戦国時代のハイスペック男子「宇喜多秀家」が八丈島で迎えた最期

戦国時代、中国地方に拠点を構えた宇喜多氏の最後の全盛期に当主となったのが宇喜多秀家(うきたひでいえ)です。豊臣秀吉にはとりわけ気に入られ、幼い頃から可愛がられていました。しかも成長すると結構な美男子、そして身長も当時としてはかなり高い170㎝と、実にハイスペック男子だったんです。しかし、その最期はかつての本拠地から遠く離れた八丈島で迎えることになりました。いったい、彼に何があったのでしょうか?栄光と転落を知った男・宇喜多秀家の一生を、これからご紹介したいと思います。

「あの」宇喜多直家の息子として生まれる

「あの」宇喜多直家の息子として生まれる

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宇喜多秀家は、元亀3(1572)年に備前(びぜん/岡山県東南部、香川県小豆島など)の戦国大名・宇喜多直家の息子として生まれました。

父・直家は謀略家として有名な武将。
自分の舅や、娘を嫁がせた相手などなど、とにかく策謀を巡らせた挙句に暗殺しています。
彼の実の弟ですら、呼び出しの際には鎖帷子を用意していったとかいう話まであるくらいです。

とはいっても有能な武将だったことは事実で、下剋上を成し遂げた上でその地位を勝ち取ったんですよ。

そんなちょっとコワ~い人物の息子として生まれてきた秀家ですが、彼自身は至ってお坊ちゃん育ちでした。
しかし、10歳の時に父を失い、早くも家督を継ぐことになるんです。

若を守らねば!周りの手厚いサポート

若を守らねば!周りの手厚いサポート

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父・直家の時代に、宇喜多家は中国地方最大勢力の毛利氏から織田信長へと従属替えをしていました。

この時、信長の部下だった豊臣秀吉(当時はまだ羽柴)が中国攻めを任されており、宇喜多家はそこに参加しています。
とはいっても秀家はまだ幼いので、叔父の宇喜多忠家や重臣たちが中心となって出兵していました。

中国攻めでは、毛利方の武将が守る備中高松城攻めに加わり、そこを落とすと宇喜多家重臣の花房正成(はなぶさまさなり)が入城しています。
この間に秀吉が京都まで取って返し、明智光秀を倒して信長の仇をうつわけですね。

信長が倒れ、秀吉が実権を握るという時代の大きな転換点にあって、宇喜多家が存続することができたのは、ひとえに幼い秀家を支えた重臣たちの存在が大きかったんです。
きっと皆、「先代の残した大事な若を守らねば!」という思いがあったんでしょうね。
父の直家は暗殺ばかりしていた印象が強いですが、ずっと仕えてきた家臣のことは大事にする人物でしたから。

秀吉のお気に入りとなる

秀吉のお気に入りとなる

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秀家は秀吉のお気に入りだったようで、元服した際に「秀」の字をもらったので「秀家」という名になったんですよ。
しかも秀吉の猶子(ゆうし/家督・財産相続が目的ではない養子のようなもの)となり、正室には秀吉の親友・前田利家(まえだとしいえ)の娘にしてこれまた秀吉の養女となった豪姫(ごうひめ)を迎えています。
どれだけ気に入られているか、これだけでもわかりますよね。

それに加えて、秀吉が実権を握った後、宇喜多家の領地は備中東部(岡山県)から備前、美作(みまさか/岡山県東北部)にまで広がり、57万4千石の大大名となります。

この地域は、中国地方にいまだ勢力を持つ毛利家と秀吉のいる大坂近辺との間に当たります。
つまり、秀家は毛利家の監視役でもあったわけですね。
信頼されまくりです。

戦に次ぐ戦、華麗なる戦歴

戦に次ぐ戦、華麗なる戦歴

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偉大なる庇護者のもと、秀家(と有能な家臣団)は数々の戦に参戦しました。

天正12(1584)年には徳川家康との小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いに参戦し、秀家は秀吉の本拠地・大坂城の守りを任されます。
当時、鉄砲を使い信長まで苦しめた雜賀衆(さいかしゅう)を退けるという大功を挙げたんですよ。
とはいってもまだ秀家はこの時13歳、家臣団の力も大きかったとは思いますが…。

その後も毎年のように大きな戦に出兵しており、雜賀衆相手の紀州征伐、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)相手の四国征伐、そして島津氏に対する九州征伐と、秀吉の行くところすべて秀家も同行、のような感じで参戦しています。
おそらく、このような秀吉の天下取りの手足となって戦うことで、秀家も武将として成長していったのでしょうね。

天正15(1587)年には豊臣姓と羽柴姓を秀吉から与えられています。
豊臣姓を賜るというのは、大抵の場合、養子か秀吉が気に入った相手なので、外様の秀家としてはもう破格中破格の高待遇だったということなんですよ。

