東京観光で行きたい庭園8選!公園で、歴史と絶景を楽しもう

東京は世界有数の大都市。ビルだらけというイメージがありますが、航空写真を見てみると意外と緑も多いんです。江戸から東京へと時代が大きく変わっていく中で、地元の名士や地域の人々が思いを込めて大切に残していった緑地や庭園。大都会・東京にはそんなオアシス的なスポットがたくさんあります。そこで今回は、そんな東京都内の緑地や庭園を厳選し、成り立ちや歴史などを添えてご紹介してまいります。

東京都心の広大な庭園・その成り立ちと歴史について

内藤藩の下屋敷~近代農園「新宿御苑」

内藤藩の下屋敷~近代農園「新宿御苑」

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東京都を循環するJR山手線の西側、JR新宿駅から10分ほど歩いたところに、大都会の真ん中とは思えないほど広大な敷地を誇る庭園があります。

もともとは江戸時代、信濃高遠藩(たかとおはん:現在の長野県伊那市高遠町)の内藤家の下屋敷があった場所。
内藤氏とは長く徳川家康に仕えていた人物です。
まだ江戸時代に入る前、豊臣秀吉の天下の時代、家康が江戸の町づくりを進めるにあたり、甲州街道と鎌倉街道が行き交う地点に陣を置いて警備を固めていました。
このことが高く評価され、内藤氏はこの一帯に屋敷を構え、甲州街道の宿駅として「内藤新宿」が設けられます。
宿場町というより、江戸の町中に入る前に旅人が身なりを整え馬を休める”ちょっとした休憩所”だったそうです。
内藤藩はこの地に陣を構えたことなどが評価され、石高に見合わないほど広大な敷地を拝領されていました。

江戸から明治に入ると、内藤藩が上納した広大な土地に、明治政府指導のもと、近代農業振興を目的として海外から持ち込まれた植物などの試験場が設けられます。
そして1879年(明治12年)に「新宿植物御苑」を開設。
これが現在の新宿御苑の前身です。
その後、1906年(明治39年)に4年もの歳月をかけて整備され、皇室の庭園「新宿御苑」が誕生。
第二次世界大戦中は空襲を受け施設が全焼してしまいますが、戦後、1949年(昭和24年)には国民公園として一般公開されることとなり、現在に至ります。

前身が近代農園であったことから、園内にはヨーロッパ風の庭園が設えられており、貴重な植物が見られる大規模な温室も。
敷地面積およそ58.3haという広大な敷地は、四季折々の景色を楽しみながらの散策にぴったりです。
是非、その昔、内藤藩の下屋敷があった場所だ、ということを想像しながら歩いてみてください。

大名屋敷から都会のオアシスへ「日比谷公園」

大名屋敷から都会のオアシスへ「日比谷公園」

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東京のオアシスと聞いてまず思い浮かぶのは日比谷公園でしょう。
ニューヨークのセントラルパークのように、高層ビルに囲まれた一角にある広大な公園。
形も、道路に囲まれた長方形をしていて、いかにも”洗練された都会の公園”といった趣の日比谷公園ですが、江戸時代には、名だたる大大名の上屋敷が置かれてた場所だったのです。

上屋敷とは諸国の大名が江戸に詰めている間に使用していた住居。
通常、江戸城に赴くのに便利な場所に建てられていました。

では、江戸時代より前はどんな様子だったのかというと、日比谷のあたりまでは湾が入り込んでいて、浅瀬ではありますが海だったのです。
江戸城は湾に面した入り江に築かれ、周囲を埋め立てて武家屋敷町が造られました。
”ひびや”という地名の由来は諸説あるそうですが、海苔を育てるために海に立てる竹竿を”ひび”と呼ぶそうで、もとは”ひび屋”だったのでは?との見方もあるとのこと。
何にしても、今となっては想像もつかないほど、のんびりとした漁村だったと考えられています。

江戸から明治に入り、大名屋敷が取り壊されると、あたり一帯は日比谷ヶ原と呼ばれるようになり、陸軍の練兵場が設けられます。
明治政府の官庁関連の建物の建設が計画されたこともありましたが、埋立地で地盤が悪く、大きな建物の建設には不向きと判断。
公園として利用することが決まります。
1900年 (明治33年)から数年の時をかけ、日本の「公園の父」と称される造園家本多静六博士を筆頭に、博士のドイツ留学時代の知識などを盛り込んだ公園が完成しました。
本多博士考案というS字型の道が配置される一方で、江戸城と繋がっていた堀の一部を残して池を造るなど、江戸・近代日本の双方の要素が存分に取り入れられています。

