無敵の軍神!戦国の名将「上杉謙信」にまつわる9つのギモン

戦国時代最強とも言われる武将・上杉謙信。歴史にそれほど興味をお持ちでなくても「名前くらいは知ってるかも」という人も多いのではないでしょうか。時代劇では阿部寛さんや佐藤浩市さん、Gacktさんなど長身のイケメン俳優さんが演じることが多いので「かっこいい武将」というイメージが定着しているように思われますが、実際はどんな人物だったのでしょう?謎めいた部分の多い上杉謙信にまつわる謎・疑問、まとめてみました!

謎多き武将・上杉謙信の人となりについて

上杉謙信とはどんな生い立ち?どんな人?

上杉謙信とはどんな生い立ち?どんな人?

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上杉謙信は1530年(享禄3年)、越後(現在の新潟)で守護代を務めていた長尾為景の息子として生まれます。
次男か三男か四男か諸説あるようですが、長男ではなかったようです。
幼名は虎千代。
父・長尾為景は越後国守護の上杉氏に仕えていました。

1536年(天文5年)、父が隠居し、兄・晴景が長尾家の当主となります。
一方の虎千代は長尾家の菩提寺であった林泉寺(現在の新潟県上越市内)に入門し、禅や兵学などを学び広い知識と信仰心を培っていきました。

間もなくして父・為景が死去。
兄・晴景はまだ若く、家臣たちを取りまとめていく力などありません。
長尾氏の周囲は次第に不安定になっていきます。

1543年(天文12年)に元服して長尾景虎と名乗るようになり、翌年起きた越後豪族たちによる反乱を、わずかな兵を巧みに動かして見事鎮圧。
長尾景虎若干15歳にして初陣を勝利で飾ります。
その後も何度か戦に勝利し手柄を立てていきますが、そのことが兄・晴景との間に溝を作ってしまうのです。
長尾家当主の兄・晴景と、若いながら天才武将として頭角を現し始めた景虎。
家臣たちの中にも景虎につこうとする者が続出します。
そして1548年(天文17年)、上杉家が間に入り、景虎が兄・晴景の養子に入る形で家督を継ぎ、晴景は隠居。
景虎は19歳で長尾家当主となり、守護代を務めることとなったのです。

どんな場所・どんな城に住んでいた?

どんな場所・どんな城に住んでいた?

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現在の新潟県上越市内にある標高182mの小高い春日山に築かれた、春日山城というお城が、上杉謙信の居城でした。
別名「鉢ヶ峰城」とも呼ばれているこの城は、もともとは越後国守護であり長尾家の主君であった上杉氏が越後府中の館の詰め城として築いたもの。
そこを父・長尾為景が切り開き、天然の要害と言われる難攻不落の城を築き上げ、その後謙信がさらに強固な城にt繰り上げていきました。
近くには、謙信が幼少の頃過ごした林泉寺もあります。

山の地形を活かし、やや北側に設けた本丸を中心に高低差を利用して曲輪を階段状に配置した、守りの固い連郭式山城。
まだ石垣こそないものの、裾野には1㎞以上にも渡って築かれた土塁と堀が特徴的で、周囲には支城や砦を張り巡らせています。

1550年(天文19年)、景虎が長尾家当主として春日山城に入った2年後のこと。
仕えていた上杉家当主が後継者を残さず死去します。
そのため、時の将軍・足利義輝から謙信(当時はまだ長尾景虎)に越後の国主を務めるようお達しが届きます。
まだ若い景虎。
当然、長尾家内でも反発する動きが。
謙信はすかさずこれを制圧し、若干22歳で越後統一を果たします。

以後、謙信の養子となった上杉景勝も春日山城を居城としますが、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉の命により会津へ移動。
さらに江戸時代に入ると交通の便の悪さなどから別の場所に城が建てられ、1607年(慶長12年)、春日山城は廃城となります。

長尾景虎、上杉輝虎、上杉謙信…どれが本当の名前?

長尾景虎、上杉輝虎、上杉謙信…どれが本当の名前?

