清洲城は若き織田信長の拠点。歴史はすべてここで動いていた

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トラベルパートナー: kana

徳島県出身。徳島県を中心に、四国と住んだことがある大阪府、愛知県の記事を書いています。旅行は夫か母、友人などとの二人旅がメインです。神社仏閣や歴史が好きなので、そのスポットにまつわる豆知識をふまえて見どころをご紹介します。

平成によみがえった清洲城天守閣はイベントもいっぱい!

中部地方一の大都市 名古屋の北西に新しく誕生した清須市。愛知県西部地方はかつて尾張国と呼ばれ、戦国時代の舞台となりました。その尾張国に生まれ、時代の風雲児として天下に君臨した名将こそ織田信長。清洲城はまさに織田信長が天下への野望を抱いた場所です。

尾張の若武者が天下統一への第1歩を踏み出した場

清洲は街道が行き交う交通の要所で、室町時代後期の1478年には清洲城が守護所とされたこともあり、尾張国の中心地として繁栄しました。その清洲城に1555年、20代初めの若き織田信長が入城し、小牧山城へ移るまでの約10年間居城としていたのです。現在見られるお城は模擬天守で当時の遺構は見られませんが、清須市の人気観光スポットとなっています。

戦国武将が天下をめざした歴史の舞台

当時はまだ小大名だった織田信長でしたが、今川義元との桶狭間の合戦に歴史的勝利をしたその日は、ここ清洲城から合戦の場へ向かいました。のちに天下を治める徳川家康と結んだ清洲同盟、信長死後には跡継ぎを決める清洲会議など、日本の歴史における重要な舞台となったのも清洲城です。隣接する清洲公園には若き日の織田信長像があり、視線の先には桶狭間があります。

歴代城主は戦国時代を代表する御三家

1582年6月、織田信長が本能寺の変にて討死した後の清洲会議により、清洲城は信長の次男 織田信雄(のぶかつ)が城主となりました。しかし、家臣の豊臣秀吉と対立して清洲城を去り、その後は秀吉の甥 豊臣秀次が城主を務めたのです。これにより織田氏は急激に力を失いました。

1600年の関ヶ原の合戦では東軍の拠点となり、徳川家康の四男 松平忠吉が城主となりますが、後継者がいなかったためその死後は弟である家康の九男・徳川義直が城主の座に就いています。振り返れば織田・豊臣・徳川という三大家が清洲城を動かしていたのですね。

かつて関東の巨鎮と呼ばれた大規模城

全盛期の清洲城は、東西1.6km・南北2.8kmにもおよぶ城郭を構え、関東の巨鎮と呼ばれるほど、現在では想像もできない巨大なお城だったといわれています。織田信長から相続した織田信雄が二重の堀を築き、さらには大天守や小天守に書院が新築され、同時に清洲も城下町として大きく発展しました。

しかし1610年、天下の実権を握った徳川家康が、政治機能や都市機能を移転させる清洲越しを行います。お城はすべて取り壊され、城下町がお寺や神社にいたるまですべて去った清洲は、歴史の表舞台から消えることとなりました。しかし、この機能移転により、巨大なお城が建てられた街が名古屋となったのです。

清州城の面影は名古屋城に今もやどる

大都市名古屋のシンボルとなっている名古屋城。天守閣北西部の御深井丸(おふけまる)と呼ばれる場所には西北隅櫓(せいほくすみやぐら)があります。ここには清洲城を解体した時の建材が使用されており、清須櫓(きよすやぐら)とも呼ばれているのです。清洲城は決してこの世から消え去ったわけではなく、日本を代表する名古屋城を支えながら、確かに生きているのでしょう。

平成によみがえり波乱の平成を見送る

現在の清洲城は1989年に清洲町の町制100周年を記念して建てられました。実は清洲城に関する歴史資料はほとんど残されておらず、外観や大きさは想像の上で建築されたため、模擬天守と表現されているのです。かつて清洲城があった場所は現在、東海道新幹線が通っていることもあり実際には微妙にちがう場所にあります。

東海道新幹線に乗車すれば、東京へ向かう上りなら名古屋駅到着直前の左側に、新大阪へ向かう下りなら名古屋駅出発直後の右側にあるので、よく注意していれば見ることができるでしょう。清洲町は2005年に合併で清須市となり、新しいお城はそのシンボルとして市民に親しまれています。

新しく生まれ変わった天守閣で歴史にふれる

新生 清洲城の内部は歴史博物館のようになっており、お城の歴史はもちろん戦国時代の歴史解説、甲冑や書状などが展示されています。さらには織田信長を主役とする歴史ドラマで使用された衣装の展示や、スポーツ新聞風に当時の歴史を物語る資料など、歴史ファンでなくても面白く楽しむことができるでしょう。見学所要時間は約1時間です。

