伏見城の今と昔を辿る。豊臣が築き家康が再興した幻の城

京都市の南部、伏見区に、桃山という地名があります。織田信長が築いた安土城と共に、”安土桃山時代”という名称のもとになったとされる豊臣秀吉の城、伏見城があったとされる場所、桃山。秀吉亡き後、伏見城の戦いで焼失してしまいましたが、豊臣時代の栄華を物語るような、非常に豪華なお城だったのだとか。様々な謎に包まれていた伏見城ですが、近年の調査で様々なことがわかってきています。豊臣秀吉が隠居するために築いたと言われる伏見城。その歴史と成り立ちを辿ってみたいと思います。
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秀吉の隠居屋敷だった?豊臣時代の伏見城

大坂城~聚楽第~指月・秀吉の築城遍歴

伏見城の歴史は、大きく分けると「豊臣秀吉の時代」「徳川家康の時代」の2つに分けることができます。
もともとは豊臣秀吉が築かせた城なのですが、関ヶ原の戦いの後、主を失い廃れてしまった伏見城に家康が足しげく通い、再建に一役買っています。
目まぐるしく変化する戦国時代を駆け抜けた伏見城の歴史、まずは秀吉の時代から紐解いていくことにいたしましょう。
天下統一を成し遂げた秀吉は、関白の位を甥であり養子でもある豊臣秀次に譲り、京都で政庁兼邸宅として使っていた城、聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)を出ると、隠居先として新しい城の建設に乗り出します。
場所は京都の伏見。
平安時代から月の観賞の名所であった指月(しづき)という地域に、秀吉は目をつけていたようです。

当初は城というよりは、秀吉が余生を送るための住まいを建てる予定だったようで、決して華美なものや大がかりなものを作るつもりではなかったと考えられています。
工事は1592年(文禄元年)から始められ、1593年(文禄2年)には人を招くことができる程度には完成していたようです。

隠居館から大規模改修へ・変貌を遂げる指月伏見城

始めは単に居住館としての建物を建てるつもりだった秀吉。
しかし、完成直後、秀吉の周囲でいくつかの変化が生じ、指月の隠居館は大きく改修されることとなります。
要因のひとつが、側室・淀殿との間に産まれた拾丸(後の豊臣秀頼)の存在でした。
秀吉は拾丸の将来を思い、大坂城を拾丸に残すと決めます。
そのため、伏見城を単なる隠居屋敷ではなく、ちゃんとした城に改修しておこうと考えたようです。
拾丸誕生と同じ年、政治的な局面にも動きが。
朝鮮出兵の講和交渉のため、明の使節団が来日することになったのです。
秀吉は日本の力を見せつけるため、伏見城を大きく豪華に改築することを決意します。

このとき、秀吉がどのような改修を行ったのかについては資料乏しく、残念ながらよくわかっていません。
しかし、近年の調査によって、指月の伏見城のものと思われる金箔を施した瓦や、大きな石垣跡などが見つかっており、かなり大規模な、豪華な城に改修したものと考えられています。

伏見城、指月から木幡山へ移る

大坂城、聚楽第と、天下人としての権威を見せつける豪華で巨大な城を築き続けてきた豊臣秀吉。
伏見城も秀吉の新たな力の象徴として完成する予定でしたが、ここで悲劇が起きます。
1596年(慶長元年)、近畿地方を大きな地震が襲ったのです。
慶長伏見地震と呼ばれるこの地震の影響で、改修途中の伏見城の天守は倒壊してしまいます。
このとき秀吉は伏見城にいたのだそうですが、城の下働きの者の多くが命を落とす中、何とか避難することができたのだそうです。

指月から1㎞ほど北東にある、木幡山(こはたやま)に避難した秀吉は、その後すぐに、その木幡山に伏見城を建て始めます。
記録によれば地震が起きたのは7月、木幡山の伏見城の本丸が完成したのは同年の10月なのだとか。
これはあまりにも早い。
もしかしたら秀吉は、以前から木幡山に城を移す計画を建てていたのかもしれない、との推測も成り立ちます。

一方の指月の伏見城はというと、残念ながら地震で倒壊したまま埋没。
ごく最近まで、詳細な場所すらわからず、実は実在しなかったのでは…との見方も出ていたほどでした。
しかし2015年に伏見区桃山町のマンション建設現場から、指月の伏見城のものと思われる石垣や金箔瓦片などが出土。
今後の調査の行方に注目が集まっています。

