ハプスブルク家の歴史はこんなに偉大だった…オスマン帝国の脅威からヨーロッパを救う

公開日:2020/1/30 更新日:2020/1/30

プロセインやフランスとの対立続きのオーストリア

1733年起こったポーランド継承戦争でトスカーナ公国と併合。ポーランド南西部を獲得しました。
30年戦争で疲弊したオーストリアですが、18世紀には勢力を回復。
当時栄華を誇っていたプロセイン王国と肩を並べるほどの存在でした。
マリア・テレジアがオーストラリア大公に即位すると、意義を唱えたザクセンにプロセインが加担し、オーストリアでも継承戦争が勃発。
7年戦争にも勝利しオーストリアからシレジアを奪いました。

プロセインとの対抗するため昔から対立を繰り返してきたフランスのブルボン家との歴史はあるものの、マリー・アントワネットをフランスに嫁がせます。皆さんもご存知の通り18世紀末にはフランス革命が起こりました。
マリー・アントワネットが処刑されました。
フランス革命の精神がオーストラリアに流れ込み大きな衝撃を受けています。
この後、フランスにナポレオンが出てくることでフランスが優位に立ちます。
ナポレオンは皇帝となりフランスが帝国に、オーストラリアも準じて帝国に昇格しました。
ナポレオンが敗北し神聖ローマ帝国が滅亡。
戦後のウィーン条約でオーストリアは、ロンバルディアとヴェネツィアを獲得しました。

イタリア・ドイツ統一戦争とハンガリーとの二重帝国

1859年にロンバルディアがイタリアに回復。1866年の普墺戦争(ビスマルクから他民族国家のオーストリアを排除しようと起こった戦争)で大敗しドイツ連邦から追放され国際的地位が低下してしまいます。
ヴェネツィアも手放す結果になり、現在のイタリアの領地は南チロルのみになりました。

フランツ・ヨーゼフ1世がハンガリーに妥協し、1867年に同じ王を仰ぎオーストリア帝国とハンガリー王国に二分する形で面目を果たしました。1877年に露土戦争の結果オーストリア・ハンガリー二重帝国はボスニアヘルツェゴヴィナを占領。
1908年にはサロニカ革命の混乱を利用して併合しました。
しかし、1914年にボスニアヘルツェゴヴィナの州都サライェヴォに、皇太子フランツ・フェルジナンドがセルビアの青年に暗殺。
このサライェヴォ事件を機に第一次世界大戦が勃発。
オーストリア・ハンガリー二重帝国は敗北し、皇帝カール1世が退位・亡命したことで帝国は崩壊しました。
カール1世の退位と同時にハプスブルク家は表舞台から姿を消すこととなりました。

帝国崩壊後のオーストリア

パリ講和会議の「民族自決」の精神に基づき、サン・ジェルマン条約でオーストリアの支配下にあった諸民族が独立国家を造り、領地は4分の1まで減りました。オーストリアとドイツの合邦は禁止され、後にヒトラーによって破棄されました。
1938年に合邦され、東ヨーロッパ諸国に君臨し、ナチスの東方支配に協力しています。
第二次世界大戦では永世中立国として独立を回復しました。

近年では1959年のハンガリー動乱を始め、1968年の「プラハの春」などで亡命した人々の受け入れ窓口としての役割を担っています。かつてヨーロッパほぼ全域を領地とし、ヨーロッパ統合運動を提唱したクーデンホーフ・カレルギーを生んだ国なのに、EU加盟は1995年と大変遅く加盟しています。
しかし、広大な領地を支配しヨーロッパを牽引したハプスブルク家が牽引した事実には感銘を受けます。

650年に渡りヨーロッパの大半を支配下に繁栄したハプスブルク家の皇帝たちに会いに出かけてみませんか?

長きに渡り支配をつづけたハプスブルク家の影響は、政治、経済、文化などに影響を与えています。ヨーロッパ各地にハプスブルク家の栄華を感じる観光地も沢山残っています。