出奔されてもコイツが必要!と伊達政宗に思わせたデキる親戚・伊達成実ってどんな人?

伊達といえば伊達政宗。おそらくほぼ100%の確率でみんながそう思うはず。けれど、政宗の偉業の影には、有能な家臣たちがいたことを忘れてはいけません。片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)と並び、まさに伊達家の双璧とも言うべき人物だったのが、伊達成実(だてしげざね)です。政宗とは年も近く、かなり親密だったんですが…なんと、一度出奔しちゃったんですよ。そして末裔は明治時代に北海道へ移住…と、ちょっと興味深い人なんです。ぜひ、伊達成実という人物を知っていただきたいと思いますので、お付き合い下さいね。

政宗のいとこ、でもいとこ違いでもある?

政宗のいとこ、でもいとこ違いでもある?

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伊達成実は、永禄11(1568)年、伊達実元(さねもと)の嫡男として生まれました。
政宗のひとつ年下になります。

父・実元は政宗の祖父である晴宗(はるむね)の弟、母は晴宗の二女ということで、政宗とはけっこう血のつながりが深いんです。
しかし複雑ですよね、母方からだと政宗とはいとこ。
でも、父方だと従叔父(いとこ違い)になるんです。

さて、まずは父・実元のことを少し紹介しておかなければなりません。

本来、実元は越後(新潟県)の上杉家に養子に行くはずでした。
しかし、実元の父・稙宗(たねむね)が兄・晴宗と争いを起こし、「天文の乱」という戦に発展してしまったんです。
実元は稙宗側に付いて参戦、兄とは刃を交えることになってしまいました。

結局、稙宗が隠居して晴宗に家督を譲るということで収まったんですが、こんなことをしていたので、せっかく勢力を広げていた伊達氏は少し後退してしまったんですよ。
ホントに、東北は親子とか親戚とかで争うのが多いんです。
ちなみに、政宗の母の実家・最上家もよくお家騒動してます。

とまあ、こういう事情もありましたが、成実の父・実元は上杉家に行くことはなくなり、兄・晴宗とも和解しました。
そして本家を支えることになるわけです。

伊達家と上杉家の家紋が似ている理由

ちなみに、成実の父・実元がらみでひとつ豆知識を。

伊達家と上杉家の使用する家紋の中に、とても似ているものがあるんですよ。
2羽の雀が羽を広げ、向かい合っている図で、伊達家のものは葉っぱのようなものに囲まれ、上杉家のものは円に囲まれています。

伊達家のものは「竹に雀」、上杉家のものは「竹に二羽飛雀」といいます。

「竹に二羽飛雀」は、実元が上杉家に養子に行くと一応は決まったので、婿入りのときに与えることにしたものなんです。
養子は立ち消えとなりましたが、家紋だけは上杉家で使われるようになったみたいなんですよ。
そのため、両家の家紋は似ているんですね。

人取橋の戦いでの敗戦、政宗を逃がす

人取橋の戦いでの敗戦、政宗を逃がす

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さて、いろいろありましたが、成実は最初からちゃんと政宗に忠誠を誓い、仕えるようになります。
元服の際は、政宗の父・輝宗が烏帽子親となったくらいですから、将来的には政宗の右腕となることを期待されていたんでしょうね。
天正11(1583)年には父から家督を譲られています。

天正13年秋(1585)のこと、政宗の父・輝宗が二本松城主・二本松義継(にほんまつよしつぐ)に会談の場で拉致されるという事件が起きました。
政宗は義継に追っ手を差し向けますが、この時に敵もろとも父も鉄砲で射殺。
そして政宗が伊達家当主となったのでした。

そして、政宗は父の弔い合戦と称して二本松城を攻め、年明けには二本松氏の救援に駆け付けた南奥羽諸将の連合軍と対峙することとなったんですよ。
これが「人取橋(ひととりばし)の戦い」です。

しかし、連合軍3万に対して伊達勢は7千と、兵力には4倍以上の差があり、さすがに数には勝てません。
案の定、伊達勢は敗走しますが、この中にあって、19歳の成実は500の兵を率いて踏みとどまり、政宗をどうにか逃がすことに成功しました。
つまり、成実は政宗にとっては命の恩人にもなったんですね。

伊達家の南の守りを任される

伊達家の南の守りを任される

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天正14(1587)年、様々なさや当ての末、二本松城が和睦と引き換えに開城すると、成実は20歳にしてこの城主となります。
領地は3万8千石と、立派な大名です。

この頃、伊達氏はかなりの苦境にありました。
政宗もまだ若く、周辺勢力には侮られており、裏切りはしょっちゅう起きていました。
まさに「昨日の味方は今日の敵(その逆もあり)」を地で行っていたんです。

