絶対敵にしたくない男No.1!「敵はとりあえず暗殺」の宇喜多直家、でも家臣は大事にした?

主家乗っ取りで悪人と呼ばれた松永久秀(まつながひさひで)・斎藤道三(さいとうどうさん)と並び、戦国三大悪人のひとりと評された宇喜多直家(うきたなおいえ)。暗殺・毒殺・謀殺はお手の物、とりあえず敵は暗殺…という恐ろしい一面を持っていました。しかし、家臣を大事にする主君としての顔も持っていたんですよ。さて、どちらが本当の直家の顔なのか…今回は、宇喜多直家の暗殺ストーリーに迫ってみたいと思います。

幼い頃は苦労のし通し

幼い頃は苦労のし通し

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備前(岡山県東南部)の戦国武将・宇喜多氏は、同じく備前の浦上(うらがみ)氏に従う勢力でした。

直家は享禄2(1529)年、宇喜多興家(おきいえ)の息子として誕生しますが、間もなく、有能で知られた祖父・能家(よしいえ)を失うこととなり、父と共に城を追われて放浪生活をすることになったと言われています。
この頃、まだ6歳。
相当苦労があったと思われます。
放浪の中で父も失っていますし、お家再興は少年の直家に託されたのでした。

成人すると浦上宗景(うらがみむねかげ)に仕えるようになり、初陣で武功を挙げたため、宗景の家臣として出世の道がひらけていったんです。

しかし、少年時代にさんざん苦労をさせられてきた直家の胸には、祖父の仇討や果ては浦上家からの独立という野望が燃えていたんですよ。
これこそが、直家を戦国三大悪人へと導いた原点だったのかもしれません。

そして、直家はまず復讐に取り掛かったのでした。

祖父の仇を討ち、返す刀で舅を謀殺

祖父の仇を討ち、返す刀で舅を謀殺

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直家の祖父・能家は、同僚だった島村盛実(しまむらもりざね)との不仲だったために攻め殺されてしまっていました。
盛実は能家を葬った後に浦上家内で権勢をふるっていましたが、そこに直家が忍び寄り、盛実に謀反ありと疑いをかけ殺害して祖父の仇を討ったのでした。

しかし、こんなものはまだ序の口。

次に直家のターゲットとなったのは、舅でもある中山信正(なかやまのぶまさ)でした。
信正は直家が油断ならない人物であることを見抜いていたようで、早くに娘を嫁がせて姻戚関係を結んでいましたが、そんなものに直家が固執するわけもなく、謀反の容疑をかけられて殺されてしまいます。
そして直家は信正の所領まで手に入れ、勢力を拡大していったのでした。

正攻法は取りません:美少年を送り込んで暗殺

正攻法は取りません:美少年を送り込んで暗殺

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さて、すでに2つの謀殺劇を成功させた直家は、次に、一応の主・浦上家と敵対する松田家の家臣・穝所元常(さいしょもとつね)を排除することにします。
松田家は直家が備前西部進出に当たっての壁であったため、浦上家のためという名目でまずはその家臣から…というわけだったんですね。

穝所元常は勇猛な武将でした。
そのため、直家は正面からぶつかることは避けたんです。

そして彼が選んだのはまたも謀略。
しかも、美少年を好む元常の嗜好につけこんだものでした。

直家は、美少年の小姓に川辺で笛を吹かせ、元常の眼に留まるように仕向けます。
そして首尾よく小姓は元常の所へ入り込むことに成功しました。
やがてその小姓は元常の寵愛を受け、その側に常に侍るようになります。
ある時、2人で酒を酌み交わしているうちに元常が寝入ってしまうと、小姓はその隙に彼を殺害したのでした…。
鮮やかと言えば鮮やかですが、実に用意周到なやり方でした。

こうして直家の壁がまたひとつ排除されたこととなります。

前代未聞!スナイパーによる暗殺劇

前代未聞!スナイパーによる暗殺劇

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次に、直家が狙ったのは、備前の隣・備中(岡山県西部)の三村家親(みむらいえちか)でした。
家親は直家とたびたび刃を交えており、直家は幾度も敗れていたんです。

そんな相手に、正攻法で行くわけがありません。

そこで、直家は浪人ながら射撃の腕に優れた遠藤秀清(えんどうひできよ)・俊通(としみち)兄弟を雇い、家親を狙撃させたんです。

しかも遠藤兄弟が用いたのは火縄銃でも「短筒」と呼ばれるものだったため、形としてはもはや拳銃でした。

そして見事に狙撃は成功し、三村家親は殺されたのです。
こうした狙撃による暗殺は、当時は前代未聞だったんですよ。
おそらく、成功した銃による暗殺劇としては、いちばん早いものだったと言われています。
それをやろうと思った直家の謀略もまた、時代の最先端を行っていたということになりますか…。

