幕末に散った「会津若松城」は忠義の城

「会津若松城(あいづわかまつじょう)」は、福島県の会津若松市にあるお城で、地元では「鶴ヶ城(つるがじょう)」といいますが、同じ名前のお城があるので「会津若松城」と一般では呼ばれています。または古くからいわれていた「黒川城」や、略して「会津城」といったりします。国の史跡には「若松城跡」で登録されています。

ここは歴史的に、東北と関東の真ん中にあり、戦国時代はこの地ををめぐって色々な戦いがあり、幕末の「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」では「最大の悲劇」の舞台となりました。

なぜここを大名達は欲しがったのでしょう、なぜ幕末の悲劇が起きたのでしょうか。歴史を追ってこの城の悲劇を探ってみましょう。

会津をめぐる大名達の戦い

会津をめぐる大名達の戦い

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関東から東北の中心にあるともいえる現在の会津若松市は、福島県西部にあり、西は越後山脈、東は奥羽山脈にという山脈の中心にある、広大な福島県の中で日本海側に近い場所です。
盆地ですので夏冬の温度差どころか一日のなかの温度差も激しく、豪雪地帯に指定されています。

南北朝時代の1384年に蘆名氏7代目の「蘆名直盛(あしななおもり)」が「小田垣の館」または「東黒川館」と呼ばれる館を造ったのが、会津若松城のはじまりといわれています。
しかし色々と説があるようで、15世紀半ばには、その時の会津は黒川と呼ばれてましたので「黒川城(くろかわじょう・または小高木城)」と城下町が成立していたという記録が、一番信憑性がありますね。

それ以降ずっと蘆名氏の城として戦国時代まで続きます。

戦国時代に勢力広大する会津

戦国時代に勢力広大する会津

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蘆名氏16代目「蘆名盛氏(あしなもりうじ)」は、1542年会津郡に勢力を持っていた「山内氏」と対立の末に勝ち、山内氏は家臣となり代々仕えることになりました。

その勢いで会津における勢力を広げていこうとした時に「陸奥守護職」だった「伊達氏」の父子の間に起きた「天文の乱(てんぶんのらん)」に巻き込まれ、最初は父方についていましたが、福島県の「中通り(福島県は会津・中通り・浜通りと分かれている)」を支配していた「田村隆顕(たむらたかあき)」と衝突したので、息子につくことにしました。

この戦いは息子が勝利して、中通りを手中にしようと田村隆顕と本格的に戦闘に入りましたが「常陸(茨城県)」の「佐竹氏(さたけし)」が田村隆顕の援護をしたために、佐竹氏と敵対状態になっている「北条氏康(ほうじょううじやす)」「武田信玄(たけだしんげん)」と同盟を結んで戦います。

その後も1578年の「上杉謙信(うえすぎけんしん)」の死後に起きた家督争いの「御館の乱(おたてのらん)」に乗じて越後に出兵したり精力的に領土を広げようとしました。

なんだか戦ってばかりいるように思える盛氏ですが、金山開発に力を入れたり、商人達が集まって国が潤うように流通の整備など内政にもがんばってます。

戦国時代の混乱

戦国時代の混乱

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盛氏の死後、男子がいなかったために娘婿となった「二階堂盛義(にかいどうもりよし)」の長男で人質としていた「蘆名盛隆(あしなもりたか」が跡を継ぎました。
この人は母が伊達氏の出で、当主「伊達輝宗(だててるむね)」は叔父にあたります。
その叔父と共に越後を責め立てて「上杉景勝(うえすぎかげかつ)」を苦しめます。

そんな時に「織田信長(おだのぶなが)」が越後を狙って進撃してきました。
盛義と景勝はお互いの領地を守るために手を組みますが、1581年には織田信長と手を組み越後に介入しだしました。

1584年10月6日、盛隆は城内で家臣だった「大庭三左衛門」に襲われて、23の若さで亡くなりました。
一説には男色のもつれという話があるそうです。
跡継ぎは生後1ヶ月の息子である「亀王丸」しかいません。
「伊達輝宗(だててりむね)」が後見するという話になり、これを機会に輝宗は隠居し「伊達政宗(だてまさむね)」が伊達家の当主となりました。

