小牧山城で近世城郭の始祖・織田信長の築城技術を学ぶ

小牧山城といえば、織田信長が初めて築いたと言われる城。天下布武のため慌ただしく動き回っていた信長は、目的だった美濃攻略を達成すると岐阜城へ移ってしまったため、たった4年で廃城となってしまった幻の城でもあります。現在は山全体が史跡公園となっていて発掘調査や研究が進められており、日本城郭の歴史の貴重な資料にもなっている小牧山城。信長の城造りへの思いや技術が少しずつ明らかになってきています。いったいどんな城だったのか?歴史を振り返りながら廻ってみたいと思います。

信長が初めて築いた城「小牧山城」~築城までの道のり

時は戦国、美濃の斎藤氏に父子の確執あり

時は戦国、美濃の斎藤氏に父子の確執あり

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小牧山城は織田信長が築いた城ですが、背景には美濃の斎藤氏との確執がありました。
まずは信長と斎藤氏の関係を見ていくといたしましょう。

16世紀の半ば頃の美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部のあたり)は、一介の油売りから身を起こし戦国大名にまでのぼりつめた斎藤道三(さいとうどうさん)が治めていました。
道三は織田信長の父・信秀とライバル関係にあり、長い戦いの末1548年(天文17年)に和睦。
信長は道三の娘濃姫を妻に迎えます。
それまでの信長は身内から「うつけ者」と呼ばれるほどの不良少年でしたが、道三は信長に才能ありと見込んでいたのです。

1554年(天文23年)、道三は家督を息子の義龍に譲り、隠居します。
しかしこの義龍と道三の折り合いはあまりよくありませんでした。
道三は家督を継がせた義龍より、義龍の弟たちに愛情を注いでいたようで、そのことから義龍との間に溝ができていったようです。

父に不満を募らせていた義龍は、最悪の行動に出ます。
弟たちをおびき寄せて手にかけてしまうのです。

斎藤氏内紛勃発。
1556年(弘治二年)、道三と義龍は長良川で一戦交えることとなってしまいます。
しかしこの時、道三に味方する勢力は少なく、”美濃の蝮”と恐れられた道三は、自分の息子に討ち取られてしまうのです。

信長、尾張の長となり、美濃攻めを目論む

信長、尾張の長となり、美濃攻めを目論む

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義龍強襲の知らせを受けた織田信長は、尾張から道三の援護に駆け付けますが、既に道三の命は潰えていました。
勢いに乗った義龍軍を前に形勢不利と見た信長軍はやむなく退却。
その後、織田信長は自分の身内との家督争いとも向き合いつつ、斎藤義龍と敵対し続けます。

1559年(永禄2年)、織田家内の家督争いに決着をつけ、正真正銘尾張の国主となった信長は京都へ出向き、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見します。
その翌年、尾張に侵攻してきた駿河・遠江(現在の静岡県)の大名・今川義元との決戦に挑むのです。
2万とも4万とも言われる今川の大軍にわずか数千の軍勢で強襲をかけた信長は、見事今川義元を討ち取り、今川軍を退けます。

これが世に言う「桶狭間の戦い」。
この戦で今川軍に加わっていたのが、まだ若いころの徳川家康(戦のときの名は松平元康)でした。

家康は人質として出されていた子供の頃、一時期、織田家に預けられていたことがあり、信長とは気の知れた仲でした。
しかし家康の実家と織田家の間には長年確執があり、お互い、いつ敵同士になるかわからない危うい状態にあったのです。
信長は美濃攻めを視野に入れており、背後から家康に隙をつかれることを避けるため、1562年(永禄5年)、家康と同盟を結びます。
この時、信長29歳、家康は21歳でした。

信長、美濃攻めの拠点に小牧山を選ぶ

信長、美濃攻めの拠点に小牧山を選ぶ

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信長と家康の同盟会合は「清洲同盟」と呼ばれています。
これは、当時の信長の居城であった清洲城を家康が訪れたことからそのように呼ばれるようになったわけですが、清洲城は美濃国からだいぶ南のほうに位置していました。
美濃を攻めるならもっと美濃に近い位置に拠点が要る、信長はそう考えていたのかもしれません。

桶狭間の戦いの最中も、信長と斎藤氏の攻防は続いていました。
ところが清洲同盟の少し前に、にっくき斎藤義龍が突然この世を去ります。
家督を継いだのは義龍の息子の龍興。
まだ14歳だったそうです。
これを機と見たか信長は美濃に侵攻し、斎藤氏を攪乱します。
若い龍興に重臣たちをまとめる力はなく、斎藤氏は混乱。
有力武将たちが次々と斎藤氏のもとを離れていきます。
信長は美濃をじっくり攻めるため、清洲城より北、美濃に近い位置に城を築くことを決意。
美濃平野の中にある小牧山が信長の目に留まります。

