静岡県は名所・旧跡の宝庫!オススメの歴史的スポットは?

海あり山あり、温暖な気候と豊かな自然に恵まれた静岡県。原始より人の暮らしがあった痕跡も多く、遺跡や旧跡が県内の至るところに点在。戦国武将の拠点となった城や、東海道の宿場町として栄えた町も多く、歴史的スポット巡りには事欠きません。歴史散策としても観光でも楽しめる史跡名所の数々、今回はその中でも特にお薦めのスポットへご案内いたします。

古代の歴史に触れる場所へ~静岡の遺跡・古墳

横穴が連なる不思議な遺跡「柏谷横穴群」

横穴が連なる不思議な遺跡「柏谷横穴群」

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伊豆半島の付け根、熱海と沼津の中間あたりの函南町という町に、ちょっと変わった遺跡があります。
柏谷横穴群(かしやよこあなぐん)という名のその遺跡は、文字通り小高い丘の斜面に掘られた横穴。
別名「柏谷の百穴(ひゃっけつ)」とも呼ばれています。

閑静な住宅街の中にある公園の一角に位置する柏谷横穴群。
6世紀から8世紀頃、古墳時代に造られた横穴式のお墓で、東西に約600m、南北に約250mの範囲に300ほどあると言われています。
正確な数はわかっていないそうなのですが、静岡県内では間違いなく最大規模。
中からは、土器や装飾品、武具などの副葬品も数多く出土していて、後期のものの中には火葬骨も見られるのだそうです。

地元の人々が利用する、野球場や芝生広場のある広い公園の中にあるため、貴重な遺構だと知らずに眺めている人も多いのだとか。
のどかな広場の先にぼこぼことあいた横穴は何ともミステリアスで、歴史や遺跡に詳しくない人でも惹きつけられること間違いなし。
横穴墓の一部は国の史跡(史跡名勝天然記念物)に指定されています。

柏谷公園の中には、横穴墓だけでなく、復元された高床式倉庫や弥生時代の住居跡も。
古代史を学べる公園として、多くの人々に愛されています。

超貴重!縄文時代の大規模貝塚「蜆塚遺跡」

超貴重!縄文時代の大規模貝塚「蜆塚遺跡」

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浜松市の中心地にある緑豊かな公園。
木漏れ日に目を細めながら散策を楽しんでいると、芝生広場の先に突然、竪穴式住居が!幹線道路沿いののどかな公園の中に広がる、古代にタイムスリップしたような光景の正体は、蜆塚遺跡(しじみづかいせき)という遺跡。
縄文時代後期(約3~4千年前)頃の集落跡と考えられており、国の史跡に指定されています。

この場所では18世紀初頭、つまり江戸時代から、土の中からシジミらしき貝殻が発見されることがあり、このことが蜆塚の地名にも。
この頃から、この場所に古代の集落跡らしきものがあるのでは?と囁かれていたのだそうです。
明治に入ってから本格的な調査が行われ、貝塚の存在が明らかになるとともに土器や石器などが多数出土。
住居跡や墓地、装飾品を身に着けた人骨なども見つかり、これらは縄文時代後期のものと発表されました。

調査が進むにつれ、蜆塚の遺跡の状態、特に貝塚の保存状態が良好であることがわかり、本格的な調査が進められていきます。
貝塚は何層にも堆積していて、その層の厚さが1.5mにもなる個所も。
貝類だけでなく、魚の骨なども発見されているそうで、水産資源が豊富であったことが伺えます。

蜆塚遺跡が国の史跡に指定されたのは1959年。
そのすぐ後に、遺跡見学のための施設や環境が整備され、周囲は史跡公園として一般に解放されるようになりました。
現在では芝生広場に5棟の竪穴式住居が復元され、公園散策を楽しみながら縄文時代後期の様子を学ぶことができるようになっています。

日本で”遺跡”と言えばまずココでしょう!「登呂遺跡」

日本で”遺跡”と言えばまずココでしょう!「登呂遺跡」

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以前は社会科の教科書で「一学期の一番最初に習う重要なこと」だったと言っても過言ではないでしょう。
静岡県静岡市にある、弥生時代の住居や水田跡などの遺跡、登呂遺跡(とろいせき)も、外せない歴史的スポットです。

