ド派手な軍装で汚名返上の大活躍!「鈴鳴り武者」仙石秀久の波乱万丈ストーリー

歴史マンガ好きの方なら「SENGOKU」の名でおなじみかもしれませんが、そうでない方はどうでしょう?仙石秀久(せんごくひでひさ)という武将をご存知でしょうか。この人ほどアップダウンの激しい人生を送った戦国武将は、なかなかいないと思いますよ。そして、数々の伝説や逸話の数々に意外と名前を残しているという、実に興味をそそられる人物なんです。今回はそんな仙石秀久の波乱万丈の人生をご紹介したいと思います。実は、蕎麦界にも多大なる貢献をしていたりして…!?

いきなり主家が滅亡…

いきなり主家が滅亡…

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仙石秀久は、天文21(1552)年に美濃(岐阜県)の土豪・仙石久盛(せんごくひさもり)の四男として生まれたと言われています。
四男なので家督相続という期待もなく、他家に養子に出されていました。

ところが、戦で兄たちが次々と戦死し、跡目が彼に回ってきたんです。
たまにいるんですよね、このパターン。
今川義元なんかもそうなんですよ。

仙石家は美濃を支配していた斎藤家に仕えていました。
織田信長の舅・道三の、あの斎藤家です。
秀久は道三の孫に当たる斎藤龍興(さいとうたつおき)に仕えていましたが、永禄10(1567)年、龍興は稲葉山城の戦いで信長に敗れて逃亡(後に戦死)してしまいます。
また秀久は当時16歳くらいでしょうか。
途方に暮れたはずです。

しかし、意外にも信長が秀久を召し抱えてくれました。
その理由が、「風貌が勇ましい」というんですから、少年ながらいかつい顔つきをしていたんでしょうね。

秀吉と共に出世街道を驀進

秀吉と共に出世街道を驀進

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信長は、秀久をある部下に預けます。
それが、当時まだ木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)を名乗っていた豊臣秀吉なんですよ。
こうして、秀久は秀吉の馬廻(うままわり/大将の馬の回りで護衛を務める)となり、秀吉の家臣の中でも最古参の存在となっていくんです。

秀吉に伴われ、秀久は数々の戦いを経験しました。
それは、秀吉が出世していくのと同様、秀久の出世街道でもあったんです。

元亀元(1570)年、信長と浅井長政(あさいながまさ)・朝倉義景(あさくらよしかげ)連合軍が戦った姉川の戦いで功績を挙げると、ついに秀久は一千石を与えられ、一領主となりました。

そして、秀吉と共に中国地方平定に向かい、秀久自身は淡路島遠征を成功させたんです。
武将としては今のところ文句ないキャリアですよ。

中国攻めの最中の天正10(1582)年、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、秀吉は軍をすぐさま返して光秀を破ります。
この時、秀久は光秀に加勢した豪族を討伐しています。

失敗をバネに、ついに大名となる

失敗をバネに、ついに大名となる

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その後、秀吉は同じく織田家の重臣・柴田勝家(しばたかついえ)と対立、天正13(1585)年に賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いが勃発します。

この時、秀久は淡路から四国へ渡り、柴田側についた四国の戦国武将・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)方と戦うことになりました。

最初は優勢でしたが、長宗我部の援軍が現れたために秀久は敗走、拠点の城も落とされてしまいます。

しかもこの時、秀久は幟(のぼり)を取られるという大失態をしたと伝わっています。

幟とはのぼり旗のことで、戦国時代は自分の存在を示すものであり、敵陣を奪った時もそれを立てて名誉を得るという大事なものだったんです。

それを敵に奪われてしまうということは、まあ、「大」失態だったんですよ。

そんなこともありましたが、秀久は深追いを避け、勝家を破った秀吉が戻って来るまで淡路や小豆島をキープするのにつとめ、長宗我部勢を牽制する役割を果たしました。

こうした功績が認められ、同年、秀久は淡路5万石の大名となったんです。

秀吉の家臣の中では、最速ペースでの出世でした。
それだけ武勇があったということですね。
少しの失態には目をつぶる、そんな寛大さは秀吉も当然持ち合わせていました。

その後の秀吉による四国攻めでは、前回の借りを返す働きを見せ、目覚ましい活躍を見せています。

安珍・清姫のあの鐘と秀久の関係

秀吉は四国攻めの他にも各地に討伐に行っていますが、紀州(和歌山県)攻めの際、山林に放っておかれた安珍・清姫の鐘を見つけます。

安珍・清姫の話をご存知でしょうか。

僧・安珍に恋をした清姫が彼の裏切りに遭い、激怒のあまり大蛇に姿を変え、安珍が逃げ込んだ道成寺の鐘に巻きつき、鐘ごと彼を焼き殺したという話です。
歌舞伎や能の演目にもなっていますね。

秀久はその鐘を陣鐘(じんしょう/戦で鳴らす鐘)として使った後、供養のためにと京都の妙満寺(みょうまんじ)へ納めました。
呪いによって音が狂っていた鐘ですが、和尚の読経によってかつての美しい音を取り戻したということです。