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上杉謙信は生涯で何度か名前を変えています。
昔は、仕えた主君から1文字もらったり、縁起を担いで改名することがよくあったのです。
時は戦国、多くの武将たちがしのぎを削る時代、自分を少しでも強く見せるため、あるいはほかの武将や役人たちが治めていた領地を(後継者不足や内紛などの理由で)拝領する際に、より影響力のある歴史の長い名前を譲り受けたり、時には勝手に名乗ったりしていた武将もいました。

謙信(当時はまだ長尾景虎)が春日山城の城主になって間もないころ、関東管領だった上杉憲政が関東の北条氏や甲斐(現在の山梨県のあたり)の武田氏に追われ、越後へ逃げてきます。
後に憲政からの要請もあって関東管領を引き継ぐことになるのですが、その際「上杉家」の家名も譲られ、憲政から一文字もらって「上杉政虎」と名乗るようになったようです。
さらにその後、室町幕府第13代将軍足利義輝から1文字もらって「上杉輝虎」と名乗るように。
「謙信」とは正式には1570年(元亀元年)、41歳頃から名乗るようになった法号(仏門に入った者に授けられる名)で、正式には「不識庵謙信」というのだそうです。

謙信の生涯は戦の連続でした。
武田、北条、そしてメキメキ頭角を現してきた織田信長とも対峙するようになり、晩年も戦の準備に明け暮れていたようです。
侵攻してきた織田軍を手取川の戦い(1577年・天正5年)にて撃破した後、次の戦いに討って出ようと春日山城に戻った際に倒れ、帰らぬ人となってしまいました。
享年49歳。
死因についてははっきりしていませんが、脳溢血の可能性が高いと言われています。

上杉謙信の墓所はどこに?

上杉謙信の墓所はどこに?

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謙信の亡骸は鎧を着せられ、太刀と共に甕(かめ)の中に納められ密封されて、春日山城内の不識庵に埋葬された伝えられています。
その後、謙信と縁の深い林泉寺に供養塔が建てられました。
また、上杉家が会津や米沢に移動になるに際に、若松城や米沢城内にも埋葬されたと言われています。
越後を離れ別の土地を治めることになった後も、上杉家にとって、戦国の世に於いて強くあり続けた謙信は精神的な支えとなっていたようです。
米沢藩で代々崇敬を集めた謙信は、明治維新後は米沢藩の歴代藩主を埋葬した上杉家廟所(山形県米沢市)に埋葬されました。
また、米沢城本丸奥御殿跡、現在の松が岬公園内には上杉謙信を祀る上杉神社が建てられています。

さらに、生前、謙信は岩殿山の大日如来によく手を合わせていたそうで、その遺言から、岩殿山明静院(新潟県上越市)にも供養塔が建てられました。
そのほかにも、元服を終えたばかりの頃に城主を務めていたのが栃尾城であったということから、栃尾市美術館(新潟県長岡市)の前庭にも、謙信を供養する謙信廟が建てられています。

「軍神」「聖将」と呼ばれ人々から崇められていた上杉謙信。
その人気は今も変わらず、縁の地には戦国の雄を忍んで多くの人が足を運んでいます。

最大のライバル・武田信玄との関係とは

なぜ武田信玄とは敵対関係にあったの?

なぜ武田信玄とは敵対関係にあったの?

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謙信が家督を継いだ頃の日本は、身分の高い低いに関係なく、力のある武将が戦いによって領地を広げ、互いに争い合う時代に突入していました。
謙信が治めていたのは越後(今の新潟県のあたり)でしたが、領地のすぐ南側、信濃一帯(今の長野県のあたり)まで、甲斐(今の山梨県のあたり)の武田信玄が勢力を伸ばし、越後との境界線を脅かうとします。
さらに、彗星のごとく現れて伊豆、相模、武蔵(現在の伊豆半島、神奈川県、埼玉県)を抑えた北条早雲が、上野(こうずけ・現在の群馬県のあたり)まで侵攻してきて、同じく越後と危うい関係になりつつありました。
さらに、隣接してはいませんでしたが、太平洋側の駿河、遠江、三河(今の静岡県、愛知県のあたり)では今川家、徳川家が力を持ち、そのお隣の尾張(今の愛知県の西部)ではあの織田信長が力をつけ始めていて、取るか取られるか、一触即発の緊張状態が続いていたのです。

特に武田の領地は、北条、今川、上杉に囲まれ、西側は高い山々が連なるという立地。
戦わなければ領民を守ることはできません。
武田信玄は勢力拡大のため血も涙もなく誰彼構わず攻め滅ぼし、次々と領地を獲得していきます。

一方の謙信は、若いころから仏に仕え、基本的には勢力拡大を目論むわけではなく、義を重んじて戦っていました。
戦いに臨むもの・ポリシーは真逆。
信玄の戦い方は銅にも気に入りません。
そんな謙信のことを、信玄も嫌っていたようです。
さらに、領地が近く利権を争う機会が多かったため、敵対関係が激化していったものと思われます。

有名な「川中島の合戦」とはどんな戦?

有名な「川中島の合戦」とはどんな戦?

