南アフリカ発祥の街ケープタウンの歴史。雄大に聳える象徴テーブルマウンテンに見守られたマザーシティ

wondertripでは世界の絶景を紹介していますが、歴史地区や古代都市などの絶景スポットは、その歴史を少しでも知ることでより観光が楽しめます。今にも残る世界遺産のストーリーは、知識欲も刺激されますね。本日は南アフリカ「ケープタウンの歴史」をご紹介します。

壮大な大自然と都会機能を兼ね備えたケープタウンってこんなところ!

壮大な大自然と都会機能を兼ね備えたケープタウンってこんなところ!

image by iStockphoto / 75738091

アフリカの南端にあるケープタウンは、オランダ東インド会社の補給基地が建設された後に栄えた港湾都市です。
ヨハネスブルグに次ぐ大都市で、南アフリカ随一の観光地となっています。
また、共和国会議が開かれる立法府南アフリカにある、3つの首都のひとつでもあります。
近代的な高層ビルが立ち並び、歴史的景観のコロニアル風の町並みはまるでヨーロッパの都市を歩いているような気分にさせてくれます。
ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見したという「喜望峰」や南アフリカのランドマーク「テーブルマウンテン」もここケープタウンにあります。

ケープタウンからはナポレオンが島流しになった「大西洋の絶海の孤島!セント・ヘレナ」や監獄として使われネルソン・マンデラ氏も投獄された世界遺産の海上の要塞「ロベン島」への観光も楽しめます。
また、旧港に造られた、5つ星のホテルやセレブ達御用達のレストラン、ハイセンスなショップや水族館があるショッピングモール「V&Aウォーターフロント」も外せません!今回は、世界屈指の美しさを誇る港町ケープタウンの歴史についてご紹介したいと思います。

南アフリカ発祥の街ケープタウンの始まり

南アフリカ発祥の街ケープタウンの始まり

image by iStockphoto / 81427457

南アフリカ西部に住んでいた先住民はコイ・サンケ系です。
南アフリカで最初にヨーロッパの植民地とされた地です。
そのケープタウンで入植が始まったのは1652年のオランダ人の入植でした。
特に南端にあったため肥沃な土地と豊富な水、食料にも恵まれており、天然の良港として魅力的な地だったのです。
そこに目を付けたのがオランダ東インド会社。
船の食糧補給基地として便利に使えると知るといなや、真水の供給にも便利な喜望峰のすぐ北西にあるテーブル湾沿いにオランダインド会社のヤン・ファン・リーベックが基地を造りました。
また、現在のケープタウンの中心部には、ケープタウン市が造られこれが始まりでした。

1498年に喜望峰の沖を通る欧印航路をヴァスコ・ダ・ガマ発見後、欧州と東洋を結ぶ主航路となりました。
この海域には補給港がない上に、この航路は海が荒れる海域で危険も多く難所だったのです。
この荒れる様子から「嵐の岬(カボ・トルメントソ)」と呼ばれたほどでしたが、後にポルトガル王ジョアン2世は「希望の岬(カボ・ダ・ボア・エスペランサ)」と改名しています。
こんなに危険な航路なのに、香辛料貿易の最短ルートで往来が多かったのです。
先ほどはオランダの入植が一番と言いましたが、ポルトガルがインド航路の寄港地として喜望峰に入植しましたが、維持が困難という理由で断念しました。

ケープタウン周辺の開発

ケープタウン周辺の開発

image by iStockphoto / 89961841

ケープタウン市を造ったオランダ人ですが、数年で要塞外へと繰り出しました。
他の場所から連れてきたアフリカ人奴隷を使い農場を建設します。
先住民で牧畜民だった「小民族のコイコイ族」は、農耕など発展した生活は送っておらず戦闘力もありませんでした。
彼らは入植者たちに追われこの地を離れたことにより、開発は急ピッチで進みました。
このころは安定した成長を重ね17世紀に入るころには民家が200も造られるほどケープタウンは発展し、港も潤っていました。
この成長の陰にはオランダ東インド会社が、利益にこだわりを持っておらず、船が安全に往来するための補給のみの役割を担うだけの港のため、放任されていたと言われています。

1707年までは英国から入植者たちが、無料で入植できる時代でした。
オランダ人はもちろん、1685年の「ナントの勅令」の廃止によってプロテスタントを信仰するフランス人たちも、ケープタウン近郊にやってきました。
彼らはその土地でワイン作りを始めています。
オランダ人が喜望峰を独占するのに最適の地だったのです。

