秀吉が初めて築いた”出世城”!近江・長浜城とはどんな城だったのか

歴史の書物や時代劇などではよく登場するのに、現存していないため今はもう見ることができないお城、日本中にたくさんあります。天下人・豊臣秀吉がまだ織田信長の家臣として仕えていた頃に築いた長浜城もそのひとつです。秀吉出世街道の起点とも言える城は、近代城郭の基礎的な構造を持った名城だったとも言われていますが、いったいどんな城だったのでしょうか。秀吉が長浜城を得るまでの軌跡を振り返りつつ、城の全貌に迫ってみたいと思います。

長浜城主・羽柴秀吉の時代

秀吉、小谷城の戦いの功績を認められ、浅井領12万石を拝領する

秀吉、小谷城の戦いの功績を認められ、浅井領12万石を拝領する

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戦国時代まっただ中の1573年(天正元年)、天下布武を推し進める織田信長と、近江北部を治めていた戦国大名浅井長政との間で戦いが始まります。
世に言う「小谷城の戦い」。
信長は浅井氏の居城であった小谷城(おだにじょう)に総攻撃をかけます。
浅井長政のもとには、織田信長の妹のお市の方が嫁いでおり、両者は親戚関係にありましたが、信長が浅井氏の同盟相手であった朝倉氏を攻めたことから、浅井氏は朝倉氏の味方につき、信長と敵対することになってしまったのです。

この戦で、3000の兵と共に夜半に小谷城に攻め込み、本丸占拠に成功したのが木下秀吉、後の豊臣秀吉でした。
追い詰められた浅井氏は、お市の方と3人の娘を引き渡し、自害。
浅井氏は滅亡します。

小谷城の戦いの後、秀吉は戦での功績を評価され、浅井氏の領地12万石を拝領。
以後、羽柴秀吉と名乗るようになります。
人に取り入り武功を立て、農民からとうとう城持ちにまで出世した秀吉、このとき37歳。
本来なら自分が落とした小谷城に入るべきところですが、あまりいい思い出がなかったのか、はたまた交通の便が悪いと思ったのか、10㎞ほど南へ行ったところの琵琶湖岸に新しい城を築くことにします。
このとき築いた城が、長浜城です。

長浜城完成し、秀吉一家、小谷城より移り住む

長浜城完成し、秀吉一家、小谷城より移り住む

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琵琶湖の北東部、現在の北陸本線長浜駅のすぐ近くの琵琶湖のほとりは、その昔、今浜村と呼ばれていました。
今浜に城を築くことを決めた秀吉は、長く繁栄することを願い、さらに信長から名前を一文字頂戴して、この地を「長浜」と改名したと言われています。

現在の長浜城跡に架けられている案内板の説明によれば、この場所にはもともと室町時代の初めごろから「バサラ大名」として知られる京極道誉(きょうごくどうよ)の出城があったそうで、築城に適していたのかもしれません。

ちなみにバサラとは、南北朝時代を中心に流行った言葉で、身分秩序関係なく実力主義で権威にこびず派手な振る舞いをする人のことを表す言葉だとか。
若いころの信長のことを「うつけもの」などと言うことがありますが、あれと似たようなもの。
そんな無頼漢の城があったことを、秀吉は意識していたのでしょうか。

さて、1573年から始まった長浜城の築城。
資材は主に小谷城から運び込んだのだそうです。
また、琵琶湖北部に浮かぶ竹生島に隠してあった材木なども使い、長浜城の築城は着々と進んでいきます。
完成までに3~4年かかったと考えられていますが、残念ながら、このときの城の図面などは残っていないのだそうで、どんな城が築かれたのか、詳しいことはわかっていないのです。

とにかく築城開始から数年後に完成した城に、秀吉は自分の家族を呼び寄せ、城主・戦国大名としての第一歩を踏み出しました。

秀吉が小谷城から運び出したのは、資材だけではありません。
なんと城下町もまるごと持ってきていました。
近隣の多くの農民商人も大勢集まってきて、長浜城下は大変な賑わいを見せたそうです。

秀吉、天下統一に動き出し、長浜城を山内一豊に譲る

秀吉、天下統一に動き出し、長浜城を山内一豊に譲る

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1582年、天下を揺るがす大事件が起きます。
京都・本能寺に逗留していた織田信長が、明智光秀に討たれ、命を落としてしまうのです。
ここでも秀吉は素早く行動を起こしました。