天守閣からは尾張国と美濃国を一望

3層4階建てに再現された清洲城天守閣。最上階は展望フロアとなっており、名古屋市の街並みや遠く岐阜県の山々までが広く見わたせます。また、快晴の日には、織田信長が山の上に構えた岐阜城がかすかに望めるでしょう。広大な濃尾平野が一望できることから、昔ここ清洲が交通の要所とされていた理由がよくわかります。

新しき清洲城はさまざまなイベントで大盛り上がり

清洲城ではさまざまなイベントが開催され、大いに賑わいます。月に1度の朝市や、2018年には大規模なマルシェイベントも開催されました。名古屋城で活躍するおもてなし武将隊のように、こちらにも戦国武将に扮した武将隊のみなさんがいて、土日祝日は紙芝居の上演や演舞などで楽しませてくれるでしょう。

清洲城の主役はやはり織田信長

毎年10月には、清州城信長まつりが1ヶ月間にわたって開催されます。中でもメインイベントは、甲冑を着て戦国武将に扮した人々が練り歩く時代行列、そして、戦に使用した火縄銃の実演には驚かされるでしょう。まつり期間中は天守閣でも甲冑などの特別展示がある他、毎週日曜日には抹茶が振る舞われたりと、最高の盛り上がりを見せます。

復活を喜び祝う清須の春の桜吹雪

清須市が最も美しく彩られるのは春、清洲城周辺は満開の桜が咲き誇ります。お城の前を流れる五条川は川沿いに桜並木がつづき、愛知県内でも有数のお花見スポット。桜まつりの開催時期は提灯でライトアップされ、屋台も並んで最高の観光シーズンとなるでしょう。

桜越しに見るお城は清須市自慢の風景

五条川沿いの桜並木からは、花々の合間に清洲城が望めます。桜のピンクとお城の黒瓦とのコントラストは、多くの写真愛好家を魅了する春だけの特別な景色でしょう。当時の形ではなくても復活した清洲城に、清須市の人々は喜びに満ちています。

ここ清洲城にはお城の御朱印が

最近話題の御朱印は神社やお寺だけではありません。お城の御朱印御城印(登城記念符)が清洲城にはあるのです。ただ神社やお寺のように御朱印帳に頂くものではなく、印刷されたものを頂くことになります。まだ2018年10月に登場したばかりなので、これから清洲城へ行く方はぜひ記念にどうぞ。

豊臣秀吉ゆかりの神社を守りつづける狛猿

清洲城下を守る総鎮守として織田信長からも崇敬された日吉神社がお城の近くにあります。母がこの神社に子授け祈願をした後、出産した子どもは日吉丸と名付けられました。この日吉丸こそのちの豊臣秀吉。神社の名は秀吉の幼名から、日吉神社になったと伝えられます

日吉神社にお祀りされる神様のお遣いは猿です。境内には猿の像や絵がいっぱいあり、なんと狛犬ならぬ狛猿も。豊臣秀吉がよく猿というあだ名で呼ばれたためでしょう。地元の人々に親しまれるお猿の神社、清洲城観光の時にはぜひ参拝してみたいですね。

住所| 愛知県清須市清洲2272
営業時間|なし
定休日|なし
電話|052-400-2402
公式サイトはこちら

清洲城へのアクセス

車での行き方

名古屋高速6号清須線を利用し清須出口から約5分の距離。甚目寺方面からは国道302号線(名古屋第二環状自動車道)の廻間交差点を右折、春日井方面からは国道302号線の清洲中学校前交差点で側道へ入れば、約100台可能な清洲公園駐車場(無料)に到着します。

電車での行き方

JR東海道線の清洲駅からは徒歩約15分、南東方向へ清洲橋(五条川)を渡り右折後直進します。名鉄の新清洲駅からも約15分、橋を渡って五条川沿いに北進し、東海道新幹線とJR東海道線下を通ってまもなく到着。この五条川の向こうにお城が見えるでしょう。

住所| 愛知県清須市朝日城屋敷1-1
営業時間|9:00-16:30
定休日|月曜日
電話|052-409-7330
公式サイトはこちら

まとめ

若き日の織田信長はうつけ者と呼ばれ、豊臣秀吉は猿と呼ばれ、信長と同盟を結んだ徳川家康はたぬきおやじと呼ばれました。でも3人とも大出世を果たして天下を治め、そして、3人とも深く関わったのはここ清洲城なのです。特徴ある3人が日本の頂点に立つスタートとなった場所は平成の世に復活しました。訪れてみれば歴史の大舞台であったことがわかるでしょう。