秀吉は本当に一夜で城を完成させたの?岐阜・墨俣城を訪ねてみた

豊臣秀吉の若かりし頃の戦術・武功のひとつとして語り継がれている「一夜城」。さすが秀吉!一晩で城を造ったの?ということではなく、短期間で築いたことをわかりやすく表現するために”一夜”という言葉を使ったもで、実際には一晩で造ったわけではなく、さらに姫路城みたいな巨大な城郭や天守閣を築いたわけでもなく、ここでの城とは野戦用の砦や山城のようなもののこと。なあんだ、とがっかりするなかれ、砦や山城を築くのも大仕事。秀吉が建てたと伝わる一夜城「墨俣城」を訪ねてみたいと思います。

墨俣一夜城址公園を訪ねて

模擬天守は超カッコいいけど関係ない?

模擬天守は超カッコいいけど関係ない?

image by PIXTA / 24738360

墨俣城(すのまたじょう)は岐阜県大垣市墨俣町、長良川を間近に望む一角にあります。
現在では、実際に墨俣城が建っていたと思われる場所は「墨俣一夜城址公園」として整備されていて、ソメイヨシノが植えられ桜の名所となっている他、大垣城を模したとされる四層RC造の立派な模擬天守も。
白壁と瓦屋根が美しく、石垣の石もぴっしりと隙間なく鮮やかに積まれていて、門もぴかぴか。
思わずうっとり見とれてしまうほど美しい形をしていますが、これは1991年(平成3年)に完成した近代建築。
地元の人たちの声もあって建てられたもので、墨俣城を復元したわけではなく、資料館として利用されているものです。

あまりに立派な模擬天守なので、実際に建っていた墨俣城の復元天守なのかな?と錯覚してしまう人もいるかもしれませんが、これは別物。
秀吉が墨俣城を築いたのは1566年と言われており、織田信長の家臣の中でもまだまだ下っ端だった頃です。
仮にこんな立派な天守を持つ城を短期間で建てるなどという偉業を成し遂げていたら、逆に危険視されて信長に切り殺されていたかもしれません。

秀吉が建てた墨俣城とは全く関係のない形をした模擬天守ですので、そういうつもりで眺めれば、長良川沿いにそびえ立つ天守閣は実に勇壮で素晴らしいです。
でも、お城が好きな人たちからすれば「木の柵や櫓を組んで砦っぽく造ったほうが一夜城っぽくてわかりやすかったんじゃ…」と思われるかもしれません。
とにかく、いろいろ混乱してしまいそうなほど、現在建っている模擬天守はカッコよくて素晴らしいんです。

資料館の中の墨俣城復元模型をチェックせよ!

資料館の中の墨俣城復元模型をチェックせよ!

image by PIXTA / 1189810

あまりに美しくカッコよく造りすぎてしまった感のある墨俣一夜城址公園の模擬天守。
中はどうなっているかというと、豊臣秀吉の出世街道を紹介する展示を中心とした資料館となっています。

資料館の見どころは、秀吉が築いたとされる砦のジオラマ。
当時は墨俣ではなく”洲股”という字が使われていたようで、ジオラマの名前も「洲股砦」となっています。
よく見ると、川の流れをうまく利用して堀に見立て、柵や土塁で囲み、ところどころに平屋の建物を建てて兵舎や備蓄にあてていたようです。

ここに入ってくる前に目の当たりにしてきた勇壮な模擬天守とは比較にならない”野営地”ですが、でも、考えてみれば、こうした陣地を築くのも、当時は命がけだったはず。
織田信長は尾張(愛知県)、攻めたい相手は美濃(岐阜県)にいます。
木曽川や長良川など大きな川に阻まれ、不用意に近づけば袋叩きにあう可能性大です。
長良川を渡って西側に辿り着くだけでも大変だったかもしれないのに、このような陣地を築いている間に、敵の奇襲にあうかもしれません。
もしこんな砦を、尾張からやってきてこの場所に築いたのだとしたら、やっぱり秀吉は大人物。
信長に認められ出世街道を歩み続けた理由を伺い知ることができるような、そんな気がします。
是非、資料館の中の模型、チェックしてみてください。

墨俣一夜城は伝説か?『前野家古文書』も見逃すな!