そのとき秀吉は中国四国地方に遠征に出ていましたが、信長死去の知らせを受け、すぐさま取って返して明智光秀を強襲します。
この素早い動きで、見事主君信長の仇を討つことに成功した秀吉は、信長の下で一列に並んでいた諸大名の中でも一歩リード。
そんな秀吉の様子に危機感を覚えた織田家重臣の柴田勝家は、戦ではなく話し合い(清洲会議)で信長の後継を決めようとしますが、既に秀吉の勢いは抑えきれないものになっていました。

会議に於いて、いったんは、柴田家が長浜の支配権を獲得し、勝家の甥の柴田勝豊が長浜城に入ります。
しかし半年もたたないうちに、勝家の隙をついた秀吉が長浜城を包囲し、奪還に成功。
同調する諸大名や武将と共に決起し、翌1583年(天正11年)、柴田勝家を破ります(賤ヶ岳の戦い)。

何のいたずらか、このとき柴田勝家の妻となっていたのが、あの浅井長政のもとから織田家に戻ってきたお市の方でした。
柴田勝家はお市の方と共に自害。
秀吉は勝家の領国も手中に治め、以後、長浜城を山内一豊に渡します。

秀吉が出た後の長浜城

山内一豊、長浜城主となる

山内一豊、長浜城主となる

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”内助の功”で知られる山内一豊は織田信長の家臣として仕えていましたが、ある時から、信長の家臣である秀吉について働いていました。
実直で真面目、決して人を押しのけて武功を立てるような男ではありませんでしたが、秀吉の信頼は厚かったようです。
秀吉のもとでコツコツと実績を上げ、浅井氏の旧領内に領地を持ち、さらに秀吉の甥の羽柴秀次の重臣として力を発揮していました。

秀吉が賤ヶ岳の戦いで勝利をおさめ、織田信長が築いた天下統一への基盤を受け継ぐことになった後、近江の地の統治に羽柴秀次が入ります。
それに伴い、山内一豊も近江の地へ。
秀吉が築いた長浜城に入り、2万石を拝領することとなります。
一豊も、名もなき一兵卒から這い上がってきた武将。
2万石の城持ちとは大出世でした。
一豊にとっても、長浜は”出世城”となったのです。

長浜城を拠点として、秀吉の天下統一のため地方遠征に明け暮れる山内一豊を、ある日突然悲劇が襲います。
1586年(天正13年)に起きた天正地震により長浜城は全壊。
当時まだ6歳だった一豊の一人娘与祢が乳母と共に命を落としてしまうのです。

悲しみに暮れる山内一豊ですが、時代は大きく変わろうとしていました。

長浜城、天下分け目の関ヶ原の後まもなく、廃城となる

長浜城、天下分け目の関ヶ原の後まもなく、廃城となる

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1590年、小田原を攻めて北条氏を落とした秀吉は天下統一を成し遂げ、名実ともに天下人となります。
このときも一豊は数々の武功を立て、遠江国掛川に5万1000石を拝領することとなり、6年ほどの間城主を努めた長浜を後にします。

1598年、豊臣秀吉がこの世を去ると、今度は徳川家康が勢力を伸ばし始め、1600年、豊臣方と徳川方、西軍東軍による天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発。
西軍は敗走し、徳川が勝利をおさめると、1606年(慶長11年)に徳川家臣の内藤信成が長浜城にはあいります。

しかし1615年(元和元年)、大坂の陣の後、長浜城は廃城に。
長浜城より少し南に行ったところに、徳川家家臣の井伊氏によって彦根城が築城されることとなり、それに伴って、近江の城は全て取り壊されることとなったのです。
長浜城の資材の大半は彦根城の築城に流用され、次々持ち出されていきました。
秀吉が築城してからわずか40年ほど。
時代は戦国から江戸時代に入り、太平の世を願いつつ、長浜城はその短い生涯を終えたのです。

現在の長浜城跡

長浜城跡を巡る・長浜城の遺構とは

長浜城跡を巡る・長浜城の遺構とは

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廃城になった後、資材のほとんどが運び出されてしまったため、長浜城跡には建物らしきものは何も残っていませんでした。
残されているものは、石垣がほんの少しと、かつて城内にあったとされる「太閤井戸」のみ。
井戸といっても場所を示す石碑がたつだけで、琵琶湖の渇水時には足元まで見えますが、それ以外は水に浸かってしまっています。
城の形状がわかりませんので何とも言えないようですが、水際まで長浜城だったことを示す史跡のひとつと言えるでしょう。

