浪人から土佐20万石の大名へ!内助の功で知られる山内一豊の生涯

目立たない内側での功績や、夫の外での働きを支える妻の功績のことを「内助の功」と言います。この言葉の代名詞にもなっているのが、戦国時代から江戸時代にかけて秀吉や家康に仕え、出世していった武将、山内一豊とその妻、千代。一豊は決して身分の高い武将ではありませんでしたが、千代は貧しい生活の中、貯めたお金で名馬を買った、という話が残っており、女性のあるべき姿として後の世に語り継がれているのです。そんな千代に支えられ、真面目にコツコツ出世していった山内一豊。どんな生涯を送ったのか、様々な逸話と共に振り返ってみたいと思います。

山内一豊の生涯(1)出生から青年期

一豊、父を失い一家離散・孤児となる

一豊、父を失い一家離散・孤児となる

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山内一豊は1545年(天文14年)、尾張国(現在の愛知県のあたり)で生まれます。

時は室町・足利幕府が統治していた時代から、武士も貴族もなく強いやつだけが生き残る戦国時代への転換期でもありました。
当時、尾張国では、織田氏という一族が台頭。
各地を治めていた守護大名の代行として地方の管理を任され、めきめき力をつけてきた守護代の一族です。
かなりの勢力を持っていたので、織田氏の中でも本家・分家に分かれ、互いに鎬を削っていました。

山内一豊の父、山内盛豊は、その織田氏のひとつ、岩倉織田氏の重臣。
一豊は盛豊の三男としてこの世に生を受けます。

1559年(永禄2年)、織田氏同士の争いが激化し、山内家が仕える岩倉織田氏の居城が襲われ落城。
盛豊はなんと、討ち死にしてしまいます。
当主を失った山内家は離散。
一豊は若くして流浪生活を余儀なくされるのです。

まだ若干14歳の一豊は、美濃(岐阜県)や近江(滋賀県)を転々としながら各地の武将に仕え、苦労を重ねながら真面目にコツコツ働きます。
ある時、仕えていた主が織田信長の逆鱗に触れ出奔。
再び取り残されてしまった一豊は、1568年(永禄11年)頃から信長に仕えるようになります。
このとき出会ったのが、同じく信長のもとで働いていた木下秀吉(後の豊臣秀吉)でした。

一豊、初陣で武功を立てる

一豊、初陣で武功を立てる

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山内一豊はそれほど武芸に長けていたわけでもなく、さしたる武勇伝もない人物。
おそらく、それほど目立つ若者ではなかったのかもしれません。
信長は一豊に、秀吉の下で働くよう命じます。

これは屈辱的。
信長の家臣として立場は対等なはずなのに、その秀吉の家臣になれということ。
こうしたことが軋轢を生み、争いに発展していったケースは数知れずあります。
しかし一豊は不満を言わず、信長の命に従って秀吉の下で働き始めるのです。

1570年(元亀元年)、近江国で大きな戦が勃発。
織田信長・徳川家康連合軍と、浅井・朝倉軍による、姉川の戦いです。
この戦で、一豊は初陣を飾ります。
既に25歳を過ぎていた一豊。
苦労人ゆえ、若干遅めの初陣となりました。

信長は天下統一を成し遂げるべく、今川氏、斎藤氏と有力大名を次々撃ち破り、まさに破竹の勢い。
さらに越後国の朝倉氏を討つため出陣しますが、朝倉氏と同盟関係にあった浅井氏が朝倉氏に味方。
信長は思いもかけず苦戦を強いられます。

浅井氏の元には、信長の妹、お市の方が嫁いでいたため、自分に味方するだろうと思っていた信長は浅井氏に裏切られたような形になり、兵力では圧倒的に有利だったにも関わらず大ピンチに。
家康に救われるような形で、浅井氏の山城であった横山城を取り、戦いは終わりを迎えます。
戦は大変激しいものになり、多くの兵が姉川で命を落としたのだそうです。

この戦で、一豊は顔に矢が貫通するという大けがを負いながらも奮戦。
朝倉氏の重臣を打ち取るなど功績を上げました。
このときの働きが信長の目に留まり、一豊は浅井の領地の一部、400石の領地を与えられます。