1589年亀王丸が3歳で死に、その跡継ぎに伊達家から養子を迎えるという話が頓挫し、家臣達の協議の結果後を継いだ「佐竹義重」の子「蘆名義広(あしなよしひろ)」に対して、東北の統一を目指していた政宗は同盟を一方的に破棄して攻め込み、会津を手に入れました。

豊臣政権から徳川幕府までの会津

豊臣政権から徳川幕府までの会津

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「豊臣秀吉」から再三「上洛して家来になれ」という通達を無視して、伊達政宗は会津攻めをしていました。
ちょうどその頃は「北条氏」を討ち滅ぼすために総攻めしていた「小田原合戦」の真っ最中。
遅参した政宗は白装束(死に装束)という姿で秀吉の前に座り事なきを得ました。
しかし秀吉の、大名達が勝手に戦をしてはならないという「惣無事令(そうぶじれい)」違反をしたということで没収されてしまいました。

会津若松城の完成

会津若松城の完成

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政宗にかわって黒川城に入ったのは、信長にも秀吉にも大変信頼されていた「蒲生氏郷(がもううじさと)」でした。

1592年、並の大名ではない大名の自分に相応しい城をと、会津を近世的な城郭に改造しはじめます。

まず町の名前を従来の黒川から「若松」へと改めます。
若松の名前の由来は、出身地の「馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡にある蒲生氏の氏神神社)」の参道の「若松の杜」に由来しているといわれます。
また前の領地であった今の三重県の松坂の「松」という一文字もこの松に由来するといいます。
もし松坂になっていなかったら「松阪牛」はどんな名前になっていたのでしょうか?

1593年、5重5階地下2階ともいわれる「望楼型7重」の天守閣が竣工しました。
そして名前を「黒川城」から「鶴ヶ城」に改めます。
発掘調査では蒲生時代の石垣の基底部が見つかり「鐙瓦(軒丸瓦)」「宇瓦(軒平瓦)」「鬼瓦の」に金箔が貼られたものが出てきたそうです。

城下町には、松坂から商人達を呼び寄せて楽市楽座を開いて賑わかせて、江戸時代の会津の繁栄の基礎を築いたといわれています。

しかし1598年氏郷の子で後を継いだ「蒲生秀行(がもうひでゆき)」は、父親に比べて力量がないと家来達から批判されて騒動が起きたために「下野国宇都宮」に石高をかなり下げられて左遷されてしまいました。

上杉景勝と関ヶ原の合戦

上杉景勝と関ヶ原の合戦

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秀吉の命令で、上杉景勝が越後よりやってきました。
その思惑は、北の伊達政宗と最上氏を牽制し、江戸に置いた「徳川家康」の動きを監視するためでした。
しかし、移動してまもなく豊臣秀吉は亡くなってしまったのでした。

それに伴って、次の覇者は自分だと「徳川家康」が台頭してきました。
景勝は秀吉の定めた「五大老・五奉行」の大老の1人でしたが、家康とあわず会津に引きこもってしまいました。
そこへ家康を牽制しようと、秀吉の遺児である「豊臣秀頼(とよとみひでより)」を守るために、五奉行の「石田三成(いしだみつなり)」が景勝の家老である「直江兼続(なおえかねつぐ)」と接触し、家康を東西から挟み撃ちにしようと画策しました。

しかしそれは家康の思うつぼで「上杉討伐」と銘打って軍を率いながら、石田軍が動き出したら大阪へ引き返します。
景勝は伊達と最上に押さえられて追撃しようにも動けず、関ヶ原で石田軍は大敗し、景勝は命は許されたものの米沢へ移封されてしまいました。

会津地震と会津若松の復興事業

会津地震と会津若松の復興事業

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再び蒲生秀行が、相変わらず家来達とは仲が悪いまま帰ってきました。

1611年8月21日、マグニチュード7ともいわれる地震が起きました。
記録によると城内では「石垣崩れ」「天守傾き」、城下町では「2万戸余倒壊」「死者3700名余」、里では「山崩れのために23の村がなくなる」という大被害でした。
これらの心労で秀行は30歳の若さで亡くなってしまいました。
息子が継ぎましたがそこには子供がいなかったために改易となります。