敷地面積およそ16.1ha。
東京の主要道路と高層ビル群に囲まれながら、園内にはゆったりとした空間が広がっていて、都会の公園ならではの気持ちよさを味わうことができます。
江戸城の堀の名残である心字池も見どころのひとつ。
ここがかつて大名屋敷であったことを想像しながら、東京の今と昔が交差する美しい公園散策を楽しんでください。

江戸城の鬼門を護るお寺だった「上野恩賜公園」

江戸城の鬼門を護るお寺だった「上野恩賜公園」

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総面積およそ53.2ha。
パンダで有名な上野動物園や東京国立博物館、国立科学博物館、国立西洋美術館など美術館・博物館が軒を連ねる東京屈指の公園「上野恩賜公園」。
でもこの公園、もともとは寛永寺というお寺の敷地だったんです。

1625年(寛永二年)、徳川三代将軍家光の時代、徳川家の安泰のため、江戸城の丑寅(北東)の方角、つまり鬼門にあたる上野の地にお寺を建てたのが始まり。
開山は徳川家康の側近として江戸幕府の立ち上げに大きく関わった謎多き僧侶・天海と言われています。

上野のあたりは、周囲に比べると少し高台になっていて、昔から「上野の山」と呼ばれる丘陵地帯でした。
そんなお山に創建された寛永寺の境内にはいつの頃からか桜が植樹されるようになり、桜は山一帯に広がっていったそうです。
元禄の頃になると庶民にも花見が許されるようになり、大変にぎわったと伝わっています。
江戸の町が大きくなるにつれ、敷地内にも様々な建物が建てられ、徳川家代々の墓所としても栄華を極めた寛永寺。
しかし幕末には旧幕府軍の立て籠もりによって建物は破壊され、一帯は焼け野原になってしまうのです。

荒れ果ててしまった上野の山。
病院を建てる計画がありましたが、オランダの医師ボードインが公園として自然を残すべきだと提案。
1873年(明治6年)、ここを公園にすることが正式に決まります。
4年後には産業促進を目的とした博覧会が開かれ、時代を反映するかのように博物館や動物園が造られていきました。

上野公園の桜は全国的にも有名で、春先になると花見客で大変な賑わいを見せます。
博物館や動物園で有名な上野公園ですが、元は寛永寺の敷地。
改めて散策してみると、お堂や灯篭など、当時をしのばせる建造物・旧跡が園内のそこかしこに。
江戸の町を守るためのお寺だったことを想像しながら散策してみると、また新しい発見があるかもしれません。

増上寺のまわりをぐるりと一周「芝公園」

増上寺のまわりをぐるりと一周「芝公園」

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寛永寺とくれば、増上寺に触れないわけにはまいりません。
寛永寺と共に徳川家の菩提寺として珍重され、江戸の裏鬼門の護りを担ったのが、現在、東京タワーが建っている芝のあたり。
増上寺はもともと別の場所にありましたが、江戸の町を造るにあたって家康が移したとも言われています。

江戸時代の増上寺は、寛永寺と同じく、広大な敷地内にたくさんのお堂などの建物が並ぶ、大変大きな寺院で、多くの僧侶が学んでいたのだそうです。
明治に入って、神仏分離の影響の影響を受け、徳川幕府の後ろ盾も無くなって、寺院としての規模は縮小。
敷地の多くが公園として整備されることになりました。
これが現在の芝公園の前身。
上野恩賜公園と並び、日本で最も古い公園のひとつと言われています。

現在では東京都立公園となっていて、増上寺を取り囲むように芝生広場や遊具施設などが整備され、園内にはホテルや図書館、グラウンドなども。
この公園の最大のポイントは何といっても目の前にそびえ立つ東京タワーでしょう。
展望台に上るのもよいですが、東京タワーの魅力はやはり、下から見上げた勇壮な姿。
東京タワーのベストビュースポットと言ったら、芝公園からの眺めではないでしょうか。

