ラオス、悲劇の歴史…世界で一番爆弾を投下され、インドシナ戦争で大国に翻弄された過去

wondertripでは世界の絶景を紹介していますが、歴史地区や古代都市などの絶景スポットは、その歴史を少しでも知ることでより観光が楽しめます。今にも残る世界遺産のストーリーは、知識欲も刺激されますね。本日は「インドシナ戦争でのラオスの歴史」をご紹介します。

悲劇の国ラオスってこんなところ

悲劇の国ラオスってこんなところ

image by iStockphoto / 12254655

タイ・カンボジア・ベトナムなど魅力にあふれた東南アジアのインドシナ半島中部に位置するラオス。
これまでベールに包まれており閉鎖的イメージが高い国でしたが、現在は世界遺産を2つ有する国で観光と投資ブームで注目される国となっています。
素朴で小さな町が点在しかつてフランス領だった頃の名残を残す、東南アジアで最後の秘境です。
町を歩くだけでもいろいろな発見がある面白いスポットです。

「森の国」ラオスの原生林の中に蛇行しながらゆったりと流れるメコン川や深い渓谷など日本とどこか似た雰囲気がします。
かつて、インドシナ戦争に巻き込まれてしまい、アジアの経済危機のあおりを直に受けた悲劇の国です。
でも、現在は象使いの免許が取れることでも話題になり、いつもとはちょっと違う観光を望む人に大人気の観光国となりました。
そんなラオスに起こった悲劇!インドシナ戦争でのラオスの歴史に触れてみたいと思います。

インドシナ戦争が起こった訳

インドシナ戦争が起こった訳

image by iStockphoto / 84225181

インドシナ戦争ってベトナムがクローズアップされていますが、実はカンボジアやラオスも関係しています。
よく日本の報道で流されていた戦争時のホーチミンルートの写真は主にラオスだったとか。

第二次世界大戦で日本が負けたことで、新たな植民支配を企てたのがフランスです。
とはいっても元々ラオスはフランスが植民地としてきた国です。
日本の戦争時代が終わり、なんとなく戦争って現実味のないものとなりましたが、東南アジアでは半世紀近く耐えることなく戦争が行われていました。

最初に狙われたのはベトナム。
1946~1954年の第一次インドシナ戦争、ベトナム戦争がカンボジアに拡大した1970~1975年を第二次インドシナ戦争。
この第二次インドシナ戦争をベトナム戦争と呼ぶ場合もあります。

第一次インドシナ戦争

第一次インドシナ戦争

image by iStockphoto / 35113776

1954年5月7日にベトナム北部のディエンビエンフーが陥落しました。
ベトミン(ベトナム独立同盟)が勝利したことで第一次インドシナ戦争は終焉。
これでフランスが引き下がると思ったら大きな間違い。
フランス軍の戦費を8割も肩代わりしていたアメリカは、ベトミンがディエンビエンフーに集まった時を狙って原爆を落とそうと目論んでいました。
まさか、ベトナムも日本と同じ被爆国になるなんて・・・。
もちろん、国際世論の非難もありこれは中止されています。
ホッ!

しかし、陥落後もずっとアメリカは武器と弾薬を「モン・マキ」と呼ばれる戦闘集団に投下し続けていたのです。

先頭集団「モン・マキ」の誕生

先頭集団「モン・マキ」の誕生

image by iStockphoto / 93277061

ベトミンとにらみ合いを続けていたフランスは、とても恐ろしいことを企んでいました。
それは、ラオスとベトナムのモン村から、2万の人を訓練キャンプに送り、人を使った戦争を試みています。
訓練キャンプで一番優秀だった人物、当時13歳のバン・パオを中心とした戦闘集団を形成したのです。
こんな未成年を戦争に使うなんて・・・。

彼らは当初、対ベトミン、対毛沢東軍用に作られた組織でしたが、ラオスのジャール平原やアヘンをフランス本国へ輸送する作戦などに利用されました。
ベトミンは武器調達の資金源としてラオスのアヘンを狙いモンの村々を共産化することに力を注いでいます。

南ベトナム解放にはまずラオスを共産化せよ

南ベトナム解放にはまずラオスを共産化せよ

image by iStockphoto / 92179911

北ベトナムから南ベトナムに渡って伸びる輸送路だったホーチミンルートの9割はラオスの野山を通っていました。
そのため、ホーチミンが「南ベトナムを解放するためにはまずラオスを共産化しなければならない」と声明を出しています。
そこで、ベトミンが起こした行動は、パテート・ラーオ軍(現在のラオス社会主義政権の先駆け、ラオス共産軍)を操ることに成功し、ラオス内のホーチミンルートを一気に南下させました。
これを機にラオスの村々を共産化したのです。