1627年、東北を任せられるのに信頼に足る人物をと幕府が選んだのは、秀吉子飼いの「7本槍」の1人と呼ばれた「加藤嘉明(かとうよしあきら)」でした。
暖かい伊予(愛媛県松山市)から豪雪地帯の会津への移封は嬉しくなかったようですが、「地震復興」のために街道を整備したり村の復興などの途中で亡くなってしまいました。

後を継いだのは息子の「加藤明成(かとうあきなり)」。
この人は地震以後傾いたままの天守閣を「5層塔型天守」に改築工事をはじめます。
ついで「西出丸」「北出丸」なども造築しました。

ここまではいいのですが事業のために財政が厳しくなってきたので増税をします。
それがかなり厳しかったために家来が反乱を起こしたり、逃げ出したなど事件相次いで左遷されました。

会津藩・松平家の光と影

会津藩・松平家の光と影

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幕府は、二代将軍「徳川秀忠」の息子で、三代将軍「徳川家光」の異母弟の「保科正之(ほしなまさゆき)」を会津藩の藩主とします。

秀忠の奥さんは「織田信長」の妹である「お市の方」の娘で、秀吉の愛妾である「淀君」の妹の「お江与の方」です。
保科正之の母は、秀忠の乳母の侍女だったそうですが身分が低かったことや、「大坂の陣」で淀君を死なせてしまったこともあり公にされず、1611年5月7日に生まれました。

この保科正之が会津に入り、幕末の悲劇までを追っていきましょう。

会津中将・保科正之誕生

会津中将・保科正之誕生

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まずは、会津藩は「松平家(御三家以外は徳川を名乗れず、元の松平姓を名乗る)なのに、保科なの?」という話からはじめましょう。

1613年、家康と秀忠から庇護されていた「武田信玄」の娘が養育をはじめます。
そしてその縁で元・武田の家来だった信濃高遠藩主「保科正光(ほしなまさみつ)」の養子となりました。
正光は「生きているうちに将軍秀忠と正之を父子として会わせたい」と言っていたといわれています。
1631年に跡を継ぎ高遠藩3万石の藩主となって、正四位下左近衛中将兼肥後守になります。
そのため「会津中将」と呼ばれ、代々の会津藩主は「肥後守」といわれることになります。

将軍の息子と名乗ることもなく一生を過ごすことになるはずの正之ですが、三代将軍「徳川家光」が身分を隠して数人の供だけで目黒に遊びに行った時のこと、たまたま休憩した「成就院(じょうじゅいん)」という寺の僧侶から「肥後守は将軍の弟」だと知らされたという話が残っています。
家光は、不遇だったにもかかわらず実直で勤勉な正之を大いに気に入って寵愛します。
そして山形藩藩主に取り立て、そこでの騒動を治めたということで、会津藩23万石の藩主にと抜擢したのでした。

将軍の弟ということが正式になり松平を名乗ることを許されますが、今まで育ててくれた保科家に感謝しているということで、3代目「正容(まさたか)」になってようやく松平姓と葵の紋が使用されます。
しかし、保科家の家宝や家系図などを普通は持って行くところ保科家に残したために、保科家は大変感謝したといわれてます。
その恩を返すためにと、幕末の四面楚歌だった会津藩に保科家から援軍がやってきたのでした。

会津の運命を決めた「会津家訓十五箇条」とは

会津の運命を決めた「会津家訓十五箇条」とは

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正之は、家光の臨終に「幕府を頼む」と遺言されて、四代将軍「徳川家綱(とくがわいえつな)」の叔父ということで後見をすることになりました。
そして「大老」まで命ぜられて会津に帰るのは晩年になってからとなります。
そして「会津家訓十五箇条」という遺言を残します。
それらは藩の法律ともなり幕末までの「ならぬものはなりません」という思想の地盤となりました。

肝腎なのが第1箇条「大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。
若し二心を懐かば、 則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず」つまり「将軍家に忠節を尽くし、他の国が全部裏切っても、自分の子孫は決して裏切ってはならない」というものです。
最後の一兵になっても会津は将軍家を護るというこの思想が、幕末の悲劇の地雷になってしまったのでした。