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両者の戦いで有名なのが「川中島の合戦」です。
川中島とは長野県の北部、長野市街地の南方に位置する、千曲川と犀川に挟まれた三角州地帯で、古戦場は現在、八幡原史跡公園として残されています。
この地で両軍はたびたび激突。
拮抗していたのか、なんと5回も戦っていているのです。

1553年(天文22年)、武田信玄(この頃はまだ武田晴信)に領地を取られた北信濃の武将村上義清が謙信を頼って越後へ。
これを受けて信玄は村上領を武田から取り返すため出陣します。
突然横から出てきた謙信に信玄も応戦。
しかしこのときは両陣とも深追いはせず、双方引き上げて終わります。
これが1回目の川中島の戦いです。

2回目はその翌年。
謙信は足利将軍に謁見するため京都へ。
そのすきに信玄が再びかましてきます。
信玄の動きを察知した謙信は取って返し、両陣は川中島で激突。
何カ月も小競り合いが続いたため、一応、和睦のような形で終結します。
これが第2回です。

1556年(弘治2年)、戦いに疲れた謙信は突如出家すると言い出し、高野山に行ってしまいます。
噂を聞きつけた信玄、和睦の約束などどこへやら、三度侵攻を開始。
これに激怒した謙信も三度応戦。
戦いは押しつ押されつ数カ月続きますがいずれも決定打とはならず、両軍はそれぞれ引き上げていきます。
これが第3回。

第4回は1561年(永禄4年)、信玄は諦めずにまたまた越後に侵攻。
両軍知略の限りを尽くし、川中島の合戦史上最も激しい戦いとなります。
このとき、謙信自ら信玄の本陣を強襲し、両者直接刀を交えたと伝わっていますが、史実かどうかは分からないのだそうです。

もうやだ!という家臣たちの叫び声が聞こえてきそうですが、1564年(永禄7年)、信玄はまた越後との境に出兵。
このときは激しい先頭にはならず、しばらくの間睨み合いが続いた後、両軍とも引き上げています。

武田信玄に塩を送ったというのは本当?

武田信玄に塩を送ったというのは本当?

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「敵に塩を送る」ということわざがあります。
これは、敵対している相手が苦しんでいるとき、争いと直接関係のないことに関しては援助をする、という意味合いの言葉。
塩がなければ食料を保存することもできないし、そもそも塩分を摂らないと生物は生きていけません。
つまり”塩がない、ということは相当切迫した状態を表しています。

この言葉の語源となった出来事が、謙信と信玄の間に起きていました。

1567年(永禄10年)、信玄は相変わらず荒っぽい戦を続けていたようで、駿府の今川氏との同盟を蹴り、東海地方への侵攻を開始します。
これを受けて今川氏はお隣の北条氏と申し合わせて、武田領内への塩の販売を停止(塩止め)。
いわゆる経済制裁の一種を慣行します。

武田氏の領地は現在の山梨県・長野県一帯。
海に面していないため、領民の生活に欠かせない塩を、海に面している地域から買っていました。
今川、北条から塩を得ることが出来ないとなると、武田は窮地に陥ります。

しかし、このとき、上杉が塩止めをしたという記録は残っていないのだそうです。

謙信にとって武田氏は、何度も何度も戦ってきた(ちょっかい出してきた)にっくき相手。
しかし、憎いのは信玄であって、武田の領民が苦しむのは本意ではなかったのかもしれません。
ただ、美談として伝わるような、わざわざタダで塩を送った、という展開ではなく、単に「今川や北条から塩が買えなくなったけれど、上杉からは塩を買うことができた」ということだったようです。

それでも、時代背景を考えれば、塩を止めなかった謙信の行動は、武田の領民を救ったも同じで、美談に値すると考えてよいのかもしれません。

他にもあります!上杉謙信にまつわる謎・疑問

旗印に使う毘沙門天との関係とは?

旗印に使う毘沙門天との関係とは?

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毘沙門天(びしゃもんてん)とは仏教における天部(天界に住む者の総称・仏教の守護神)の仏神。
梵名をヴァイシュラヴァナといい、持国天、増長天、広目天と共に「四天王」として称えられる武神です。
四天王のときは多聞天(たもんてん)と呼ばれています。

仏像にはランクがあり、一番高い位置にいるのが如来、次が菩薩、次が明王で、次が天。
梵天や帝釈天なども天部の仏神。
人々を救う如来や菩薩や明王を護るのが、天の役割なのです。
毘沙門天は七難を助け七福を与える、北の方角を護る守護神として厚い信仰を集める存在でした。

謙信はそんな毘沙門天を熱心に信仰していました。
自分を毘沙門天の生まれ変わりだと信じ、家臣たちにも「自分を毘沙門天だと思え」と言っていたと言います。
また、春日山城内に毘沙門堂を設け、毘沙門天を安置して戦いの前に勝利の祈願をしていたのだそうです。

戦いのときに用いる旗。
謙信はいくつか旗を使っていましたが、「毘」という一文字も使用しています。
「龍」の文字を使った旗もありましたが、これは総攻撃をかけるときのものだそうで、不動明王を表しているそうです。

上杉謙信は女性だったって本当!?

