狩野派ってよく聞くけど何?日本美術界のエリート「狩野永徳」の生涯

日本画に関するテレビ番組や書籍などで、「狩野派」という言葉をよく目にします。知ってはいるけど、何なのかよく知らない、という人も多いのではないでしょうか。狩野派とは室町時代から江戸時代にかけておよそ400年にも渡って続いた日本絵画史上最大の画派。中でも”天才”と謳われたのが、織田信長や豊巨秀吉に仕えて数々の大作を世に送り出していった狩野永徳です。華麗なる桃山文化の一端を担ったとも言える天才画師、狩野永徳とはどんな人物だったのか、その半生を追いながら、当時の絵画・美術事情なども探ってみたいと思います。

優れたDNAを受け継ぐ美術界のエリート「狩野永徳」

ひいおじいちゃんもおじいちゃんも・代々絵師の家柄

狩野永徳(かのうえいとく)は1543年(天文12年)、京都で生まれました。
父はボストン美術館所蔵の「花鳥図屏風」などで知られる安土桃山時代の絵師・狩野松栄(かのうしょうえい)、祖父は室町時代の絵師で狩野派繁栄の基礎を築いたと言われる狩野元信(かのうもとのぶ)。
さらに曾祖父が狩野派の祖と称される狩野正信(かのうまさのぶ)と、代々一流絵師として活躍する名門であった狩野家。
正信は既に室町幕府に御用絵師として仕えていたと見られており、単に絵師というだけでなく、幕府御用絵師という高い地位にいたものと思われます。

現代のように、写真や動画など記録を残す手段がなかった時代のこと。
自身の偉業を後世に伝えるため、力を誇示するために、時の権力者たちが腕の良い絵師を雇い絵を描かせる…決して珍しいことではありませんでした。
特に室町時代は、足利家の旗のもと、北山文化・東山文化に代表されるような様々な絵画や芸術文化が花開きます。
あるときは城や館の壁に龍や獅子の絵を描かせ、あるときは自分の猛々しい肖像画を、あるときは屋敷に飾る絵を、あるときは近しい知り合いに贈るための絵を。
権力者たちにとって、良い絵師とは、護りの固い館や機転の利く家臣と同じくらい、重要な存在だったのでしょう。

天下人の心を捉えた誉れ高き天才

祖父の狩野元信は、中国から渡ってきた水墨画の技術(漢画)と、日本古来の伝統的な絵画(大和絵)を融合させ、仏教などの宗教美術とは一線を一線を画す絵画文化を確立。
画材も仏や菩薩だけでなく、庶民の暮らしや俗世的なものを多く扱い、これが後の”狩野派”と呼ばれる画派へと繋がっていきます。
力を持つ者たちが絵を欲し、資金を提供。
絵師たちは腕を磨き、新しい絵画を世に送り出す。
そのような時代だからこそ、狩野家は代々、絵師としての地位を保ち続けることができたのでしょう。
中でも狩野永徳は、名門の家柄やより良い環境というだけでなく、持って生まれた類稀な才能にも恵まれていました。

永徳は若いころから秀でていました。
父・松栄は早くから息子の才能に気づいていたようで、狩野派のトップの座は永徳に任せ、自分は宮廷や公家との交渉や顧客獲得に奔走するなど、永徳のバックアップに徹していたようです。
また、永徳との共作もいくつか残しており、1566年(永禄9年)には父子で大徳寺塔頭聚光院の障壁画を仕上げています。

祖父に学び、父のサポートを受けて、永徳は若きリーダーとして狩野派を引っ張り、自らも創作に邁進しました。
名門家とのつながりも深くなり、近衛家や大友家など名家の招きで多くの障壁画を描いています。

そして1576年(天正4年)頃、ついに織田信長のもとへ。
安土城に障壁画を描くためです。
さらに1583年(天正11年)には豊臣秀吉に呼ばれて大坂城の、1586年(天正14年)には聚楽第の障壁画を描いたと伝わっています。
どれも建物としては現存しないため、どのような絵図であったかもはや知ることはできませんが、永徳は織田信長、豊臣秀吉といった覇者たちからも珍重されるまでになっていたのです。

