秀吉vs勝家!決戦の地・賤ヶ岳古戦場の歴史を辿る旅

賤ヶ岳(しずがたけ)とは、滋賀県長浜市にある標高420mほどの小高い山。滋賀県北部側、琵琶湖と、琵琶湖のさらに北側にある余呉湖という小さな湖との狭間に位置しています。琵琶湖国定公園の一部であり、琵琶湖八景のひとつにも数えられるこの場所は、400年以上も前、賤ヶ岳の戦いという激しい戦の洗浄となりました。今は琵琶湖を望む静かな景勝地となっている賤ヶ岳でいったい何が起きたのか、古戦場の今の様子なども含めながら追いかけてみたいと思います。

天下分け目の大戦・賤ヶ岳の戦いはなぜ起きたか?

織田信長の死と織田家の行く末

織田信長の死と織田家の行く末

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賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)とは、柴田勝家と羽柴秀吉という、共に織田信長の重臣だった武将同士が激突した戦いです。
なぜこんな戦いが起きてしまったのか、

賤ヶ岳の戦いが起きるほんの少し前まで、日本はある一人の武将によって大きく変わろうとしていました。
武将の名は織田信長。
「天下布武」を掲げ、強力な中央集権的政権を確立してすべての大名を抑え、戦乱の世を終わりに導こうと躍動した戦国大名です。
領地を争いあっていた大名たちは信長の下でひとつにまとまり、今まさに、戦のない世の中が始まろうとしていました。
しかしその天下泰平の世とは、織田信長あってこそ実現可能なこと。
そんな中、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺にて、織田信長とその息子で織田家当主の織田信忠が重臣明智光秀に強襲され、殺されてしまうのです。

そんじょそこらの大名の死とはわけが違います。
一旦は天下泰平を誓い合った大名たちを繋いでいたのは、誰であろう織田信長でした。
信長が築き上げた中央政権と強大な権力の行く末は?不幸なことに、信長から家督を継いでいた長男信忠も、本能寺にて死んでしまっています。

織田信長の血縁は、信長の息子(信雄、信孝)と、長男信忠の子、つまり信長の孫(三法師)の3人。
さて誰が継ぐべきか?誰につくべきか…諸大名たちの腹の探り合いが始まります。

そんなとき、織田信長の重臣の中で一人、抜きんでた人物がいました。
羽柴秀吉、後の豊臣秀吉です。

明智光秀を討て!秀吉の大躍進と勝家の懸念

明智光秀を討て!秀吉の大躍進と勝家の懸念

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羽柴秀吉はさしたる家柄でもなく、足軽から身一つでのし上がってきた人物。
ちょうど、数々の戦いで武功をたて、めきめき頭角を現してきたところでした。

織田信長が本能寺で命を落としたとき、秀吉は信長の命により備中高松城(現在の岡山県岡山市)付近で毛利氏との戦いの最中。
すでに秀吉の勝利目前でしたが、本能寺の変の翌日、情報を耳にするや否や、毛利氏と和議を結び、数日後には岡山を出立。
「中国大返し」と言われるほどの速さで取って返し、いち早く打倒明智光秀に動きます。

本能寺の変からわずか11日後の6月13日、秀吉は4万の軍勢を率い、山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町付近)にて明智軍およそ1万6000と激突。
秀吉は見事勝利し、光秀は敗走するも討ち死にしてしまうのです。

これを「忠義」と言うのか「抜け駆け」と言うべきか、羽柴秀吉は見事、主君・信長の敵討ちを果たします。
何にしても、岡山から京都まで、大軍を率いて数日で取って返してきたその功績は称えるべきところでしょう。
柴田勝家も京都へ向かおうとしていましたが、秀吉の素早さにはかないませんでした。

織田信長が得た絶大な権力を誰が継承するのか。
誰もが抱いたこの疑問に対し、羽柴秀吉は一歩リードした形に。
秀吉の力が大きくなることを恐れた柴田勝家は、話し合いをして織田家の後継を決めようと提案します。
場所は尾張国清洲城。
世に言う「清洲会議」の始まりです。

清洲会議では秀吉優位・その結果は?

清洲会議では秀吉優位・その結果は?

