四国の雄・長宗我部氏の転落劇の主人公・長宗我部盛親の数奇な人生!

長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)、大河ドラマ「真田丸」でその存在を知った方もいらっしゃるかと思います。ちょっと変わった名字ですが、長宗我部氏と言えば、戦国時代に四国をほぼ統一した一大勢力なんですよ。その跡継ぎとなった盛親には、当然、輝かしい未来が約束されていたはず…でした。しかし、運命とは実に数奇なもの。盛親が歩むこととなったのは、苦難と波乱の道だったんです。それがどんなものだったか、ご紹介しましょう。

長宗我部元親の四男

長宗我部元親の四男

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盛親は、天正3(1575)年に土佐(高知県)の戦国大名・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の四男として誕生しました。

父・元親こそ、長宗我部氏を全盛時代に導いた傑物。
若い頃は「姫若子(ひめわこ)」と呼ばれるほど柔和な性格でしたが、成人してからは武勇を発揮し、四国をほぼ手中に収めるという偉業を成し遂げました。

しかし、その名君・元親が暗君へと変貌する悲劇が起きてしまったんですね。

それは、天正14(1586)年に、豊臣秀吉の九州征伐に従い出陣した時のこと。

戸次川(へつぎがわ)の戦いで、元親は、信頼していた長男の信親(のぶちか/盛親にとっては長兄))を失ってしまったんです。

聡明で将来を嘱望されていた跡継ぎでしたから、元親の悲嘆は相当なものでした。

そして、生活や性格まで一変してしまったんですよ。

政治にやる気を失い、今までの度量の広さもなくしてしまい、暴君と言ってもいいほどになってしまったんです。

そして、空席となった跡継ぎを巡り、長宗我部家内ではキナ臭さが立ち込めて行ったのでした。

跡継ぎを巡る争いの末、後継者となる

跡継ぎを巡る争いの末、後継者となる

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盛親は四男でしたが、当然、二男と三男もいたわけです。

二男は香川親和(かがわちかかず)、三男は津野親忠(つのちかただ)と言い、名字を見てもお分かりかと思いますが、すでに他家へ養子に出ていました。

となれば盛親が跡継ぎになるのは当然…と思われましたが、実はそうでもなかったようです。

盛親の性格が短気で傲慢だとして、反対する家臣たちもいたんですって。

ただ、元親は信親の次に盛親に愛情を注いでいたらしく、まったく家臣たちの意見を受け付けようとはしませんでした。
また、死んだ信親の娘と結婚させるには、盛親がいちばん年齢的につり合いが取れたため、盛親を跡継ぎに選んだとも言われています。

また、元親がいかにおかしくなっていたかがわかる話もあります。

豊臣秀吉に、二男の香川親和を後継にするようにと言われたのにもかかわらず、拒否したというんですよ。

本来なら天下人の命令は絶対のはずですが、これを容れないというのはまさに異常事態でした。
結局、親和は天正15(1587)年に病気で亡くなってしまったので、この話は立ち消えになりましたが…。

そして、元親は側近の久武親直(ひさたけちかなお)に言われるがまま、盛親擁立に反対した家臣を粛清し、盛親を跡継ぎに据えたわけです。

この久武親直がまた、油断ならないヤツだったんですよ。

後に盛親にもあることないことを吹き込んだ、いわば「奸臣」というやつです。

実の兄でさえ、「もし自分が戦死してもあいつに跡を継がせてはならん」と言ったほどの人物だったんですね。

そんな人物が幅を利かせている長宗我部氏の跡継ぎとなった盛親、果たして大丈夫なんでしょうか…?

