姫若子?鬼若子?四国の偉人「長宗我部元親」の半生を辿る

長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)。『信長の野望』というゲームソフトの中で初めてその武将を見たとき、何て珍しい名前なんだろうと驚いた記憶があります。その後時代小説などを通して、信長や家康と同時期に活躍した戦国武将のひとりであり、四国を統一した重要人物であることを知りましたが、ゲームの中ではかなり能力の高い武将なのですが、実際にはどういう人物だったのか、名前ほどのインパクトがないというか、どうも今一つピンとこないような気がしてなりません。長宗我部元親とは何者なのか?その足跡を辿ってみようと思います。

土佐の出来人・長宗我部元親の生涯(1)

長宗我部氏とは

長宗我部氏とは

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長宗我部氏のルーツについては諸説あるのだそうですが、中国秦の始皇帝の流れを汲むと言われている秦氏(はたうじ)が祖である、すなわち飛鳥時代に秦氏の繁栄を築いた秦河勝(はたのかわかつ)が祖先ではないか、という説が有力視されています。
その秦氏が後に土佐に入ったのが長宗我部の始まりと見られていますが、いつ頃土佐に入ったのかについては定かではないようです。
少なくとも平安末期から鎌倉初期頃には、長宗我部は土佐の地に落ち着いていたものと思われます。

土佐を治める武将豪族は他にも多数あって、他と比べても、長宗我部氏は決して強い力を持つ家ではありませんでした。
それでも他勢力としのぎを削りつつ、長宗我部氏は代々長く続いていきます。

応仁の乱が終わった後で世の中が不安定な状態に陥っている頃、長宗我部氏は19代兼序(かねつぐ)のときに土佐の他勢力に追われ、滅亡の危機に直面。
かろうじて生き残った兼序の嫡子・国親(くにちか)は長宗我部氏復興に奔走し、20代当主となります。
内政や軍備を整え、強い長宗我部氏を作り上げた国親は、”野の虎”と呼ばれる猛者。
一度奪われた岡豊城(おこうじょう)を奪還し、土佐の他勢力を次々に制圧する国親。
しかし志半ばにして病に倒れ、亡くなってしまいます。

長宗我部の再興を果たした国親の息子が、我らが長宗我部元親です。

若き日の長宗我部元親・誕生から家督相続まで

若き日の長宗我部元親・誕生から家督相続まで

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長宗我部元親が生まれたのは1539年(天文8年)。
現在の高知県南国市にある岡豊城(おこうじょう)で産湯を使います。
少年時代の元親は長身ながら細面で色白、どこかなよなよとしていておとなしい性格で、ついたあだ名は「姫若子(ひめわこ)」。
よく言えば茫洋、悪く言えば軟弱のうつけ者。
長男ゆえ、後継ぎにして大丈夫だろうかと父・国親を悩ませた時期もあったのだそうです。

1560年(永禄3年)、父・国親は土佐の他勢力のひとつであった本山氏を攻撃(長浜の戦い)。
この戦で元親は父と共に出陣し、遅い初陣を飾ります。
このとき元親は自ら槍を持って特攻。
猛然と敵陣に切り込む姿を見た家臣たちから、「鬼若子」と称賛されることになります。

もう、あのひ弱そうな「姫若子」はどこにもいません。
同じ年、病に伏せた父・国親は元親の成長を喜び、全てを任せてこの世を去ったのです。

元親は長宗我部21代当主となり、宿敵・本山氏を倒すことを念頭に、はては四国統一を目指して、家臣らと力を合わせて躍進していきます。

長宗我部氏・四国平定への道

長宗我部氏・四国平定への道

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長宗我部氏には「一領具足(いちりょうぐそく)」という、独特の兵士組織が存在していました。
普段は農業を営んでいる領民が、領主から戦の招集がかかった際にすぐ馳せ参じることができるよう、農作業をしている最中も、常に一領(ひとそろい)の具足(武器や鎧)を田畑のそばに置いていたことから、そう呼ばれるようになりました。
考案者は父・国親であると考えられています。
農繁期の出陣は収穫に影響が出てしまう可能性がありますが、普段、農作業で身体を動かしているため、健康で丈夫な者が多く、兵士としてのレベルは高かったようです。