朝鮮出兵では堂々の大将ぶり

朝鮮出兵では堂々の大将ぶり

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文禄元(1592)年からの朝鮮出兵第一弾、文禄の役では、秀家はなんと21歳にして大将に任ぜられています。
そして李氏朝鮮の都・漢城(今のソウル)に入城し、激戦となった碧蹄館(へきていかん)の戦いでは、知将・小早川隆景(こばやかわたかかげ)や名将・立花宗茂(たちばなむねしげ)らと共に戦い、激戦を制しています。
彼らのような優れた武将の戦いぶりを目にしたのは、秀家にとっては素晴らしい経験だったはず。

また、第二弾の慶長の役でも監軍(軍監・目付/武将たちの戦いぶりを観察・記録し、論功行賞の参考にする)を任されています。

そして帰国後の慶長3(1598)年には、秀吉からの指名で五大老のひとりに選ばれています。
五大老とは、秀吉亡き後、後継者の幼い秀頼を支える役割を求められており、つまりは内閣に名を連ねたようなものです。
でもまだこの時の秀家は27歳。
そう考えると戦国時代ってすごいなと思いませんか?

漆黒の城・岡山城を建設

漆黒の城・岡山城を建設

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57万4千石の領地を得た秀家は、それにふさわしい城をつくるべく、父が残した石山城の改築に天正18(1590)年から着手しました。

石山城付近には、石山城がある「石山」、「岡山」、「天神山」という3つの丘がありました。
そして秀家が選んだのが「岡山」だったんです。
そこに城を建て、近くにあった石山城を取り込んででき上がったのが、岡山城なんですよ。
本丸を囲むように幾つもの区画が重なる近世城郭の体裁ですが、これには秀吉の影響や指導があったようです。

岡山城は現在も健在。
外見が黒く見えるので、別名「烏城(うじょう)」とも呼ばれています。

ちなみに、お隣の兵庫県にある姫路城は真っ白な壁が印象的ですよね。
こちらは「白鷺城(しらさぎじょう)」という別名があります。

こうした城を建設する間にも、秀家は城下町の整備にも尽力しました。
それが岡山の発展のきっかけとなったわけです。

家内が大混乱!「宇喜多騒動」

家内が大混乱!「宇喜多騒動」

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秀吉が亡くなった後、関ヶ原の戦いの前年に当たる慶長4(1599)年、宇喜多家にひと騒動が起こります。
これが「宇喜多騒動」です。

秀家の正室・豪姫は前田家から嫁入りしたわけですが、彼女に付いてきた旧前田家臣もいました。
その中の中村次郎兵衛(なかむらじろべえ)を秀家が重用したため、先代以来の重臣たちは反発したんですね。
中でも戸川達安(とがわみちやす)らは次郎兵衛の排除を秀家に迫ったんですが、秀家は拒否したんです。
そして当の次郎兵衛は大坂の前田屋敷に逃げ込み、宇喜多屋敷には戸川らが立て籠もってしまったんですよ。
しかも秀家は、戸川らを暗殺しようとしますが、彼の従兄弟・宇喜多詮家(あきいえ/後の坂崎直盛)が彼らをかくまうという混乱ぶりでした。

ついに徳川家康が調停に乗り出す

ついに徳川家康が調停に乗り出す

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宇喜多騒動の原因は、はっきりとはわかっていません。

しかし、要因として考えられることはあるようで、キリシタンだった豪姫の影響を受けた秀家が家臣たちに改宗を迫ったという説もあります。

とにかく事態の収拾を…と動いたのが、五大老筆頭・徳川家康でした。

最初、彼は部下に調停を命じたのですが、これが全然進まないため、怒ってその役をクビにして自らが出てきたんですね。

その結果、戸川ら譜代の重臣たちは他家の預かりとなり、秀吉の中国攻めの時に活躍した花房正成などに至っては宇喜多家を出奔してしまいました。

こうして譜代の家臣の多くが宇喜多家を去り、秀家自身にとっても宇喜多家にとっても非常なマイナスとなってしまったんです。

しかも、戸川や花房らは後に徳川家臣になってしまうという…。
家康に懐柔された感も否めませんよね。

秀家、戦はできても家中を治める人心掌握の点においては、ちょっと経験不足だったのかもしれません。
30そこそこですからね。
そこが、父の直家とは違ったんです。

関ヶ原の戦いでの秀家

関ヶ原の戦いでの秀家

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宇喜多家が大騒動となった後のこと。
こちらの方が皆さんもお馴染みかもしれませんが、豊臣家中では官僚タイプの文治(ぶんち)派と武闘派の武断(ぶだん)派が対立していました。
そして、文治派の筆頭・石田三成を武断派の武将たちが襲撃したんです。

実は秀家、この時三成の救出に当たっているんですが、その前に自分の家をどうにかして欲しいと言いたいですね。

その後、家康が東北の上杉征伐に向かったのを契機に、三成が毛利輝元(もうりてるもと)を担いで挙兵することになるんです。
秀家は豊臣家との関わりが深いので、もちろん、そちら側(西軍)に付き、副大将となりました。