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天正10年6月27日(1582年7月16日)に行われた清洲会議。
争点は、織田家の後継と領地の分配です。
柴田勝家は三男・織田信孝を推し、一方の羽柴秀吉は孫の三法師を推挙。
三法師はこのときまだわずか3歳の幼子でした。
表向きは織田家の今後を話し合う会議でしたが、柴田勝家と羽柴秀吉の対立構造が浮き彫りになっていきます。

話し合いの末、秀吉が推挙した孫の三法師が家督を継ぐことに。
それだけ、光秀を討った秀吉の功績は大きかったのか、柴田勝家も引き下がるより他なかったようです。
織田信長の息子たち(信雄、信孝)は三法師の後見人という立場につくことで話し合いは一応の決着を見せました。

また、領地の分配については、柴田勝家は越前国と近江長浜(このときの秀吉の拠点)を所望。
秀吉は播磨・山城・河内・丹波と畿内一帯を治めることになりました。
秀吉が居城としていた長浜城には、勝家の養子の柴田勝豊が入ることになり、信長の息子たち(信雄、信孝)も伊勢、尾張、美濃などを治めることになりました。

しかしこれでおさまるほど、状況は穏やかではなく、その後も双方、周囲の大名たちを引き込んで互いに火花を散らします。

そして天正10年12月2日(1582年12月26日)、ついに秀吉が実力行使に。
かつての自身の居城であり、清洲会議で勝家に譲った長浜城を攻略。
勝家が所領した越前は雪が深く、勝家はまたも出遅れます。
明けて天正11年2月末(1583年3月)、雪に苦しみながらもようやく近江へと進軍。
こうして両軍は、琵琶湖の北側へと集結していったのです。

決戦!賤ヶ岳の戦い

佐久間盛政、命令を無視して敵陣に切り込む

佐久間盛政、命令を無視して敵陣に切り込む

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柴田勝家は佐久間盛政、前田利家を味方につけ、越前から北陸街道を南下して余呉湖のさらに北、柳ヶ瀬まで軍を進め、陣を置きます。
一方の羽柴秀吉は余呉湖の南東、木ノ本に布陣。
兵力は柴田勝家側が3万、羽柴秀吉側が5万と伝わっています。
双方数日間睨み合いが続く中、天正11年4月、動き出したのはなんと、信長の三男で美濃国に入っていた織田信孝でした。

信孝を攻略するため近江から美濃へ向かった秀吉の動きを見て、勝家は佐久間盛政に、余呉湖のすぐ東側、木ノ本の陣のすぐ近くにある大岩山砦の攻撃を指示。
佐久間盛政は大岩山砦と、すぐ近くにある岩崎山砦も攻撃して落とします。

砦を攻め落としたところで一旦撤退するよう、勝家は盛政に命じていましたが、このときなぜか、盛政は勝家の指示に従おうとしませんでした。
さらに軍を進め、とうとう敵陣深く、琵琶湖と余呉湖の狭間にある賤ヶ岳へ足を踏み入れてしまうのです。

賤ヶ岳には秀吉軍の武将たちが守る砦があり、盛政の攻撃を受けますが何とか耐え抜いていました。
がこのとき盛政が何を考えていたのか知る術はありませんが、美濃(岐阜)へ向かった羽柴秀吉が引き返してくるにはまだ時がかかるだろうと考えていたに違いありません。
しかし相手はあの羽柴秀吉です。
ここでも秀吉は人並み外れた動きを披露。
大岩山砦が落ちたとの知らせを受け、美濃の大垣から近江の木ノ本の自身の陣まで、その距離およそ52㎞を大軍を率いてほぼ5時間で完走。
これが世に言う「美濃大返し」です。

秀吉2度目の大返しと前田利家の苦悩

秀吉2度目の大返しと前田利家の苦悩

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佐久間盛政が砦を攻略したと聞いて、秀吉はむしろ、戦いの勝利を確信したとも伝わっています。
また、賤ヶ岳へ続く道筋にある村々に炊き出しや灯の用意を命じたという、何とも秀吉らしい一幕も。
一方、「退け」という柴田勝家の命令を無視して野営をしていた盛政軍は秀吉の攻撃を前に大混乱となりますが、それでも何とか応戦。
両軍入り乱れ、戦いは激しさを増していきます。
このとき、盛政の弟の勝政の軍が総攻撃を食らいほぼ壊滅状態になりますが、盛政の軍はまだまだ勢いがあったと考えられています。