戦国武将・山内一豊の誕生です。
一豊の地道な努力が報われた一瞬でした。

一豊、千代を妻に迎える

一豊、千代を妻に迎える

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千代が嫁いできたのはこの頃だったと考えられています。
内助の功で知られる大変な才女。
出生については諸説あるそうで不明な点も多いそうですが、美濃か近江かの出身と見られています。
名前も、「千代」と伝えられていることもあれば「まつ」と記されていることもあり、途中で名を改めた可能性もあるようです。

千代にはいくつか有名な逸話が残っています。
有名なのが馬の話。
嫁入りの際の持参金か、あるいは貧しい生活の中で貯めたへそくりで、夫が欲しがっていた馬(鏡栗毛:かがみくりげ)を買い、その馬が信長の目に留まった、というもの。
その馬は遠方から商人が売りに来たもので「東国第一の馬」と呼ばれており、あまりにも高額だったため織田の家臣たちは誰も手が出せなかったのだとか。
このまま誰も手を出さないのでは「織田家臣には馬一頭買える者がいない」と馬鹿にされるところを、一豊が救ったとして、信長に評価されたのだそうです。

また、少し先の話になりますが、関ヶ原の戦いの前、東軍につくべきか西軍につくべきか迷っていた一豊に手紙を送り、徳川につくよう進言した、という話も伝わっています。
このとき、一豊は千代からの手紙を未開封のまま家康に渡し、千代との普段のやり取りの中で既に徳川に忠誠を誓うことを決めていた、というようなことを匂わせ、家康の信頼を獲得。
合戦後も徳川の家臣として出世を続けます。

千代については、後の世の小説やお芝居なども多く、史実と区別がつかなくなっている部分も多いのですが、単なる妻としてでなく戦国の世を生き抜くパートナーとして夫を支え続けたことには違いないようです。

山内一豊の生涯(2)豊臣の家臣として

一豊、各地を転々としながら戦にあけくれる

一豊、各地を転々としながら戦にあけくれる

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山内一豊は秀吉の直属の家臣となり、1577年(天正5年)には播磨国有年(現在の兵庫県赤穂市のあたり)周辺に合計2000石余りを与えられます。
その後も秀吉の中国地方遠征に加わり、鳥取や高松など多くの戦に参戦。
じわじわと功績を上げていきます。

1582年(天正10年)、天下統一を目前にしながら本能寺の変で織田信長が倒れ、一応の後継は決まりましたが、戦いは避けられない状況に陥りました。
信長を討った明智光秀を倒した秀吉は、一歩抜きんでた状態に。
ますます勢いを増して、柴田勝家など他の織田の家臣たちと対立。
一豊も戦に明け暮れる毎日となります。

1583年(天正11年)のの賤ヶ岳の戦いの前哨戦となった伊勢亀山城攻めでは、一番乗りの手柄を上げ、翌年の小牧・長久手の戦いでは重要な局面となる付城の築城を担当。
秀吉の躍進に引っ張られながら、コツコツと実績を積んでいったのです。

四国を平定し、天下統一まであと一歩というところまで駒を進めた秀吉は、養子に迎え入れた甥っ子の秀次を後継者と定めます。
一豊は何人かの武将たちと共に秀次に仕えることとなり、秀次と共に近江八幡へ。
秀次は一豊たち家臣から様々なことを学び、政良く近江を治めていきます。

ここでも一豊は、陰になり日向になり秀次を支え、その功績から長浜城の城主に。
石高もどーんと2万石に増え、大名の仲間入りを果たすことができたのです。
山内一豊、40歳を迎えていました。

一豊と千代、地震でひとり娘を失う

一豊と千代、地震でひとり娘を失う

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1586年(天正13年)、近江地方を大地震が襲います。
世に言う「天正大地震」。
日本海側若狭湾から太平洋側の三河湾に及ぶ広範囲、日本史上例のない大地震であったと言われています。

時は戦国時代、秀吉があちこち攻めていて領地がはっきりしていない時代でもありましたので、各地の状況を記す資料が少なく、被害状況も不明なところが多いそうですが、余震が1ヶ月以上も続き、その後も人々の生活に大きな影響を与え続けました。

この地震で、一豊と千代のひとり娘、与禰(与祢・よね)が建物の下敷きになり、亡くなってしまいます。
享年6歳。
このときの夫妻の哀しみ・心の痛み相当なものだったと思われます。