ケープタウンの成長期

ケープタウンの成長期

image by iStockphoto / 64940583

18世紀に入るとケープタウンは補給基地としての役割だけでなく、さまざまな役目を果たすようになりました。
港には商船の乗組員たちを対象に商売をする商人層が増えてきたのです。
一部の成功者から富裕層と呼ばれる人々が出はじめました。
農業を営む人々の中からは、独立自営農民となり巨大農園を構え、奴隷を使用し大規模農業を営む者も現れました。

また、農民層の一部ではケープタウンから離れて、放牧を営むようになります。
彼らは「トレックボーア」と呼ばれ、彼らの作った生産品はケープタウンで販売され、ますます反映することが出来ました。
また、船を直すための職人たちも登場し、商業、農業、サービス業、全てにおいて成長した港町として栄えました。
この繁栄期には世帯数1100戸に達しています。
1778年には都市商人と農民層の中で富を得たものが、オランダ本国に渡り政治的代表権と貿易の自由を要求しましたが撃沈したのです。

ヨーロッパの不安定時代の余波を受けるケープタウン

ヨーロッパの不安定時代の余波を受けるケープタウン

image by iStockphoto / 63920887

1781年にイギリス帝国が、ケープタウンの港を占拠しようと訪れました。
しかし、フランス船隊がオランダをイギリス帝国が支配することがないよう保護し、軍隊を駐留させます。
しかし、1795年のフランス革命の余波を受けて、イギリス艦隊が上陸し、1814年には遂にオランダは追い払われイギリスが支配しました。
1815年のウィーン議定書に書かれた内容によりケープタウンは正式にイギリス領に置かれます。
この時のイギリス海軍の勢いはだれも止めることが出来ないほど強大なものでした。

1820年にイギリス人の移植が始まりましたが、人数はそれほどではなかったようです。
しかし、イギリスの植民地になることを良く思わなかったオランダからの移植民たちはケープタウンから去り、内陸部にトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を造りました。
現在もケープ地方で数多く暮らすカラードが出現します。
彼らはアジアからの先住民や奴隷たちと白人との混血でした。

1834年にはイギリスは奴隷を解放し、数年足らずで人口はオランダ時代の2~3倍にも膨れ上がりました。
奴隷がいなくなって困ったのは、地方で放牧を行っていたトレックボーアたちです。
彼らは不満と反感を募らせ、グレート・トレックを引き起こします。
しかし、ケープタウン自身は商工業が中心となっていたため奴隷解放についての影響はほとんどなかったため、グレート・トレック参加者はごくわずかでした。

ゴールドラッシュ時代から南アフリカ時代

ゴールドラッシュ時代から南アフリカ時代

image by iStockphoto / 19210577

1886年ごろにはヨハネスブルグなどでダイヤモンドが見つかり、16年後には金も見つかりました。
一攫千金を夢見てイギリスの白人鉱山技師などが押し寄せてきました。
ケープタウンが独占していた金の輸出でしたが、ヨハネスブルグではナタール州のダーバンからの鉄道が到達し、トランスヴァ―ル政府がポルトガル領のマプトへの鉄道を建設したことから撤退することになりました。
これは、イギリスがオランダ入植者国家のトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を併合するために行ったボーア戦争(1899~1902年)の引き金になります。

ボーア戦争で勝利したイギリスですが、その後4つの植民地(ケープ植民地、トランスヴァール、ナタール、オレンジ)に大同団結が起こり始めたことで、1910年に南アフリカ連邦として統合し独立させました。
諸州は同じ位置から始まりますが、金鉱を持っていたヨハネスブルグの経済がケープタウンを追い越し、南アフリカ経済の中心となりました。
しかし、ケープタウンの重要性は保たれています。

1948年に政権を握った国民党により始まったアパルトヘイト(人種隔離)を廃止しようと運動を起こしたネルソン・マンデラはケープタウン沖合にある、現在世界遺産のロベン島刑務所に1964~1990年の27年間に収監されました。
ケープタウン市役所のバルコニーで行われた、釈放後の初演説は10万人の聴衆を集めています。
1994年に彼は黒人初のアフリカ共和国大統領となりました。

世界から注目される人気のリゾートシティ「ケープタウン」を旅してみませんか?

美しい海と勇壮な山を有する南アフリカ発祥の地ケープタウンは、エキサイティングな旅を楽しめる国際都市です。
2014年のニューヨークタイムズで、「世界で一番訪れたい街No.1」に輝いています。
photo by iStock