この頃北東アジアでは朝鮮戦争がはじまっていましたが、アメリカは最優先課題としてラオスの共産化を阻止することに重きを置いていました。
1961年にラオス中部にあるサイソンブン特別区のロンチェンの峡谷に秘密基地を作っています。
この年ジョン・F・ケネディが新大統領に就任しました。

アメリカ軍によって造られた「サイト85」の建設

アメリカ軍によって造られた「サイト85」の建設

image by iStockphoto / 73204739

ケネディ大統領とNSC(国家安全保障会議)、CIAが一体となり秘密部隊を作りました。
この部隊は、当時13歳だったバン・パオを司令官とするラオス王国軍第二軍管区はロンチェンでモン特殊攻撃部隊を結成。
彼らは、白人青年の身代わり部隊として利用されるという辛い役割が待っていました。

1965年になると、「サイト85(全天候型電子誘導施設)」が出現しました。
これは、アメリカ空軍の戦闘機をレーダーで誘導するという画期的な物で、ウドーンターニー、ナコーンパノム、タクリ秘密基地などに設置されました。
これは、ホーチミンルートを攻撃するために作られた物です。
しかし、ハノイがナパーム弾を浴びるようになると、ベトナム共産党からの攻撃の的になりました。
ロシアがこのサイトを攻撃に訪れた時、アメリカ軍が撃墜しました。
しかし、アメリカはラオスへの介入を公にすることを嫌い、民間機が墜落したと発表しています。

1968年3月11日に、ついに北ベトナム軍766部隊が「サイト85」を撃破しました。
この頃は、ラオスの内戦なんて生やさしいものではなく、戦争を操っていたのはアメリカと旧ソ連でした。

ラオス陥落による終結

ラオス陥落による終結

image by iStockphoto / 76752325

北ベトナム軍とパテート・ラーオ軍との交戦が激しくなるに連れて、モンの死者は増えていきます。
死者と比例するように、どんどんモン狩りが行われました。
彼らは、主にタイのウドーンターニー基地や沖縄の一部に送られ、訓練の後すぐに前線に送られたようです。
この頃アメリカのペンタゴンでは、「ベトナム皆殺し作戦」を計画していました。
この立案者のコルビーCIA元長官は、1996年にワシントンにあるポトマック川で変死体となって発見されています。

ベトナム軍がラオス全域で南下をしている1973年1月27日頃にパリ協定でラオスの中立と非軍事介入が決定しました。
そして、1975年4月30日当時のサイゴンが陥落し、2週間後には5月14日ロンチェン基地に北ベトナム軍とパテート・ラーオが総攻撃をかけて陥落させました。
これでラオス王朝の敗北が決定的になりました。

戦後のラオス

戦後のラオス

image by iStockphoto / 40621256

この朝最後のエア・アメリカの引き上げ機に乗れなかった数万のモン人には、過酷な現実が待っていました。
生き別れになった親子や大量のアヘンを飲んで自殺する者など修羅場と化していきます。
それでも、北ベトナム軍とパテート・ラーオはモン人を執拗に追い続け砲弾を浴びせました。
1977年7月15日にベトナム共産党代表団が初めてラオスに入ってきました。
18日にラオス-ベトナム友好協定が締結されました。
その後は山奥に潜んでいたモン特殊攻撃部隊の掃討作戦を行っています。
モン特殊攻撃部隊も必死に抵抗し、ビエンチャンのワットタイ空港には負傷した北ベトナム兵が次々と送られ続けました。

現在もモン特殊攻撃部隊は2000人とその家族1万5000人がおり、掃討作戦が続き餓死する者も出ているようです。
彼らはアメリカに救いを求めるもラオス政府が拒絶し今も対立が続いています。
現在も戦争の傷跡は消えず、空からの地雷と呼ばれる不発弾による被害が後を絶たない状態です。
この爆弾の処理は行われているも、後1世紀はかかるといわれています。

現在、ホーチミンルートには地下資源があるといわれ、開発における戦いも勃発しています。
ラオスにとっては戦後処理が終わらないまま、新たな地下資源による争いが絶えず今もって「戦場」といった感じです。
半面、外国人が多く訪れる観光国と変化しつつあります。

争い続きに翻弄された悲痛な時代から脱出しつつあるラオス

争い続きのラオスですが、ニューヨークタイムズやイギリスの旅行雑誌では、「今、訪れたい国」No.1に輝いています。
悲しい歴史に翻弄されたラオスですが、欧米人を魅了する輝きに満ちた国となっています。
photo by iStock