この後この夫婦には子が生まれることはなく、一豊は側室も持たなかったため、以後、直系の子供を持つことはありませんでした。
二人の絆が深かった、ということなのかもしれません。
一豊は後に、弟の康豊の長男を養子にしています。
後の土佐第二代藩主・忠義です。

哀しみに暮れる夫婦ではありましたが、そんな中でも、秀吉の天下統一の動きは進んでいきます。
秀次重臣の一豊に休む暇はありません。
そして1590年(天正18年)、小田原攻めが始まります。

一豊、5万1000石まで昇りつめる

一豊、5万1000石まで昇りつめる

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豊臣秀吉の天下統一まであと少し。
秀吉に従わないのは関東の雄、北条氏のみという状況になっていました。

難攻不落の小田原城を有する北条氏は城に籠り戦々恐々。
こちらに傾く様子はありません。
山内一豊も豊臣秀次について小田原征伐に加わります。
小さいながらも2万石を拝する戦国大名。
一豊は数百人の兵を率いる武将となっており、中には腕のたつ兵士も加わっていたようです。
一豊は部下を率いて小田原城の支城を攻略するなど、次々成果を挙げていきます。

小田原攻めの後、織田信長の次男の信雄が豊臣秀吉と一悶着あって尾張から退いたため、秀次が尾張や伊勢も統治。
それに伴い一豊たちも拠点を移し、一豊は遠江国の掛川にも領地を与えられます。
山内一豊の石高はこれで5万1000石。
立派な中堅大名です。

一豊は掛川城に入ると、城の拡張工事を実施。
石垣や天守などを大幅に増築し、城下町の整備にや治水工事にも着手します。
豊臣の家臣としてだけでなく、大名としての仕事もこなし、城主として大いに力を発揮。
掛川城は東海の名城として後の世でも高く評価されるほど、美しい外観と強固な護りを併せ持つ近代城郭として生まれ変わります。

秀吉の朝鮮出兵の際には、出兵こそしませんでしたが、船の建造や人員の確保、伏見城での事務作業など、裏方として諸大名を支える役割を担い、秀次を支え続けました。

天下統一を成し遂げ、天下人となった豊臣秀吉。
後継者である秀次の家臣である一豊の未来も、さらに開けていくはずでした。

山内一豊の生涯(3)豊臣から徳川の世へ

一豊、主君・豊臣秀次を取り調べる

一豊、主君・豊臣秀次を取り調べる

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ところが、そんな秀吉と秀次の関係に、徐々に亀裂が生じ始めます。

秀吉にはそれまで、正室ねねとの間にも、側室の間にも、実子がありませんでした。
そのため、秀次が養子に入って後継者となっていたのですが、ここへ来て側室・淀殿との間に実子が産まれたのです。

1593年(文禄2年)、秀吉57歳のとき誕生した男子、後の豊臣秀頼。
秀頼が誕生すると、秀吉は秀次を遠ざけ、秀頼を溺愛するようになります。
秀吉と秀次の溝は埋まらず、1595年(文禄4年)、秀次に謀叛ありとの噂が流れたことから、秀吉はついに、秀次を関白の座から引きずり降ろしてしまうのです。

秀次は高野山に入りますが、秀吉の命により切腹。
このとき一豊は秀吉から、他の数名の家臣たちと共に、秀次を取り調べる役目を言い渡されます。
上司であり恩義もある社長の所業追及を、上司の上司である名誉会長から言い渡された中間管理職、山内一豊。
しかし彼はまっすぐに責務を果たします。
結果、秀次の処断の後、その領地から8000石を加増。
山内一豊の石高は、5万9000石となりました。

一豊、前から家康を支持してたみたいな感じで徳川に味方する

一豊、前から家康を支持してたみたいな感じで徳川に味方する

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秀次が死に、1598年に(慶長3年)に秀吉が没すると、豊臣家には上に立つ成人男性がいなくなってしまいます。
秀頼はまだ10歳にもならない子供。
豊臣家が権勢を振るっていたといっても、それは秀吉の存在があってこそのことです。

