偉人を偲ぶ谷中霊園は桜の名所

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春には桜の名所として多くの人出があります

桜の名所として知られ、多くの偉人が眠る墓地である谷中霊園は台東区谷中に位置しています。都民の憩いの場として親しまれるその魅力は一体なんなのか。谷中霊園で見ることができるスポットなどの様々な楽しみ方から基本情報を含むアクセス方法まで、谷中霊園を徹底的に解説します。

谷中霊園は都民の憩いの場

谷中霊園に眠る故人を偲ぶ、都民の憩いの場

明治7年に開設した都立霊園である谷中霊園は、約10万平方メートルの敷地の中におよそ7,000基のお墓があります。

園内は明るく静かで都民の憩いの場となっており、徳川家15代将軍慶喜や画家の横山大観、政治家の鳩山一郎や日本資本主義の父である渋沢栄一も眠っています。園路沿いにはたくさんサクラが植えられ、桜の名所として都民に親しまれています。

偉人を偲び、歴史を学ぶ

天王寺五重塔跡

最初の五重塔は1644年に建立されましたが、1772年の大火で消失しました。1791年に再建された五重塔は幸田露伴の小説「五重塔」のモデルとして知られ、震災や戦災にも遭遇しなかったので谷中のランドマークとなっていましたが昭和32年7月に放火によって消失。

総欅造りで高さ34.18mは関東で一番高い塔でした。東京都が史跡に指定しており現在は礎石だけが残るのみですが、明治3年の実測図が残っているため復元は可能。

谷中霊園事務所と谷中霊園の歴史

谷中霊園は谷中霊園事務所によって管理されています。明治維新後の神仏分離政策の結果、神式による葬儀も増えました。しかし墓地の多くが寺院の所有で埋葬場所の確保が難しかったため、公共の墓地を整備する必要がありました。

谷中天王寺の敷地等を東京府が引き継ぎ、明治7年に東京府管轄の公共墓地として谷中墓地を開設。明治22年に東京市に移管、昭和10年に谷中霊園と改称して現在に至っています。

徳川慶喜墓

徳川慶喜は慶応2年に第15代将軍職を継ぎましたが、翌年に大政を奉還。慶応4年には鳥羽伏見の戦いを起こすものの敗北し、江戸城を開城。慶喜は江戸幕府、そして武家政権最後の征夷大将軍となりました。

駿府に隠棲して余生を過ごしますが明治30年には東京の巣鴨へ移住、明治34年には現在の文京区春日へ転居。最も長生きした将軍として、大正2年に77歳で没しました。慶喜は神式の葬儀と埋葬を希望したため、徳川氏の墓とは別に寛永寺谷中第二霊園で眠っている。

横山大観墓

明治から昭和にかけて生きた日本画家である横山大観は、茨城県水戸市出身。近代日本画壇の巨匠で、朦朧体と呼ばれる線描を抑えた独特の没線描法を確立しました。

東京美術学校を卒業後、京都を経て明治29年に東京美術学校の助教授に就任。その2年後には助教授職を辞して、日本美術院創設に参加。美術院の活動中に朦朧体の絵画を発表するも当初国内では評価されず、海外で高評価を得たのちに国内でその画風が評価され始めました。画題としては富士山を好み、富士山を描いた作品である「心神」など2000点を超えます。墓地は、谷中霊園内の乙8号4側。

鳩山一郎墓

第52、53、54代内閣総理大臣で、自由民主党の初代総裁。旧民主党代表で第93代内閣総理大臣である鳩山由紀夫の祖父でもあります。1955年に保守合同により自由民主党を結成し、翌年にモスクワで日ソ共同宣言に調印、日ソ国交回復を成し遂げました。

また、人格の尊厳に基づく相互尊重、相互理解、相互扶助を3原則とした「友愛」を提唱したことでも知られます。墓地は、谷中霊園内の乙8号4側。

渋沢栄一墓

江戸末期から昭和にかけて生きた、日本の実業家。東京証券取引所や一橋大学などの設立にも尽力し日本資本主義の父として称され、令和6年から新一万円札の顔となります。墓地は、谷中霊園内の乙11号1側。

谷中霊園へのアクセス

電車での行き方

最寄り駅は、JR又は京成線の日暮里駅になります。徒歩6分ほどで到着です。

住所|〒110-0001 台東区谷中7-5-24
営業時間|8:30-17:15
定休日|年末年始
電話|03-3821-4456
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