一方、直家はこの時、遠藤兄弟に何かあった時にはその家族のことは引き受けると約束していたそうです。
結果、遠藤兄弟は生還したため、直家、後に息子の秀家にも仕えることとなりました。
本来、雇った暗殺者なんて使い捨てですが、こうしてきちんと後の面倒を見たことは、直家の良さでもあるんですよ。
しかも、浮田姓まで与えています。

妹婿に娘婿を殺させる

妹婿に娘婿を殺させる

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こうして三村家を退けた直家は、浦上家に敵対する松田家に目を付けます。

松田元輝(まつだもとてる)・元賢(もとかた)父子と浦上家の和睦を取り付けた後、直家は元賢に娘を嫁がせました。
その一方で、松田家家臣・伊賀久隆(いがひさたか)に妹を嫁がせたんです。
これはあたかも、次に起こったことまで想定に入れていたような感があったんですよ。

その後、松田家が戦の際に直家へ援軍を出さなかったことで、松田父子と直家の関係が微妙になります。
そして、松田家臣のひとりが、「鹿と間違えられて」直家側の者に射殺されるという事件が起きました。
どう見ても間違えないと思うんですが、「間違えた」というのが直家の言い分。
いや絶対、わざとですよね。

ついには、直家は伊賀久隆を寝返らせ、松田父子の城を包囲し攻撃させたんです。

元輝は射殺され、元賢は討死。
元賢の妻となっていた直家の娘も自害したというのですから、直家の恐ろしさがここにはっきりと現れてきたわけなんですよ。

ちなみに、伊賀久隆もまた、後で毒殺されてしまうんです…。
怖い!

領地拡大のため、家臣に言いがかりをつけて殺す

領地拡大のため、家臣に言いがかりをつけて殺す

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直家に仕えていた者の中に、以前遠藤兄弟にやられた三村家に仕えていた金光宗高(かなみつむねたか)という人物がいました。
彼は石山城(後の岡山城)主でしたが、直家はこの石山城を狙ったんです。
ここを拠点に城下町をつくろうという野望があったんですよ。

そのため、直家は宗高に対し、「お前、毛利と通じているだろう」と言いがかりをつけ、挙句の果てに切腹させてしまいます。

こんな風にしてゲットした岡山城の前身・石山城ですが、直家はここを大改修し、城下町の整備を始めたのでした。
後にここが岡山城と城下町となるわけで、やり方はよろしくありませんでしたが、岡山発展の基礎を築いたのは直家だったんですよ。

このようにして、謀殺と暗殺を用いて勢力を拡大した直家は、浦上家臣団の中でもNo.1の実力を持つようになったのでした。

ついに主に反旗を翻す

ついに主に反旗を翻す

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時は熟した!直家はそう思ったのかもしれません。

永禄12(1569)年、彼はついに主君・浦上宗景に反旗を翻しました。
これに当たっては、裏で織田信長や播磨の赤松政秀(あかまつまさひで)らと通じ、勝機があると見込んでいたんですが、実際はそううまくはいかなかったんですよ。

赤松政秀はといえば対立中の黒田職隆(くろだもとたか)・孝高(よしたか)父子に敗北してしまい、信長の軍勢も事情によって帰還してしまったので、直家はアテが外れた形になり孤立してしまうこととなりました。

ここで直家は降伏。

本来ならば主に対する謀反ですから、死罪も免れないところでした。

しかし、宗景はここでなんと彼を助命したんですよ。

浦上宗景、最大のミスです。

直家ですよ。
絶対裏切るに決まってるじゃないですか…って、誰か家臣が言ってあげなかったんでしょうか。

とはいえ、直家はこうして死を免れ、再び時を待つことになったのです。

再度の謀反、ついに独立大名となる

再度の謀反、ついに独立大名となる

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何を思ったか、浦上宗景が命を奪わないでいてくれたおかげで、直家は再びチャンスに巡り合いました。
ほら、やっぱり…と突っ込んでももう遅し。

直家は、宗景の兄の孫に目を付け、彼を擁して挙兵したんです。
本来ならこちらが主筋でしたので、格好の口実ではあったわけですね。

また、今回、直家は念入りに策を練っていました。

備前国内などの宗景配下の者たちに調略を巡らせ、離反を招いたんです。
その中には重臣クラスの者もおり、宗景の力を削ぎました。
また、宗景とは仲の悪い毛利家と結び、いざとなれば毛利の大軍がやってくるという有利な立場に立ったんですよ。

