敬虔なるキリシタン武将・明石全登、ドラマチックに登場した大坂の陣と謎の行方

宇喜多家の家宰として大名家を取り仕切る一方、敬虔なキリシタンとしての顔を持っていた明石全登(あかしぜんとう)。大河ドラマ「真田丸」でも存在感を発揮し、大坂の陣で活躍した武将ですが、その最期は謎に包まれています。いったい彼はどこに行ったのか…宇喜多家に忠誠を捧げ、キリシタンとしての誇りを捨てることのなかった彼の人生を、今回はご紹介したいと思います。

父・行雄が宇喜多直家の家臣に

 

父・行雄が宇喜多直家の家臣に

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まず、明石全登という名前の読みですが、「ぜんとう」、「たけのり」、「てるずみ」、「なりとよ」、「いえのり」など諸説伝わっており、これという確定した呼び方が不明なんですよ。
「真田丸」では「てるずみ」となっていましたが、一般的なものは「ぜんとう」です。

生年ははっきりとはしておらず、永禄12(1569)年あたりと推定されています。

父は、備前(岡山県東南部)の保木(ほぎ)城主・明石行雄(ゆきかつ)。
行雄は備前の戦国大名・浦上宗景(うらがみむねかげ)の重臣でしたが、宗景が家臣の宇喜多直家(うきたなおいえ)と対立するようになると、行雄は宇喜多側へと寝返りました。
これが天正3(1575)年のことで、行雄は以後宇喜多家臣として地位を築いていきます。

宇喜多直家が亡くなってからも、跡継ぎだった幼い秀家(ひでいえ)を助け、所領を4万石にまで増やしました。

宇喜多家とのつながりを強める

 

宇喜多家とのつながりを強める

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元服後の全登は、宇喜多直家の娘を妻とし、ますます宇喜多家とのつながりを強めていきます。
全登の母は直家の妹であり、親子2代にわたって宇喜多家から妻を迎えたことになりますね。

一方、全登の主君・宇喜多秀家は、父・直家の死の直後はまだ幼く、豊臣秀吉から気に入られ寵愛されました。
秀吉の養女で前田利家(まえだとしいえ)の実の娘・豪姫(ごうひめ)を娶るなど、豊臣政権を担う一員として期待されていたことがわかります。

全登は秀家に従い各地の戦に参加。
紀州・四国・九州・小田原征伐など、秀吉の天下取りの戦に後見することとなりました。

また、秀吉の2度の朝鮮出兵にも秀家と共に従軍し、激戦をくぐり抜けるうちに武将としての才覚を身に付けたと思われます。

宇喜多騒動で家が大混乱

 

宇喜多騒動で家が大混乱

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慶長3(1598)年、秀家を可愛がってくれた秀吉が亡くなると、徐々に世の中が動き始めます。
じっと待っていた徳川家康がついに動き出そうとしていました。

そんな中の慶長4(1599)年、宇喜多家では天下どころではない騒動が起こってしまったんです。
「宇喜多騒動」というお家騒動でした。

秀家の正室・豪姫が前田家から輿入れした際、前田家の家臣も何人かついてきており、そのまま宇喜多家に入りました。
その中の中村次郎兵衛(なかむらじろべえ)という家臣を秀家が気に入り、かなり重用したんです。
一説には中村の専横があったとも言われていますが、宇喜多家の譜代の家臣としては、やはり面白くないわけですね。

そのため、秀家の父・直家の代から仕えている「宇喜多三老」のひとり・戸川達安(とがわみちやす)や同じく譜代の岡貞綱(おかさだつな)などが、中村の排除を秀家に訴えたんです。

しかし秀家はこれをにべもなく断り、我慢のならなくなった戸川らは、中村を襲撃してしまいました。
中村は難を逃れましたが、戸川らによって大坂にある宇喜多屋敷が占拠されるという事態に発展してしまいました。

主である秀家はこれに怒り、戸川らを暗殺しようとします。
もうこのへんでドロドロな感じなんですが、さらに、秀家の従兄弟でもある坂崎直盛(さかざきなおもり/旧名は宇喜多詮家/うきたあきいえ)が戸川らをかくまったことで、宇喜多家は大混乱に陥ったんですよ。

宇喜多騒動の顛末

 

宇喜多騒動の顛末

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収拾のつかない事態に陥り、ついに動いたのが徳川家康でした。

家康の裁定により、坂崎や戸川らは他家預かりという処分になりました。
宇喜多家自体にはお咎めはありませんでしたが、譜代の重臣をほとんど失ってしまったため、とてもダメージが大きかったんです。

