷」はその誘いには乗らず、さらに追い詰めていったのです。

「平将門」は甲冑をつけたまま各地を転々とし、兵を募るのですが、旗色も悪く、朝敵とされてしまった「平将門」の味方をする者はほとんどいませんでした。

そして味方の兵にも逃げられ、わずか300兵になった「平将門」軍。
最期の力を振り絞り「平将門」が陣頭に立ち奮戦するが、最期飛んできた矢が額に当たり、あえなく討ち取られてしまったのでした。

そしてその首は平安京に運ばれ、さらし首とされたのです。

またその「平将門」の首は関東地方を目指して空高く飛び去ったと言う伝説があり、その首が落下したと言われているところに首塚があり、現代も残っています。

平将門が与えた影響

いかがでしたでしょうか。

「平将門」の乱によって、朝廷は武士の力を再認識することになります。
今までは貴族が忌み嫌うことをおこなう職業と言った扱いでしたが、武士の力をみくびると大きな反乱につながり、またその反乱を収めることができるのも武士の力であると言うことがわかったのでした。

武士を上手く使うことにより、朝廷も力を持つことができると理解したのです。

また、この「平将門」の乱に勝利した「平貞盛」から「平清盛(たいらのきよもり)」が、「藤原秀郷」から「奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)」が誕生します。

「平将門」による新しい武士の世の中は、途中で夢と消えましたが、勝ち残った者から、新しい世の中を作り上げる人物が出てくることになるのです。

photo by PIXTA