周囲は平地、小高く、広大な敷地を持つ小牧山は、美濃攻めの拠点に適していました。
信長が小牧山に移ったのは1563年(永禄6年)だったと考えられています。

美濃・斎藤氏との攻防

小牧山へ移転?そのとき家臣たちは

小牧山へ移転?そのとき家臣たちは

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信長も、信長の父信秀も、何度も自分の居城を変えています。
江戸時代になると幕府の命令で城を移ることがよくありましたが、戦で勝ち取ったり追い出されたりではなく、目的に合わせて自ら居城を変える武将は珍しかったかもしれません。
特に小牧山の場合は、美濃を攻め落とすためにわざわざ築いた城であること、その点が非常に特異であると言えるでしょう。
それまで小牧山には、神社や祠のようなものはあったようですが、少なくとも城が築かれたことはありませんでした。

せっかく駿府・遠江の今川氏を敗走させたのですから、勢いに乗って今川の領地に攻め込むのかと思いきや、家康との間に同盟を敷いただけで、わざわざ美濃に近いところに城を築いてそっちに移ると言い出す主に、家臣たちは動揺したに違いありません。

史実かどうかは定かではありませんが、小牧山移転にはちょっと面白い裏話が伝わっています。

清洲から小牧に移ると言っても、重臣たちは納得しないはず。
そう思った信長は「丹羽郡二ノ宮山に城を造ってそこに移る」と発表したのだそうです。
二ノ宮山は小牧山よりさらに北。
そんな!とんでもない!と、当然のことながら家臣たちは猛反対です。
信長は家臣たちの反対意見をじっくり聞いた後「わかった。
じゃあ小牧山に変更する」と、みんなの意見を聞いて計画を思い直したような言い方をします。
すると今度は反対意見もなく、みんな小牧山移転に賛成したのだそうです。

何でも力で押し通すイメージがある信長ですが、全てワンマンというわけではなく、緩急使い分けていたのかもしれません。

こうして信長は清州城を出て、美濃を攻略するべく小牧山城へと移っていきました。

信長、稲葉山城をなかなか攻め落とせず苦労する

信長、稲葉山城をなかなか攻め落とせず苦労する

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信長は小牧山城に移る前から、何度か美濃に攻め込んでいますが、斎藤氏の家臣たちの守りを崩すことができず、一進一退、なかなか成果を上げることができずにいました。
1561年(永禄4年)に森部の戦いに於いて斎藤氏重臣を撃ち破り勝利しますが、斎藤氏の居城であった稲葉山城を攻略することができず、何度か逃げ帰っています。

膠着状態が続く中、1564年(永禄7年)に、斎藤家の家臣たちが稲葉山城を乗っ取るという珍事が発生。
若く未熟な城主はたびたび家臣たちを失望させており、そのことが家臣たちをこのような暴挙に走らせたものと思われます。
斎藤龍興は稲葉山城を捨てて敗走。
これを見た信長は稲葉山城を乗っ取った斎藤家家臣たちに「城を明け渡せ」と迫りますが、家臣たちはまもなく龍興に城を戻します。
龍興は稲葉山城に戻ったものの、斎藤氏はそのまま弱体化。
一方、小牧山城を築いて美濃のすぐ近くに拠点を得た信長の勢いは日に日に増していきます。

しかし信長は、それでもなかなか、稲葉山城を攻略することができずにいました。

そんな中、1567年(永禄10年)、斎藤氏重臣で「美濃三人衆」と呼ばれる稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全の三名が織田軍に寝返ります。
この寝返りの裏には、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の調略があったのだそうです。

これを聞き、信長は小牧山城から即出陣。
速やかに稲葉山城を包囲し、占拠に成功。
小牧山城を築いて4年。
苦労の末ようやく、信長は斎藤氏を討ち取り美濃を手中に入れるのです。

信長、念願の稲葉山城を手に入れ、小牧山城を後にする

信長、念願の稲葉山城を手に入れ、小牧山城を後にする

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最後の稲葉山攻めは、かなり激しい戦闘になったようです。
斎藤龍興は身一つで何とか逃げ延び、伊勢へと落ちていきました。
城主と重臣を失った城ははだか同然。
斎藤道三自慢の強固な城は、小牧山を拠点とした武力攻勢と、内通者を引き込むという知略の双方から攻められ、落城となりました。

斎藤道三の死からおよそ10年。
美濃攻めには長い時間がかりました。

現代の発掘調査・研究によると、小牧山城は単なる戦のための山城ではなく、かなりしっかりした居住スペースが築かれていた可能性が高いのだそうです。
結果的には4年で役目を終えた小牧山城ですが、もしかしたら信長は、美濃攻めにはもっと時がかかる、と考えていたのかもしれません。

目的を達成したら即次のステップに進むのが信長流。
美濃攻めのために構築した小牧山城、美濃を手に入れた後はもう用済みです。
当時はまだ珍しかった、石積みによる石垣もかなり本格的に造らせたというのに、稲葉山城が手に入ると、信長はさっさとそちらに移動してしまいます。