オススメビュースポットは増上寺の本堂の正面。
増上寺の本堂は江戸の人々にとって、とても高い建物だったに違いありません。
その本堂の後ろ側に、にょきっとそびえ立つ東京タワー。
芝公園散策の折には是非、東京タワーのベストショットもゲットしてください。

誰のお屋敷?美しい日本庭園の成り立ちと歴史について

徳川家の別邸として造られた「浜離宮恩賜庭園」

徳川家の別邸として造られた「浜離宮恩賜庭園」

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江戸時代、江戸城のまわりには大きな武家屋敷や幕府直轄の施設がたくさんあったはず。
東京都内にはところどころ、ビルや高速道路の合間に、まるでその部分だけ切り取ったかのような緑豊かな別天地があります。
その代表が、築地や汐留といった東京を代表するスポットの間にある「浜離宮恩賜庭園」です。

もともとは、1654年(承応3年)に徳川三代将軍家光の三男で甲府藩主だった徳川綱重(とくがわつなしげ)が建てた別邸。
その後、甲府藩の屋敷として利用されていましたが、綱重の息子の徳川綱豊が家宣と名を改め徳川六代将軍となったため、甲府の徳川家は無くなり、この別邸も将軍家の別邸として使われることとなりました。
その際「浜御殿」と名が付き、代々将軍家の別邸として使われることに。
鷹狩の場として徳川将軍がこの地を訪れることもあったのだそうです。

明治に入ると、外国人接待所として日本初の西洋風石造建築物「延遼館(えんりょうかん)」が建てられ、迎賓館として利用されるようになります。
延遼館は老朽化などを理由に20年ほどで取り壊されてしまいましたが、浜離宮がヨーロッパ諸国の王室など各方面の要人をもてなす場だった時代もあったのです。

第二次世界大戦で建物や樹木の多くが焼失してしまいましたが、その後、1946年(昭和21年)には東京都立庭園として新たなスタートを切ることになります。

昭和の終わりから平成にかけて、園内の茶屋などの建物が少しずつ復元され、年々、日本庭園としての美しさを増している浜離宮恩賜庭園。
海の向こうには埋立地が広がり、背後には汐留の高層ビル群。
築地市場へ向かう車が忙しく行き来する東京の中心地にあって、空の広さを感じながらゆったりと過ごせる空間は贅沢の極みです。
春先になると菜の花が咲き、園内のぼたん園では60種約800株の見事なぼたんを堪能することができます。

柳沢吉保が7年の歳月をかけて築いた庭園「六義園」

柳沢吉保が7年の歳月をかけて築いた庭園「六義園」

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浜離宮恩賜庭園と同様、東京都内の日本庭園として知られる「六義園(りくぎえん)」。
こちらも現在は東京都立庭園であり、もともとはとある人物の大名屋敷でありました。
とある、というのは、徳川五代将軍綱吉に仕えていた柳沢吉保。
幕府側用人という、非常に重要な役職に就いていた人物です。

場所は現在の東京都文京区本駒込。
江戸城の遥か北にあった加賀藩の下屋敷跡地を将軍綱吉から拝領し、1695年(元禄8年)、柳沢吉保は自らの下屋敷を造ります。
館の名前を六義館、庭園を六義園と名付けたのだそうです。
六義とは、中国最古の詩集と言われる『詩経』の中の中国古代詩の六分類「風・賦・比・興・雅・頌」のことを指すのだそう。
『古今和歌集』の中で紀貫之が「和歌に六義あり」と和歌の六つの基調を表す言葉としてこれを転用。
柳沢吉保は和歌に造詣が深かったそうで、そうしたところからこのような名前を付けたのだろうと考えられています。

和歌に詠まれるような美しい風景を表現したかったのか、柳沢吉保は9haにも及ぶ平坦な土地に土を盛って山を築き、水を引いて池を設け、7年もの歳月をかけて回遊式築山泉水庭園を造り上げました。
回遊式庭園とは園内を回遊して鑑賞するタイプの庭園のこと。
将軍綱吉も愛でたという美しい屋敷と庭園はその後も柳沢家の下屋敷として使われます。

明治に入ると、なんと三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が購入。
いったいいくらで購入したのか、とにかくここを別邸として使っていたというから驚きです。
1938年(昭和13年)には岩崎家から東京に寄贈されたというからさらにびっくり。
関東大震災や空襲の影響を受けず、柳沢が築いた当時の様子を今に伝える六義園は、1953年(昭和28年)、国の特別名勝地に指定されています。