しかしこのとき、余呉湖の北側、盛政軍の後方に陣取っていた前田勝家が、突如として戦線から離脱。
北へ移動していってしまうのです。
これにより戦況は大きく変わり、盛政軍はもとより、柴田勝家の軍も勢いを失っていきます。

前田利家がなぜ戦線を離れたか、はっきりとはわかっていないそうです。
この戦いでの前田利家の立場は非常に微妙なところで、秀吉とは若いころからの親友であり、勝家とは昔からずっと主従関係にありました。
両者の板挟みで苦しくなったのか、事前に秀吉との密約があったのか、あるいは他の理由か。
とにかく柴田軍は総崩れとなり、勝家は越前・北ノ庄城へと退却していったのです。

賤ヶ岳の戦い・その後

賤ヶ岳の戦い・その後

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天正11年4月23日、柴田勝家は北ノ庄城にて、皮肉にも前田利家率いる秀吉軍に包囲されてしまいます。
城には勝家の妻で織田信長の妹にあたるお市の方が。
翌日、勝家はお市の方と共に自害して果て、賤ヶ岳の戦いは終わりを遂げます。
両者の戦いは双方の調略も含めて長期戦に入るかと思いきや、佐久間盛政の勇み足、、前田利家の戦線離脱、そして秀吉の型に捉われない大胆な戦術など、様々な要因が絡まって、織田家を長く支えてきた名将・柴田勝家はここで姿を消すこととなりました。

この戦いは、羽柴秀吉が柴田勝家を討った、というだけではなく、他の名だたる大名たちにも大きな影響を与えていきます。
戦いの後、徳川家康や上杉景勝、毛利輝元、大友義統など、それまでやや中立または敵対の姿勢を取っていた武将たちが次々と秀吉に接近。
織田信長が苦労して押さえつけようとしていた大名たちを、腹の中はどうであれ従わせることに成功した秀吉。
こうして、織田信長が築いた強大な権力と天下統一の道は、羽柴秀吉の手に受け継がれていくことになったのです。

また、この戦いで大きな功績を上げた脇坂安治、片桐且元、平野長泰、福島正則、加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明は後の世で「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)」と呼ばれ、名を残していきます。
実際にはこれ以外にも、後々豊臣家を盛り立てていくこととなる石田三成や大谷吉継といった若い武将たちも功績を挙げているのですが、”七本槍”という言葉の響きがかっこよかったからこういう言い方をするようになった、とも見られています。

現在の賤ヶ岳古戦場と見どころ

賤ヶ岳の”賤”ってどういう意味?

賤ヶ岳の”賤”ってどういう意味?

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賤ヶ岳の”賤”という字は”せん”とも読み、”賎”とも書きます。
これは卑しいとか身分が低いといった意味を持つ字。
地名としてはあまりいい文字ではないようにも思われますが、”賤”という字を持つ地名、全国的に見るとあちこちにあります。
中には、近代に入ってから”静”とか”志津”といった字に変えた地域もあるそうです。
なぜこのような文字が使われたのか、地域にごとに諸説あるようですが、中には、険しい山だったりぬかるんだ谷だったり、地元の人々にとって難儀な存在の山や谷に、あえて”賤”などという字をあてて呼んでいたのかもしれません。

賤ヶ岳の名前の由来についても諸説あるようですが、山中にある説明書きによれば、弘法大師がこの地に立ち寄ったとき地元の女性から「西の方に高い山には賎が住んでます」と言われたことから、この山を「賎ヶ嶽」と呼ぶようになった、とあります。
これが、弘法大師様よりは身分の低い者たちが住んでますよ、という意味だったのか、あるいは山賊とか怪しい輩が住み着いて悪さをしてるので近づかないほうがいいですよ、という意味だったのか、単に高い山で険しいから危ないですよ、という意味だったのか、いろいろな読み取り方ができそう。
古来、「天狗が出る」とか「鬼が出る」と呼ばれた場所はたくさんありましたので、険しく近寄りがたい山として長く言い伝えられてきた場所だった、ということなのかもしれません。