秀久、いい人…!このように、信心深い人でもありました。

九州征伐の先陣を切るも、その内情は…

九州征伐の先陣を切るも、その内情は…

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天正14(1586)年、秀吉は九州の平定に乗り出します。
相手は、薩摩(鹿児島県)から九州を席巻していた島津氏。

秀久は軍監(目付とも。
戦で各武将がどういう働きをしたか記録、戦後の褒賞に関わる)に任命され、先陣隊の長宗我部隊と十河存保(そごうまさやす)らと豊後(大分県)に上陸します。
元々、秀吉の九州征伐は豊後の大友宗麟(おおともそうりん)からの要請があったからなんですよ。

しかし、長宗我部氏と言えば、たった1年前に秀吉に制圧されて従った勢力ですから、士気は低いのも当たり前。

そして大友氏は衰退の真っ最中で、あまり戦力になりません。

こういう兵たちと、秀吉直属の秀久隊がうまくいくわけがないんです。

しかも、秀吉の本隊がまったく来る気配なし。

秀吉は「島津はいずれ士気が落ちる、だから焦らず待っておれ」と秀久に言い含めていたんですが、それでも秀久の焦りはどんどん高まっていきました。

このままでは、勢いに乗った島津軍にやられてしまうかも…!?

焦りに焦った秀久は、ついに秀吉の言いつけを破ることになってしまったんです。

戸次川の戦いにて大敗北

戸次川の戦いにて大敗北

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秀吉本隊の到着を待たずして、秀久は独断で攻勢に出ることを決定しました。
十河存保は賛成したものの、長宗我部元親(もとちか)・信親(のぶちか)父子は大反対。
それでも秀久が実質上は先陣の大将ですから、決定には渋々従いました。

両軍の間には戸次川(へつぎがわ)が流れています。
12月の寒空の下、秀久は渡河作戦に打って出たんですよ。

秀久率いる豊臣方は川を渡り、一気に攻勢をかけました。
最初は彼らが優勢でしたが、対する島津軍を指揮するのが島津家久(しまづいえひさ)だったのが運の尽き。

家久は島津家四兄弟の末弟ですが、名将として知られた存在であり、彼に統率された兵たちは勇猛そのものだったんです。

勢いに任せて突出した秀久は押されて退いたはずの島津軍に取り囲まれ、壊滅状態に陥ってしまいました。
この混乱の中、長宗我部信親と十河存保は戦死、長宗我部元親は本拠地・四国の伊予(愛媛県)まで敗走しました。

秀久はと言えば、軍監の役割を果たすどころか、なんと自分の領地の讃岐(香川県)まで退却してしまったんですよ。
「三国一の臆病者」とまで言われてしまってます。

上司の言いつけを破った上に勝手に帰宅…それって、現代でも許されないですよね。

当然、秀久には相当の仕置が待っていました。

秀吉の怒りを買い、領地没収

秀吉の怒りを買い、領地没収

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戸次川での大敗の報せに接し、秀久が自国にまで逃げ帰ったことを知った秀吉は大激怒。

「あれほど焦ってはいけないと言いつけたのに、豊後すら守らずに逃走とは何事か!」

天下を取れるほどの男ですから、ちゃんとした考えがあって、秀久に待機を命じたはずなんですよね。
気心知れた部下だからこそ自分の考えを分かっていてくれると思っていたのに、それを裏切られたことで秀吉の怒りは限界点を超えてしまったのでしょう。

怒りの収まらない秀吉は、秀久の領地を没収し、高野山へ追放との沙汰を下したんです。

5万石の大名から、浪人への転落。

頂点から一気にどん底へ追い込まれてしまったのでした。

ちなみに、長宗我部家も緩やかに坂を転がり始めます。

後継ぎの信親を失った元親は、自暴自棄となり暴君化、かつての聡明さをまったく失ってしまったんですよ。

また、十河家も存保が戦死したことで領地を没収されてしまいました。

判断ひとつでこれだけの人たちの運命が変わるとは…。

もう少しだけ、秀久が耐えることができたなら、と思ってしまいますね。
しかし、こればかりは後悔してもどうしようもないことでした。

鈴鳴り武者・仙石秀久見参!

鈴鳴り武者・仙石秀久見参!