後々まで影響を及ぼした家督相続争い

後々まで影響を及ぼした家督相続争い

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こうして、元親は跡継ぎに盛親を指名し、共同統治という形を取りました。

しかし、家督相続のプロセスがドロドロしたものだっただけに、豊臣政権から重きを置かれなかったとも言われています。

一般的に、当主やその後継者には、ハクを付けるために形式的な朝廷の官位を授けられました。
例えば、少将や権中納言などですね。

しかし、盛親にはそうした官位が授けられなかったんですよ。

また、盛親が元服するに当たっても、烏帽子親となったのは豊臣家や重臣クラスの大名ではなく、五奉行のひとり・増田長盛(ましたながもり)だったんです。
五奉行と言えば政権ないでは官僚的な役割。
役割自体は重要でしたが、格としてはそこまで高いものではありませんでしたから、やはり、盛親が跡継ぎとなった長宗我部氏は、重要視されていなかったのかもしれません。

とはいえ、元親に従い、盛親は天正18(1590)年の小田原征伐や後の朝鮮出兵にも参戦しました。

関ヶ原の戦い参加の経緯

関ヶ原の戦い参加の経緯

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慶長4(1599)年、父・元親が亡くなり、盛親は25歳にして正式に当主となりました。

すでにこの時、豊臣秀吉は亡くなり、幼い秀頼が後継者となったものの、その政権基盤は揺らぎ始めていました。

そんな中、最大勢力の徳川家康が徐々に実権を握り始め、豊臣家を戴く石田三成との対立が深まっていったわけです。

そして慶長5(1600)年に起きたのが、関ヶ原の戦いでした。

毛利輝元(もうりてるもと)を総大将とし、実質石田三成が筆頭を務める西軍と、家康を総大将とした東軍との決戦は「天下分け目の合戦」と呼ばれましたが、この時、盛親は西軍に付いています。

本当は東軍に付くつもりで使者を派遣するも失敗したとも伝わっていますが、定かではありません。

元々、豊臣家から重視されていなかったと思われる長宗我部家ですが、盛親が西軍に参加したのは、烏帽子親である増田長盛とのつながりがあったからだとも言われています。

また、この戦いに参加することで、豊臣政権から正式に当主として認めてもらうという目的があったとも言われていますね。

戦らしい戦をしないまま退却

戦らしい戦をしないまま退却

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盛親は南宮山(なんぐうさん)に布陣しますが、これが実にアンラッキーでした。

南宮山には、毛利秀元(もうりひでもと)と吉川広家(きっかわひろいえ)ら毛利方の武将や五奉行のひとり・長束正家(なつかまさいえ)も布陣していたんですが、この内の吉川広家が、実は東軍に内通していたんです。
そして、陣を動かそうとしなかったんですよ。

吉川広家としては毛利家を守るために東軍に通じていたわけですが、その結果、広家の軍が立ちふさがる形となったため、南宮山にいる隊はみな動けなくなってしまい、もちろん戦闘に参加することもできなかったんです。

そうこうしているうちに小早川秀秋(こばやかわひであき)が東軍に寝返ったため、形勢は一気に東軍に有利となり、天下分け目の合戦はわずか半日で終了することとなってしまったのでした。

何もできなかった盛親は、歯噛みしながら土佐へと引き上げて行くしかなかったんです。

こればかりは、運命のいたずらと言うしかありませんよね…。

盛親最大のミス!兄を殺してしまう

盛親最大のミス!兄を殺してしまう

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戦後、盛親は西軍の武将として処罰の対象となってしまいました。

しかし、戦闘自体には参加しておらず(できなかった)、何とか家康に領地だけは保証してもらいたいと、家康の重臣・井伊直政(いいなおまさ)に仲介を頼もうとしたんですよ。

この時、実の兄・津野親忠が窓口となってくれたようなんです。
一時は後継者争いで対立(といっても両者についた家臣の対立だったが)し、父・元親に盛親の脅威だとして幽閉までされていた親忠ですが、やはりそこは兄弟としての情もあったのでしょうね。