過労死か?一門を率いた天才画師の最期

永徳は信長や秀吉の仕事を受けるようになった頃に、実弟で同じく狩野派の絵師であった狩野宗秀に家屋敷を譲っています。
理由は定かではありませんが、天下人の気に入る絵が描けなかったときは逆鱗に触れ切り捨てられる可能性もある、と考えて、身辺を整理していたのではないか、との見方もあるようです。
画壇では名門率いる長であったとしても、時の権力者の前では単なる従者。
相手の気分ひとつで命を落とすことも考えられます。
実際、信長や秀吉の怒りをかった、といった話は残っていないようですが、満身創痍、文字通り命を削って絵筆を握っていた、ということなのかもしれません。

そんな中永徳は、まだまだ働き盛りの48歳という年齢で亡くなってしまいます。
京都東山にある東福寺法堂の天井画の龍図を制作中に突然病に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。

秀吉からの仕事を抱え、寺院や宮廷からの仕事もこなし、狩野派を取りまとめ、意欲的に活動を続ける中での突然の死でした。
あまりの忙しさと心労で、過労死ではなかったかとも言われています。
制作中だった天井画は弟子の狩野山楽に引き継がれ完成しましたが、残念ながら今はもう残っていないのだそうです。

父・松栄は永徳が亡くなった2年後に、74歳でこの世を去っています。

刀ではなく筆で勝負!時代を彩った狩野永徳の好敵手たち

狩野派、土佐派、琳派…そもそも画派とは何なのか

「狩野派」の他にも、○○派と呼ばれるグループはあるのでしょうか。

同じく室町時代から江戸時代まで続いたとされる「土佐派」と呼ばれる画派があります。
主に朝廷からの依頼で、大和絵と呼ばれる日本古来の画風を中心に活躍しました。
特に室町時代から戦国時代にかけて活躍した土佐光信は有名で、宮廷や足利将軍家とも強いつながりを持って権勢を振るっていました。
江戸時代に活躍した岩佐又兵衛や菱川師宣も、土佐派で学んだことがあると言われています。

同じく○○派と呼ばれる画派として「琳派」という名称を聞いたことがある人も多いでしょう。
実際には琳派という血族やグループが存在していたわけではなく、美術工芸の流派のようなものの総称で、狩野派や土佐派とは意味合いが異なるようです。

江戸時代の絵師・俵屋宗達や尾形光琳の画風を酒井抱一が受け継ぎ、他の絵師たちにもその画風が受け継がれていったことで、そうした影響を受けた絵師たちを後の世で「琳派」と称するようになりました。

画風・流派という意味では、他にもいろいろな○○派が存在していたかもしれません。
しかし、狩野派ほど、長い期間存在し続けた派閥は他に類を見ないでしょう。
狩野正信から血縁や師弟関係によって継承され続けた絵師集団。
絵を描くときはあくまでも個人で行動するため、グループを形成する必要はないと思われがちですが、狩野派は組織を形成することで、絵師の育成から絵を描く場の提供まで、絵師をトータルプロデュースする役割も担っていたようです。

狩野永徳最大のライバル・長谷川等伯

狩野永徳最大のライバル・長谷川等伯

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今日の都に於いて、宮廷や将軍家、寺院名刹、大名家など多くの権力者から絵の注文を一手に引き受けていた狩野派。
そのトップで名門の血を受け継ぎ、天才の名をほしいままにしていた狩野永徳。
そんな彼の前にあるとき、とある人物が立ちはだかります。
1539年(天文8年)、能登の下級武士の家に生まれ、染物屋の養子として働きながら仏画の修行を積んできた無名の絵師・長谷川等伯。
可能永徳の最大のライバルと言われ、永徳に危機感を抱かせるほどの才能の持ち主だった等伯は、遅咲きながら数々の名作を残し、普通なら狩野派でなければ任せてもらえないような仕事を次々と獲得していきます。
背後には、等伯を支援していた千利休の存在があったようです。

等伯の若いころに関する資料は少ないのですが、永徳が描いた絵を見て衝撃を受け、本格的な修行を始めたとも言われています。
一時は狩野派に入門して学んでいたこともあったようです。

1589年(天正17年)、千利休は大徳寺山門(三門)の天井画と柱絵を狩野派の絵師ではなく、長谷川等伯に依頼します。
大徳寺といえば京都でも指折りの名刹。
絵はその評判は朝廷にも届くようになり、等伯は一流絵師の仲間入りを果たします。
これをよしとしなかったのが狩野派の絵師たちでした。