徳川家康時代の伏見城・一国一城令から廃城へ

伏見城の戦いと徳川家康

1598年(慶長3年)、息子秀頼のことを案じながら、豊臣秀吉は伏見城で亡くなります。
秀吉が伏見城で過ごしたのは3~4年といったところでしょうか。
のんびり隠居するつもりが、慌ただしい晩年を過ごすことになったようです。
秀吉亡き後、秀頼は大坂城に入ります。
伏見城築城と共に聚楽第から伏見へ移り住んでいた豊臣家臣たちも、大坂城へ移っていき、伏見城はもぬけの殻に。
荒廃の一途を辿ります。

この頃、勢いを増していたのが豊臣五大老のひとり、徳川家康でした。
関東(江戸)に移っていた家康ですが、秀吉傘下の有力武将や家臣たちを次々取り込み、伏見城にも入城。
めきめきと力をつけていきます。

そして1600年、関ヶ原の戦いの前哨戦とも言うべき「伏見城の戦い」が勃発。
家康が会津征伐へ出向くこととなり、その留守を狙って家康の台頭をよく思わない者たちが暗躍します。
小早川秀秋、島津義弘ら豊臣方の武将が総勢4万の兵を率いて伏見城を攻撃し制圧。
留守を預かっていた鳥居元忠は伏見城の守りを武器に抵抗しますが長くは続かず、結果、伏見城は炎上し落城してしまうのです。

勢いづいた豊臣方、つまり西軍は打倒徳川の旗を掲げますが、内情はまとまりなくバラバラでした。
結果的には、自分に反発する動きまで全て見越していたかのような、したたかな徳川家康のひとり勝ち状態に。
2か月ほど後に開戦した関ヶ原の戦いは半日ほどで決着し、豊臣の世は終わりを告げるのです。

せっかく再建したのに?一国一城令で廃城へ

伏見城の戦いで燃え落ちてしまった伏見城。
このまま埋没かと思いきや、再び家康が戻ってきます。
関ヶ原の戦いの後、家康は伏見城に入り、再建に奔走。
ここに、徳川家康が再建した木幡山伏見城が誕生します。
家康は伏見城を重要な城と考えていたのか、朝鮮使節団との会見を伏見城で行うなど、江戸と伏見を行ったり来たりしていたようです。
また、家康も息子の秀忠も、三代徳川将軍となる家光も、伏見城で征夷大将軍の位を受けています。

家康は伏見城の他に、二条城や彦根城などの再建も行っていました。
1614年(慶長19年)から1615年(慶長20年)、大坂冬の陣・夏の陣で大坂城落城の後も、伏見城は徳川の居宅として使われ続けます。
それに合わせて徳川の家臣たちも伏見城に詰めるようになっていたようです。

しかし、そんな伏見城にも終わりの時が。
1615年(慶長20年)、諸大名が力を持って江戸幕府に歯向かうことがないよう、一国一城令なるものを発布。
”ひとつの国に城はひとつのみ”というもので、発布したのは二代将軍徳川秀忠ですが、発案者は家康だったようです。
京都には二条城があるため、家康自ら手塩にかけて再建した伏見城は、自らが発した命令によって廃城に。
その後、一帯は開墾されて桃の木が植えられ、これが「桃山」という地名の由来になったのだそうです。

明治天皇の陵墓となった伏見城本丸跡

1623年(元和9年)、徳川家光の征夷大将軍任命の執り行いを最後に、完全に廃城となった伏見城。
廃城後、城の建材の多くは、各地の神社仏閣やそのほかの建物の建築へ役立てられることになったようです。
その後、伏見城跡は奉行所の管理となり、幕末までの間、立ち入り禁止となっていました。
1912年(明治45年)、明治天皇が東京の明治宮殿で崩御。
京都に墓所をと望まれた明治天皇の遺言に従い、伏見城の本丸跡など主要部分に明治天皇陵「伏見桃山陵」が築かれます。
「桃山御陵」と呼ばれることもある墓所。
墳丘は上円下方墳で、一辺がおよそ60m、高さおよそ6mにもなるのだそうです。
もともと立ち入り禁止となっていた伏見城跡ですが、天皇陵が設けられたことで、宮内庁の管理下となり、現在でも本丸跡など一部の区域は立ち入りが禁じられています。
指月の伏見城は長年場所もわからないままで、木幡山の伏見城は場所はわかっていますが、天皇陵ということで簡単には立ち入ることができない場所となりました。

