激動の歴史に翻弄されたポーランド・ワルシャワ歴史地区

wondertripでは世界の絶景を紹介していますが、歴史地区や古代都市などの絶景スポットは、その歴史を少しでも知ることでより観光が楽しめます。今にも残る世界遺産のストーリーは、知識欲も刺激されますね。本日はワルシャワ歴史地区やアウシュビッツなど、地理と歴史に翻弄されてきた「ポーランド」の歴史をご紹介します。

ポーランドってこんなところ

ポーランドの住所・アクセスや営業時間など

名称 ポーランド
住所 Republic of Poland
営業時間・開場時間 24時間
利用料金や入場料 無料
参考サイト http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
最新情報は必ずリンク先をご確認ください。

ワルシャワへの首都移転以前のポーランドの歴史

5~6世紀頃この地域は部族国家が乱立した状態でしたが、10世紀になると有力な部族ボラーニェ族が国家の統一を実現しました。
966年に一族を率いるミェシコ1世がキリスト教の洗礼を受け、キリスト教公国としての地位を確立することができましたが、王の死後に分裂傾向が強まり、弱体化が始まりました。

11世紀には主要都市に自治権を認めて税金を課すことが行われるようになり、また各地でキリスト教の学校が開設され、一般の人々の間にもキリスト教が普及していきました。

1320年に分裂した諸都市の争いをドイツ系のヴワデイスワフ1世が再統一し、クラクフに首都を置きました。
このころから多くの城が作られ、都市の要塞化が進みました。
1385年には婚姻によりポーランド・リトアニアの連合王国が結成され、バルト海への出口を確保して交易で栄えることになりました。

ワルシャワ歴史地区への首都移転とその後のポーランド

1596年ジグムンド3世によってポーランドの首都がクラクフからワルシャワへ移されました。
ところがその少し前に、貴族の議会であるセイムで全会一致の原則が、さらに貴族たちの自由選挙により国王を決める制度が始まっていました。
これらにより国家としての意思統一が困難になったためポーランドの弱体化が次第に進むことになり、スウェーデン、プロイセン、ロシアなどの侵攻を受けるようになりました。
1772年にはこれら3国によるポーランド分割が始まり、1795年にはポーランドの国名がなくなりました。

 

ポーランドが再独立を果たしたのは、1918年第一次世界大戦での再編によるものです。
しかし1939年になるとドイツ軍により侵略され、特にワルシャワはドイツ軍への蜂起の際に徹底的に破壊されました。
第二次世界大戦が終わった1945年にようやくソ連の影響下にポーランド人民共和国として再び独立国となることができました。
1989年になって非共産主義政権が発足し、2004年にポーランド共和国としてEU加盟を果たすことができました。

中世のポーランドが国家として徴税権などの一体性を確立できなかったために弱体化したのは、明治維新で廃藩置県、版籍奉還、徴兵制をなしとげ中央集権化を果たした日本と比較すると明らかです。
ただし、その後日本で強力な軍部の力が反対勢力を抑え込んで、国民を危機へ追い込んだことを考えると歴史の評価は簡単ではないことがよくわかります。

 

旧王宮~16世紀末に建設され、国会、大統領官邸として使用され第二次世界大戦で破壊されたが、その後市民の力でワルシャワ市内の他の遺産と同様に完全に復旧されました。

洗礼者ヨハネ大聖堂~14世紀に建設され、歴代の王により増改築が繰り返されたワルシャワで最も古い教会です。

ポーランド王国全盛期の首都クラクフとヴィエリチカ岩塩採掘場

クラクフはヴィスワ川沿いの交易都市で13世紀にモンゴルの襲撃を受けて一時破壊されましたが、1386年から1572年にポーランド王国の首都として栄えました。
幸い第二次世界大戦の直接の戦火を免れたので、中世そのままの街並みが残っています。

聖マリア教会~13世紀に造られたゴシック様式の教会で、塔の上からのラッパ演奏で有名です。
この地方がモンゴル軍の襲撃を受けた時に、ラッパ手が危険を知らせる途中でなくなったことによるものです。