そのため子弟教育にも朱子学を取り入れ、武芸の鍛練も怠ることないという文武両道の堅固な藩ができたのです。

幕末までの会津藩

幕末までの会津藩

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正之の死後、嫡男の「正経(まさつね)」が継ぎ、3代目は弟の「正容(まさかた)」が継ぎました。
この時に保科から松平へと変わります。
そして徳川親藩(親戚の藩)となり「会津松平家」が誕生しました。
歴代藩主の名前の通り字も、保科家の「正」から新たに「容」となります。
家紋は「会津葵」旗印は漢字1文字で「會」となりました。

4代目藩主の「容貞(かたさだ)」の時に不作と厳しい年貢の取り立てに、会津藩の歴史で一番大きな「百姓一揆」が起ります。
借金苦となってしまった会津藩ですが、5代目藩主「容頌(かたのぶ)」の時に、正之の重臣の子孫である家老の「田中玄宰(たなかはるなか)」に財政再建を任せて成功します。

しかし、その後の跡継ぎが6代7代と早くに亡くなり、8代目に水戸藩主の庶子だった「容敬( かたたか)」が養子藩主となったために、正之の血筋は消えてしまいましたが家名の断絶の危機は乗り越えました。
この人は英明といわれるほど名君と呼ばれて幕末期の基礎を作ったといわれています。

安泰になったと思ったものの、この人にも跡継ぎとなる男子がおらず、兄で高須藩の藩主となっていた「松平義建(まつだいらよしたつ)」の息子である「容保(かたもり)」を娘婿に迎えることになったのでした。

会津藩の悲劇

会津藩の悲劇

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1862年に容保は、誰もなりたがらなかった「京都守護職」に任ぜられます。
江戸時代を通じて京都に設置されていた「京都所司代」には、弟の桑名藩藩主の「松平定敬(まつだいらさだあき)」がなっていました。
仕事は配下に「新選組」や「見廻り組」を置いて「尊王攘夷派」の志士達の取り締まり・京都の治安維持を行っていました。
それが長州藩が筆頭となっている「倒幕派」の恨みを買うことになったために、1868年に「戊辰戦争」が勃発すると、会津藩は最大の攻撃目標とされたのでした。

戊辰戦争での会津藩の位置

戊辰戦争での会津藩の位置

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松平容保の兄弟は「高須四兄弟」と呼ばれています。
長兄は若くして亡くなりましたが、次兄「慶勝(よしかつ)」は尾張徳川家の藩主、五兄「茂栄(もちなが)」は高須藩主→尾張徳川家藩主→一橋徳川家養子(この時点で慶勝が尾張藩主に戻る)、弟の八男である定敬は桑名藩藩主となりました。

1846年10歳で叔父の会津藩藩主の養子となり「会津藩家訓」を徹底的にたたき込まれ、これを幕府閣僚たちから楯にされ、固辞していた京都守護職を引き受けることになったのでした。

弟の定敬が所司代であることもあり力を合わせて勤王志士たちの暴挙を取り締まっていましたが、信頼してくれていた「孝明天皇(こうめいてんのう)」が亡くなると、味方と思っていた「薩摩藩」が勤王のリーダーとなっていた「長州藩」はじめ、幕府を倒そうとしていた各藩と手を組みます。

十五代将軍「徳川慶喜(とくがわよしのぶ)」は、先手を取って「大政奉還(たいせいほうかん)」という政治を朝廷に戻すということをしましたが、反幕府の勢いはおさまらず、勝手に西陣の職人に作らせたという朝廷の印「錦の御旗」を先頭に攻め込んで来ました。
徳川慶喜は「朝廷の敵になることはできない」と、幕府軍の兵達を見捨てて江戸に帰って謹慎してしまいました。

「江戸城無血開城」によって、徳川慶喜は命は助かりましたが、振り上げた拳を振り落とす場所を失った「官軍」となった人達の標的は会津藩となったのでした。

会津戦争の悲劇と会津若松城

会津戦争の悲劇と会津若松城

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会津藩追討を命じられた仙台藩・米沢藩などの東北の藩は、会津藩に同情し会津藩赦免の嘆願を新政府に再三出します。
しかしそれをはねかえされ「奥羽越列藩同盟」を組織して対抗しようとしました。

