豊臣秀吉も認めた名武将・鍋島直茂と「鍋島化け猫騒動」

佐賀県にの銘菓に「鍋島さま」という和菓子があるのをご存知でしょうか。皮に杏葉(ぎょうよう:馬具の装飾に用いる金具や革具)の模様が入った、あんこがたっぷりのリッチなモナカです。鍋島とはもちろん佐賀鍋島藩のことで、杏葉は鍋島家の家紋。江戸時代、11代260年に渡って佐賀藩を支え続けた名家です。そんな佐賀藩の藩祖といわれるのが鍋島直茂。名将と誉れ高い人物ですが、「化け猫騒動」を始め奇妙な逸話の持ち主でもあります。佐賀鍋島藩の基礎を作った鍋島直茂とはどんな人物だったのか?さらにその「化け猫騒動」とやらの真相にも迫ってみるといたしましょう。

鍋島直茂の生涯(1)~龍造寺氏の家臣として

龍造寺氏と鍋島直茂

龍造寺氏と鍋島直茂

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鍋島直茂(なべしまなおしげ)は1538年(天文7年)、肥前本庄村(現在の佐賀県佐賀市のあたり)の豪族・鍋島清房の次男として生まれました。

父・清房は肥前の豪族・龍造寺氏(りゅうぞうじし)に仕えており、父・清久(直茂の祖父)や兄弟たちと共に龍造寺氏の家臣として活躍。
鍋島一族は周囲の豪族たちをけん制するなど数々の武功を立て、龍造寺氏を盛り立てることで厚い信頼を受けていました。
清房の妻・華渓(かけい)は龍造寺の当主・家兼の孫娘に当たります。
二人の間に生まれたのが直茂。
直茂は龍造寺氏の家臣でもあり、血縁でもあったのです。

ここで少しだけ、龍造寺氏について触れておきたいと思います。

実は龍造寺氏では、家の存亡にかかわる大事件が起きていました。
1545年(天文14年)、隆信の祖父・龍造寺家純と父・周家が、肥前の守護大名であった少弐氏(しょうにし)から謀叛の疑いをかけられ、少弐氏の重臣の馬場頼周の手にかかり殺されてしまったのです。
隆信は曾祖父・家兼に連れられて何とか脱出。
龍造寺氏は家の存続が危ぶまれる事態に追い込まれますが、翌年、家兼は馬場頼周を討って再起を図ります。
しかし家兼、この時すでに齢93歳。
高齢と病のため、この翌年、まだ若干20歳の隆信を残して亡くなってしまいます。
家兼は病の床で、隆信に家督を継ぐよう伝えていました。

こうして龍造寺隆信は曾祖父の意思を継ぎ、龍造寺の当主となります。
幼いころから才覚があり腕力もあった隆信。
何度も肥前の地を追われ苦しい思いをしてきた経験からか、時に冷酷な行動に出ることもあったそうで、「肥前の熊」と呼ばれることもありました。

従兄であり、兄弟であり、主でもあり

従兄であり、兄弟であり、主でもあり

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龍造寺隆信が家督を継ぐことになった頃、隆信と直茂の間に奇妙な出来事が起こります。

馬場頼周によって夫を殺されてしまった隆信の母・慶誾(けいぎん)が、直茂の父・清房の後添えとなったのです。
既に妻・華渓(直茂の母)は亡くなっており、独り身となっていた清房。
どちらも40代半ばに差し掛かっているという熟年結婚で、非常にややこしい状況ではありますが、隆信の母が直茂の父と夫婦になったということで、二人は義理の兄弟になったのです。

主君(隆信)の母が家臣の妻になるという、なんでもありの戦国時代でも稀と思われる前代未聞の状況。
一説には、若い隆信を直茂に支えてもらいたいと願う慶誾が、直茂を取り込むべく清房を頼ったのではないかという見方も。
子を思う母の信念とでも言うべきでしょうか、

こうして、龍造寺隆信と鍋島直茂は、従兄でもあり、兄弟でもあり、主と従者でもあるという、二重三重に強い絆で結ばれることとなったのです。
隆信は直茂より8歳年上でしたが、直茂が隆信の行き過ぎた行動を諫める場面もしばしばあったとか。
二人は共に支え合いながら、その絆はより一層深くなっていったようです。

