知っておきたい東大寺!なぜ造ったの?なんでこんな大きいの?なんで焼失したの?

「奈良の大仏様が立ち上がったら30mくらいになるらしい」以前、奈良を旅行した際、誰かがそんな話をしていたのを聞いて「なるほどなぁ」と思ったことがありました。法隆寺の五重塔高さが31.5mあるとのことなので、大仏様が五重塔の横に立ったらどうだろう?なんて、ついつい想像を。しかしこの穏やかなお顔の大仏様、長い長い歴史の中で焼失したり戦に巻き込まれたりと、大変なご苦労を重ねておられます。歴史が分かると、大仏様のお顔もより慈悲深く感じられるはず。東大寺の歴史、辿ってみましょう!

奈良の大仏・建立までの歩み

災難が続いた奈良時代・仏教の力で平穏を取り戻せ!

災難が続いた奈良時代・仏教の力で平穏を取り戻せ!

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東大寺が建てられることになったのは8世紀半ば頃。
奈良時代のことです。

7世紀頃から日本には、中国(唐)を通じて入ってきた仏教文化が広まり、国の安寧を祈願して各地に仏教寺院が建てられていました。
平城京を中心に、天平文化と呼ばれる華やかな貴族・仏教文化が花開いた時代。
しかし一方で、干ばつ・凶作による飢饉や伝染病の流行、地震などの自然災害、日食が起きたり、内乱が起きたりと、決して安寧とは言えない日々が続いていました。

そんな中、724年(神亀元年)に、聖武天皇が即位します。
4年後に待望の皇太子を授かりますが、1歳を迎える前に亡くなってしまうのです。
しかもその翌年、天皇が信頼を置いていた長屋王が政治的な策略にはまって自殺するという、悲劇的な事件が起こります。

次々に起こる悲惨な出来事に、聖武天皇は仏教の力で国を安定させるという「鎮護国家(ちんごこっか)」の考えに従い、まず国分寺・国分尼寺の建立を決定。
聖武天皇は数ある仏教の経典の中でも『金光明経』を重んじていたそうで、唐の僧で仏典の漢訳をしていた義浄が訳した『金光明最勝王経』を熱心に写経していたことも。
経典の中に、仏教が国を守ってくれるという教えが書かれていたため、これを推し進めようとしたようです。

最強の仏像・廬舎那仏を造立せよ!

最強の仏像・廬舎那仏を造立せよ!

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国分寺・国分尼寺の建立と同時に、聖武天皇は大仏建立を強く希望するようになります。

河内国(現在の大阪)の知識寺を訪れたとき、一般の人々が廬舎那仏という仏像を造立している様子を見て深く感銘を受け、国の総力を挙げて大きな廬舎那仏を立てたいと考えたのだそうです。

奈良の大仏の正式名称は「東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)」と言います。
盧舎那仏とは、世界の存在そのものを象徴する絶対的な仏。
仏を超えた宇宙仏と称されることもあるほど、とてつもなく尊い仏様なのです。

仏の種類は無数にあり、その偉さ・尊さから大まかに「如来」「菩薩」「明王」「天部」「その他」5段階に分けられ、「如来」が最も上位。
如来の最高峰が大日如来で、盧舎那仏は大日如来と同じとわれています。

しかしそんな尊い仏様、簡単に作るわけにいきません。
そこで天皇は、良弁という華厳宗の僧侶を中心に僧侶チームを編成。
盧舎那仏建立のための勉強をさせ、準備を進めていくのです。

大仏は当初、聖武天皇が離宮として滞在していた紫香楽宮(しがらきのみや:現在の滋賀県甲賀市)に作る予定でした。
紫香楽宮に都を移そうとしていた、あるいは一時期紫香楽宮が都だった、とも言われています。
実際、最初は甲賀で大仏造りが始まったそうですが、結局、まわりからの反対もあって、平城京の東側に建てられることになりました。

大仏建立の功労者・行基上人

大仏建立の功労者・行基上人

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都に大きな仏像を造りたい。
743年(天平15年)、聖武天皇による大仏造立の詔(みことのり)が発せられます。
詔とは「天皇からの命令」または「命令を伝えるための文書」のこと。
いよいよ、奈良平城京で、世紀の大事業が始まります。

この大事業、朝廷の力だけでなく、全国の金と労働力を集結して造る必要がありました。
それも、強制的に納金や労働を強いられるのではなく、喜んで自主的に。
そこでこのとき活躍したのが、奈良時代の僧侶・行基(ぎょうき)です。

行基は仏教の布教を行いながら各地をまわり、橋やお堂を建てるなどの事業に貢献した徳の高い僧侶。
庶民に大変人気があったのだそうです。
そんな行基に朝廷は「全国から資材や人手を集めて欲しい」と協力を要請。
人望が厚く公共事業にも精通していた行基は全国を行脚して、大仏建立の意味を説き、資材や人手を集めます。
行基の活躍で日本全国から、大量の材木や金・銅など資材や人手が集まりました。