元親は父が築き上げた一領具足をフル稼働させて、宿敵・本山氏を倒し、土佐のライバル勢力たちを次々に制圧していきます。
あるときは武力押しで、あるときは敵のお家騒動や内紛につけこむなど策を講じて、元親は精力的に動き回り、1574年(天正2年)にはほぼ、土佐の地を手中に。
元親の目には既に、伊予、阿波、そして讃岐と、土佐の外の領地へと向けられていました。

土佐の出来人・長宗我部元親の生涯(2)

天下統一に動く織田信長との関係

天下統一に動く織田信長との関係

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元親が土佐を統一した1574年、時代は戦国時代まっただ中で、日本中で国盗り合戦が繰り広げられていました。
そんな中、めきめきと勢力を伸ばしていたのが、天下布武を掲げて天下統一を目論み暗躍する尾張の織田信長でした。

長宗我部元親の奥さんは、明智光秀の重臣であった斎藤利三の親戚。
そして明智光秀は織田信長の家臣。
明智光秀は織田陣営の外交官として、元親とも頻繁に会っていたようで、そんな縁もあって信長と元親は同盟を結ぶことになります。

当時の信長は、四国の讃岐や阿波(現在の徳島県・香川県)を治めていた三好氏と敵対関係にあり、元親が三好氏を攻めることになれば、信長にとっても好都合でした。
信長と同盟を結び勢いを増した長宗我部軍は、四国でどんどん勢力を伸ばしていきます。

元親の勢いは、信長の予想を上回るものだったのかもしれません。
脅威を感じたのか、信長は元親から三好氏に鞍替えし、土佐と阿波の一部以外のそのほかの領地をよこせと言ってきます。
元親はこれに反発。
いい関係だったのに一転、信長と元親は対立関係に陥ってしまうのです。
1582年(天正10年)、信長は元親を攻めるべく、四国を攻めるべく、大軍を編成します。

信長に本気で攻め込まれたらひとたまりもありません。
今から軍を編成していたのでは間に合わない。
長宗我部大ピンチ状態です。
しかしこの年、本能寺の変が起こり、明智光秀が信長を殺害。
信長の死によって、辛くも元親は危機を脱したのでした。

天下人・豊臣秀吉との対立

天下人・豊臣秀吉との対立

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天下統一を目前まで進めていた信長の死によって、中央政権は混乱必至の状態でした。
誰が信長の意思を継ぐのか、誰が天下人になるのか。
実権を握りつつあるのは羽柴秀吉、後の豊臣秀吉でした。

中央の混乱に乗じ、元親は四国平定を推し進めます。
勢いを増す秀吉と対峙する柴田勝家や、有力大名の徳川家康とも連携し、秀吉をけん制しつつ、四国の対抗勢力を制圧し、阿波や讃岐を掌握。
長宗我部氏は四国統一を推し進めます。

しかし、決断の時は迫っていました。
対立か、降伏か。
元親が四国統一に邁進している間に、有力大名たちは次々と秀吉の手中に落ち、ある者は手を結び、もはや秀吉の覇権は確実なものとなっていたのです。
元親は柴田勝家と共に秀吉に抵抗を続けますが、秀吉の攻撃の矛先は四国にも向けられます。

柴田勝家が秀吉との争いに敗れてこの世を去った後も、元親は秀吉への抵抗を続けました。
1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いでは織田信雄に味方し秀吉と対峙。
秀吉が送り込んできた仙石秀久の軍を引田の戦い、第二次十河城の戦いで撃ち破り、勢いに乗って伊予で勢力を拡大します。

しかし時代は既に、秀吉に軍配を上げていました。
小牧の戦いで織田信雄が秀吉と和睦し、翌年、秀吉の弟に当たる羽柴秀長率いる10万の大軍が元親に仕向けられます。
四国の城は次々落とされ、道を裁たれた元親はついに降伏を決意。
秀吉のもとへ趣き服従を誓うのでした。

元親を変えた息子・信親の死

元親を変えた息子・信親の死

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豊臣の家臣となった長宗我部元親は、1586年(天正14年)、息子・信親と共に、秀吉の九州征伐に加わります。