龍造寺氏の台頭の陰に鍋島直茂あり

龍造寺氏の台頭の陰に鍋島直茂あり

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隆信が家督を継いだ頃の九州は、豊後(現在の大分県のあたり)に大友氏、薩摩(鹿児島県)には島津氏という巨大勢力が控えており、そこへ肥前の龍造寺氏が入って一触即発、にらみ合いけん制し合いの状態が続いていました。
そんな中、鍋島直茂は龍造寺隆信のもとで知略を巡らせ、参謀として大きな役割を担っていきます。

1569年(永禄12年)、大友宗麟が侵攻してきたときには、直茂は隆信に籠城を進言。
すぐさま安芸(現在の広島県のあたり)の毛利氏と連携し、大友氏にこちらを攻撃させている間に大友領へ侵攻させるという奇策を繰り出します。
翌年、大友氏との再戦の際には籠城と見せかけて夜襲を決行(今山の戦い)。
敵の隙をついて夜襲をしかけ、攻撃の総大将・大友親貞をはじめ2000人余りの敵兵を討ち破ります。
直茂はあちこちに諜報員を送り込み、情報を集めて敵の動きを探り、大友軍が酒宴を催していることを掴んだのです。
タイミングはばっちり。
見事、大軍を蹴散らすことができました。

このときの敵総勢はおよそ6万。
大友氏の大軍を目の当たりにすると、さすがの「肥前の熊」も二の足を踏んでしまっていましたが、そんな隆信を、直茂は情報と戦略でしっかりと支え続けていたのです。

鍋島直茂の生涯(2)~龍造寺氏との関係に亀裂

向かうところ敵無し!直茂の躍進と隆信の変化

向かうところ敵無し!直茂の躍進と隆信の変化

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今山の戦いの勝利によって、龍造寺氏の中での鍋島直茂の地位は確固たるものになっていきました。
この頃直茂は、家紋を杏葉に替えています。
杏葉は大友氏の家紋として有名な文様でしたので、この勝利を誇りに思っていたのでしょう。

その後、宿敵・少弐氏を滅亡に追いやると、肥前南部(現在の長崎県のあたり)の有力豪族たちを次々と攻め、肥前を掌握。
龍造寺は「五国二島の太守」と称えられるほどどんどん勢力を増していきます。
直茂は隆信のため龍造寺氏のため、身を粉にして懸命に働きました。

1578年(天正6年)、甚だ形式的ではありますが、隆信は息子の政家に家督を譲り、隠居を宣言。
実際には政治・軍事の実権は握り続けますが、一応、須古城(佐賀県杵島郡)で隠居という形を取りました。
このとき隆信は直茂に、政家の後見人に任命されます。

同じ年、大友氏が島津氏と戦い、敗走。
この混乱に乗じて、龍造寺氏は大友氏の領地を脅かし、名実共に戦国大名として君臨。
筑後(福岡)や肥後(熊本)なども席巻し、さらなる飛躍を遂げていきます。

力を発揮し続ける直茂に対し、大きな権力を持った隆信には少しずつ変化が生じていました。

龍造寺隆信の死

龍造寺隆信の死

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権力は人を変えるのでしょうか。
隆信は徐々に直茂を疎むようになります。
新たに獲得した筑後方面を担当するよう直茂に命じ、遠ざけたのです。
自身は須古城に籠り、酒色に溺れ、傲慢な振る舞いを繰り返すようになりました。

長年苦楽を共にしてきた義兄弟、龍造寺隆信から疎まれ、遠ざけられた直茂。
大友氏や島津氏の動きも気になるところで、直茂は何度も隆信に諫言を繰り返しましたが、逆に煙たがられる始末。
「龍造寺の仁王門」と呼ばれたこともある隆信と直茂でしたが、完全に亀裂が入ってしまいました。
隆信のていたらくに見切りをつけた直茂が自ら距離を置いたとの見方もあるようですが、どちらにしてもこのときの二人の距離が、隆信の運命に長い影を落とすことになってしまったのです。