前哨戦となった伏見城の戦いでは総大将として勝利を収めましたが、本戦の結果はというと…そう、小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りによって西軍は敗戦してしまったんです。
秀家は1万7千という西軍でも最大兵力を率いていましたが、混乱した戦況をどうすることもできませんでした。

とにかく逃げる、逃げる、逃げる

とにかく逃げる、逃げる、逃げる

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大半の武将が戦死したり斬首されたりする中、秀家はとにかく逃げまくりました。

最初は山中に逃げ込みます。
ふつうならここで落ち武者狩りに遭って殺されるのがオチなんですが、なぜかその落ち武者狩りの相手に同情されて40日もかくまってもらいます。

そして京都に潜伏していたところ、徳川方に見つかりますが逃走に成功。
そして、西軍だった島津義弘(しまづよしひろ)を頼って、なんと薩摩(鹿児島県)まで落ち延びました。

しかし、それなりの身分の人が暮らしていれば、どんなにひっそりしようと思っても噂になるもの。
薩摩でも「島津家が秀家をかくまっているらしい」と噂がどんどん広がってしまい、島津家でも困り果て、ついに家康へと秀家は引き渡されたのでした。
これが慶長3(1603)年のこと、関ヶ原の戦いから3年も経っていました。
よく逃げましたよね。
そして、これだけかくまってもらえるなんて、どれだけ秀家は人間的に魅力的だったのかなと思ってしまいます。

流刑に…行き先はなんと八丈島!

流刑に…行き先はなんと八丈島!

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本来なら、敗軍の副大将まで務めた秀家は即死罪ですが、島津家と妻・豪姫の実家である前田家からの嘆願によって、彼は死罪を免れることができました。
島津・前田家は共に大勢力でしたから、徳川家もそれを無視することはできなかったのでしょう。

とはいえ重罪人であることには変わりないので、家康のお膝元である駿河(静岡県)にいったん幽閉された後、慶長11(1606)年に八丈島への流刑が決まりました。
実は秀家が、八丈島へ公式に流刑となった最初の人物なんだそうですよ。
流刑なので、名誉ではないでしょうが…。

そして、秀家は2人の息子とわずかな側近たちと共に、本州から300㎞近く離れた八丈島へと流されたのでした。
秀家35歳、これから先の年月をずっと、その地で過ごすことになったのです。

八丈島での厳しい暮らし

八丈島での厳しい暮らし

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今では八丈島へもそれなりの交通手段で行き来できるようになりましたが、当時は心もとない木造船のみ。
行き着くだけでいったいどれほどかかったのかと思います。

島での暮らしはやはり大変だったようで、こんな逸話が残されていますよ。

ある時、かつては秀吉の子飼いの大名であり、後に徳川家に仕えるようになった福島正則(ふくしままさのり)から徳川将軍家へ献上する酒を積んだ船が、悪天候で八丈島に流れ着いた時のこと。
老人が港で手を振っており、船が着くとそばにやって来て、自分は宇喜多秀家だが、福島家の旗を見て懐かしくなって思わず手を振ってしまったと涙ぐんだそうです。
福島家の家来たちも哀れに思い、積んでいた酒を恵んでやりました。
将軍家に献上する品を他の者にあげてしまっては怒られて当然なのですが、後に正則にそれを報告すると、よくやったと誉められたんだそうですよ。

また、八丈島の代官が秀家を宴席に招いた時のことです。

秀家は喜んでおにぎりをひとつ平らげると、残りの2つを風呂敷に包み始めました。
代官がなぜかと問うと、「島では満足に米を食べることもできないので、持ち帰って家人にやるのです」との答え。
そこで代官が後で米俵を贈ってやると、お礼にと宇喜多家に伝わる盆をもらったということでした。

元和2(1616)年には刑を解かれたとも言われています。
そして妻の実家・前田家から、10万石を分けるので大名復帰してはどうかと提案があったのですが、秀家はそれを断り島に留まり、明暦元(1655)年、84歳で亡くなりました。

人生の半分以上を離島で…

八丈島での暮らしは彼の人生の半分以上、約50年を占めました。
彼が亡くなった時はなんと江戸幕府4代将軍・徳川家綱(いえつな)の治世になっていたんですよ。

また、妻の豪姫とは30年以上離れ離れとなってしまいましたが、八丈島には2人が並んだ銅像が建てられ、ようやくここで再会を果たせたわけです。
豪姫や前田家、そして宇喜多家を出奔した花房正成らは、細々ながら秀家に援助を続けていたんですって。

そして、宇喜多家は八丈島で「浮田」姓を名乗るようになり、現在でも島に受け継がれています。
もし知り合いなどに「浮田」さんがいたら、秀家の末裔かもしれませんよ。

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