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高野山で謹慎の後、秀久は浪人生活を送り、九州征伐から4年が経ちました。

その頃、秀吉は天下統一の総仕上げとして、関東の北条氏を攻め始めるところでした(小田原征伐)。

秀久の耳にもそれは届いたはずです。

そして彼は三男・忠政や旧臣20人と共に、小田原へ駆けつけたんですよ。
この時、彼らが参陣するのには徳川家康の取り成しがあったそうです。

秀久は、ここぞとばかりにド派手な格好をして臨みました。

粕尾(白い房がついている)の兜に、白絹に赤く日の丸を染め抜いた陣羽織は、戦場でもひときわ目立ちます。

それだけでなく、彼は陣羽織一面に鈴を縫い付けていたそうですよ。
そのため、彼が動けばチリンチリンと鈴が鳴り、どこにいてもわかるんです。
派手な出でたちは、敵兵を我が身に引きつけ、死をもいとわず戦うという秀久の覚悟の現れでした。
そんな彼は、いつしか「鈴鳴り武者」と呼ばれるようになったんです。

また、彼の馬印(うまじるし/戦場での自分の目印)も一種異様なものでした。

紺地に白で「無」と一文字。

まさに、ゼロ(無)からの再出発の決意を表していたんじゃないでしょうか。

活躍ぶりは地名にまで?大名復帰を果たす

活躍ぶりは地名にまで?大名復帰を果たす

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秀久はこの小田原攻めで、獅子奮迅の活躍をしました。
自ら槍をふるって敵を討ち取っただけでなく、先陣を切って敵中に突っ込んだり、虎口(ここう/城での最重要出入口)を占拠したりと、八面六臂という表現が似合う戦いぶりだったんですよ。

実は、彼の活躍が小田原に程近い箱根の地名「仙石原(せんごくはら/せんごくばら)」になったとも言われているんです。
なんだか、これを信じたくなりますよね。
秀久を応援したくなっちゃいますもの。

旧臣の勇猛さを見た秀吉は、もちろん彼を許しました。
それだけでなく、激賞と共に自分が愛用した金の団扇を与えたんです。
とても名誉なことですよね。

そして戦後、秀久には信濃小諸(長野県小諸市)5万石が与えられ、彼は見事に大名復帰を果たしたのでした。

秀吉に改易(かいえき/領地没収もしくは領地替え、時には武士の身分も剥奪)された大名で、こうして復帰できたのは本当に数少ないんですよ。

汚名返上後の秀久

汚名返上後の秀久

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秀吉の家臣に復帰した秀久は、再び側近となり、領地よりも秀吉のいる京都・大坂にいることが多かったようです。
この時に伏見城築城などに関わり、大泥棒・石川五右衛門(いしかわごえもん)を捕らえたという逸話まであるんですよ。
そして、五右衛門が狙っていた秘宝「千鳥の香炉」を褒美として与えられたとか。

ただ、慶長3(1598)年に秀吉が亡くなると、秀久は徳川家康に接近していきます。
小田原攻めでの恩もありましたしね。

特に、家康の息子・秀忠(ひでただ)とは親密な関係を築いていきます。

慶長5(1600)年、家康が東北の上杉氏を攻めに行った隙に石田三成が挙兵したため、家康は関ヶ原へ向けて転進します。
その際、秀忠は信濃を通過し、真田昌幸・信繁父子との上田合戦に臨みましたが、苦戦したため関ヶ原に遅参してしまいました。

その時、怒る家康に対して秀久が取り成しをしてあげたんですよ。
これが秀忠にとっては大きな恩と感じられたようで、後に将軍となってからも秀忠は直々に秀久邸を訪問したり、秀久が領地から江戸に来る時は途中まで迎えをよこしたりと、秀久を譜代(昔から仕えている家臣)と同じ待遇で扱ったんです。

江戸時代を迎え、秀久は信濃小諸藩主として内政に力を尽くします。
そして、慶長19(1614)年、かつての主・豊臣氏の滅亡を見ることなく、63歳で亡くなりました。

信州(小諸)そばの発祥に関わっていた?

信州(小諸)そばの発祥に関わっていた?

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信濃小諸時代、秀久はなんとか国力を上げようと考えた末、特産品である「そば」に目を付けました。
当時は「そばがき」として、そば粉をまるめたものが主流だったんですが、これを細長く切ってみることにしたんです。
これが「そば切り」で、現在のそばの原型となりました。

秀久はそば切りに自ら参加し、領民との交流も持っていたそうですよ。
そのため、「仙石さん」と慕われたそうです。

後、仙石氏は信濃小諸藩から但馬出石(たじまいずし/兵庫県豊岡市)藩へ国替えとなりましたが、その際、小諸のそば職人もついていったそうなんですよ。
そこで誕生したのが「出石皿そば」。
出石城跡にある感応殿(かんのうでん)には秀久が祀られ、「そば神社」とも呼ばれているそうですよ。

現在の信州そば、出石皿そばの陰には、秀久の存在があったんですね。
興味深い!

栄光も挫折も知った彼の物語は、誰をも魅了する

秀吉最古参の家臣として最速ペースで大名となったものの、わずか4年で無一文の浪人にまで落ちた秀久。
しかし、そこで自暴自棄にならずに、汚名返上の機会をうかがい続けた忍耐力は素晴らしいと思います(その忍耐力を九州征伐で生かせていれば…と思いますが)。
そして見事に大名復帰を果たし、やがては徳川方で重用されるようになるとは、なんてサクセスストーリーなんでしょう。
そんな彼に魅了された人が多かったことは、逸話の多さからも証明されていると思います。
ぜひ、信濃そばや出石皿そばを食べに行ってみたいものですね。
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