しかし、ここであの久武親直が盛親に囁きます。

「津野親忠は藤堂高虎(とうどうたかとら)と通じ、土佐半国をモノにしようとしていますぞ」

実際、親忠は藤堂高虎とは親しく、その藤堂高虎の領地が伊予(愛媛県)にあったため、盛親は疑心暗鬼に陥ったと思われます。

そして、久武の言葉を真に受けた盛親は、親忠を殺害してしまったんです(久武が勝手に殺したという説もあり)。

これを聞いた家康は「兄殺しめ!」と激怒。

上洛していた盛親は、改易(領地没収、武士の身分剥奪もある)されて土佐にも帰れない状態になってしまったのでした。

土佐22万石から一文無しの浪人へ、あっという間の転落劇だったんです。

それにしても、親忠の無念というのもはかりしれませんが…。

盛親にもう少し冷静な判断ができていれば、こんなことにはならなかったわけですが、まさに後悔先に立たず、というやつですね。

殿様がいなくなった土佐

殿様がいなくなった土佐

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盛親は上洛してそのまま改易となってしまったため、当主不在の土佐は混乱しました。

家康は土佐に使者を送り、盛親の本拠地・浦戸城(うらどじょう)を接収しようとしますが、ここで、残された長宗我部の家臣たちが反発します。

彼らは、使者の宿所を1万7千の兵で包囲し、家康に反抗したのでした。
これが浦戸一揆です。

ただ、一揆側も一枚岩ではなかったんですよ。

長宗我部氏繁栄の裏には、「一領具足(いちりょうぐそく)」と呼ばれる、平時は農民、戦時は兵となって駆け付ける者たちが大勢いました。
元親が彼らを積極的に用いたため、土佐は一領具足に支えられた国として成長してきたわけです。

しかし、彼ら一領具足からすれば、長宗我部氏が当主でなくなれば、自分たちの身分もまたなくなってしまうことになります。

そのため、徹底抗戦を主張する一領具足たちと、だんだん状況を見極めてきて、徳川に降った方が良いと考える重臣クラスの武士たちとの間に亀裂が生じたのでした。

そして、一部の重臣たちは、反対派を城外に追い出して討ち取ってしまったんです。

こうして接収は完了し、新領主・山内一豊(やまうちかつとよ)が入城したのでした。

実は、家康は土佐を盛親から取り上げても、代替地をあてがうことを考えていたそうなんです。
盛親が上洛したのは、この交渉のためだったとも言われています。

しかし、この浦戸一揆のせいで、それも反故になってしまったんですよ。

もうちょっと、重臣たちにこのことを話しておけば良かったんじゃないかと思うんですが…。
やはり、こういうところにも、かつての後継者争いで亀裂の入った家臣たちとの間柄が垣間見えるような感じがしますね…。

浪人大名にチャンス到来

浪人大名にチャンス到来

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浪人となった盛親は、京都に移住します。
一説には、寺子屋の先生をしていたとも言われていますよ。
もしそうだとしたら、傲慢で短気だったという性格は、ずいぶん丸くなっていたのかもしれません。

とはいえ、いつ徳川に刃向かうか分からない危険分子であることには変わりなく、盛親は京都を管轄する京都所司代(きょうとしょしだい)の監視下に置かれていました。

そんな中、江戸幕府を開き将軍となった家康の権勢は、豊臣家をはるかにしのぐものとなり、あからさまに豊臣家の力を削ぐような行動に出始めます。

となれば、豊臣方との緊張も高まっていったわけですね。

豊臣方は、おそらく近いうちに勃発するであろう徳川との戦いに備え、関ヶ原の戦いの後に浪人となった勢力を集めて兵力の増強を始めました。

そして、盛親にも声がかかったんですよ。

豊臣秀頼からの「大坂方が勝利すれば、土佐一国を与えよう」という打診に、盛親は立ち上がることを決めました。

京都所司代からはそれとなく探りを入れられますが、彼は「今回は幕府方について戦功を挙げたいと存じます」とさらりと言い放ち、疑いの目を一瞬そらした隙に、旧家臣を引き連れて大坂城へと入城したのでした。