家の中いっさいを取り仕切る家宰も不在となり、これから宇喜多家はどうなるのか…というところで、白羽の矢が立てられたのが、全登でした。

父と2代にわたり宇喜多家に仕え、家老に準じる席次だった明石家の当主として、全登は宇喜多家の家宰を任されることになったんです。

これは大事でしたが、全登は立派に家宰の役割を務めました。
その働きは豊臣家にも認められ、全登は豊臣家の直臣にも取り立てられて10万石の俸禄を与えられるようになったんです。
これは立派に大名クラスの地位でした。

関ヶ原の戦いで先鋒をつとめる

 

関ヶ原の戦いで先鋒をつとめる

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宇喜多騒動が収束した後、慶長5(1600)年、豊臣政権内部の抗争により、石田三成(いしだみつなり)ら五奉行を中心とした西軍と、徳川家康を中心とした東軍とで関ヶ原の戦いが起こりました。

全登の主君・秀家は、豊臣家に恩がありますから、当然西軍に付きます。

全登ももちろん主君に従い、前哨戦となる伏見城の戦いや杭瀬川(くいせがわ)の戦いで東軍勢力に大勝しました。

そして関ヶ原本戦では、宇喜多隊1万7千のうち8千を全登が任され、先鋒を務めたんです。
相手は猛将・福島正則(ふくしままさのり)で、「双方の旗が何度も退却した」と言われるほどの激戦となりました。

ただ、戦闘の最中に、西軍だった小早川秀秋(こばやかわひであき)らが突如東軍に寝返り、形勢は一気に逆転。
西軍は総崩れとなり、たった半日で大敗してしまったのでした。

死のうとする主君をいさめるが…

 

死のうとする主君をいさめるが…

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宇喜多隊にも一説には3倍以上とも言われる敵がおそいかかり、壊滅状態となってしまいます。

死を覚悟した秀家は、敵中に斬り込んで死のうとしますが、それをいさめたのが全登でした。
彼は主君に大坂城へ退却し態勢を建て直すよう進言し、戦ではいちばん難しいとされる殿(しんがり/退却する隊の一番後方を守る)を務めたんです。

その後、何とか戦場を脱出した全登は、宇喜多家の居城・岡山城にまでたどり着きます。
しかし、関ヶ原での敗戦後、城は荒らされており、城には秀家の姿もありませんでした。

そして、全登は姿を消してしまったんです。

一方、秀家はと言うと、何とか逃げ延び、ツテを頼って九州は薩摩(鹿児島県)の島津家に潜伏していました。
しかし、徳川方からの追及をおそれた島津側によって、ついに徳川方に引き渡されてしまいます。
そして八丈島へと流刑になり、そこで生涯を終えることとなったのでした。

つまりは、関ヶ原が主従の今生の別れの場になってしまったんです。

この間の全登の行方については、はっきりとはしていません。
しかし、同じキリシタンでもあり、母方の親戚でもある九州の黒田如水(くろだじょすい)・直之(なおゆき)兄弟に匿われて筑後(福岡県南部)に潜伏していたとも言われています。
ただ、如水の跡を継いだ長政(ながまさ)がキリスト教を禁じたため、近隣の筑後柳河の領主でキリスト教を保護していた田中忠政(たなかただまさ)を頼っていったとも言いますね。
諸説あります。

数千の兵を率いて大坂城に参上!

 

数千の兵を率いて大坂城に参上!

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関ヶ原の戦いから14年、全登の音信は途絶えたままでした。

この間にも、力を弱めた豊臣家と、それを一気に潰そうとする徳川家の対立がはっきりとし、ついに直接対決の様相を呈し始めます。
豊臣方は、関ヶ原の戦いで領地を失った浪人などを集め、家康との戦いの準備を始めていました。

そして、両軍の戦端が開かれようとしていた慶長14(1619)年の冬、なんと全登は数千人にも及ぶキリシタン兵を従えて大坂城に現れたのでした。

潜伏期間のうちにキリシタン兵を集めていたのでしょうか。

全登は宇喜多家の関係からも豊臣家に味方するのに不思議はありませんが、彼には豊臣方に味方するもっと大きな理由がありました。
当時、家康が開いた江戸幕府は、キリスト教を全面的に禁止する方策を打ち出していたからだとも思われます。
それにしても、この登場の仕方はカッコいいとしか言いようがありません。

こうして、全登は真田信繁(さなだのぶしげ)・後藤基次(ごとうもとつぐ)・毛利勝永(もうりかつなが)・長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)と並び、「大坂城五人衆」という重要な武将たちの一員となったのでした。

大坂の陣にて

 