筑後の柳川城の城主となり、政務をこなす直茂。
一方の隆信は、一度は制圧した有馬氏が離反の動きを見せ、島津氏がこれに加勢したのを見て、自ら大軍を率いて進軍。
鍋島直茂不在の状態で、有馬・島津連合軍との決戦(沖田畷の戦い)に討って出ます。
兵力では圧倒していた龍造寺軍でしたが、地形を巧みに利用した連合軍の攻撃に敗北。
隆信は島津氏の家臣に打ち取られ命を落としてしまうのです。

龍造寺氏を守れ!一世一代の大芝居

龍造寺氏を守れ!一世一代の大芝居

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直茂がそばにいたら、隆信は命を落とさずに済んだでしょうか。

隆信の悲報を聞いた直茂は、自害しようとしたのだそうです。
しかし家臣たちに止められ、思い留まるとすぐ、肥前におもむき、当主・政家のそばで龍造寺氏の立て直しに務めました。

このとき、島津家から河上助七郎という人物が使者として肥前にやってきます。
隆信の首を持参したというのです。
さてこれはどうしたことか。
今、弱いところを見せては、立て直しの機会を失い、攻め込まれてしまうかもしれません。
そこで直茂は、毅然とした態度で強気にきっぱりと、「そんな不吉な首は受け取れません。
どこへでも捨ててってください」と突っぱねます。

この強気な態度には「私たちは主を失ったが悲しんではいない。
気力は失っていない。
まだ戦えるのだ。
決してお前らには屈しない」という意味が込められていました。

直茂の強烈な(おそらく予期せぬ)対応に、河上助七郎はやむなく隆信の首を持ち帰ったといいます。
その後、島津氏が攻め込んでくることはありませんでした。

最終的には、龍造寺氏は島津氏に臣従することになります。
しかしこのときの直茂の強気な態度が効いて、大敗を喫したにも関わらず良い条件で講和をすることができました。
頼りになる男、鍋島直茂。
龍造寺氏の家臣たちの多くが直茂に傾倒していったのです。

鍋島直茂の生涯(3)~佐賀藩の成立と化け猫騒動

天下分け目の関ヶ原・鍋島氏はどちらについたのか?

天下分け目の関ヶ原・鍋島氏はどちらについたのか?

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島津氏に従い、大友氏攻めに加わった龍造寺氏。
しかし直茂は少し前から、天下統一を目論む豊臣秀吉と通じていました。
秀吉が九州征伐を開始するとすぐ島津と決別。
大友氏家臣の立花氏と共に島津攻めを成功させます。
急転直下、大どんでん返し。
秀吉は直茂を高く評価したと伝わっています。

秀吉の後押しもあり、直茂は名実ともに龍造寺氏の実権を握ることとなります。
もう、龍造寺氏の当主は鍋島直茂だと言ってもいいほど、直茂の存在は大きなものになっていました。

また、この後直茂は、加藤清正率いる軍に合流し、朝鮮出兵にも赴きます。
この朝鮮出兵がさらに直茂のリーダーとしての資質を際立出せることとなり、龍造寺家臣たちの信頼はさらに倍に。
一方、龍造寺家当主である政家とはぎくしゃくし始めていました。

時は戦国、世の中は目まぐるしく変わります。
朝鮮出兵後まもなくして豊臣秀吉がこの世を去り、石田三成率いる豊臣方(西軍)と、徳川家康(東軍)との対立構図が浮かび上がると、直茂はすぐさま、東軍の勝利を予測。
息子の鍋島勝茂は一瞬、西軍に味方しようと動きますが、直茂はこれを諫めてすぐ離脱させます。

直茂の予測通り、関ヶ原の戦いは東軍が勝利を治め、鍋島氏は徳川家康へ服従。
九州で西軍に従った久留米城や柳川城を攻めて開城を促す役割を担います。
この働きが家康に認められ、鍋島藩は肥前佐賀35万7000石を受けることとなったのです。

佐賀藩主にならなかった直茂の真意とは?

佐賀藩主にならなかった直茂の真意とは?