1567年(永禄10年)、信長は稲葉山城を「岐阜城」と改め、居城に。
小牧城はその役目を終え、廃城となりました。

信長が去った後の小牧山城

戦うだけの城はもう古い!?城の概念を変えた小牧山城

戦うだけの城はもう古い!?城の概念を変えた小牧山城

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小牧山の標高は86m、東西約600m、南北400m、面積はおよそ21ha(6万3500坪)。
山を取り巻くように土塁や石垣、堀などが残っており、信長はこの山のほぼ全域を使って城を築いたと考えられています。
山頂には本丸、その周囲に三重の石垣が築かれ、山の中腹には至るところに曲輪が築かれて盤石の体制。
東側の麓の曲輪にはかなり広い屋敷跡らしきものが発見されていて、信長の居住用の館であった可能性が高いようです。

信長が小牧山に築いたのは城だけではありません。
山の麓は一面原野で何もありませんでしたが、信長はそこに清洲からそっくり城下町を持ってきました。
城から田畑や城下町を見渡せるようにしたものと思われます。
現在でも小牧の街中にはその当時の町割りの痕跡が見られるのだとか。
こうしたことからも、小牧山城が戦のための一時的な山城ではなく、城主が住まう居城として築かれたということがわかります。

通常、城を移転するとなると、お金もかかるし労力も必要です。
まして、もともと建っていた建物を居抜きで使用するのではなくゼロからの築城。
さらに城下の形成も行うとなると、莫大な費用がかかります。
しかしそれを信長はやってのけ、戦うだけのものではない、力を示す城造りを推し進めていくのです。

廃城~小牧山城のその後

廃城~小牧山城のその後

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小牧山城から岐阜城(もと稲葉山城)へ移った信長は、斎藤道三が築いた典型的な戦国時代の山城を、居住スペースを持つ城へと作り変えていきます。
城下町も築き、城下を見下ろせるような構造になっていたようです。
さらに岐阜城には、山頂に天守らしき建物が建っていたとみられています。
信長はこの後、琵琶湖湖畔に安土城の建設を開始。
ヤドカリのようにどんどん城をグレードアップさせていきながら、少しずつ西へと駒を進めていきます。
天下統一のため、目指すところはやはり京都だったようです。

しかし1582年(天正10年)、信長は志半ばにして本能寺の変で命を落としてしまいます。

信長が立ち去ってから廃城となっていた小牧山城は、1584年(天正12年)に起きた小牧・長久手の戦いで、羽柴秀吉と対峙する徳川家康の本陣が置かれました。
このとき家康は、信長が築いた堀や土塁を改修し、さらに強固な城へと改修を行ったと伝わっています。
家康は以前から、小牧山城に目をつけていたようです。

江戸時代に入ってからの小牧山城は、尾張徳川家の領地して管理されることに。
明治以降も尾張徳川家の所有地のままでしたが、1927年(昭和2年)に当時の徳川家当主によって国に寄付されることになり、同年、国の史跡にも指定されることとなりました。

現在の「小牧山」とは

現在の「小牧山」とは

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現在の名古屋市街地の真北、東名高速道路小牧インターからほど近い場所に、役所や学校など小牧の街中の建物に囲まれるようにぽっこりと、緑に囲まれた小高い山があります。
この山が、かつて織田信長が建てた城があったという小牧山です。
高さはそれほど高くはありませんが、周囲が平地こともあってとても目立ちます。

現在では山全体が史跡公園として一般に開放されている小牧山城。
山中には土塁、空堀、曲輪跡などがそこかしこに残っており、城跡を見ながら山道散策を楽しむことができます。
桜の名所としても有名です。

信長が小牧山城に天守を築いたかどうかについては、よくわかっていないのだそうですが、現在の小牧山の山頂には天守がそびえています。
これは名古屋の実業家平松茂氏によって昭和30年代に建てられた模擬天守であり、その形はなぜか、秀吉が築いた聚楽第の飛雲閣を模しているのだそうです。
信長や家康が建てた建物(の復元)ではないので史跡として見ることはできませんが、山頂に建つ優雅な天守もなかなか見ごたえがあります。

天守の中は歴史史料館となっていて散策を兼ねて城の歴史を知ることが可能です。
最上階は展望室になっていて、山頂から見下ろす街の風景はなかなかのもの。
平野の先にはあの稲葉山城があった山も見えます。

夜間にはライトアップをするのだそうです。

信長・美濃攻めのための潔い城、小牧山城

戦国時代のお城に関する資料などを読んでいるとつくづく、城って大事なんだなぁと気づかされます。
目まぐるしく変化する戦国時代、金がかかるからとか手間がかかるからといって、ひとつの城にしがみついているような時代ではなくなっていたのかもしれません。
それを信長は行動で示そうとした、小牧山城はその先駆けだったのです。
山を歩いてみると、黎明期とは思えないほど立派な石積みが数多く残っていて驚かされます。
緑豊かで、自然散策としても楽しめる小牧山城跡。
是非お出かけになってみてください!
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