上杉謙信は女性だったって本当!?

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上杉謙信にまつわる逸話として有名なのが「上杉謙信女性説」です。
軍神として崇められている武将が実は女性だった?これは、とある歴史小説家の仮説が、謙信人気も手伝って広まっていったもの。
信憑性は薄いものと思われますが、可能性はゼロではない。
「サンタクロースは絶対いないと言い切れるか?」的な感じで、立証できない以上、女性説を完全に否定することは難しい。
というわけで、男性だと思うが女性である可能性も捨てきれない、というのが現状のようです。

謙信は生涯独身でした。
側室も持たず、子供は全て養子です。
恋話はいくつか伝わっていますが、史実として残されているわけではありません。
戦国武将というと、たいてい、政略結婚があったり、女性関係でもめたり、いろいろ話が伝わってきてもおかしくないところですが、謙信にはそういった話は皆無。
若いうちから仏の道を信仰していたためかもしれませんが、それにしても、若くして長尾家当主となり、家を守っていかなければならないのですから、結婚話のひとつも残っていてもよさそうなものです。

戦国武将は女性問題から、その性格や個性が伺える場合が多いので、生涯独身・浮いた話無しという生涯は、上杉謙信の神秘性をより高めることに繋がっているのかもしれません。

生涯独身だった上杉謙信~後継者は誰?

生涯独身だった上杉謙信~後継者は誰?

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生涯独身、実子はなく、子は全て養子。
しかも、謙信が突然この世を去ってしまったため、謙信亡き後の跡目争いは激しいものとなりました。

謙信の養子として家督争いに名乗りを上げたのは、上杉景虎と上杉景勝。
年齢はほぼ同じでした。

景虎は相模北条氏の出身で、諸説あるそうですが北条第2代当主氏康の七男とも言われています。
北条氏との同盟に於いて上杉側に人質として出されたと見られていて、当時は北条三郎と名乗っていました。
この三郎のことを謙信が非常に気に入って、好待遇で迎え入れ、自分の名前”景虎”を名乗らせています。

一方の景勝は、謙信が若い頃に争った長尾政景の息子で、幼い頃から謙信の養子として育てられていました。

1578年(天正6年)、謙信がこの世を去った後、景虎と景勝の間で跡目争いが起きます。
世に言う「御館の乱(おたてのらん)」です。

景勝はすばやく動き、直江氏や上条氏などを味方に引き入れ、春日山城の本丸を押さえます。
景虎は関東管領の上杉氏など有力武将を引き連れ、城下にもけられた関東管領館(御館)に篭り、両者の睨み合いは数ヶ月続きました。

この争いを制したのは景勝側。
景勝は御館への総攻撃をかけ、館に火を放って内乱は集結。
景虎は逃亡中に自害して果てます。
両者の争いは1年以上も続き、決着したのは1580年(天正8年)のことでした。

一説には、謙信は病に苦しむ中、跡目は景勝に…と言い残していたとも言われています。
しかし結果的には、周囲の思惑なども絡みあい、上杉の若鷹二人は戦わざるを得なくなってしまったのです。

本当にそんなに強かったの?謎が謎を呼ぶ武将・上杉謙信

戦国時代最強とも言われる上杉謙信。
本当に最強だったのでしょうか。
謙信は15歳で初陣を飾り、生涯で70回もの戦に携わったと言われていますが、そのうち敗北は2回のみなのだそうです。
あの織田信長も、けっこう負け戦も経験しているので、勝率から考えると最強ということになりそうですが、勝利は時の運。
こればかりは何とも言えません。
それに謙信は、川中島の合戦に見られるように引き分けも多く、あまり深追いをせず、無益な戦には出なかったのかもしれません。
もし謙信が命を落とすことなく、戦いを進めていたら、いずれは信長とまみえることになったはず。
その勝敗はどうなったか?「語るまでも無かろう。
我は毘沙門天なるぞ」と、謙信ならそう呟いたかもしれません。
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