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本格的に江戸幕府がスタートすると、直茂と龍造寺氏の関係にも終わりの時が訪れます。

龍造寺家では、病気がちだったという龍造寺政家が隠居し、まだ若い高房が跡を継いでいました。
もう龍造寺家に領地をまとめる力はありません。
江戸幕府からも、鍋島氏に佐賀藩をまとめさせるよう通達があり、龍造寺氏の主だった家臣や隆信の兄弟たちもこれに従う姿勢を見せます。

ひとり、無念なのは高房。
江戸幕府に対し、龍造寺家に実権を戻すよう働きかけをしますが、聞き入れられるはずもありません。
高房は直茂を恨み、自分の妻(直茂の養女)を殺して自分も死のうとします。
一度は果たせず、しばらく傷の養生をしていましたが、肥前に戻ることを許され、1607年、故郷で再び、直茂を恨みながら自害して果てます。
まだ20歳になるかならないかの若さでした。

高房には季明という息子がおり、後に幕府に対し、龍造寺再興を願い出ていますが、佐賀藩は既に鍋島氏体制が確立しており、江戸幕府としてもこれ以上蒸し返したくないとの考えで、季明の願いを退けます。
季明は江戸から追放され、会津藩へ預けられることとなりました。

龍造寺家は完全に途絶え、名実共に佐賀藩の当主となった鍋島氏。
しかし、龍造寺家に遠慮があったのか、直茂が藩主を名乗ることはなく、記録では直茂は藩祖、息子の勝茂が佐賀藩初代藩主ということになっています。
直茂はその後も、龍造寺家に近しい者たちへ一応の敬意を払い、事を荒立てないよう、龍造寺家丘疹たちと対峙することがないよう気を配りながら、その影響力を削いでいきました。

龍造寺の怨念か?鍋島化け猫騒動の真相とは

龍造寺の怨念か?鍋島化け猫騒動の真相とは

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いくら断絶してしまったとはいえ、相手は幼いころから苦楽を共にした龍造寺家です。
直茂としても、無下にすることはできなかったのでしょう。

直茂はかつて、かの豊臣秀吉から「天下を取るには大気と勇気と知恵が必要。
直茂は天下を取るには知恵と勇気があるが、大気(度量の大きさ・覇気)が足りない」と評されたことがあるとか。
龍造寺隆信なら真っ先に自ら藩主と名乗り、自分に逆らった者一族郎党残らず皆殺しにしそうなものですが、直茂はあくまで龍造寺家とは距離を取る姿勢を貫き、その後、龍造寺季明と関わることもなかったようです。

この直茂の行動が、様々な憶測を生むこととなります。
その最たるものが「鍋島化け猫騒動」です。

実のところ、高房に関する噂は、これ以前からちらほら囁かれていました。

直茂を恨みながら自害した龍造寺高房。
その遺体は佐賀の泰長院というところに手厚く葬られましたが「高房の亡霊が白装束で馬に乗って現れては、夜中に城下を駆け巡る」と言われていたのです。
藩主になることを遠慮した直茂の行動と重なり、いろいろ尾ひれが付き始め、「飼っていた猫が、飼い主の恨みを晴らすため化け猫になって直茂や勝茂のもとに化けて出る」という話に発展。
もちろん根も葉もないことではありますが、こんな噂話が広がるとは、世の中が平和になったという証なのかもしれません。

直茂は1618年(元和4年)、81歳でこの世を去ります。
通常なら大往生と言うべき年齢ですが、死の前、直茂の耳に腫瘍ができ、かなりの激痛に苦しみながら死んだのだとか。
高齢ながら穏やかな往生というわけにはいかなかったため、その様子を知る者たちの間で「高房の亡霊では」「龍造寺の呪いか」とのうわさが飛び交い、これが化け猫騒動へと繋がっていったのではないか、と考えられています。

佐賀には「鍋島の化け猫騒動」が伝わる猫塚があります

佐賀県杵島郡白石町にある秀林寺というお寺に、「鍋島の化け猫騒動」の猫の怨念を供養する猫大明神なるものが祀られています。
猫塚とも呼ばれ、キャットフードなどをお供えする人の姿も。
化け猫話は江戸時代にはお芝居の演目にもなっていたようで、いろいろ尾ひれがついて壮大な怪談話となっており、猫塚にもそのあたりの説明を書いた立札がたてられていました。
鍋島直茂のとった行動は賢明で、直茂が龍造寺をやんわり押さえ込んだからこそ鍋島氏は11代に渡って続き、佐賀にとってかけがえのない存在となったのかもしれません。
でも、結果、龍造寺家に背を向けてしまったような形となり、それが龍造寺家の恨みを増すことになってしまったと、少し残念な気もするのです。
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