世界最小の国バチカン市国。その歴史は壮大だった

公開日:2019/3/18 更新日:2020/3/6

バチカン市国の一時衰退期

バチカン市国の一時衰退期
756年にはフランク王国カロリング朝ピピンが、ラヴェンナなどの都市を法王に寄進し、そこに法王領を持つようになりました。
法王権が最盛期に達した12~13世紀には、ローマ各地から巡礼が集まり繁栄しました。しかし、1307年に教皇庁が南仏のアヴィニヨンに移されると、教皇が不在となり豪族たちの紛争が起こったのです。
1348年に疫病であるペストが大流行してしまい、市民の人口はなんと2万人以下に減ってしまいました。

1378~1417年の間には、ローマとアヴィニョンにそれぞれローマ教皇をおき、カトリック教会の大分離が起こります。
1420年に新任の第206代ローマ教皇マルティヌス5世(在位1417-1431年)がローマ入りした時のローマの荒れようは予想以上。
盗賊がはびこり教会は家畜小屋というありさまでした。

バチカンへの法王権の復活

バチカンへの法王権の復活
1450年の聖年に巡礼がローマにきたことでローマは富を得ました。
当時の第208代教皇ニコラウス5世(在位1447-1455年)は、バチカン宮殿やサン・ピエトロ聖堂の改築を命令しました。1471年ごろ第212代教皇シクストゥス4世(在位1471-1484年)の教会国家強化へ向けて活動し、ローマを大国へと導きました。
バチカン図書館を充実させシスティーナ礼拝堂も建立しています。
第216代教皇ユリウス2世(在位1503-1513年)に教会国家強化政治が引き継がれ、絶対君主として教皇の立場を強固にしました。
戦争を好む教皇はフィレンツェからルネサンスを奪いました。
1508~1512年にシスティーナ礼拝堂の天井画を彫刻家のミケランジェロが描きました。
教皇とミケランジェロの芸術史に残る葛藤が繰り広げられました。
ミケランジェロの華麗な天井フラスコ画は、教皇はもちろん現在も人々を魅了しています。

宗教とルネサンスが融合したバチカン

宗教とルネサンスが融合したバチカン
ユリウス2世の後は、フィレンツェの名門メディチ家出身の第217代教皇レオ10世(在位1513-1521年)が継ぎラファエロと共にルネサンスは頂点を極めます。
大聖堂などの改築には建築の資材を得るために古代遺跡を壊しました。
これを見たバチカンの2大芸術家の一人のラファエロは、パトロンのレオ10世への報告書の中で古代遺跡の保存を訴えたようです。1527年に第219代教皇クレメンス7世(在位1523-1534年)の時代に、ルター派の神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519-1556年)の略奪にあいローマは壊滅状態。
教皇はサンタンジェロ城へ難を逃れました。
ローマの人口は9万人から3万人へ激減し、ルネサンスは終焉しました。

しかし、1534年に第220代教に皇就任したパウルス3世(在位1534-1549年)によってすぐに回復。
パウルス3世はミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の「最後の審判」の作成とサン・ピエトロ教会の建築責任者を依頼しました。

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