領地の北では政宗母の実家・最上氏(「鮭様」こと最上義光/もがみよしあき)とせめぎ合いを繰り広げ、南では相馬(そうま)氏、蘆名(あしな)氏と交戦が続いていました。

こんな中で成実は相馬・蘆名と相対する二本松城主となったわけですから、とても重要な任務を負っていたということになります。
天正16(1588)年、相馬・蘆名連合軍との郡山合戦では苦戦が続いていましたが、成実のウルトラCとも言えるワザが炸裂したんです。

それは、一度は伊達を裏切り敵方となっていた大内定綱(おおうちさだつな)を味方に引き入れたことでした。

成実の調略の意義の大きさ

大内定綱と伊達氏の間には複雑な事情があったんですよ。
元々は政宗の正室の実家・田村氏を破って独立した人物ですが、いったんは政宗に従っていました。
しかし、政宗の父・輝宗を拉致した二本松義継と姻戚関係を結んでおり、二本松氏を通じて伊達氏の敵である蘆名側にこの時は属していたんです。

こんな風にめんどくさそうな人物を、うまいこと説得したのが成実でした。

大内勢力を再度味方に付けた伊達側は形勢を逆転させ、見事勝利(もしくは引き分け)を収めたというわけです。

この戦の意義はとても大きいものでした。

今まで他の武将たちになめられまくっていた伊達氏が、甘く見てはいけない勢力を認められた瞬間でもあったんです。

そして、これをきっかけに、伊達氏は再び勢力拡大を始めたのでした。
天正17(1589)年には再度蘆名氏と対戦し、摺上原(すりあげはら)の戦いでは完全にこれを打ち破り、会津方面での足場を固めます。
この戦でも大きな武功を挙げたのは、成実でした。

秀吉に対抗するべしと主張

秀吉に対抗するべしと主張

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成実の活躍もあり、伊達氏は東北での覇権をほぼ手にした頃、時代はすでに豊臣秀吉の天下となっていました。

そして、小田原の北条氏征伐にやって来た秀吉は、東北諸将にも参陣を命じたんです。

ここで、政宗を支える双璧・片倉景綱と成実の意見は真っ二つに分かれました。

景綱は小田原参陣をすすめましたが、成実は秀吉に抵抗すべしと主張したんです。

政宗も迷ったでしょうね。
すでに、小田原へ相当の遅刻となることはわかっていたでしょうし、かといって天下人に真っ向から刃向かうことができるかどうか…。

結局、政宗は大幅な遅刻ながら小田原に行き、秀吉に謁見しました。
この時、成実は政宗の留守居役を命じられています。

異例!重臣なのに人質となる

異例!重臣なのに人質となる

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しかし、やっぱり政宗自身も野望ある男。
秀吉の奥州仕置(東北諸将への領地再分配と検地)に不満を抱いた分子を扇動し、一揆を起こさせたんですよ。

ところがこれが秀吉に露見し、政宗は上洛を命じられてしまいます。
敵意も叛意もないことを示すため、成実は秀吉方の武将で東北に配置された蒲生氏郷(がもううじさと)の元に人質として派遣されました。
本来なら、人質になるのは妻子などですが、重臣の成実を派遣するとは異例です。
しかし、伊達を守るためであれば…と、成実はためらいなく向かったことでしょうね。

結局、この件で政宗は米沢から岩手山城(いわでやまじょう/宮城県大崎市)に減転封され、成実もまた角田城(かくだじょう/宮城県角田市)に移封となりました。

朝鮮出兵と秀次事件

朝鮮出兵と秀次事件

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完全に秀吉に屈服することとなった政宗は、文禄元(1592)年の最初の朝鮮出兵「文禄の役」に参戦し、成実も従軍します。

この時、伊達隊は見物客が詰めかけるほどド派手な軍装で臨んだと言われていますが、もしかすると成実も…?と思ってしまいます。

ところで、武将の兜ってかなり個性的なものが多いんですが、成実もまたその例に漏れません。
兜の前面にあしらわれた飾りは「前立て」と言いますが、成実のものはなんと「毛虫」。

これ、決して気持ち悪いものではないんですよ。
毛虫には「退かない、つまりは前進あるのみ」という意味がこめられており、他の武将も使用しています。
でもやっぱり、ちょっと気持ち悪い…と思ったら失礼なんですが。

文禄の役の後の文禄4(1595)年、秀吉の後継者と目されていた関白・豊臣秀次(ひでつぐ)が、突如謀反の罪に問われ、切腹させられてしまいます。

政宗は秀次と親しくしていたため、危うく連座の罪を問われる事態になりました。

そこで、成実を含む在京の伊達家臣たちが誓詞を提出して事なきを得たのですが、この時、成実の署名は二番目でした。
これが、後の彼の出奔の一因ではないかと言われているんですが…さて、次項でご説明しましょう。

突然の出奔!原因は?

突然の出奔!原因は?