1943年(昭和18年)、水田を工業用地として整備している最中に偶然発見されたもので、戦後すぐ、1947年(昭和22年)に日本で初めての本格的な発掘調査が行われた場所でもある登呂遺跡。
8万平方メートルという広大な土地に、水田や井戸の跡、高床式倉庫や竪穴式住居跡が次々と見つかり、農具や火おこしの道具など生活に使われていたと思われるものが数多く出土しました。
1952年(昭和27年)には国の史跡に指定されています。
登呂遺跡は2000年前の人々の生活や歴史を知ることができる遺跡であるとともに、日本における考古学・発掘調査の歴史そのものである、と言ってもいいのかもしれません。

遺跡は「登呂公園」として整備され、敷地内には弥生時代の高床式倉庫や竪穴式住居が復元されていて、その規模は日本有数。
併設されている登呂博物館では遺跡からの出土品が数多く展示されていて、弥生時代の様子が手に取るようにわかります。

時代が進み、日本各地で貴重な古代遺跡が次々と発見され、登呂遺跡より佐賀県の吉野ヶ里や青森県の三内丸山遺跡のほうが、教科書に載る確率が高くなっているようです。
しかし、登呂遺跡の軌跡なくして日本の考古学の歴史は語れないでしょう。
時代が変わっても、登呂遺跡が重要な遺跡であることに変わりはありません。
肩ひじ張らずのんびり学べる登呂遺跡。
公園内は綺麗に整備されていて、屋外で復元建物をぶらぶら見てまわるだけでも楽しいです。

静岡と言ったらやっぱりお城!是非行ってみたい名城3選

山内一豊が築き上げた東海の名城「掛川城」

山内一豊が築き上げた東海の名城「掛川城」

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静岡と言えば、今も昔も東と西を繋ぐ地域。
戦国時代にはしばしば戦の舞台にもなり、その備えとして多くの城が築かれました。
小規模な山城などを含めると県内には140近い城が確認されています。
静岡はお城が多い県でもあるのです。

静岡県掛川市、かつて遠江国(とおとうみのくに)と呼ばれていた地域は東海道の道筋ということもあり、室町・戦国時代にはしばしば戦の舞台となりました。
そんな掛川に、駿府の今川氏の家臣であった朝比奈泰煕が城を築き始めたのが1469年。
20年近くかけて築城したと伝わっていますが、その後戦国時代には武田、徳川、今川の間でこの城の奪い合いが続きました。

1590年(天正18年)、天下統一に躍進する豊臣秀吉のもとで武功を重ねた山内一豊(やまうちかつとよ)が掛川に領地を与えられ、掛川城に入城します。
一豊は掛川城の改築や城下町の整備、大井川の治水などに精力的に動き、掛川で大名として成長。
現在残っている掛川城の城郭の基本構造は一豊によって築かれたものと考えられています。

関ヶ原の戦いの後、一豊は土佐を治めることとなり高知城に移動。
その後の掛川城は、城主が何度も入れ替わり、1854年(安政元年)に起きた地震災害で天守閣を始めとする建物のほとんどが失われてしまいます。
そして時代は明治へ。
掛川城の天守閣が再建されることはありませんでした。

現在見られる天守が再建されたのは1994年(平成6年)のこと。
地上2階、日本初の木造復元天守は和釘や漆喰が使われ、山内一豊の時代の姿に近いと考えらえています。
質実剛健、華美になり過ぎない美しさを持つ掛川城は、掛川のシンボルとして今日も静かに街を見守り続けています。

秀吉軍に落とされた北条氏の山城「山中城跡」

秀吉軍に落とされた北条氏の山城「山中城跡」

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戦国時代ファンなら「一度は行ってみたい」と感じるはず。
静岡県にはそんなお城があります。
伊豆半島の付け根部分、静岡県三島市にある山中城。
天守閣を持たない、いわゆる”山城”で、一見、緑生い茂る単なる丘に見えますが、実は、豊臣秀吉の小田原攻めの際にわずか半日で撃ち落とされ非業の最期を遂げた城なのです。

もともとは小田原城を守るために築かれた支城で、1558年~1570年にかけて、北条氏3代当主・北条氏康によって築かれました。
北条氏は小田原城の守りを固めるため、地形を利用した山城をたくさん築いていたのです。