墨俣一夜城は伝説か?『前野家古文書』も見逃すな!

image by PIXTA / 29878077

資料館の中の展示は、秀吉が出世して偉くなってからの偉業を伝えるものも多く、必ずしも墨俣に関する展示というわけではないのですが、そんな中、もうひとつ注目したいのが『前野家古文書』に関するもの。
古文書のレプリカや、この文書を編纂した前野氏に関する資料などがたくさん展示されています。
そしてメインが、古文書に記載されているという当時の洲股砦の絵図面


東西南北どのように柵を配置し、建物を建てるか、砦の見取り図が野趣あふれる筆遣いで描かれています。
もちろん実物ではなく、大きく引き伸ばしてパネルにしたものですが、見る側としてはそのほうが見やすくてありがたい。
この『前野家古文書』、通称『武功夜話』が世に出たことで、それまで伝説的扱いだった一夜城の存在が、一気に現実味を帯びてきたのです。

『前野家古文書』は、愛知県の旧家・吉田家(尾張の豪族前野氏の子孫)に伝わる、一族の歴史をまとめた書物。
1959年(昭和34年)の伊勢湾台風の際に蔵から見つかったのだそうです。
『武功夜話』はその中の一部で、前野氏と関わりのあった戦国武将や、織田信長や豊臣秀吉に関する出来事についても書かれています。
この中に、資料館に展示されているような墨俣一夜城に関する記述が詳しく残されていたのです。

しかし近年の研究では、『武功夜話』が史実を記したものかどうか疑問視する声も。
墨俣一夜城は史実か逸話か、新しい発見に期待がかかるところです。

墨俣城築城の時代背景

織田信長の美濃攻めの足掛かり

織田信長の美濃攻めの足掛かり

image by PIXTA / 24702412

豊臣秀吉(当時はまだ木下藤吉郎)が墨俣城を築城したとされる1566年(永禄9年:1561年との説もあり)頃とは、どんな時代だったのでしょうか。
それにはまず、織田信長の動きを知る必要があります。

織田信長は1559年(永禄2年)、同族たちの争いを鎮め、尾張国を統一し、名実ともに尾張の国主となりました。
翌年には駿府の今川義元を桶狭間の戦いにて追い詰め、飛ぶ鳥落とす勢いで勢力を拡大。
現在の愛知県から静岡県の南の方まで攻め込んでいった信長、そのまま東を目指すのかと思いきや、次の目標を美濃(岐阜県)に定めます。
実はこれより数年前の1556年(弘治2年)、信長の奥方の濃姫の父・斎藤道三が、息子の斎藤義龍に討たれて死んでおり、信長と義龍の間に深い溝ができていました。
信長は今川義元を攻める一方で、しきりに岐阜側も牽制。
両者一進一退、信長もなかなか、斎藤氏の領域に攻め込むことができず苦しい状況が続いていたのです。
両者は幾度となく、長良川付近でぶつかり合いを繰り返していました。

墨俣(洲股)の先には、斎藤氏の居城・稲葉山城(岐阜城)があります。
標高330mの金華山の上に建つ名城です。
この城の攻略が急務ではありましたが、稲葉山城はあたりを一望できる良い場所に建っています。
攻め込むには近くに砦を築く必要がありました。

墨俣に一夜城は存在したのか?

墨俣に一夜城は存在したのか?

image by PIXTA / 11559803

この時代の出来事を知る資料としてよく用いられている、信長家臣の太田牛一による織田信長の一代記『信長公記』によれば、もともとあった洲俣要害を奪って補強し、その後洲俣を撤収した、ということは書かれていますが、そこに秀吉の名はありません。
しかも一から築いたのではなく、既に何かしら砦のようなものがあってそれを補強した、という話。
『武功夜話』に書かれていることが『信長公記』には無く、また逆もしかり。
これをどう見るべきか、様々な議論が交わされています。

よく言われている話では、織田氏の家臣・佐久間信盛がまず、織田信長から洲股に砦を築くよう命じられますが達成できず、童謡に重臣のひとり柴田勝家もトライしますが失敗。
そこへまだ下っ端で木下藤吉郎と名乗っていた後の豊臣秀吉が「私にお任せください、7日で完成させてみせます」と大きく出ます。
周囲がバカ言うな、と思う中、秀吉は美濃の軍を追い払いつつ、雨をうまく利用して、木曽川に流した材木を拾い上げて素早く組み立てるという早業を敢行。
一夜にして砦を築きあげたのです。
遠くかなたにそびえ立つ稲葉山城から、墨俣の砦は見えたのでしょうか。
もしかしたら、いつの間にか完成した砦を見て、斎藤軍は驚いたかもしれません。

と、いう話は、『武功夜話』によるもの。
その後の秀吉の活躍を見れば、さもありなんという気もしますが、残念ながら今のところ、秀吉が墨俣城築城に関わっていたのか、本当に一夜城(一晩ではなく短期間で築いたという意味で)だったのか、残念ながら解明には至っていないのです。

その後の信長の美濃攻めは?