岩崎家ゆかりの日本庭園「清澄庭園」

岩崎家ゆかりの日本庭園「清澄庭園」

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六義園の他にも、岩崎弥太郎が買い取った庭園が東京都内には残されています。
現在の東京都江東区にある「清澄庭園(きよすみていえん)」です。

こちらは、江戸時代元禄の頃の伝説の商人、紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと言われている場所。
享保年間(1716~1736年)には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷が設けられました。

この庭園も、幕末から明治に入ることにはすっかり荒廃してしまっていました。
そこを1878年(明治11年)、岩崎弥太郎が買い取ります。
いったいどうやって、いくらで買ったのか気になるところですが、その目的は、三菱社員の慰安と賓客の接待用だったそうです。
もともとの庭園に大きく手を加え、弟の岩崎弥之助の代には隅田川の水を引き込んでさらに大きく改修。
1891年(明治24年)に現在のような泉水や築山を配した「回遊式築山林泉庭園」が完成したものと見られています。

その後、関東大震災で園内の建物はほぼ消失。
しかしこのとき、この広大な庭園は災害避難所として機能し、多くの人々の命を救ったのだそうです。
岩崎家は比較的被害の少なかった庭園の東側半分を公園として東京に寄贈。
1932年(昭和7年)、清澄公園が誕生します。
1973年(昭和48年)には残りの半分の敷地を東京都が購入し、整備の後、1977年(昭和52年)に新装清澄公園が誕生します。

見どころは、庭園の敷地の半分ほどを占める大きな池と、その池の中に配置された中島が生み出す美しい風景。
とにかく水と緑のコントラストが筆舌にし難いほど優雅です。
園内そこかしこに置かれている、岩崎家が全国から集めたという名石も忘れずにチェックしてください。

水戸光圀渾身の庭園「小石川後楽園」

水戸光圀渾身の庭園「小石川後楽園」

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プロ野球読売巨人軍の本拠地でもあり、日本におけるドーム球場の草分けとして知られる東京ドーム。
そのお隣、JR飯田橋駅と水道橋駅の間という大都会東京の大動脈に沿うように、緑豊かな庭園があることをご存知でしょうか。
その名も「小石川後楽園」。
最先端技術を駆使して建てられたスタジアムのすぐお隣に、国の特別名勝に指定されている築山泉水回遊式庭園があるなんて、東京という街は本当に驚きに満ちています。

もともとは江戸時代初期、徳川御三家のひとつ水戸徳川家の江戸屋敷の中に造られた庭園でした。
水戸徳川初代藩主・徳川頼房が造らせ、その息子の光圀が改修したもの。
光圀とはあの水戸黄門の名で知られる水戸藩の第二代藩主です。

”後楽園”とは、中国・明の儒学者であった朱舜水(しゅしゅんすい)の助言によるものだそうで、明より前の時代、宋の范仲淹という人物が著した『岳陽楼記』という書物にある「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽(天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ)」から来ているのだとか。
水戸光圀は朱舜水を尊敬しており、交流があったそうで、水戸へ招いたこともあるのだそうです。

この地域は古来より、小石川台地と呼ばれる台地の先端部分にありました。
1923年(大正12年)に国の名勝に指定される際、岡山県の後楽園と区別するため”小石川後楽園”という名で登録されることに。
およそ7haという敷地の中には大きな池があり、周囲を大きな木々が覆っていてしっとりと落ち着いた雰囲気。
意外とアップダウンがあり、変化に飛んだ情景を楽しむことができます。
梅や枝垂桜、ツツジ、フジなど、植栽たちも多彩。
四季折々、訪れる人たちの心を和ませてくれます。

時代劇で有名な水戸黄門が情熱を注いで築いた庭園。
遊園地や野球観戦の前に、是非、訪ねてみてください。

東京砂漠に笑顔と潤いをもたらす日本庭園

東京オリンピックを間近に控え、海外の方々を東京観光にお招きする機会も増えてくるはず。
美しい日本庭園にご案内するだけでも喜んでいただけそうですが、そこがもともとどんな場所だったのか、知ってもらうことができたら、もっと東京のこと、好きになってもらえそうな気がします。
ショッピングに疲れたら都会の真ん中の庭園でのんびり。
東京の庭園、是非、訪れてみてください。
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