ハプスブルク家の歴史はこんなに偉大だった…オスマン帝国の脅威からヨーロッパを救う

公開日:2020/1/30 更新日:2020/1/30

婚姻により領地を広げるハプスブルク家

13世紀の終わりごろは初の神聖ローマ帝国に選ばれます。14世紀の中ごろには、ボヘミア王となりました。
時代の流れと共に皇帝は「権力」のではなく「権威」の象徴へと変化し、ハプスブルク家にとっては好都合で、うまく権威を利用しドイツ以外の諸国で力を発揮するようになっていきます。

15世紀前半のアルプレヒト2世の時代から世襲化となります。1508年にマクシミリアン1世がローマ教皇から戴冠を受けずに「皇帝」と名乗り始め、ハプスブルク家が大きく飛躍しました。
彼はフランス西部大諸侯のブルゴーニュ家のマリアと結婚。
マリアの父が亡くなった後、ブルゴーニュ家の広大な領地を領有しました。
息子のフィリップをスペイン王女フアナと結婚させスペインも支配下に置き、マクシミリアン1世は広大な土地を支配するハプスブルク帝国を建設しています。
その息子のカルロス1世は新大陸まで勢力を拡大しました。

分裂するハプスブルク家

カルロス1世は神聖ローマ皇帝として、1555年にはアウグスブルク(現ドイツ)で開かれた帝国会議で、アウクスブルクの宗教和議を承認したことは有名な話。この決議により、ハプスブルク家の皇帝支配の野望は消えてなくなります。
ハプスブルク帝国絶頂期に君臨したカルロス1世が1558年に亡くなりました。

カルロス1世の死と共に、フェリペ2世率いるスペイン系とフェリペ2世の弟フェルジナンド1世率いるオーストリア系に分裂したのです。ネーデルランドはスペイン系が継承しましたが、オランダ独立戦争に苦しめられます。
オランダは独立に成功し、世界に向けて進出していきます。
スペイン系ハプスブルク家は無敵艦隊の壊滅を契機に、ヨーロッパの覇権を失います。
その後、同血族の度重なる結婚により病弱な王が続き、1700年のカルロス2世が亡くなったことで断絶しました。
その後、スペイン継続戦争と7年戦争が起こり、オーストリアハプスブルク家は南ネーデルランド、ミラノ、ナポリ、サルデーニャ島を獲得しています。
1549年に交わされた協定で、オーストリア系ハプスブルク家を継承した弟のフェルジナンド1世の子孫が神聖ローマ皇帝の位を世襲することになりました。

フランスとのイタリアの戦争に翻弄されるハプスブルク家

フランスはハプスブルク家領に国土を挟まれていました。イタリア進出の活路を見出したい、シャルル8世率いるハプスブルク家とフランスとの間でイタリア戦争が始まります。
この戦争は1494年にハプスブルク家がイタリアに遠征したことからフランス(ヴァロア朝)が強い危機感を抱き戦争に発展したようです。
フランスはここでオスマン帝国(オスマントルコ)と手を結んだことにより参戦。
両者共に財政が破綻し、1559年にはカトー・カンブレジ条約で講和しました。

1526年にはモハッチの戦いでハンガリー王が戦死。オーストリアが3分の1とオスマン帝国3分の2で分割することとなりました。
これによりハンガリーはキリスト教徒とイスラム教徒を対峙することとなります。
オスマン帝国が所有した領地は1699年にハンガリー領に属していたクロアチアやスロヴェニアと共にオーストリアの支配下へくだります。
1620年にはボヘミアも併合されました。
17世紀末にはバロック様式の壮麗なハプスブルク家の夏の離宮「シェーンブルン宮殿」が建てられました。

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