石垣についても、表に見えている石はほとんど、彦根城に持って行ってしまいました。
そのため、地中に埋まっていたため残っていた石垣根石がいくつか、城内に展示されているのみということになっています。
城内では昭和40~50年代に何度か発掘調査が行われていますが、まだ、城の全体像は明らかになっていないのだそうです。

長浜城跡に掲げられている説明板には、古地図などから導き出された城の構造復元図が描かれています。
それによれば、長浜城は琵琶湖際に突き出すように天守と本丸御殿を配し、陸地側の城下町との間に二重の堀を巡らせた水城の体を成していたようです。
琵琶湖から直接船で城内に入ることができ、天守や本丸は水際の石垣が守るという、琵琶湖の水利を活かした見事な造りとなっています。

あくまで推測、ということになるようですが、目の前の琵琶湖の勇壮な姿を見ると、長浜城はきっと、すばらしい水城だったに違いないと、そう思えてなりません。

復元された長浜城天守閣

復元された長浜城天守閣

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現在の長浜城跡には3層(2層の大屋根の上に望楼)の模擬天守が建っていますが、これは1983年(昭和58年)に建てられた模擬復元天守。
内部は市立長浜城歴史博物館となっています。
秀吉が築いた天守は形がわからないため、築城当時の様子を鑑み、犬山城(現在の愛知県・天守が現存する数少ない城のひとつ)などを参考にデザインされました。

模擬天守は鉄筋コンクリート造ですが、大きな石積みによる天守台も設けられ、雰囲気があり。
瓦もぴりっとしていてカッコいいです。
たいていの城跡には、多少なりとも当時の石垣が残っていたり、天守台が残っていたり、礎や基礎跡が残っていたりして、たとえ天守の形がわからなかったとしても多少の手掛かりになるところだと思います。
長浜城の場合はそうはいきません。
いっさいがっさい彦根城へ持って行ってしまったので、天守台がどこにあったかさえ、はっきりわかってはいないのです。
石垣自体もどんな形をしていたかわからないので、天守台の再現ひとつとっても、模擬天守の建設には大変なご苦労があったと思います。
建設に際しては「秀吉が築いた長浜城を再興したい」という地元の皆さんの強い要望があったのだとか。
秀吉が築いた城とは異なる天守かもしれませんが、長浜の地元愛が感じられる長浜城模擬天守。
心して見学させていただこうと思います。

長浜城跡の見どころ

長浜城跡の見どころ

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江戸時代に廃城になった長浜城。
石垣まで運び出したため、跡形もなくなってしまいましたが、城跡は明治42年に豊公園という名の公園となります。
豊臣秀吉にちなんで”豊”の字をとってそう名付けられたのだそうです。

琵琶湖を望む園内には、テニスコートや噴水、児童公園、日本庭園や桜並木などがあり、公園のすぐ近くにはホテルやヨットハーバー、レストランなど。
琵琶湖からの風が気持ちよく、散策にはもってこいで、地元の人々の憩いの場となっています。

復元された模擬天守の中にある市立長浜城歴史博物館では、長浜城に限らず、長浜の歴史に関する展示があり、セミナーや講演会などが催されることも。
建物内部の2階と3階が展示室になっており、さらに最上階に上がると、そこは360度ぐるりと見渡せる展望台。
戦国大名気分で琵琶湖や長浜市内を見渡すことができます。
季節を通じて絶景を楽しめますが、おススメは桜の季節。
城を囲むように植えられた600本の桜が満開になり、見ごたえ抜群です。

また、豊公園から長浜駅を挟んで反対側には、秀吉が作った長浜城下町が広がっていて、現在でも街のあちこちにその痕跡が残っています。
残念ながら当時の建物が残っているわけではありませんが、石碑を巡りながら当時の街並みを忍んでの散策も楽しいです。

わずか40年で生涯を終えた幻の城・長浜城

戦のための山城や比較的小さな規模の城も含めると、日本には2万5000以上もの城があったとも言われていますが、現在、天守が残っている城は12しかありません。
戦乱で焼失してしまったり、世の情勢に合わせて別の場所に拠点を移動したため廃城になったり、江戸時代初期に徳川家康が発案した一国一城令によってやむなく取り壊された城も。
秀吉が築き、山内一豊が育てた長浜城、どんな城だったのか、今後の調査に期待したいところです。
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