4代当主・北条氏政の時代になると、豊臣秀吉との関係が悪化。
氏政は周囲の山城の強化を図り防備を固めます。
しかし豊臣軍の進攻は素早く、結局、備えが間に合わないまま攻撃を受けることに。
豊臣軍7万の猛攻の前に山中城はあえなく落城。
戦闘はかなり激化したようで、豊臣側にもかなりのダメージがありましたが、北条の武将の多くが命を落としました。

山中城は石垣を組まず、土だけで築かれているという、全国的にも珍しい形状の山城。
「障子掘」や「畝掘」といった北条氏の築城技術の数々を見ることができる、貴重な遺構として注目されているのです。

現在では、三島市によって史跡公園として整備され、国の史跡に指定されています。
天守を持たない山城ながら日本100名城にも選ばれた山中城。
山頂からは富士山や駿河湾を眺めることができ、季節の植栽を愛でつつ散策を楽しむ人の姿も多く見られます。

徳川家康が愛した名城「駿府城」

徳川家康が愛した名城「駿府城」

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府中城や静岡城と呼ばれることもありますが、やはり「駿府城」という名が一番しっくりくるような気がします。
若き日の徳川家康が人質時代を過ごし、江戸幕府を開いて将軍職を退いた後に再び戻ってきて修築を行ったという駿府城。
現在は駿府城公園として整備され、観光客のみならず静岡市民の憩いの場にもなっています。

もともとこの地には、室町幕府から駿河の守護に任命された今川氏の館がありました。
幼名・竹千代時代の徳川家康は駿府の今川の館で人質として、6歳から19歳頃まで過ごしています。

時代は移り、戦国の世に入ると、今川氏は武田氏によって駿府を追われ、その武田氏は織田・徳川によって滅亡に追い込まれます。
大名として成長した徳川家康は駿府を治めることになり、1585年(天正13年)、駿府城の築城に着手。
しかしその直後の1590年(天正18年)には豊臣秀吉によって関東を治めるよう申し渡されます。
家康は駿府城を豊臣家臣の中村一氏に明け渡し、東へ移動して江戸の町作りを始めることになるのです。

江戸時代に入り、徳川幕府を作り上げ、将軍職を息子の秀忠に明け渡した後、家康は江戸から駿府に移り、隠居。
1616年(元和2年)に亡くなるまでの間、家康は駿府城で城や町の改修・再建を行いつつ、余生を過ごしたのです。

家康没後は秀忠の第二子・徳川忠長が城主になりますが、忠長没後は特に決まった城主はおらず、1635年(寛永12年)の火事で建物の大半を失った後、他の建物は再建されましたが天守閣だけは再建されず、今日に至ります。

広大な敷地を誇る駿府城公園では、復元された櫓や門を見学することができ、多くの人々で賑わっていますが、やはり天守閣復元を望む声は高いようです。

まだまだあります!静岡の歴史漂う史跡旧跡

現存する日本最古の木造擬洋風校舎「旧見付学校附磐田文庫」

見付学校(みつけがっこう)とは学制公布後の1873年(明治6年)、現在の静岡県磐田市に設けられた学校。
現在では隣接する磐田文庫とあわせて国の史跡に指定されています。

開校後、何度か移転しているそうですが、1875年(明治8年)から1922年(大正11年)まで使われた建物は旧見付学校と呼ばれており、白壁が美しい洋風モダンな独特の建築様式。
別名「五階校舎」とも呼ばれており、現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎として保存されています。

建物内は見学できるようになっており、木の机や椅子などが置かれ、当時の子供たちをかたどった人形で授業風景が再現されていて見ていて楽しい。
教育に関する資料などの展示もあり、明治時代の教育について学ぶことができます。

旧見付学校の北側にあるのが磐田文庫。
総社の神官であった大久保忠尚が1864年(元治元年)に建てた私設図書館で、古典や歴史書など5000冊以上の書物を所蔵。
一般にも開放されていたのだそうです。