永徳vs等伯!プライドをかけた直接対決

それまで有名どころの仕事は全て自分たちが独占してきたのに、ぽっと出の無名絵師などにかすめ取られ、プライドはズタズタ。
特に、等伯とはほぼ同世代であり、狩野派のトップとしての立場もある永徳の心中は穏やかではなかったはずです。
そこから、永徳と等伯の戦いが始まります。

二人の直接対決は翌1590年(天正18年)。
評判となった等伯に、京都御所での仕事が舞い込んできたのです。
当時、豊臣秀吉が造営していた後陽成天皇御所の対屋(たいのや)という建物を飾る障壁画の制作、という名誉ある仕事。
絵筆一本で狩野派の牙城に挑んだ等伯の苦労が報われた瞬間でもありました。

しかしここで永徳が動きます。
このままでは、狩野派の将来も危ぶまれると危機感を覚えた永徳は一門を守るべく、懇意にしていた勧修寺晴豊という有力公家に「長谷川等伯を使わないで」と進言。
結局、等伯は降ろされ、障壁画は狩野派が請け負うことになります。
非情ともとれる永徳の行動ですが、彼には狩野派を守る責任があったのでしょう。
あるいは、名門の御曹司をそのような行動に走らせるほど、等伯の才能は脅威だったのかもしれません。

等伯の存在は、ただでさえ忙しく様々なプレッシャーを抱えていた永徳に、さらなる心労を与えます。
このことがどれほど影響したのか図ることはできませんが、対屋障壁画の1件から1カ月後、永徳はこの世を去ってしまうのです。

華麗・秀麗!天才画師・狩野永徳の代表作

狩野永徳の代表作(1)「洛中洛外図屏風」

狩野永徳の真筆とされる作品は、戦火で建物ごと焼けてしまったものも多く、現存するものは少ないのですが、残るものの中から有名なものをいくつかご紹介いたします。

まずは「洛中洛外図屏風」から。
洛中洛外図とは京都の中心部(洛中)と郊外(洛外)の景観や風俗を描いた屏風絵のことで、戦国時代から江戸時代にかけて数多く描かれてきました。
現存するもので状態のよいものだけでも30点ほどあると言われていますが、その中でも狩野永徳筆の作品(上杉家本)が最も有名と言ってもいいはずです。

織田信長(発注者室町幕府第13代将軍足利義輝だったのではという説も)から上杉謙信に贈られたものと考えられており、米沢藩藩主の上杉家に伝来。
現在は米沢市立上杉博物館蔵が所蔵しており、1995年に国宝に指定されています。

縦160.6×横364.0cmの六曲一双、紙本金地著色。
屏風の中には京都の町の四季折々、人々の暮らしが活き活きと描かれており、登場人物は公家から町人までおよそ2500人!少し上から見下ろしたような、鳥瞰(ふかん)的な構図で描かれており、美術品としてだけでなく、当時の都の様子を知る資料としての価値も高いといわれています。

狩野永徳の代表作(2)「唐獅子図屏風」

狩野永徳といえば「唐獅子図屏風(からじしずびょうぶ)」と言われるほど有名な、狩野派を代表する作品のひとつで、明治時代に皇室に献上され、現在は皇室に代々伝わる美術工芸品と共に宮内庁の三の丸尚蔵館に収蔵されています。

六曲一双m縦223.6cm×横451.8cmという巨大な屏風で、紙本金地着色の鮮やかな色彩。
岩場を歩く雌雄の獅子の堂々たる姿を、力強い筆づかいで描いた力作。
その大きさも相まって、目を見張るほどの迫力。
目の当たりにすれば誰でも「想像以上の迫力だった」と感じるはずです。
皇室所蔵ということで、普段はなかなかお目にかかる機会がないこともあって、狩野派の作品の中でも特に人気。
永徳はこの絵を、豊臣秀吉の支援のもとで書き上げたと考えられています。
秀吉はこの屏風を毛利家に送ったのだそうです。

