吉川広家の歴史。「主のために主を欺く!」関ヶ原の戦いのもう一人の重要人物

一生懸命誰かのために何かやってあげても、それが全然報われないことってありませんか?その時の空しさといったら…しばらく立ち直れません。そんなことが戦国時代にもあったんですよ。

吉川広家(きっかわひろいえ)は、戦国時代から江戸時代にかけての激動の毛利家を支えた重臣です。関ヶ原の戦いにおいて彼が取った行動が、毛利家と彼の運命を大きく変えることになりました。さて、いったい何が起きたのでしょうか。広家の人生と共に、鍵となる関ヶ原の戦いの際の出来事を詳しく見ていきましょう。

「両川」の家に生まれた「うつけ」の御曹子

「両川」の家に生まれた「うつけ」の御曹子

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毛利家には、自分たちを支えてくれる、なくてはならない2つの家がありました。
それが吉川家と小早川家、いわゆる「両川」と呼ばれる双璧です。

そのうちの吉川家当主・吉川元春(もとはる)の三男として、広家は永禄4(1561)年に生まれました。
大河ドラマ「おんな城主 直虎」でおなじみの井伊直政(いいなおまさ)が同い年、石田三成が1歳上という世代です。

三男だったため家督相続が回ってくる可能性は低く、将来的には養子に出るか、家督を継ぐ長兄に養われるか…そんな立場の広家でしたが、幼い頃からとてもわんぱくで、ついには「うつけ」と呼ばれるようになってしまったそうなんですよ。

「うつけ」って知ってますか?

織田信長の若い頃も「うつけ」で有名でした。
振る舞いが常識外れで、突拍子もないことばかりする人のことをそう呼んだんです。

広家のうつけぶりについては、父・元春が「あいつは礼儀作法がなってなくてホントに困る…」と嘆いています。

その「うつけ」が、とんでもない行動に出たんです。

決めた!養子に出てやるぞ事件

決めた!養子に出てやるぞ事件

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天正8~10(1580~1582)年頃、広家20~22歳くらいの時のこと。

彼は自分がもらっている領地の少なさに不満を持っていました。
三男とはいえ、「両川」の家なのに…と思っていたみたいですね。

そんなところへ、小笠原長旌(おがさわらながはた)という毛利家内の豪族から、「広家どの、ウチの養子にいかがですか?」という話が出てきたんです。
広家はさっそくそれに食いつき、父の反対も押し切って勝手に養子縁組の話を決めてしまいました。

じゃ、最後は毛利当主の輝元(てるもと)」のOKをもらえばいいだけ…ということで輝元にお伺いを立てたところ、この輝元が猛反対。
「なに勝手なことしてんだおい!」という怒りようで、すぐさま破談となりました。

小笠原家は毛利家の宿敵・尼子家と共に最後まで毛利に抵抗した勢力だったんですよ。
今は家臣に降ったとはいえ、そういう曰くつきの家に吉川家の者を養子にするのを認められるわけがなかろう!と輝元は思ったのでしょうね。
当たり前です。
広家、もうちょっと考えた方が良かったですね。

人質に出されるもすぐお返しされる謎

人質に出されるもすぐお返しされる謎

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この頃、豊臣秀吉が天下を統一し、その配下となった戦国大名たちは自分の妻や子供を人質として差し出していました。

吉川家もその例にもれず、天正11(1583)年9月に広家は秀吉の元へ人質に出されます。
小早川家も養嗣子の元聡(もとふさ/後の毛利秀包/ひでかね)を差し出していました。

10月には秀吉との謁見を果たした広家ですが、なぜか11月には帰国しています。
は、早くないですか…?

一方の元聡はというと、広家とは対照的でした。
早々に秀吉の「秀」の字をもらって秀包と改名し、お気に入りとなっていたようです。
イケメンだったそうですよ。
別に広家がイケメンじゃないという話があるわけではありませんが、これだと、広家はあまり秀吉のお気に召さなかったのかな…なんて勘ぐってしまいますよね。

何はともあれ、帰ってきた広家に、輝元は「ご苦労だった」と隠岐国(おき/隠岐諸島)を与えました。

輝元が隠岐とはいえ一国を広家に与えたのには、それなりの考えがあったみたいです。

小笠原家との養子縁組問題で、広家が自分の領地など待遇に不満を持っていたことを知ったため、領地を増やして「まあまあ」と懐柔したようですよ。
輝元もそれなりに主として考えていたんですね。

巡り巡って吉川家当主となる

巡り巡って吉川家当主となる

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毛利家は秀吉の傘下となっていましたから、彼に従って各地を平定する戦に参加していました。
そのため、吉川家もそれについて行ったわけですね。

その戦のひとつ、九州征伐には父・元春と家督を継いでいた長兄の元長(もとなが)が行っていたんですが、なんと、2人ともその陣中で亡くなってしまったんです。
父が天正14(1586)年11月、長兄は翌年の6月に没してしまいました。

次兄の元氏(もとうじ)は他へ養子に出ていたので、後を継ぐのは、なんと「うつけ」広家。

しかしうつけといってももう27歳、立派に成長していましたよ。

その後、広家は武将として、叔父・小早川隆景(こばやかわたかかげ)と共に毛利の両川の名に恥じない働きをし、秀吉からは豊臣・羽柴姓を賜りました。
これはつまり、実力を認められたということなんですよ。

愛妻家は毛利の血?