しかし彼らの願いも空しく、1868年6月10日からはじまった「白河口の戦い」、9月15日大半の兵が白河口にいる隙をついて新政府軍は「二本松城」を攻撃しました。
城は落城し二本松藩主・丹羽長国は米沢へ逃れましたが「二本松少年隊」と呼ばれることになった若年の少年兵20名のほとんどが戦死するという悲劇が起きました。

二本松城を落とした新政府軍は、10月6日手薄だった「母成峠の戦い」で旧幕府軍を撃破した勢いで40キロメートル急進して、10月8日朝に若松城下に攻め込んで来たのでした。
兵を各地に配置していた会津藩は驚き、予備軍だった13歳~17歳の「白虎隊(びゃっこたい)」まで出撃することになりました。

戦いは「籠城戦(お城に立てこもって戦う)」と決まり、家老の「西郷頼母(さいごうたのも)」の家族は足手まといとなるのをよしとせず母親・妻子はじめ一族21人が自刃してしまいます。
この西郷邸の火災の煙が若松城と重なったために、城が落ちたと勘違いした白虎隊士の二番隊の隊士のほとんどが「飯盛山」で自刃してしまうという悲劇がおこってしまいました。

1ヶ月の長い籠城戦を続けて行くうちに、同盟の各藩は降伏していき、度重なる砲撃で亡くなる者、食料が尽きて餓死するする者が増えていき「城を枕に全員討ち死に」という人達を救うために、容保は降伏を決めました。

美しい会津若松城は、見る影もなく損傷してしまいました。
現存するその時の城の写真は、外国から来た技術指導者の旅行に「日本人写真家」として同行した、容保の兄である尾張藩主の慶勝が撮影されたものだという説があります。

明治以降の会津若松城

明治以降の会津若松城

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1873年城を取り壊す「廃城令」によって、ほぼ建物は取り壊されて、1908年三ノ丸東側と城外に陸軍の連隊練兵場が設置されたため、三ノ丸の一部とその濠や土塁約6haが撤去。
しかし本丸・二ノ丸・三ノ丸一部・北出丸・西出丸・それらに沿った濠は残されて、そこが現在の史跡指定となりました。

残されたものと、城の再建

残されたものと、城の再建

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本丸にあった櫓の一つである外観3層・内部4階の「御三階」と「本丸の大書院の唐破風の表玄関」は、戦争で焼失した「阿弥陀寺(会津若松市七日町)」に移築されて現存してます。
この寺には新選組で会津藩士となった「斉藤一(さいとうはじめ)」の墓もあり、訪れた時は「るろうに剣心」の影響からなのか線香置きのところにタバコが供えられていて、見学に来ていた年配の人達が「なんて不謹慎な!」と怒っていたので説明しておきました。

1917年、旧会津藩士(白虎隊士)である東京帝国大学総長の山川健次郎の紹介で、農科大学教授の本多静六が「若松公園設計方針」が若松市と協力して計画されて、城跡の近代公園化が進みました。

1965年、鉄筋コンクリート造により天守閣が外観復興再建。
内部は「若松城天守閣郷土博物館」として公開されています。

1990年、茶室「麟閣」(福島県指定重要文化財)が本丸の跡地に移築復元。

2010年より黒瓦だった天守の屋根瓦を、明治時代に解体される以前の赤瓦葺に復元する工事がはじまって、2011年3月に竣工して、11日の東日本大震災後の27日にリニューアルオープンされました。

今後は、本丸の御三階櫓も併せて復元される予定だそうです。

情に厚い会津人と美しい城

会津に向かって電車に乗ると「会津磐梯山」がそそり立って迎えてくれます。
その荘厳な姿は会津の人達の気高い姿と重なります。

会津の人達はよく気むずかしいと言う人もいますが、実は新選組局長の「近藤勇」の墓参りをしたいと思っていたのですが荷物がたくさんで、これは山登りは無理だと思っていた時に、目の前の家の奥さんが出てこられたのでダメ元で「近藤勇の墓に行きたいので、荷物を預かっていただけますか?」と聞いたら「ちょっと待って」とご主人を連れてこられて、車でお墓まで案内してくれて、帰りも駅まで送ってくれるついでにと「飯盛山いっといで」と待っててくれました。
「会津士魂」という言葉がありますが、彼らの中には今でも侍の魂が生きているのだと思いました。
その人達が胸を張って自慢するお城を、ぜひとも訪れて欲しいと思います。

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