学校と文庫の二つの建物が、隣り合わせのまま残っていることが高く評価されて、双方含めて国の史跡に指定されることになりました。
展示品の中には昭和初期の教科書などもあるので、年配の方の中には「懐かしい」と感じるものもあるかもしれません。
是非、ご家族で足を運んでいただきたい、そんなスポットです。

明治日本の産業革命遺産「韮山反射炉」

明治日本の産業革命遺産「韮山反射炉」

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反射炉とは鉄の精錬などに使われる金属融解炉の一種。
伊豆半島北部の街、静岡県伊豆の国市には、韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)と呼ばれる、日本で唯一現存する実用反射炉があります。
反射炉自体、日本では既に、ここと山口県の萩反射炉との2カ所が残るのみということもあり、1922年(大正11年)に国の史跡に指定され、大切に保存されてきました。

1840年(天保11年)、江戸後期の幕府役人で韮山代官を勤めていた江川英龍は、アヘン戦争などの影響で不安定に陥っていた国際情勢に対抗すべく、鉄砲や砲門など武器を鋳造するための設備の建設を決意。
反射炉の建設が始まります。
英龍亡き後は息子の英敏が意思を引き継ぎ、1857年(安政4年)、長い期間を経て反射炉が完成しました。
当初は下田に建設される予定だったそうですが、ペリー来航などの影響で韮山に変更になったのだそうです。

当時は日本中で国防の意識が高まっており、佐賀や薩摩でも数多くの反射炉が建設されましたが、実際に大砲を作った反射炉は少ないのだそうで、そうした意味でも韮山反射炉は貴重な遺構とされています。

現在では、煙突と炉跡が残っており、炉体は伊豆石積み、煙突はレンガ積みの四角形で高さはおよそ16m。
独特の形状で迫力満点。
日本の近代文化の一端を垣間見ることができます。
実際にどのような大砲が作られたかはっきりしてはおらず、現在も調査が行われているそうですが、品川台場用に江戸幕府から発注された大砲のうちのひとつが図面から復元され、敷地内に展示されていて、こちらも見ごたえ抜群です。

現代に於いては、その希少さから萩反射炉と共に九州・山口の近代化産業遺産群の構成資産に。
2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」としてユネスコの世界遺産に登録されたことは記憶に新しいところです。

名前は知っているけど意外と知らない「修禅寺」

名前は知っているけど意外と知らない「修禅寺」

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伊豆の温泉の名所として「修善寺温泉」をご存知の方も多いでしょう。
しかし実際にお寺があるのかどうか知っている人は、意外と少ないのかもしれません。

静岡県伊豆市修善寺。
伊豆半島のほぼ中央部に位置するこの温泉地に、1200年以上の歴史を持つ、伊豆を代表する名刹があります。
正式名称を「福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)」といい、地名の「修善寺」とは異なる「修禅寺」という字が。
名前の由来には諸説あるそうですが、以前は「修善寺」と呼ばれていたものを、鎌倉時代や室町時代に臨済宗・曹洞宗への改宗が行われており、その際に「善」を「禅」に変更したのではないか、とも言われているのだそうです。
それから数百年、修禅寺の名称で定着。
火災や戦乱で幾度となく建物が焼失しましたが、戦国時代に伊豆を治めた北条早雲によって再興。
以後も何度か建物の焼失の憂き目にあいながらも、多くの禅僧を輩出し、大切にされ続けてきました。

現在見ることができる本堂は1883年(明治16年)に再建されたもの。
周囲には温泉旅館が建ち、自然も豊か。
歴史を感じられる名刹ながら、気軽に立ち寄れる場所として、温泉客にも人気があります。
新緑や紅葉の季節の眺めは特にオススメです。

縄文から近代まで・様々な史跡が散在する静岡で歴史三昧の旅!

日本列島のほぼ中心にある静岡県。
温暖で穏やかな気候は1万年以上前から人々の暮らしを育み、あるときは戦乱の舞台として、またあるときは街道の宿場町・交通の要衝として栄えてきました。
そのためか、県内には歴史的に重要な名所・旧跡が数多く存在しています。
古代遺跡もお城も近代産業の遺構も、ひとつ巡ると、他の名所も巡りたくなる、もっと知りたくなる、それほど静岡の歴史的スポットはどれも魅力的。
そんな静岡の名所・旧跡、ぶらりと出かけてみませんか?
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