江戸時代に入ってから、狩野常信が図様をあわせてほぼ同じ大きさの屏風を制作。
これを左隻、狩野永徳が描いたほうを右隻として、揃えて一双として伝わり、こちらも三の丸尚蔵館に収蔵されています。
狩野常信も永徳と同じように狩野派のトップとなり、時の権力者である徳川家光や家綱に仕えた幕府お抱えの画師。
狩野派の四大家として高久評価されている天才のひとり。
永徳から数えると3代後、100年近く後のこと。
時代を超えて二人の才能が一双の屏風を作り上げるなんて、何ともしびれる話です。

狩野永徳の代表作(3)「檜図屏風」

「檜図屏風(ひのきずびょうぶ)」は東京上野の東京国立博物館に所蔵されている、縦170.3cm×横460.5cm、四曲一双の紙本金地着色。
現在は屏風に表装されていますが、もともとは1590年(天正18年)頃に描かれた、八条宮邸の障壁画であったと考えられています。
1881年(明治14年)に宮家が廃絶された後は宮内庁のもとに移り、その後、東京国立博物館に移されました。

当初は絵の具が剥がれ落ちたり亀裂が生じていたりと、かなりの劣化が見られたそうです。
また、襖から屏風に作り変えたため、扇間の絵が途切れてぴったり合っていない個所があるなど、問題も抱えていました。
そこで2012年から2年の歳月をかけて修理が行われ、真ん中から半分に分けて、八曲一隻だったものを四曲一双に改装。
以前は檜の枝に少しズレが生じていましたが、つなぎ目もきれいになり、躍動感ある枝ぶりがより一層引き立つようになりました。
今にも飛び出してきそうな檜の姿や、背景の金色が映える大胆な構図と色遣いは凛としていて力強く、見ごたえ満点です。

永徳はこの檜図(宮家の襖絵)を描いた年の秋にこの世を去っています。
天下人・豊臣秀吉の仕事をこなしつつ、他にも大作の制作作業を抱えて多忙を極めていたと思われ、果たしてこの檜図の完成まで携わることができたかどうか、知る術はありません。

狩野永徳幻の作品:「安土城之図」

狩野永徳幻の作品:「安土城之図」

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狩野永徳の作品として非常に特異な状況にある絵があります。
所在不明の一枚。
織田信長が描かせたとされる「安土城之図」です。

今や幻の城と言われ、どんな形をしていたのか、図面も絵図もほとんど何も残っていない安土城。
そんな安土城の在りし日の姿を、信長は可能永徳に命じて屏風に設えていたというのです。
しかもその屏風を信長は、安土を訪れた宣教師・ヴァリニャーノに贈っており、後に天正遣欧使節によって海を渡りヨーロッパへ運ばれます。
そして何と、バチカンへ運ばれローマ教皇(グレゴリウス13世)に献納されたというのです。
教皇は住居と執務室を結ぶ廊下に「安土城之図」を飾っていたと言われていますが、教皇が亡くなった後、行方不明になっていました。

1984年と2005年に、自治体主導でバチカンに調査を依頼し、屏風絵の行方を追いましたが、発見には至っていません。
1750年に行われたバチカンの所蔵品に関する調査の段階で既に所在がわからなくなっていたそうで、それ以前の建物の修復工事の際にどこかに移動した可能性が高いと考えられています。
「ない」で済ますな!と言いたいところですが、バチカンの所蔵品の数は膨大だと聞くので、なかなか見つからないのも致し方ないのかもしれません。

永徳はどんな安土城を描いたのか、下絵すら見つかっておらず、絵の内容も不明のまま。
何とも残念でなりません。

安土町にある「安土城郭資料館」に、永徳が描いたであろう「安土城之図」を推定復元した陶板壁画が飾られています。
あくまでも”推定”ですので永徳風に安土城らしき城を描いたもので、本物と似ているかどうかも確かめようがありませんが、これはこれで大迫力。
見て損はなし!です。

日本、いや世界最大の画師集団を率いた狩野永徳

戦乱の世に生き、時の権力者の欲する絵を描き続けることで、刀ではなく絵筆を手に戦い続けた狩野永徳。
その作品の多くは、戦火によって建物と共に焼失しており、永徳の真筆として残されているものはわずか十数点とも言われています。
若い頃から一門を率いて第一線で描き続けた永徳の作品数は、膨大なものだったはず。
乱世を生き急いだ天才の生き様と奥深さを思わずにはいられません。
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