家督相続直後の天正16(1588)年、広家はかつての家臣(毛利を裏切ってます)・宇喜多直家(うきたなおいえ)の娘である容光院(ようこういん)を正室に迎えました。
彼女はいったん秀吉の養女となってからの輿入れだったので、広家は秀吉の婿になったんです。
容光院は美女だったらしく、広家は彼女を大切にしていましたが、夫婦生活は長くは続かず、結婚からわずか2年後、彼女は病死してしまいました。

その後、広家は正室を置くことはなく、側室を持っただけだったそうです。
普通なら「継室(けいしつ)」といって新たな正室を迎えるんですが、よほど容光院が気に入っていたんでしょうね。

こういう愛妻家っぽいところは、祖父・元就(もとなり)や叔父・小早川隆景と似ていますよ。
元就は正室が亡くなるまでは彼女一筋でしたし、隆景は子供が生まれなくても正室一筋、側室を置こうともしなかったんです。

これって、毛利の血みたいなものなんでしょうか?でも、輝元には側室いっぱいいるぞとか突っ込まないで下さいね。

黒田官兵衛父子と仲良し

黒田官兵衛父子と仲良し

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広家は順調に出世し、天正19(1591)年には秀吉の命によって月山富田城(がっさんとだじょう/島根県)に入り、その周辺の14万石の領地を得ます。
月山富田城とは、かつての宿敵・尼子家の居城であり、毛利家と激戦を重ねた、ある意味思い入れのある場所でした。
広家としても感慨深かったでしょうね。

実は、これには黒田官兵衛(くろだかんべえ)の推薦があったそうですよ。

官兵衛は広家の父・元春とも仲良くしており、広家とも交流がありました。
そして官兵衛の息子・長政(ながまさ)も広家と親しい付き合いがあったそうなんです。
親子2代にわたる交流、微笑ましいものがありますよね。

ただ、この交流が後の関ヶ原の戦いにおいて重要なポイントになっていくことを覚えておいてください。

存在感と共に大きくなる責任

存在感と共に大きくなる責任

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その後、秀吉の朝鮮出兵時には毛利の別働隊として参加し、叔父・隆景らと活躍します。
特に広家は、敵に包囲されピンチに陥った加藤清正を救うべく突撃し、秀吉からお褒めの言葉までもらっているんですよ。

しかし、だんだんと広家の肩にのしかかる負担が大きくなっていきます。

慶長2(1597)年に隆景が亡くなると、家督を継いだのは「あの」小早川秀秋でした。
そうです、3年後の関ヶ原の戦いで世紀の裏切りをするあの人ですよ。
しかもまだ若く、とても両川なんて務まりません。
そして、輝元からは「頼むからウチを支えてね」と言われていましたし、この頃の広家はいろいろ大変だったと思います。

そんなストレスが溜まったのか、慶長4(1599)年には、広家は伏見城で浅野長政(あさのながまさ)と大喧嘩をしてしまいます。
厳罰が下る可能性もありましたが、ここは黒田長政の仲介によって何とか罰は免れました。
持つべきものは友ですね。

しかし、秀吉が亡くなってからというもの、徳川家康の力が急速に拡大し、だんだんと世の中が不穏な空気になっていきました。
そして慶長5(1600)年がやってくるんです。

関ヶ原の戦い:毛利が西軍の総大将に!?

関ヶ原の戦い:毛利が西軍の総大将に!?

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慶長5(1600)年、石田三成は家康が東北の上杉征伐に行っている隙をついて挙兵します。
関ヶ原の戦いの始まりでした。

三成側は西軍、家康側は東軍でしたが、三成に総大将の器はないということで(人望がないですから)、担ぎ出されたのが、毛利家の当主・輝元だったんです。

広家は絶対東軍に付くべきだと主張したのですが、毛利家の参謀・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)と三成によって輝元は西軍の総大将となってしまいました。

輝元、ちょっと前に広家に「ウチを支えてくれ」って言ったのに…だから東軍だって広家が進言したのに、全然聞いてません。

しかしもうどうしようもないので、広家は他の毛利重臣と相談し、交流のある東軍の黒田長政を通じて家康に内通することにしたんですよ。
つまり、本隊同士がぶつかる戦いでは、毛利家の軍を動かさないということです。
そして、毛利家の領地は安堵(取り上げられない)するという約束を取り付けたのでした。

これは、輝元には秘密の話でした。
主を守るために主を欺く…もう、これしか方法はなかったのかもしれません。

意地でも毛利本隊を動かさない

意地でも毛利本隊を動かさない

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関東まで進んでいた東軍が兵を返して関ヶ原に到着すると、ここでようやく関ヶ原の戦いの本戦の火ぶたが切って落とされることになりました。