今までの盛親からはちょっと想像がつかない、鮮やかなやり方ですよね。
厳しい浪人生活を送っているうちに、彼はかなり変わったのかもしれません。

大坂の陣で最後の輝きを放つ

大坂の陣で最後の輝きを放つ

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大坂城に入った盛親は、大坂城五人衆のひとりとなりました。
他の五人衆メンバーは、真田信繁(さなだのぶしげ/真田幸村)、後藤基次(ごとうもとつぐ/後藤又兵衛)、毛利勝永(もうりかつなが)、明石全登(あかしぜんとう/たけのり)です。

こうして戦の準備は着々と進み、慶長19(1614)年の冬、大坂冬の陣が勃発しました。

この戦いは真田信繁が築いた真田丸の攻防がハイライトですが、盛親はそこで真田丸の後方支援をしたようです。

しかし、兵糧や弾薬の不足と、大坂城本丸に撃ち込まれた大砲にすっかり縮み上がってしまった淀殿の意見により、和議が結ばれました。

そして翌年の夏の陣、ここで盛親は武将として最後の力を発揮することになったんです。

盛親は、豊臣方の若武者・木村重成(きむらしげなり)と共に、八尾・若江(やお・わかえ)の戦いにて藤堂高虎隊と激突しました。

藤堂高虎といえば、盛親が殺害してしまった兄・津野親忠とは親友。
こういうところにも数奇な運命を感じますよね。

盛親は、先鋒を崩されはしたものの、勢いに乗って突っ込んできた相手をギリギリまで引きつけて一斉突撃を食らわせ、藤堂隊を大パニックに陥れました。
この戦いでは高虎の甥など藤堂一族の将を討ち取り、盛親自身としては素晴らしい戦功を挙げたわけです。

ところが、木村重成隊をほぼ壊滅させた徳川方の援軍が現れたため、もう少しで狙えた家康の本陣に迫ることができず、盛親は無念の思いで大坂城への撤退を余儀なくされてしまいました。

大坂城落城と脱出、そして捕縛される

大坂城落城と脱出、そして捕縛される

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真田信繁や後藤基次はすでに戦死、明石全登は行方不明となり、大坂城にはやがて火が放たれ、その中で豊臣秀頼と淀殿は自刃し、それを介錯した毛利勝永も自刃して果て、大坂城落城と共に戦は終わりを告げました。

混乱の中、盛親は何とか大坂城を脱出し、京都に潜伏します。

しかし逃げ切れるわけもなく、追っ手に発見され、捕えられてしまいました。

徳川方の前に引き出された盛親ですが、その態度は堂々としたものだったといいます。

なぜ自刃せずに逃げたのかと攻められると、「この命と右手さえあれば、家康と秀忠を今の自分のように捕らえることができた」と言い放ち、「一軍の大将がやすやすと討死して良いはずもない。
機会さえあれば再び挙兵し、恥をそそぐまでだ」と言ったとも伝わっています。

そして、盛親は京都の市中を引き回された末、六条河原で斬首となりました。
41歳でした。

こうして、戦国大名としての長宗我部氏は滅亡したのです。

波乱の人生は、彼に何をもたらしたのか

もし、長兄の信親が戦死していなければ、回ってくるはずもなかった家督。
しかし戦国時代の流れとは本当にわからないもので、四男の盛親が家督を継ぐことになるとは、盛親自身でさえも想像していなかったかもしれません。
そして、その後の道のりは、まさに波乱万丈と言っていいものでした。
そんな苦難の中で、短気で傲慢と言われた性格や、兄さえ殺してしまった彼の人格は、少しずつ変わっていったのではないかと思います。
もし大坂方が勝ち、盛親が土佐を取り戻していたなら、名君になったのではないかと考えるのは、少々行き過ぎでしょうか?
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