元親たちが秀吉に対し抵抗を続けていた同じころ、九州でも、薩摩を拠点とする島津氏と、現在の大分県のあたりを治めていた大友氏との間で争いが起きていました。
島津氏との戦いで疲弊し形勢不利に陥っていた大友氏は秀吉に援軍を要請。
秀吉は大友・島津を和睦させようとしましたが、島津氏はこれを退け大友氏への侵攻を継続。
戦いは長期化していました。

大友氏を援護するため派遣された援軍は、長宗我部元親の他に、秀吉に召し上げられた讃岐の領主となっていた仙石秀久や、ついこの間まで敵対関係にあった四国の他勢力など総勢6000人。
いくら秀吉に服従を従った者同士とはいえ、折り合いがつくわけもありません。
兵力で見れば、島津軍と互角でしたが、大友氏援軍の足並みは揃っていませんでした。

侵攻する島津軍に対し、すぐ攻撃を仕掛けるべきという仙石秀久と、さらなる援軍を待ってから総攻撃をかけるべきという元親の間で意見が対立。
彼らは先発隊で、さらに10万を超える援軍が駆け付ける予定になっていたのです。
しかし仙石秀久は元親の考えを退け、同調する他の武将たちと共に独断で作戦を決行します。
しかし仙石軍は敵の術中にはまり、すぐ敗走。
浮足立つ援軍は混乱のまま戦闘状態に突入(戸次川の戦い)。
元親は息子・信親と離れ離れになってしまうのです。

元親は何とか退却することができましたが、信親は討ち死。
大友氏の城も落ちてしまいます。

土佐の出来人・長宗我部元親の生涯(3)

元親の変化と家督争い

元親の変化と家督争い

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信親の死を知った元親は自害を試みましたが、家臣たちに説得され、居城である岡豊城まで戻ります。
後日、元親は島津軍に対し、信親の亡骸を引き渡すよう願い出たのだそうです。
島津はこれを承諾。
信親の遺骨は高野山に埋葬されます。
後に分骨された信親の遺骨は高知県のお寺にも埋葬され、手厚く弔われたのだそうです。

息子・信親の死が元親に与えた衝撃は相当なものでした。
これを境に、元親の生活は大きく変わってしまいます。
また、信親と共に戦死した信親の重臣の中には、将来の長宗我部家を背負って立つ若い人材が多く含まれていたことで、長宗我部家の家臣の間でも様々な争いが起こるように。
九州征伐は長宗我部家全体に長い影を落としてしまったのです。

1588年(天正16年)、さらなる躍進のために本拠地を大高坂城へ移した後、四男・盛親に家督を譲ると発表。
元親には、讃岐守護代を勤めていた香川氏に養子に出した次男・香川親和(かがわちかかず)と、同様に土佐の豪族・津野氏との争いの際に養子として送り込んだ三男津野親忠(つのちかただ)がいたため、なぜ四男に家督を継がせるのかと、家臣たちの間にも混乱が広がります。

戸次川の戦いの後、豊臣秀吉から、次男・親和に家督を継がせてはどうかとの書状が届きますが、元親はそれには従わず、反対する重臣たちの意見も退けて、手元に置いて溺愛していた盛親に家督を継がせます。
結果、親和は病に倒れ、親忠は元親によって一時幽閉されるというドタバタぶり。
元親は反対派の家臣を排除して盛親への家督相続を強行するのです。

鯨とサン=フェリペ号

鯨とサン=フェリペ号

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後継者として期待していた長男・信親を失い、それまで数々の武功をたて四国の英傑として名を馳せていた長宗我部元親は、その覇気を失い、まるで人が変わったようだったと伝わっています。
一方で、豊臣の家臣としての働きを続けており、1590年(天正18年)の小田原攻めでは長宗我部水軍を率いて参戦。
水際から伊豆半島下田城を攻め、小田原城方位にも加わります。
これをもって、豊臣秀吉の天下統一は成し遂げられ、つかの間、太平の世が訪れたのです。

この頃の長宗我部元親にはこんなエピソードが。
1591年(天正19年)、土佐の浦戸湾に迷い込んだ、体長10mはあろうかという巨大なクジラを、数十隻の船と100人余りの人夫を使って大坂城内へ丸ごと持ち込み、秀吉や大阪の人々を驚かせたのだそうです。
他の大名たちにはなかなかできないオリジナリティあふれる贈り物。
元親の豪快な一面が伺えます。