こうして、直家は宗景を播磨に追いやることに成功しました。
そして、彼の領土は備前・備中の一部や美作(みまさか/岡山県東北部)にまで広がることとなったんです。

とはいえ、浦上家の者すべてが直家に従ったわけではなく、旧浦上家臣と彼らに担がれた宗景らによる反撃にも遭いました。
一時はかなり手ひどくやられましたが、数ヶ月かけた攻防戦の末、ようやく旧浦上勢力を領土内から追い出すことに成功したんです。

そして、やっと直家は宗景から独立した戦国大名としての地位を確立することとなりました。

祖父・能家の無念から約30年余り、ついに直家は宇喜多家の再興に成功したんです。

信長への臣従と最後の謀略

信長への臣従と最後の謀略

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しかしこの頃、織田信長が配下の羽柴秀吉(後の豊臣)に命じ、中国地方の平定に乗り出しました。

最初のうちは、直家は信長に抵抗する姿勢を見せます。
この時、信長に通じたという娘婿・後藤勝基(ごとうかつもと)を滅ぼしており、やはり直家の容赦なさの健在ぶりを見せつけました。
娘のことは考えないのか、直家…!

しかも、それからほどなくして、直家は信長有利と見るや、再び態度を転換。
毛利家と手を切り、信長に従ったんですよ。
いったい何のために後藤勝基は死んだのか…!?

そして一転、今度は敵となった毛利家と幾度も交戦します。

しかしこの時、直家の身体は病に蝕まれていました。

それでも、死の直前の天正9(1581)年4月、直家は妹婿の伊賀久隆を毒殺します。
久隆は、松田家の排除後、宇喜多家内で一大勢力となっていたため、自分の死後のことを考えた直家が手を下したと言われています。
まだこの時、直家の後継ぎとなる秀家は9歳でしたから、さすがの直家も息子の行く末を案じたのでしょう。
それにしても、毒殺とは最後まで直家らしさ全開ですが…。

そして、毛利との戦を続けている最中の同年年末、直家は岡山城にて亡くなりました。

病は「尻はす」という、尻にできる悪性腫瘍だったといいます。
戒名は「涼雲星友」と、謀殺・暗殺・毒殺三昧だった彼にしてはやけに爽やかな戒名です。

宇喜多家を支えた家臣たちや弟

宇喜多家を支えた家臣たちや弟

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幼い秀家が宇喜多家を継ぐと、宇喜多三老と呼ばれる古参の重臣たちと、直家の弟・忠家(ただいえ)らが彼をよく補佐しました。

敵に対しては恐ろしい策を講じた直家ですが、このように家臣たちが後々まで尽くすということは、家臣たちにはいい主であったと言えるでしょう。
信頼関係は篤く、時に家臣にその言をバッサリと切られても、直家は素直に受け入れたそうです。

病が重くなり、死期を悟った直家は、家臣に「誰が自分に殉死してくれるだろうか」と問いかけますが、その家臣は「自分たちは、戦はできますが殉死はできませんし、死んでも地獄に落ちるしかありませんから、死出の旅の供に連れて行くなら僧侶でも連れて行ったらいかがか」とキッパリ断ります。

こんなことをずけずけ言われたら怒りそうなものですが、直家ははっとしたように「そうだった、すまん」と答えたそうですよ。
死の間際にこんな会話ができるとは、面白くもあり、直家と家臣との間に気安い部分があったことも感じられますよね。

ただ、弟・忠家は兄からの信頼とは裏腹に兄を恐れていたらしく、兄に会う時は着物の下に必ず鎖かたびらを身に付けていたそうです…。

宇喜多家のその後

秀家は、後に豊臣秀吉にかわいがられ、猶子となりました。
秀吉は彼を将来の関白候補にまで考えていたようです。
しかし秀吉の没後、関ヶ原の戦いで西軍についた秀家は敗軍の将となり、追われる身となってしまいます。
そして八丈島に流刑となり、そこで一生を終えたのでした。

宇喜多家は「浮田」姓を名乗るようになり、今でも八丈島には浮田さんが多く住んでいるそうですよ。

しかし、直家が謀略によって再興し大名の地位を得た宇喜多家は、次の代で再びその地位を失うことになってしまったわけです。
そこに、戦国時代のはかなさや残酷さがあると思います。
また、秀家が父に似ず謀略の人でなかったことも、宇喜多家の運命を左右したのではないでしょうか。

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