究極のエコロジー!理想的な住まい・竪穴式住居跡を見に行こう!

今から数千年前、縄文時代や弥生時代の住居であった竪穴式住居。まだ建築技術が乏しい時代の建物であり、簡素な”古代の住居”というイメージがありますが、竪穴式住居が使われていた時代は非常に長く、しかも世界中あちこちで同じような構造の住居が建てられていたと考えられています。実はかなり、人の生活に適した、理想的な住居であったとの見方もあるほど。竪穴式住居、どんな建物だったのでしょう?その基本的構造と共に、竪穴式住居の痕跡が見られる遺跡もご紹介してまいります。

どんな建物?竪穴式住居の基礎知識

竪穴式住居の”竪”ってどういう意味なの?

竪穴式住居の”竪”ってどういう意味なの?

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竪穴式住居(たてあなじゅうきょ)とは、地面を数十センチ掘り下げ、床部分を地表より低くした半地下構造の家のこと。
半地下にした床に何本か柱を建て、その上に葦などの植物を重ねて屋根を造り雨露をしのぎます。
日本では、縄文時代・弥生時代に多く造られ、古墳時代頃になると次第に見られなくなりましたが、アジアやアフリカの寒冷地域では、比較的新しい時代までこのタイプの住居が使われていました。
地面に近い分、冬は地熱で暖かく、夏はひんやりと涼しく、非常に理にかなった構造を持った建築物であったと言われています。

”竪”とは”縦”と同様、たて、と読む漢字。
明確な使い分けがあるわけではないようですが、竪は建築用語や”竪琴”といった、具体的・物理的かつ立体的な”たて方向”を表すときに使われることが多く、そのため、竪穴式住居にもこの”竪”の字が用いられているものと思われます。
遺跡や文献によっては、「竪穴住居」と表記したり、「たて穴式住居」と平仮名やカタカナを当てて表記することもあるようです。

そもそも「たてあな」とは、考古学上、「横穴」の反対語として誕生した言葉とされています。
横向きに掘った洞窟のような穴とは対照的に、数十センチの深さではありますが、下方向(縦方向)に掘った穴に柱を建てて屋根を被せた住居だから「竪穴式住居」なのです。
数十センチで「竪穴」と言われてもピンとこないため命名の由来に戸惑う人も多いようですが、北海道では深さ数メートルにも及ぶ「穴居(けっきょ)」が見つかっていています。
竪穴式住居とは、寒い地域ではより深く穴を堀り、風土に適した家づくりをすることができる、理想的な住居構造であったと言えそうです。

実は万能エコハウス?竪穴式住居の基本構造

実は万能エコハウス?竪穴式住居の基本構造

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一口に「竪穴式住居」といっても、地域や年代で多少の違いがあるようですが、これは風土や気候に柔軟に対応していった結果と言えるでしょう。

ヨーロッパでは、約紀元前2万年~1万年頃、中石器時代には既に、竪穴式住居らしき痕跡が各地遺跡で発見されています。
紀元前1万年以降、新石器時代に入ると中国やアメリカ大陸などでも竪穴式住居が数多く建てられており、世界各地に広がっていったようです。
そしてその土地土地で、数千年に渡って人々の暮らしを支え、文化を育んできました。
一般的に、地中(深さ5mほど)は外気の影響をほとんど受けず、ほぼ一定の温度で過ごすことができると言われています。
古代の人々は経験からそのことを知り、実践していたのでしょう。
このことからも、竪穴式住居が、その土地土地の風土や気候に合わせて建てることができる、理想的な住居だったことがわかります。

日本でも各地で、数多くの竪穴式住居跡が発見されていますので、古代の人々の暮らしに欠かせない建物であったことには疑いの余地もありません。
日本の場合は雨が多いため、気候の他に水の浸入や湿気対策も重要でした。
そのため、穴の深さを調節したり、穴のまわりに土を盛り上げて雨水の侵入を防ぐなどの工夫が、各地の竪穴式住居跡で確認されています。

また、日本では、形は、四角形(方形)より円形や楕円形のものが多かったようです。
穴を丸く掘り、そこに柱を4本ないし5~6本立てて骨組みを形成し、放射状に屋根を設けて葦などを被せていく。
四角形より円形のほうが、構造的にも安定していて、雨風をしのぐのに適していたのではないかと考えられています。

大きさは?いつ頃まで、何人くらいで暮らしていた?

大きさは?いつ頃まで、何人くらいで暮らしていた?