大仏は、鋳型を取って造られています。
まず木材を組んで骨組みを造り、粘土などで大仏の輪郭を形成。
周囲に型持をはめ込んで外側を土で固め、隙間に銅を流し込んでいくのです。
コンピューターも重機もない時代、巨大な鋳物を造るには、相当な苦労があったことと思います。

こうして752年(天平勝宝4年)、詔の発布からおよそ9年の歳月をかけて完成。
大仏建設にかかわった人の人数は260万人にものぼると言われています。
大仏建立に尽力した行基は、749年(天平21年)にこの世を去ります。
行基が大仏の姿を見ることはありませんでした。

奈良の大仏・数々の危機を乗り越えて

1200年前から既に世界最大級だった大仏殿

1200年前から既に世界最大級だった大仏殿

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大仏が完成した後、続いて取り掛かったのが大仏殿の建設。
大仏完成の直後から開始され、758年に(天平宝字2年)完成しています。
大仏殿の正式名称は「東大寺金堂」です。

言わずと知れた、世界最大の木造建築。
しかしこの大仏殿、創建当時そのまま残っているわけではありません。
少なくとも2度、焼失しており、その後再建されています。
また、大仏も火事や地震で頭や手が落ちたこともあり、そのたびに修復されてきました。
昔は神社仏閣の火事は多かったので、こうした災難は避けて通れないものなのかもしれませんが、

現在、奈良公園の先にある東大寺大仏殿の大きさは、正面の幅57.5m、奥行き50.5m、棟までの高さ49.1m。
では、創建当時の大仏はどのくらいの大きさだったのでしょうか。

平安時代に書かれた、東大寺に関する文書『東大寺要録』の中に、大仏について記した資料があり、そこに、大仏殿(建物)に関する記述があります。
それによると、創建時の大仏殿の規模は、「幅29丈(約85.8m)、奥行き17丈(約50.3m)、高さ12丈6尺(約37m)、柱数84」と記されているのだそうです。

高さや奥行きはほぼ同じですが、幅がだいぶ狭くなっています。
もしかしたら、再建する際、資金や労働力などの理由から、同じ大きさの建物を建てることができなかったのかもしれません。

それにしても、現代よりさらに大きな大仏殿だったとは驚きでした。
現在の東大寺は世界最大の木造建築物として知られていますが、今から1200年以上も前に、既にそれより大きな建造物が建てられていたことになるのです。

絶体絶命!平家一門による「南都焼討」とは

絶体絶命!平家一門による「南都焼討」とは

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奈良時代が終わり、時代は平安へ。
都が平安京に移されると、大仏の管理が徐々におろそかになっていきます。

大仏殿の大きさから推察されるように、大仏そのものの大きさも現在と同様に15mほどありました。
これだけ大きな鋳物を維持するには、お金も労力も必要です。
まして100年、200年と時がたてば、破損個所が出てくるのも当然のこと。
しかし僧侶たちの心は大仏から離れてしまったのか、荒廃は進む一方だったようです。

一時期は崩壊寸前だった大仏。
このままではいけないと、僧侶たちは再び、大仏たちの改修に動き始めます。
組織の見直しや財源の確保に奔走し、東大寺独自の荘園を持つなどして、大仏修繕のためのお金の確保に尽力。
855年(斉衡2年)に地震で大仏の頭が落ちてしまったときも、すぐに修理をしています。

いい感じになってきたところでしたが、都には暗雲が立ち込めていました。
当時、絶大な勢力を誇っていた平氏と、東大寺や興福寺など由緒あるお寺とは、以前から折り合いがよくなかったのです。
平氏の総大将はあの平清盛。
天皇のために建てられた寺院など、清盛たちからすれば目の上のたんこぶ。
お寺の側も清盛たちを成り上がり者と思い粗野に扱っていたのかもしれません。

そんな中、1180年(治承4年)に、とうとう事が起きてしまいます。
平清盛の五男の平重衡が父の命を受けて寺院を焼き払ったのです。
世に言う「南都焼討」。
この焼き討ちで東大寺は敷地内の多くの建物を失ってしまいます。

大仏再建・そして再びの焼失

大仏再建・そして再びの焼失

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平氏に盾ついた罰として荘園まで没収されてしまい、焼失した建物の再建も叶わない状態に陥った東大寺。
しかし、これも長くは続きませんでした。
平清盛が亡くなり、平氏の力が弱まってくると、重源(ちょうげん)という僧侶が、寺院の様子を視察に来ていた後白河上皇の使者に大仏再建を進言。
後白河上皇から大勧進に任命されます。

勧進とは、僧侶が布教を行ったり、仏像などの修理のため寄付を募ること。
重源は全国をまわり、平氏に変わって力を持ち始めてた源頼朝の協力を得て、大仏再建のために奔走。
そして1185年(文治元年)に大仏完成、5年後には大仏殿も完成します。