現在の伏見城跡を巡る

明治天皇伏見桃山陵へ

今は明治天皇陵となっている伏見城跡。
お城を見ることはできませんが、地形はおそらく築城当時と変わっていないと思われますので、秀吉や家康の伏見城への情熱に思いを馳せながら参拝、という方もいらっしゃるようです。
JR桃山駅から徒歩約15分ほど。
細かい砂砂利が敷き詰められた静かな参道は、大きな木々に囲まれ鬱蒼としていてとても静かで、厳かな気持ちになります。
参道を抜けると目の前に230段の石段が。
それを上がった先に、明治天皇伏見桃山陵があります。
木造の大きな鳥居が建てられており、そこから先へ進むことはできませんが、陵はとても大きいので、鳥居の手前からでもしっかり見ることができます。
後ろを振り返ると、伏見の街並みを一望できる見事な景色。
秀吉や家康はどんな思いで城下を眺めていたのでしょう。

あちこち自由に見てまわることはできませんが、参道沿いには、伏見城の石垣に使われていた石がたくさん展示されているので、参拝の後、忘れずに見て廻りましょう。
矢の痕跡が残っている石も多数あり、見ごたえ抜群です。

かつて遊園地だった?復元された伏見城模擬天守閣

「伏見城ならあるよ。
あそこに建ってるじゃないか」
地元の人が指さす先を見ると、なんと!シックな色合いで豪華さがさらに引き立つ、五層七階の立派な大天守が建っているではありませんか。
しかし伏見城は廃城の後は再建されなかったはず。
この天守はいったい何なのでしょうか?

答えは模擬天守。
絵図などの史料をもとに、伏見城の天守をイメージして造られた鉄筋コンクリート構造の建物なのです。
そうわかっていても、思わずため息が漏れるほどの迫力。
きっと伏見城の天守はこんなだったに違いないと、思わず頷いてしまうほど壮麗で勇ましい姿はまさに伏見のシンボルです。

現在は天皇陵となっている伏見城本丸跡一帯の少し北側に、この模擬天守は建っています。
伏見城の一部や武家屋敷などが建ち並んでいた桃山丘陵の一角に、かつて「伏見桃山城キャッスルランド」という遊園地がありました。
模擬天守はその遊園地の中に建てられていたものなのです。

1964年(昭和39年)にオープンした施設で、模擬天守の他に、ジェットコースターやプールなどがあり、大変人気がありましたが、徐々に客足が遠のき、2003年に閉園。
模擬天守も解体される予定でしたが、地元の人々からの要望もあり、残されることに。
現在この一帯は、京都市管理の「伏見桃山城運動公園」という公園として整備され、市民の憩いの場となっています。

遊園地時代には天守の上からあたりを一望できたのだそうですが、現在は、建物の耐震の関係で天守の中に入ることはできません。
上に上がりたいところですが立ち入り禁止。
何とももどかしいですが、勇壮な天守を下から見上げて、秀吉・家康気分を味わうといたしましょう。

「伏見城跡」と「伏見桃山城運動公園」

とは言っても、秀吉や家康が築いた伏見城の天守台に建てられているわけではないので、運動公園の模擬天守は伏見城とは関係がなく、もちろん遺構ではありません。
あくまでも「伏見城があった場所のすぐ近くにある公園の中のお城風の建物」に過ぎないのですが、それでも、公園の木々越しに見る模擬天守は美しく迫力があり、秀吉が建てた、家康が再建した、と言われれば「なるほど」と思ってしまうほどよくできています。
天守の他にも、公園の西側にある正門も、伏見城に実在した門とは何の関係もありませんが、朱に金をあしらった豪華な造りで、いかにも秀吉が好みそうな造形に仕上がっていて、頭が混乱してきそうです。
秀吉や家康が建てた伏見城を想像するなら、まず本来の木幡山伏見城跡である「伏見桃山陵」を参拝し周囲の風景を目に焼き付け、その後、運動公園で模擬天守を見上げてみるといいかもしれません。
頭の中でうまく二つの光景を重ねて合わせることで、幻の城・伏見城が鮮やかに蘇ってくるはずです。

巡って楽しい歴史ワンダーランド・伏見城

伏見の住宅街を抜けると突如、目の前に現れる伏見城復元天守。
紆余曲折、徳の権力者たちの様々な思惑に翻弄されながら、現在は伏見のシンボルとして、訪れる人たちを温かく迎えてくれています。
城内には多くの観光客が行き交い賑わっているので、築城当時もこんな賑わいだったのかも…などと想像しながら歩くのも楽しいです。