 

中央広場と織物取引所~旧市街の中心にある中央広場は4万平方mもあり、中世のものとしては有数の規模です。
織物取引所は14世紀に建てられたもので、長さ100mもあります。

ヴァヴェル城~ヴィスワ川沿いに建ち16世紀まで国王の居城として使われていて、中には歴代王の棺などが眠るヴァヴェル大聖堂があります。

ヴィエリチカ岩塩採掘場~1250年に国営企業となり、1996年まで稼働した世界有数の地下岩塩採掘場です。
深さ地下327m、全長300kmもあり、中には広大な礼拝堂や最後の晩餐の像などがあります。

バルト海の港湾都市グダンスクとドイツ騎士団の本拠地マルボルク

グダンスクは980年頃ポーランドのミェシュコ1世が建設した砦から始まり、1235年頃には自治権を獲得し都市法で運営されるようになっていました。
1308年にドイツ騎士団がやってきて、グダンスクを植民地とし、ドイツ人やユダヤ人の移民が増え、貿易港としても発展しました。

1457年にポーランドがドイツ騎士団との13年戦争に勝利し再び自治都市となり、ポーランド国産品の貿易窓口として、また他の自由貿易都市との交易により黄金時代を迎えることになりました。
さらに宗教改革の時代には弾圧を逃れたプロテスタントの人々が移住してきて多民族の住む国際都市として発展しました。

ところがポーランドが弱体化したため、1739年にプロイセン王国へ併合され、ドイツ系の「ダンツィヒ」という名に改められましたが、第一次世界大戦の終了に伴い自由貿易港となりました。
ドイツでナチスが勢力を伸ばすとドイツ系住民が多かったために、1939年9月の第二次世界大戦で最初に占領され、多くのユダヤ系住民や反対派住民が虐殺されました。

第二次世界大戦の終了に伴い、ドイツ系住民の多くはドイツへ強制移住させられ、1952年には「グダンスク」の名にもどされ、造船業と貿易により発展しました。
1980年代になるとポーランド民主化のきっかけとなったのは、ここグダンスクで結成された労働組合「連帯」でした。

マルボルク~1230年頃異教徒の征討とキリスト教への教化をめざしてポーランド王から招かれたドイツ騎士団が本拠とした城で、一時プロイセン、グダンスクを支配したが、1460年に撤退しました。

アウシュヴィッツのナチスドイツ強制収容所

1939年9月ナチスドイツはポーランドに侵攻し、ポーランド領内のユダヤ人、反対派の住民への弾圧を強めていました。
1940年5月にはアウシュヴィッツ第一収容所が開設され、1941年には第二収容所が開設され、1945年の終戦までにのべ150万人以上もの人々が犠牲になりました。
ドイツ軍が侵攻しポーランド在住のユダヤ人への圧迫が強まっていた時期、ポーランドのかっての同盟国リトアニアへ多くのユダヤ人が避難しました。
ちょうどその時期1939年8月にリトアニアのカウナス日本領事館へ杉原千畝(ちうね)が赴任しました。
1940年6月にはソ連軍がリトアニアへ進駐し、各国大使館に撤退を求めていました。

1940年7月18日多くのユダヤ難民がビザ(通過査証)を求めて殺到してきました。
日本からはビザ発行の許可が下りませんでしたが、飢えて死んでいく人々を見殺しにはできないと思って「命のビザ」を発行し、のべ6000人もの人を救いました。

しかし杉原千畝は、終戦後日本へ帰ってきたときに外務省から退職を迫られ、職を転々として苦しい晩年を送りましたが、多くのユダヤ人に感謝される「正義の人」としてその生涯をとじました。

壮大な歴史を感じて旅をしよう

いかがでしたか。
ただ息を呑む絶景に心焦がすだけではなく、その背景にある歴史を簡単にでも理解することで、世界遺産巡りはより楽しくなります。
ワルシャワ歴史地区やポーランドへの渡航をぜひご検討ください。
photo by iStock