同じころ、元親は水はけの悪かった大高坂城から浦戸城に移転。
翌年の朝鮮出兵にも出兵。
精力的に動き回っていました。

1596年(慶長元年)、土佐の海に、メキシコを目指して太平洋横断をしていたスペインのサン=フェリペ号が漂着するという事件が起きます。
これを聞いた元親は船を無理やり浦戸湾内へ引き込もうとし、座礁させてしまいます。
船の修繕や身柄の安全を求める乗組員に対し、豊臣秀吉は船の積み荷を没収。
このときの騒動が、秀吉のキリスト教徒への不信感をより一層増大させていったと考えられています。

このときの元親の心情は定かではありませんが、鯨と同じようにスペイン船も秀吉に献上しようとしたのかもしれません。

晩年の元親と墓所

晩年の元親と墓所

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1598年(慶長3年)、太閤秀吉が死去すると、世の中は再び混乱に陥ります。
中央政権下では徳川家康が暗躍し、豊臣につくか、徳川につくか、関ヶ原の合戦へのカウントダウンが始まっていました。

この頃、元親による三男の津野親忠を幽閉騒動が勃発。
この頃から体調を崩すようになり、元親は病気療養のため京都・伏見に滞在するようになったのだそうです。

元親は盛親に全幅の信頼を寄せる一方、亡き長男・信親の娘を盛親に嫁がせるなど、信親に執着する一面も。
息子たちはバラバラになってしまい、内情は穏やかではありませんでしたが、政務に於いては、土佐を平定するための法律『長宗我部元親百箇条』を制定するなど、領主としての仕事はこなしていました。

このときの盛親はまだ若輩。
豊臣か徳川か、どちらに従うべきか、盛親に助言するべきところ、これについては特に触れないまま、元親は息をひきとります。
享年61歳。
戦国の世を駆け巡った大名は、愛する息子と長宗我部家の行く末を案じながら、この世を去っていきました。

現在、長宗我部元親の墓所は、高知市内にある天甫寺山という南側の斜面に、木々に埋もれるようにしてひっそりと佇んでいます。

その後の長宗我部氏

その後の長宗我部氏

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元親はこの世を去り、長宗我部氏は四男・盛親に受け継がれていきました。
その後のお話を少しだけ。

翌年、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発。
結果は周知の通り、徳川方の勝利に終わりますが、若い盛親には情勢を見極める力はありません。
流されるまま西軍傘下に入り、敗退。
家康は盛親に別の領地を与えるつもりでいたとも言われていますが、土地を奪われることを恐れた一領具足たちによる反乱が土佐で勃発。
結局、長宗我部氏の領地はすべて没収されてしまいます。

長宗我部家は滅亡。
盛親は大名の地位を追われ、浪人となって京都で不自由な暮らしを送ることに。
「大坂の陣」の際に豊臣方の要請を受けて大坂城に入り、主力部隊として戦いに参加します。
一時は徳川方に大きな打撃を与えるなど活躍を見せますが、大坂城が落ちると捉えられ、京都で処刑。
こうして、長宗我部家は完全に途絶えてしまったのです。

日一日、めまぐるしく時が動いた戦国時代。
たら・ればは無意味かもしれませんが、もし、元親があと数年早く四国平定を成し遂げていたら、もし九州征伐で信親が命を落とさず家督を継いでいたら、もし元親の3人の息子たちが力をあわせていたら。
四国平定を夢見て戦に明け暮れていた元親の後世の評価も、変わっていたかもしれません。

鳥無き島の蝙蝠?四国を駆け回った戦国武将・長宗我部元親

織田信長は長宗我部元親のことを、あまりよく思っていなかったようです。
あるとき、”鳥がいないところでは、ただ飛べるというだけでコウモリが偉そうにする”という意味の慣用句を引用して「鳥無き島の蝙蝠」と揶揄した、とも伝わっています。
史実かどうか定かではありませんが、四国で勢いをつけつつあった元親の存在を、信長が恐れ、疎ましく思っていたことは事実のようです。
息子を失った後、度量を欠いて晩節を汚したとも言われる長宗我部元親ですが、足跡を辿ってみると、そこには間違いなく、姫若子から鬼若子へ、そして土佐の出来人へと成長した戦国武将の姿がありました。
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