地元の農民たちにとっては近づく必要などない山でも、戦国武将たちにとっては敵を迎え撃つのに格好の砦。
天然の要害です。
険しい山を見て「ここを落とせば我らの勝利!」と思ったのか、引き返すことなく突進していった佐久間盛政の心情はどんなものだったのでしょうか。

現在の賤ヶ岳山頂へはリフトで

現在の賤ヶ岳山頂へはリフトで

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現在の賤ヶ岳は、琵琶湖や余呉湖を見下ろすことができる景勝地として、ハイキングコースなども数多く設けられ、豊かな自然や眺望を目当てに山頂を目指す人が多い滋賀県の観光スポットとなっています。
標高420mといってもかなり険しい山。
山頂の少し手前までリフトが動いているので、斜面の様子などを見ながら5~6分で山頂近くまで上がることができます。

見ごたえがあるのはやはり春先。
4月から5月頃にかけて、ジャガという小さなアヤメのような花が咲き乱れ、山が一面、薄紫色に。
リフトはこのジャガの群生の上をゆっくりと、まるで雲の上を飛んでいるかのように移動していきます。
この光景だけでも一見の価値あり。
リフトは片道だけにして、下りはジャガの花をもっと間近で見ながら登山道を下る、という人も少なくないようです。
もちろん、ジャガの季節以外でも、周囲の深い緑は目見麗しく、空中遊覧を楽しむことができます。
足元をよく見ていると、何度か登山道と交差。
山道はかなりうねうねと入り組んでいるようです。
400年前はもしかしたらまだ、それほど木々が生い茂っていなかったのかもしれませんが、それでも確かに、深く険しい山であることには違いありません。

リフトを降りて、10分ほど、時折琵琶湖を見ながら登山道を上がって、賤ヶ岳山頂を目指します。
それほど急な道ではなく、きれいに整備されていますが、それでも山道は山道。
歩きやすい靴でないと、かなりしんどいかもしれません。

賤ヶ岳山頂・抜群の眺望!

賤ヶ岳山頂・抜群の眺望!

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賤ヶ岳山頂付近は全方向360度視界が開けていて、眺望は抜群です。
見渡してみると、田んぼ、道、集落、山のコントラストがはっきりと分かれていて、琵琶湖北側の地形をしっかり確認することができます。
昔は、航空写真はおろか俯瞰で地形を捕らえる術はほとんどありませんでしたから、こういう小高い場所を見つけて周囲の地形を確認することは、戦国武将たちにとって重要なことだったに違いありません。

山頂には、賤ヶ岳七本槍の武将たちの名前が書かれたのぼりが風にはためいていて、賤ヶ岳の戦い当時の様子を記した説明板や石碑などがたくさん立てられています。
注目したいのが賤ヶ岳砦跡の様子を記した図。
山の形は昔とそれほど変わってはいないはずなので、現在の地形と比べながら、どこにどんな設備が置かれていたのか知ることができます。

山頂は細長い地形になっていて、東西南北どこからの眺めも抜群。
建物など当時の遺構が残っているわけではないので、砦としての位置づけや眺望を見るための場所、ということになりますが、周囲の風景だけでもかなり見ごたえがあります。
ここから見える琵琶湖はいわゆる「奥琵琶湖」と呼ばれる、琵琶湖の北側のちょっと突き出た部分。
入り江のようになっていて、南側の大津や近江八幡とはまた違った趣。
賤ヶ岳は、琵琶湖の勇壮な姿を見ることができる貴重なスポットでもあるのです。

天下分け目の決戦地・賤ヶ岳古戦場を訪ねて

琵琶湖の周囲には、戦国時代の名所旧跡がたくさん。
現在では「賤ヶ岳の戦い」と呼ばれていますが、戦いの流れを見てみると、余呉湖のまわりに築かれた砦や陣も、この戦いに深く関わっていたことがわかります。
奥琵琶湖方面や長浜へ行く機会があったら是非、賤ヶ岳古戦場へ足を運んでみてください。
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