このとき、仏師として既に名声を治めていた運慶と快慶も、東大寺の再建に参加しています。
現在も残る、東大寺南大門の金剛力士像も、このとき作成されたもの。
痛手を受けた東大寺から、日本を代表する仏教美術が誕生したのです。

それから400年ほどの時が流れて時代は戦国時代へ。
せっかく再建した大仏殿に、再び火の粉が降りかかります。

1567年(永禄10年)、大和国(奈良県)の武将・松永久秀と、河内(大阪府)の大名・三好義継らが東大寺周辺で戦を始めました。
松永久秀はあちこちに火をつけて街を破壊しまくり、最期は自らに火を放ち爆破させて果てたというとんでもない人物。
今回も多くの寺院が焼けてしまい、東大寺も焼失。
大仏に至っては原形を留めないほど崩れ得てしまったのだそうです。

数々の危機を乗り越えて・近年の大仏殿

雨ざらしの大仏様・再建に力を尽くした公慶上人

雨ざらしの大仏様・再建に力を尽くした公慶上人

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松永勢と三好・筒井勢による戦は半年に渡って続き、大仏殿は完全に無くなってしまいました。

山辺郡山田城(奈良県天理市)城主の山田道安は私財をなげうって大仏再建に奔走。
時の権力者・織田信長や徳川家康も勧進を許可していましたが、大仏の再建は進まず、江戸時代になっても仮の頭を乗せたまま、100年以上もの間、雨ざらし状態だったのだそうです。

ここでもまた、ひとりの僧侶が力を尽くします。
公慶(こうけい)という三論宗の僧侶で、江戸幕府の許可を得て、1684(貞享元年)から全国行脚し勧進を始めました。
江戸幕府の協力もあり、現在のお金で10億円近いお金が集まったのだそうです。
集まったお金で、大仏及び大仏殿の再建が始まり、1692年(元禄5年)、ようやく完成します。
現在、奈良公園の先に建っている大仏殿はこのときのもの。
横幅が三分の二のサイズになったのはこのときのことです。
公慶の勧進や江戸幕府の協力があっても、巨大な大仏を修復するには資金が不足していました。
そこで、大仏殿の大きさを少し小さくすることになったのだそうです。

大仏殿が再建された後も、焼けてしまった他の建物の立て直し作業が続きました。
公慶は1705年(宝永2)に亡くなりますが、弟子たちが勧進を受け継ぎ、東大寺の再建事業は続けられていきます。
18世紀後半頃にはほぼ、失われた建物の再建が完了。
松永・三好による戦で大仏殿が焼失してから優に200年以上の時が経過していました。

神仏分離と明治・昭和の大修理

神仏分離と明治・昭和の大修理

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江戸時代が終わり、明治時代に入ると、大仏殿に再び試練が訪れます。

明治維新の後、明治政府は「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」を推し進めます。
神仏分離、神社と寺院、神道と仏教をはっきり区別しようという、政府の宗教政策。
寺院や僧侶に与えられていた特権を廃止し、神道を強めていこうとしたのです。
仏像など仏教美術品が海外に売られたり破棄されたりと、多くの寺院が打撃を受けました。

東大寺も例外ではありません。
再建から100年以上が経過し、あちこち傷んでいましたが修繕もままならず、また日露戦争などの影響で半ば放置された状態に。
文明開化の風潮が広がる中、仏教を”古めかしい”と遠ざける人々もいたようです。

その巨大さゆえに、改修費維持費は莫大なものとなり、いつの時代もその費用の捻出に悩まされ続けてきた東大寺。
加えて、江戸時代の改修工事の際に屋根に乗せた12万枚の瓦の重みに耐えかねて、屋根を支える梁や柱がしなり始めていました。
また、大仏にもゆがみが生じ始めており、非常に深刻な事態になっていたのだそうです。

本格的な改修が始まったのは1906年(明治39年)頃。
大仏殿にも新しい技術が取り込まれ、イギリスの鉄鋼技術を駆使して屋根裏に鉄骨の骨組みが完成しました。
もう、重い瓦も怖くありません。
さらに1973年(昭和48年)に行われた大規模修理の際には、雨漏りの原因となっていた屋根の隙間を始め、瓦の軽量化にも着手。
現在も勇壮な姿を保ち続けています。

波乱万丈・紆余曲折・奈良の大仏に行くシカないでしょ!

時代に翻弄され、何度も崩壊の危機を迎えながらも、いつの時代も必ず、大仏を修繕しようと力を尽くす人が現れ、再建を果たしてきた奈良の大仏様。
大仏殿のまわりはいつ行っても人が多く賑やかで、明るい雰囲気に満ちています。
聖武天皇が臨んだ安寧の時が訪れたかどうかわかりませんが、大仏殿の中で大仏様を見上げる観光客の皆さんの表情はとても穏やかで、満ち足りているようにも見えました。
見るたびに何か新しいことを感じさせてくれる奈良の大仏様。
お出かけになる機会がありましたら、何度も苦難を乗り越えてこられたこと、思い出していただけたら嬉しいです。
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