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日本では、およそ1万6000年くらい前に、海面の上昇と共にユーラシア大陸から切り離されて日本列島が形成され、そこから2500年くらい前までを「縄文時代」と呼んでいます。
この時代に、人々は徐々に一カ所に住居を構えて定住するようになり、集落が誕生。
日本の場合は特に、山間の洞窟や岩穴より、台地に集落が形成されることが多かったようです。

その大きさはというと、直径が2~3メートルのものから10メートルを超えるものまで実に様々。
囲炉裏の跡が見つかっている住居跡もあるため、中で煮炊きをしたり暖をとっていた時代もあったと考えられています。
天井はそれほど高くはなかったと思われますので、夜、雨露をしのぎつつ寝食する場所と考えると、直径5メートルくらいの竪穴式住居で5~6人が生活していたのではないかと推察可能。
ただ、縄文時代に”家族”単位で生活していたのか、それとも集落全体でいくつかの住居を共有していたのか、様々な推論が成り立つため、竪穴式住居が実際にどのように使われていたか、実はよくわかっていません。

何せ数千年前の住居のこと。
木造の建物自体がそのままそっくり残っているわけではありません。
遺構としては、穴や柱跡の跡から建物の全容を探求していくことになるので、未だ謎が多いことも事実なのです。

日本では、縄文時代より前の旧石器時代後期から造られるようになり、縄文時代、弥生時代と受け継がれ、古墳時代(3世紀~7世紀頃)には次第に消滅していきました。
大陸から進んだ技術が入ってきたことなどから、それまで主に食物を保存するために用いられていた高床式倉庫の構造が、まず、身分の高い人々の住居として用いられるように。
時代が進んで身分や階級というものが誕生したことで、住居の構造も大きく変化を遂げていくことになるのです。

日本で竪穴式住居が見られる遺跡・史跡(大規模集落遺跡)

縄文時代の大規模集落跡「三内丸山遺跡」(青森県青森市)

縄文時代の大規模集落跡「三内丸山遺跡」(青森県青森市)

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三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は縄文時代(約5500年前~4000年前)のものと思われる大規模集落跡。
住居や倉庫、櫓のような高い柱を組んだ建物跡などが数多く発見されており、国の特別史跡にも指定されています。

集落の規模からも、長期間にわたって定住生活が行われていたと考えられていてる三内丸山遺跡。
その存在は、江戸時代から既に知られていたようですが、本格的な発掘調査が行われるようになったのは戦後、昭和28年頃からだそうです。
確認されているだけでも範囲はかなり広く、その後も何度も、大がかりな発掘調査が行われ、平成に入ると発掘出土品や遺構を保存する声が高まります。
一時期、野球場などの建設工事が計画されたことがあったそうですが、中止になり、出土した遺構は大切に埋め戻されたのだそうです。

現在では、埋め戻した遺構の一部を公開し、資料室や展示施設を併設して、一年を通して見学が可能となっています。
遺跡内には、竪穴住居5棟、大型竪穴住居1棟が復元されており、この地にあったと思われる竪穴式住居の大きさや構造などを目で見て理解すること可能に。
復元住居ですが、間近で見る竪穴式住居はかなりの迫力です。

三内丸山遺跡は観光遺跡としてだけでなく、現在も鋭意研究が行われており、縄文時代の気候や自然環境、人々の生活の様子などの解明に大きな期待が寄せられています。

三内丸山遺跡の住所・アクセスや営業時間など

名称 三内丸山遺跡
住所 青森県青森市三内丸山
営業時間・開場時間 9:00−17:00
利用料金や入場料 無料
参考サイト http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/
最新情報は必ずリンク先をご確認ください。

深さ2メートルの竪穴!「大船遺跡」(北海道函館市)

深さ2メートルの竪穴!「大船遺跡」(北海道函館市)

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大船遺跡(おおふねいせき)は縄文時代中後期(紀元前5200年~紀元前4000年頃または紀元前3200年~紀元前2000年頃)のものと思われる集落跡。
見つかった竪穴式住居跡は100棟を超えており、近くには100基以上もの墓群が確認されています。
大船川という川に沿った標高40メートルほどの台地の上に形成されていて、竪穴式住居の痕跡が密集しており、かなり大規模な集落だったようです。

竪穴式住居の跡は、穴の深さおよそ2メートル、直径が10メートルを超えるものも。
既に確認されている100棟余りの住居跡以外にも、まだ地中に埋まっているものがあると推測されています。