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秀次事件の後、突然、成実は出奔してしまいました。

いったいどうしてこんなことになったのか…現在でも、はっきりとした理由は謎に包まれています。
そして、出奔したとされている時期もまちまちなんです。
文禄4(1595)年から慶長3(1598)年の間とされており、行き先も、高野山とも相模・糟谷(神奈川県伊勢原市)とも言われており、何ともモヤモヤした出奔劇でした。

理由はいくつか推測され、仮説が立てられています。

まずは、先ほどの項目で少し触れた、誓詞での署名が二番目だったということ。
これはつまり、伊達家における席次が二番目であるということなんですが、一番目になったのが石川義宗(いしかわよしむね)という政宗のいとこであり、父の代では政宗に一度敵対した家でもあったんですね。
成実としては、なんでそんな奴の下なのか…という思いがあったことかと考えられます。

他にも、功績に対する所領が少ないことへの不満があったとか、独立して大名を目指そうとしたとか、はたまた諸国を巡り政宗が天下を取るための工作をしていたとか…いろいろな説がありますが、いちばん有力視されているのは、最初に述べた席次への不満だとされています。
それでも、はっきりとはわからないんですけれどね。

出奔後の成実は…そして出戻りへ

出奔後の成実は…そして出戻りへ

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成実が出奔してしまったので、角田城で留守役をしていた家臣たちは、政宗が差し向けた接収軍に抵抗した末にほぼ皆殺しにされてしまいます。

その後、成実自身は徳川家康に仕えようとしましたが不首尾に終わったとも伝わっています。

また、慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの際には、上杉景勝に5万石で家臣にならないかと誘われますが、「本来なら家臣になるはずの奴に従えるか」と断っています。
確かに、父・実元が養子に入っていれば、謙信も景勝も家臣扱いになったかもしれませんからね…。

と、そこへ、片倉景綱と甥に当たる留守政景(るすまさかげ)らが成実を説得にやって来ます。
そして、何だかあっさりと成実は政宗の下に復帰しました。
抵抗して命を落とした家臣団は何だったのか…と突っ込みたいですが、このあっさりとした出戻り劇の裏では、きっと片倉らが奔走していたんでしょうね。

そして、政宗も成実を受け入れていることからすれば、政宗も成実を必要としていたんでしょう。

政宗との交流と信頼

政宗との交流と信頼

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慶長7(1603)年、成実は仙台伊達藩の南の要害・亘理城(わたりじょう/宮城県亘理町)を任されます。
出戻りとはいえ、政宗に相変わらず信頼されていたことがわかります。

政宗は成実にしょっちゅう手紙を書いており、「特に用はないが手紙を書いてみた」という何とも笑ってしまう手紙や、「沙汰がないので心配している」という手紙も残っており、交流があったことがうかがえます。
鶴や魚など、多くの贈り物がやり取りされていたようですよ。

政宗の娘が徳川家康の息子と結婚する際は婚礼の使者となったり、最上家改易の際には城を接収する大役を担ったりと、伊達家にとっては欠かせない存在でした。

政宗が亡くなってからも、跡を継いだ忠宗からも重用され、名代として江戸に参上しています。
この時、将軍・徳川家光に人取橋の戦いの思い出を語り、家光に「すごい!」と感嘆されたそうですよ。

こうした過去の戦の経験や政宗とのエピソードを、成実は「成実記」としてまとめています。
戦だけでなく、文才もあったんですね。

そして、正保3(1646)年、養子の宗実(むねざね/政宗の九男)に家督を譲ると間もなく亡くなりました。
79歳と、当時としては長寿を全うしました。

亘理伊達家初代としての名君ぶり

亘理伊達家初代としての名君ぶり

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亘理城主となった成実は、城下町の整備や農業の振興に尽力しました。
稲作に向かない沿岸部は塩田として開発したりして、なかなかの行政手腕を発揮しています。

こうした彼の業績により、最初は6千石余りだった亘理の石高は、後世には2万5千石弱にまでなったんですよ。

そして、名君として慕われた成実は、明治時代には亘理神社の祭神となっています。

また、亘理伊達家14代当主・邦成(くにしげ)は、戊辰戦争後に北海道へ渡り、ここで苦難を乗り越え開拓を果たしているんですよ。
当時は逆賊だった伊達家でしたが、この功績によって男爵となりました。
邦成自身も養子であるため、成実の直系の子孫ではありませんが、その行政手腕が後に受け継がれたような気がしてなりません。

出奔劇の真相が知りたいが…

出奔劇は気の迷いだったのかとしか思えないほど、成実はその時期を除いては政宗に尽くしています。
今となってはその理由を推測することしかできませんが、のっぴきならない事情があったのでしょうね。
彼の兜にあしらわれた毛虫の前立てのように、とにかく前に進むしかなかったのでしょう。

しかし、彼を失わなくて済んだ政宗は、本当に良かったと思いますよ。
もちろん、出戻りの成実を受け入れた政宗も度量が広いんですが。
すべてを水に流して再び信頼関係を再構築できたのは、成実のこれまでの功績と人となりがあってこそだったのではないでしょうか。

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