大坂の陣にて

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慶長14(1619)年の大坂冬の陣では、真田信繁による「真田丸」の建設とそれを中心とした作戦により、豊臣方はかなり優勢に戦を進めました。
しかし、徳川方が放った大砲が大坂城に命中し多数の死者を出したことから、豊臣秀頼の母・淀殿(よどどの)などが震え上がり、講和が結ばれました。

しかしこれによって、大坂城は外堀を埋められ、まったくの丸裸となってしまったんです。

こうなれば、豊臣方の兵たちは城の外に出て真っ向から戦いを挑むしかなくなってしまいました。

そして、決戦の火蓋が切って落とされたのです。

道明寺(どうみょうじ)の戦いで、全登は後藤基次らに続く隊として出撃しましたが、ここで予想外の濃霧が、後藤以降の隊の進軍を阻みます。
行軍は遅れに遅れ、8時間も遅れてしまったと言われています。

後藤は、全登を含む味方の行軍が遅れ、自分が敵中に孤立したことを悟ると、ほぼ単隊で徳川方の大軍に挑み、戦死してしまいます。
全登らが戦場に着いた頃には、すでに戦況は決していましたが、全登は水野勝成(みずのかつなり)や伊達政宗などの隊と交戦し、相手に同士討ちを起こさせるなどして一矢報いました。

最後の戦いに挑み、家康の本陣を狙う

 

最後の戦いに挑み、家康の本陣を狙う

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後藤を失うなど痛手を負った豊臣方ですが、真田信繁などを中心に、天王寺・岡山の戦いに臨みます。
全登はそこで300名の決死隊を組織し、真田信繁と共に家康の本陣を狙うという作戦に参加しました。

しかし、そこで真田信繁が討ち取られてしまい作戦は頓挫。
あと少しで家康の首を狙えるところまでいったのですが、天は豊臣方には味方しなかったんです。

万策尽きたと悟った全登は、関ヶ原の戦いの時と同様、見事に敵の包囲網を突破します。

しかし、その後の彼の行方を知る者は、誰もいませんでした。

そして大坂城は落城し、豊臣秀頼や淀殿は自刃。
こうして豊臣家は滅び、戦国時代が本当に終結することとなったのでした。

全登の行方は?

 

おそらく、乱戦の中で全登は戦死したと考えるのが妥当かと思いますし、そうした見方も強いです。

しかし、大坂の陣で行方不明もしくは戦死した武将たちには、生存説も根強く残っている人物が多いんですよ。
首を取られたはずの真田信繁ですら、九州逃亡説があるほどですから…。

もちろん、行方不明の全登にも生存説があります。

真田信繁同様、九州に逃げたという説。
これは九州にキリスト教信仰が根付いていたためと考えられますね。
また、キリシタンだったからこそ、南蛮にまで逃亡したのではないかという説まであるんですよ。

もう少し現実的なのは、東北逃亡説です。

大坂の陣後、全登は伊達政宗に保護され、ついで津軽信枚(つがるのぶひら)の保護の元、弘前に匿われたとも言われています。

たしかに、上の両者は敗者を保護している実績があるんですよ。
伊達政宗の腹心・片倉重長は真田信繁の娘を保護し妻としていますし、息子もまた仙台藩士となり、仙台真田家は現在に至るまで続いています。

一方、津軽信枚もまた、石田三成の子供たちを保護しており、娘を妻としているんですよ。

東北の諸将はみな、敗者に好意的なんでしょうか。

となれば、全登の生存説も、少しは可能性があると考えていいのかもしれませんね。

全登の息子たちは、秋田県の大館(おおだて)市比内(ひない)町に隠れ住んだと言われています。
そのため、今でも明石一族という人々が住んでいるそうですよ。
元国連事務総長の明石康(あかしやすし)氏は、比内町の出身であり全登の末裔だとか。
名字が「明石」ですから、もしや…と思ってしまいますよね。

宇喜多家と共に歩み、その後は信仰のもとに突き進んだ全登

 

宇喜多家の家宰として、主のために尽くした全登。
結局、主君・秀家は捕らえられて八丈島に流刑となり、大名・宇喜多氏は絶えることとなってしまいました。
しかし、その後の彼が再び戦場に現れたのは、キリスト教を信じる強い心があったからなのでしょう。
勝てば豊臣家で取り立てられ、明石家のみならず宇喜多家も救うことができるかもしれない…そして、禁じられたキリスト教もまた許されるかもしれないという思いがあったのではないかと思います。
その行方はいまだ不明ですが、どこかに逃げ延びて信仰を持ち続けたまま生涯を全うしたのではないか…そう思いたくなりました。
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