また、海の近くということもあり、出土品の中には、クルミなど木の実類の他に、マグロやタラなどの魚の骨や、ウニ、カキなどの海産物、大型のクジラやオットセイの骨なども見つかっており、当時の食生活を知る大きな手掛かりも。
この地に豊かな自然の恵みがあり、そのため、このような大きな集落が形成されていったものと考えられています。

現在では史跡公園として公開されており、一部、竪穴式の復元住居も建てられていて、園内を散策しながら縄文時代の人々の暮らしを知ることが可能。
出土品の一部は遺跡より少し南側にある「函館市縄文文化交流センター」で見ることができます。

大船遺跡の住所・アクセスや営業時間など

名称 大船遺跡
住所 北海道函館市大船町575−1
営業時間・開場時間 9:00−17:00 (冬季休館)
利用料金や入場料 無料
参考サイト http://jomon-japan.jp/jomon-sites/ofune/
最新情報は必ずリンク先をご確認ください。

遺跡発掘調査の先駆け「登呂遺跡」(静岡県静岡市)

遺跡発掘調査の先駆け「登呂遺跡」(静岡県静岡市)

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日本で遺跡と言えばまずここ。
弥生時代後期(1世紀頃)の集落・水田遺跡、登呂遺跡(とろいせき)を忘れてはなりません。

発見されたのは戦時中の1943年(昭和18年)、戦後間もない1947年(昭和22年)には各方面の識者・学者によって構成されたチームによる、日本初の学術的総合的な発掘調査が行われた遺跡としても知られています。

JR静岡駅から2㎞ほど海のほうへ行ったところ、東海道新幹線と東名高速道路の間、学校や役所などが並ぶ市街地にある、緑に囲まれた場所。
すぐ近くを流れる安部川の影響で堆積し形成された台地の上に形成された集落跡で、広大な土地に水田跡や住居跡、高床式倉庫跡などが数多く発見されています。

現在では「登呂公園」として整備されており、復元された竪穴式住居や高床式倉庫が配置され、弥生時代の生活の様子などを詳しく知ることができます。
復元された竪穴式住居は、縄文時代のものと同様に円形の穴の上に築かれていますが、かなりしっかりと骨組みが組まれていて、屋根も重厚。
稲作も始まり、より定住性が高くなった集落の中で、住居の建築技術も向上していったことが伺えます。
復元住居ではありますが、中に入って内部の様子を見ることも可能です。

隣接する静岡市登呂博物館では、登呂遺跡の出土品や、発掘調査に関する資料などを展示。
あわせての見学がオススメです。

登呂遺跡の住所・アクセスや営業時間など

名称 登呂遺跡
住所 静岡県静岡市駿河区登呂5丁目10-5
営業時間・開場時間 9:00−16:30 月曜休館
利用料金や入場料 一般300円 高校生・大学生200円 小中学生50円
参考サイト http://www.shizuoka-toromuseum.jp/
最新情報は必ずリンク先をご確認ください。

日本で竪穴式住居が見られる遺跡・史跡(街中の小さな遺跡)

都立公園内に復元された「栗原遺跡」(東京都練馬区)

都立公園内に復元された「栗原遺跡」(東京都練馬区)

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「栗原遺跡」は1955年(昭和30年)、学校の運動場建設工事の際に発見された遺跡。
その後の調査で、黒曜石の打製石器が出土し、およそ1万年以上前、縄文時代より古い旧石器時代から、この地に人の生活があったことが確認されたという、非常に貴重な遺構です。
周辺では、縄文土器や、弥生時代から平安時代の竪穴式住居跡も出土。
場所は区内を流れる石神井川沿いのやや高台に位置しており、水を得ることができる上に環境がよく、生活に適していたものと思われます。
この地で発掘された住居跡は深さ50センチメートルほどの深さの穴で、柱穴は4カ所あったそうで、土を盛ったかまど跡も見られました。

現在、一帯は都立城北中央公園として整備されており、園内の一角に復元された竪穴式住居が。
1956年(昭和31年)、東京大学教授・藤島亥治郎博士によって設計された、奈良時代の竪穴式住居を復元したものです。
現在では、残念ながら立ち入ることはできず、金網越しの見学となりますが、昔の住居の雰囲気を感じ取ることは可能。
木漏れ日の中に1棟だけ復元された竪穴式住居は、大規模集落遺跡とは違った趣ですが、気軽に立ち寄れる公園の一角にある遺跡ということで、地元の人々にも人気があります。