その後の信長の美濃攻めは?

image by PIXTA / 21858963

『武功夜話』はかなり膨大な書物で、一夜城の他にも信長の恋話や秀吉の若いころの話など、様々な話がかなり詳しく書かれていて、その分、読む人を惹きつけていったのではないかと考えられています。
ただ、『前野家古文書』全てが公開されているわけではなく、原本も非公開であるため、どうしても、後の世の創作なのでは…という疑問が付きまとってしまうようです。

とはいえ、墨俣が戦略上、非常に重要な場所であったことには違いありません。
この時はまだ、秀吉は下っ端だったので、単に名前が残っていないだけかもしれませんし、墨俣一夜城の実態については、今後、さらに重要な史料や古文書の発見が待たれるところです。

そして、その後の墨俣城の動向ですが、残念ながら、墨俣城からの稲葉山城攻略は実現しませんでした。
砦を築くことはできても、そこから先に駒を進めることができなかったようで、しばらくの間睨み合いが続きましたが、信長は別の方法で攻略しようと考えたのか、墨俣を後にします。

翌年、斎藤氏の内紛が起き、これを好機と見た信長は稲葉山の西側から攻略。
城下の町を焼き討ちし、稲葉山城の包囲に成功します。
この内紛を手引きしたのが秀吉だったとも。
信長は念願の稲葉山城を手にし、美濃を手中に治めるのです。

墨俣城のからの眺望

展望台からの眺めは見ごたえあり!

展望台からの眺めは見ごたえあり!

image by PIXTA / 24702413

墨俣模擬天守内の資料館には、墨俣城築城当時の川の様子と周辺の城の配置図がわかりやすく展示されています。
墨俣周辺は川だらけで、木曽川、長良川、揖斐川を始め、支流が細かく分かれて中州だらけ。
物資を運ぶだけでも相当な苦労があったと思われます。
川はたびたび氾濫し、現在とは形が大きく異なっていたことも、資料館の展示で詳しく解説されているのでとてもわかりやすいです。
川が複雑な地形を生み出し、その間に城が築かれ、その一番上に稲葉山城の文字が。
その手前に、幾重にも川が重なり合い、行く手を阻みます。
その難解さもさることながら、衛星写真もない時代にこれだけ細かく川の様子を描いたことに、大きな驚きを感じずにはいられません。

展示をひととおり見た後は、是非、展望室になっている最上階へ。
窓が大きいので、全方向、周囲を見渡すことができます。
北方面を見ると、地平線のかなたにこんもりと山が連なっているのが見えるので、こちらを是非お見逃しなく。
一番高い尖った山の上に建っているのが、信長が長年かけて攻略した稲葉山城(後の岐阜城)。
晴れた日なら、肉眼でも何となく、山頂に何か建っていることがわかります。
望遠付きのカメラをお持ちなら是非、ズームして撮影してみてください。
現在は、川の向こう側にビルが建ち並んでいますが、墨俣城築城当時はおそらく何もない平原が広がっていたはず。
稲葉山城から墨俣城がどれほど見えたかはわかりませんが、今まで何もなかったところに突然何か出来上がっていれば、きっと誰かしら「なんだあれは?」と気づいたに違いありません。

あわせて訪れたい「岐阜城」

あわせて訪れたい「岐阜城」

image by PIXTA / 29515638

時間があれば是非、あわせて訪れたいのが、展望室から小さく見えていた稲葉山城です。
織田信長が斎藤氏から奪い取ってから岐阜城と名前を変え、その後、息子織田信忠に城主の座を譲って、自らは安土城築城へ。
この岐阜城の改修が、後の安土城の構想へと繋がっていったとも考えられているように、山の上から城下を見下ろすようにできています。
戦う城(籠城のための山城)から、城主が住む城・見せる城へ、その片鱗が伺える城の構造になっているのです。
信長が築改修した建物は焼失してしまっていますが、3層か4層の、大きな建物が建っていたと考えられています。

現在の天守は1956年(昭和31年)に再建されたもので、残されている絵図などをもとにして設計された外観を持つ鉄筋コンクリート建築3層4階建て。
最上階はやはり展望台になっていて、岐阜市街地を一望することができます。

ただ、残念ながら、天候の影響もあり、思った以上に市街地が広がっていて、岐阜城から墨俣城を探すことができませんでした。
双方から見えたらよかったのですが残念。
ただ、岐阜城の展望台からも、長良川や木曽川のうねるような流れを見ることはできるので、攻め込まれる側の気持ちになって周囲を見渡すことは可能です。

是非、墨俣城の眺望と合わせて、美濃の風景を楽しんでください。

墨俣一夜城の謎が解明される日を信じて

墨俣城の模擬天守は美しくてカッコいいので、実際の墨俣城とは関係ないにしても、お城がお好きな方ならきっと満足できるんじゃないかと思います。
屋内の資料館の展示もかなり充実していて見ごたえあり。
一夜城と秀吉の関係については、今後、何か新しい史料の登場で、いつの日か明らかになるのではないかな、と密かに期待しています。
見て楽しい知って楽しい墨俣城、是非、訪れてみてください!
photo by PIXTA