輝元は総大将として大坂城にいますから、毛利軍を率いるのは毛利秀元(ひでもと)。
一時は輝元の養子となり、毛利家を継ぐ者とみなされていました。

そして毛利軍は南宮山に布陣します。
ここは眼下に東軍を見渡すことができ、実は家康の背後を取れる場所でもありました。
しかし広家があらかじめ家康に内通の意思を伝え、毛利軍を動かさないこととなっていたので、家康ははなから南宮山の軍を問題にしていなかったんですよ。

一方、何も知らない秀元は勇猛で知られ、この戦いでもかなりやる気をみせていましたが、先陣に広家を置いたことで何もできなくなってしまったんです。

広家は、再三の出陣要請にも「霧が濃いから」だの何だの理由をつけて軍を動かしません。
となれば秀元も動けませんし、その後ろにいた長宗我部(ちょうそかべ)軍まで動けなくなってしまいました。

後世にまで伝わる名(?)エピソード「宰相殿の空弁当」

後世にまで伝わる名(?)エピソード「宰相殿の空弁当」

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何度も催促の使者がやってくるので、秀元は困り果て、思わず「兵に弁当を食わせておるのだ!」と言ったとか(広家が言ったとも)。
その場のみんなが内心で突っ込んだと思いますよ。
「この場で弁当って何なんだよ!」と。

このエピソードを、秀元の官位である参議の唐名が「宰相」だったことから(当時は唐名で呼ぶことが多かったんです)、「宰相殿の空弁当」と言います。
後世までこんなにちゃんと伝わってしまいました。

と、こうして毛利軍が動けないままでいると、そのうちに小早川秀秋が東軍に寝返ります。
これがきっかけとなって西軍は総崩れとなり、わずか半日で天下分け目の戦いは東軍の大勝利に終わったのでした。

考えてみると、「毛利の両川」の行動によって、勝敗が決したということになりますよね。
だからこそ、広家は関ヶ原の戦いでの重要人物だと冒頭で述べたんですよ。

関ヶ原後…約束が違う!

関ヶ原後…約束が違う!

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戦後、広家はこれで毛利家はお咎めなく安泰だと思っていました。

ところが、徳川方から「西軍の連判状にちゃんと輝元の花押(かおう/署名のこと)があるからいかん」とか、「家康と直接約束していないからやっぱりダメだ」とか、難癖がつけられたんです。

ついには、輝元の領土は没収し、内通の功績があった広家に毛利の領土の一部である周防・長門(すおう・ながと/山口県)をやろうという話になってしまったんですよ。

これでは約束が違う!と広家は焦ります。
毛利家のためを思って内通し、毛利家が安堵されるからこそ軍を動かさなかったのに…。

毛利家に最大のピンチが訪れていました。

広家、家康に懇願

広家、家康に懇願

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広家は家康に何とか考えを変えてくれるように頼みこみます。

手紙では、広家はこう述べています。

「輝元様ができてない人間だとはご存知のはずですし(結構ひどいこと言いますね)、お願いですから毛利の名だけは残していただけないでしょうか。
私だけが取り立てられては面目が立ちませんから、それならば私にも罰をお与えください」と。

そして、「もし輝元が徳川様に刃向おうとしたならば、私がその首を取って差し出しましょう」とまで言ったんですよ。
あれ、毛利家を支える話はどこへ…?

広家の悲壮な覚悟はさすがに家康にも通じたのか、広家に与えられるはずだった周防・長門は輝元に与えられることとなり、何とか毛利家は存続できるようになったのでした。

とはいっても、今までは112万石もあった領地が、一気に30万石にまで減ってしまったのですから、これはかなりの痛手だったでしょうね。

その後の毛利家と広家

その後の毛利家と広家

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こんな経緯もあったため、広家を良く思わない者も毛利家内にはいたようです。
そのため、広家は輝元が周防・長門に移封されると、毛利家の政治から身を引いたんですよ。

一方、家臣団の中心となったのは、広家に出陣を阻まれた毛利秀元でした。

そして、慶長19(1614)年の大坂冬の陣の際、輝元と後継ぎの秀就(ひでなり)、そして秀元がこっそり家臣のひとりを変名させ、豊臣方に軍資金や兵糧を持って行かせるという事態が起きたんです。
この人たち、懲りてないですよ。
しかもこのことは、広家ら重臣にはまったく相談はなかったというんです。

これには、広家は激怒しました。
今までこれだけ尽くしてきたというのに、相談のひとつもないとは…。
そして彼は隠居し、息子の広正(ひろまさ)に家督を譲ったのです。

それから9年後の寛永2(1625)年、広家は65歳の生涯を閉じたのでした。

広家の選択が明治維新での長州藩の活躍を生んだ?

広家の死後、当主・秀就と秀元とが権力を巡って対立し、寛永8(1631)年に秀元は失脚します。
その代わりに毛利の中枢に座ったのは、広家の息子・広正でした。

毛利家のために、毛利の当主を欺いてまで、自分の意思を貫いた吉川広家。

しかし、毛利家は領地を減らしながらも存続し、やがては長州藩として幕末に徳川家の江戸幕府を打倒することになるんですよね。
そして明治政府の重鎮として、近代日本の礎となっていくわけです。
広家の選択は、間違っていなかったということになるのではないでしょうか?

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