動きが活発になってきたのは、関東に飛ばされていた徳川家康でした。
策をめぐらし、他の大名たちを次々味方につけて、じわじわと豊臣を追い詰めていきます。
家康と、豊臣方の戦は避けられない状況に。
豊臣家臣の石田三成が挙兵すると、各大名たちは、徳川につくか、三成につくか、重要な選択を迫られていました。

武将たちは協議のため小山(栃木県のあたり)に集合。
徳川家康から「三成に味方してもいいよ、家族のことも心配だろうし」と言われます。
ここで最初に「徳川にお味方する!」と声を上げたのが豊臣家臣だった福島正則。
三成とはあまり仲が良くありません。
これに続いて一豊が、掛川城を差し出すので大坂攻めに使ってほしい、進言。
味方するだけでなく、城や領地など実質的なものを差し出し、徳川の勝利に賭けると言い出したのです。
驚いたのは家康。
しかしこのことで、東海地方の他の大名たちも徳川に味方すると声を上げ始めます。
家康は何もせずに、大坂攻めのルートを確保。
どちらがうわてか、まったく、食えないタヌキです。

この前後と思われますが、一豊は妻・千代からの手紙を受けとっています。
千代は手紙に「以前から話していたとおり、徳川様にお味方して力を尽くしてください」というようなことを綴っており、その手紙が未開封のまま家康の手元に。
実際には、どっちにつこうか決めかねて迷っていた一豊ですが、この千代の手紙で、ずいぶん前から徳川につくことを決めていた、みたいな感じに。
家康は一豊に信頼を置くようになります。
徳川に忠誠を誓っていることを示すための千代の機転、一世一代の大芝居だったのです。

一豊、土佐一国の主となるが旧臣の扱いに苦労する

一豊、土佐一国の主となるが旧臣の扱いに苦労する

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関ヶ原の戦いは徳川方の勝利に。
一豊は2500の兵を率いて参戦、南宮山に陣取る毛利勢の大軍と向き合いますが、家康に内通する者が続出。
西軍は腰砕け状態となり、わずか半日ほどで敗走状態となります。
一豊の兵は直接戦うことなく、徳川勝利を見届けることとなりました。

関ヶ原の後、戦では特に何も成果をあげることのなかった一豊ですが、それまでの働きが評価され、土佐一国を与えられます。
土佐10万石。
後に20万石以上の石高となりますが、ここはもともとは豊臣家臣の長宗我部氏の領地です。
旧臣たちは一豊たちに猛反発。
全然言うことを聞きません。

長宗我部には昔から「一領具足」があり、農民は戦に駆り出されていました。
農民たちは軍役を果たす代わりに税金を免除されていたのですが、一豊が一領具足を止めようとしたところ、特権を失うことに不満を持った農民からも反発を食らいます。
土佐国では多くの紛争が起き、一豊は日々頭を悩ませながらも政に従事。
刀狩りを行うなどして制圧していきます。

このように、一豊の土佐入りは穏やかには進みませんでした。
一豊は重要な役職には自分が連れてきた家臣を当て、長宗我部氏の家臣たちも登用はしましたが重要なポストを任せることはありませんでした。
双方にははっきりとした差が生まれます。
いつしか、山内の家臣たちは「上士」、長宗我部の家臣たちは「郷士・下士」と呼ばれるようになり、土佐藩の武士の階級制度を生む要因に。
この制度は土佐藩の藩政に深く根を張ります。
そしてここから250年余り後、下級武士の扱いに不満を抱いた坂本龍馬など、藩の垣根を超えて活動する幕末志士たちへと繋がっていくのです。

真面目にコツコツ実直に・戦国時代を生き抜いた山内一豊

父と家を失い流浪の生活から、土佐一国の主にまで出世した山内一豊。
1605年(慶長10年)、病に倒れ、60歳でこの世を去ります。
妻の千代は息子に後を託し、京都へ移り住んで晩年を過ごしたのだそうです。
本人はさほど際立った人物ではなかったようですが、賢い妻をめとり、よい家臣に恵まれ、大大名にまでのし上がることができました。
運もあったかもしれませんが、本人が実直で堅実であったことが、多くの人々を惹きつけ、功績につながっていったのだと思われます。
派手な事件は起こさなくても、一豊のような人物の尽力があってこそ、時代は動いていくのだと強く感じました。
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