栗原遺跡の住所・アクセスや営業時間など

名称 栗原遺跡
住所 東京都練馬区氷川台1丁目7
営業時間・開場時間 24時間
利用料金や入場料 無料
参考サイト http://www.city.nerima.tokyo.jp/annai/rekishiwoshiru/rekishibunkazai/bunkazai/bunkazaishosai/b046.html
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復元住居ではないけれど「高麗村石器時代住居跡遺跡」(埼玉県日高市)

高麗村石器時代住居跡(こまむらせっきじだいじゅうきょあと)は、1929年(昭和4年)、埼玉県内で初めて発見された縄文時代の竪穴式住居跡。
日本における考古学調査の先駆けとなった遺跡としても知られています。

名前に”石器”と入っているとおり、周辺からは、石鏃(せきぞく)や石斧(せきふ)が出土していることから、石器時代の遺跡と見られていますが、住居跡は縄文時代のもの。
北方に高麗川が流れる標高100メートルほどの台地に位置し、水を得やすく日当たりがよいことなどから、数千年、長きにわたって人の暮らしがあったものと考えられています。

発見された住居跡は、時代が異なるもの2件。
どちらも直径6メートルほど、50センチメートルほど掘られた円形穴で、周辺から柱跡などが多数見つかっています。
土器や石製品なども数多く出土。
考古学的な影響の大きさが伺えます。

場所は西武池袋線の高麗駅から歩いて3分ほどですが、公園や史跡の中ではなく道や住宅の狭間にあるため、少々わかりにくいところに。
しかも、復元住居ではないので、一見、ただの窪地のようにも見えます。
しかし、竪穴そのものを見渡すことができるので、逆に縄文時代の様子をより身近に感じることができそうです。

高麗村石器時代住居跡遺跡の住所・アクセスや営業時間など

名称 高麗村石器時代住居跡遺跡
住所 埼玉県日高市大字台79-1番地
営業時間・開場時間 24時間
利用料金や入場料 無料
参考サイト http://www.saimaibun.or.jp/h23/210.htm
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貴重な旧石器時代の遺跡「田名向原遺跡」(神奈川県相模原市)

貴重な旧石器時代の遺跡「田名向原遺跡」(神奈川県相模原市)

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田名向原遺跡(たなむかいはらいせき)は、全国的にもまだ数が少ない旧石器時代末頃(約20000年~18000年前)の遺跡。
神奈川県の中央を流れる相模川が形成した段丘上にあり、豊かな水をもとに漁場にも恵まれていたと考えられていて、縄文時代や古墳時代に至るまで、長期間にわたる人の暮らしの痕跡が見つかっています。

遺跡として発見・整備されたのは比較的新しく、建物跡と見られる遺構が発見されたのが1997年(平成9年)。
川原石で囲まれた直径10メートルほどの円形の中に、12本の柱穴と、焚き火跡が2カ所。
建物跡として発見された遺跡としては日本最古のもののひとつとされています。

現在では「史跡田名向原遺跡公園」として一般に公開。
園内では、貴重な旧石器時代の住居状遺構の復元したものを見学することができるほか、およそ5000年ほど前、縄文時代中期の竪穴式住居の復元住居を見ることができます。
さすが日本最古の住居遺跡。
展示やパネルも充実していて、古代の人々の生活の様子を詳しく知ることが可能。
また、県道を挟んで向かい側には、旧石器時代をテーマにした「旧石器時代学習館」もあり、旧石器時代から古墳時代までの人々の暮らしぶりを学ぶことができるようになっています。

田名向原遺跡の住所・アクセスや営業時間など

名称 田名向原遺跡
住所 神奈川県相模原市中央区田名塩田3-23-11
営業時間・開場時間 9:00−18:00(冬季は17:00まで)
利用料金や入場料 無料
参考サイト http://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/shisetsu/bunka_shakai/library_etc/1002761.html
最新情報は必ずリンク先をご確認ください。

あなたの町にもきっとある!竪穴式住居跡を見に行こう!

現在進行形で発掘調査が行われている史跡だと、立ち入りできなかったり、見学不可のところもありますが、公園や史跡として一般に公開されている竪穴式住居跡もたくさんあります。
学校や道路を建てるときに偶然見つかった遺構が、そのまま残されて、街中にぽつんと遺跡として管理・保全されている場合も。
数千年に渡り、私たちの祖先たちの暮らしを支え続けた竪穴式住居。
有名な遺跡公園まで出かけて行かなくても、もしかしたら近所にひっそり、遺跡があるかもしれません。
もし、竪穴式住居の遺跡を見学する機会があったら、是非、穴の深さにも注目してみてください。
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