ロシア(ソ連)vs中国の領土・国境争いは壮絶だった…ダマンスキー島事件から紛争解決まで

wondertripでは世界の絶景を紹介していますが、歴史地区や古代都市などの絶景スポットは、その歴史を少しでも知ることでより観光が楽しめます。今にも残る世界遺産のストーリーは、知識欲も刺激されますね。本日は「ロシアVS中国の国境争いの歴史」をご紹介します。

国境争いが顕在化する前の両国

内陸アジアは、ウイグル人やチベット人対中国、中国対ロシアがぶつかり、壮絶な国境争いを繰り広げた地です。
旧ソ連と中国の国境は全長7400kmもあり、世界でも最も長い国境です。
中国の国境といえば世界7奇跡の一つ「万里の長城」を思い出される方が多いのではないでしょうか?かつては、農耕地帯と遊牧地帯の境界線であり、万里の長城を基準に北側が侵略されたり南側が侵略されたりとさまざまな領地争いが繰り広げられていました。
特に、満州人王朝清帝国の乾隆帝時代は、度重なる遠征で領土はチベットから中央アジアにまで拡大されていたといいます。

同じころのロシアでは、金や毛皮を求めてウラル山脈から東方のシベリア方面へと歩みを進め、中国との争いが顕著に見えてきました。
まさに、ヨーロッパとアジアの国境はここから造られたといっても過言ではありません。
一時は中国と旧ソ連との間で全面戦争により核戦争にまでエスカレートするのでは?と危惧されたほど、両国の争いは壮絶でした。
今回は、中国とロシアの国境争いの歴史について少しだけ触れてみたいと思います。

ヨーロッパとアジアの国境争いはこうやって始まった

国境問題が見え始めた両国の間で最初に結ばれたのが1689年のネルチンスク条約でした。
これは、ロシアのピョートル1世がかつてシベリアへ進出し、満州地方の北側にあるアムール川(黒竜江)周辺で、ロシアの探検家や商人たちが毛皮や金を奪うようになったことが発端です。
当初清朝(中国)は北方については野放しの状態でした。

しかし、旧ソ連が資源を求めて迫ってきていると知るとすぐさま、ロシアが中国側の領地に建設したアルバシンの城塞を破壊し中国への進出を食い止めるべく動き始めました。
1685年から武力衝突となり、3年後に清朝側の康煕帝はピョートル大帝に新書で国境を定める協定を結ぶよう進言しました。
これによって結ばれたネルチンスク条約は、中国にとっても初めての外国との条約締結でした。

ネルチンスク条約の締結

ロシアはヨーロッパ、中国はアジアで言葉は全く異なる国の交渉でしたが、清朝側のキリストイエズス会の宣教師、ジョルビョンとペレイラが通訳として活躍しました。
明から清の時代の中国はヨーロッパ人も驚くほどの成長し安定した国でした。

18世紀ごろのシベリアは鉱山の開発も盛んでしたが、農奴制を嫌った農民が西シベリアで農業を営んだため発展しました。
農作物輸送のためにもシベリア鉄道が必要だったのです。
ロシアは16世紀に獲得したシベリアを手放したくなく、受け入れざるを得ない条約でした。
ネルチンスク条約での国境は、アルグン川に注ぐゴルビツァ川、スタノヴォイ山脈と決められています。

ロシアに新たな条約を突きつけられる中国

1858年清がアロー号戦争と太平天国の乱で疲弊しているのを狙ったようにロシアは清に新しくアイグン条約を強制的に締結させようと試みます。
これをのまなければならない状態だった中国は、アムール川の左岸を奪われます。
それだけでなく、ロシアはその支流に当たるウスリー江の東岸を両国共同の管理地にしました。
1860年には北京条約でウスリー江がある沿海州も完全に自国領として治めました。
この両条約は、いずれも「不平等条約」だったのです。
しかしこのまま解決なく時が過ぎていきます。

このときのロシアの勢力は計り知れないほど強力で、18世紀にはアラスカを植民地化したうえで、クリミア戦争による経済危機を乗り切るためにアメリカに売却。
日本にまで影響を及ぼしました。
当時鎖国中だった日本に、ロシアが貿易交渉をしましたが日本が拒否。
それを不快に思ったニコライ・レザノフが、ロシア・アメリカ会社の船で、サハリン南端の日本の漁場を攻撃しました。

ご存知の通り日本も未だに北方領土問題が解決できていません。
これはクリミア半島併合が絡んでおり日本も慎重に動かざるを得ないからです。
ご近所問題でも大変なのに国際問題となると根も深く難しいものですね。

国境紛争が深刻化したダマンスキー島事件

20世紀中頃に中国で起こった「文化大革命」の嵐が吹き荒れていたころの、ウスリー江にあるダマンスキー島で1969年に旧ソ連と中国の間で軍事衝突が起こりました。
この争いは中央アジア方面の国境地帯にまで拡大します。
中華人民共和国が誕生してから両国は友好関係にあったのにどうして・・・。
1956年に中国が旧ソ連の英雄スターリンを批判したことから関係は徐々に悪化し始めました。

実はこのダマンスキー島は中国の領地でした。
それがいつの間にかソ連に占領されていたのです。
1960年代は、これを巡り数々の小さな衝突が起こっていました。
文化大革命で旧ソ連の体制を批判するようになっていた中国では、反ソ連感情が高まり1969年に軍事衝突に発展したというものです。

核戦争の危機を招いたダマンスキー島事件

1969年3月2日に中国軍がソ連を待ち伏せ攻撃。
ソ連の国境警備隊32人が死亡しました。
逆にソ連の反撃が25日に起こり中国側が68人、ソ連側が58人も亡くなりました。
その後も収束せず、にらみ合いが続いたうえに、武力衝突も起こりました。
両国の状態はかなり悪く、社会主義国家同士でありながら2つの国とも核保有国です。
お互いに最悪の状況に備えて核兵器の準備を始めました。
これは国際的にも深刻な問題となりました。
1969年9月2日に、ベトナム民主共和国のホー・チ・ミン主席が亡くなり、旧ソ連の首相アレクセイ・コスイギンがハノイを弔問し帰る途中に北京に立ち寄りました。
このときに北京空港で、旧ソ連の首相コスイギンと中国首相の周恩来の話し合いが行われ、お互いに戦闘拡大を避ける旨を確認し合いました。
これによりとりあえず核戦争という危機は回避しています。

その後も続く両者のにらみ合い

70年代から80年代前半にかけては、中ソ双方の敵対関係は更に続きました。
大きな武力闘争などはありませんが、国境地帯に100万もの軍隊を配備し対立状態だったのです。
なぜ、国境線もきちんと決めていたのに、こんなにもめるのか不思議だと思いませんか?

それは、国境を示すものが川だったことが問題だったのです。
川の中には中州がたくさん存在しその領有権をどうするか?川のどの部分が国境なのかをはっきり決めていなかったからです。
その後も両国の国境交渉は全く進む気配をみせませんでした。

関係修復へと向かうロシアと中国

1986年にゴルバチョフ政権時代に国交を正常化するとともに、国境問題が本格的に協議されることになりました。
中国側も解決方向で話を進め、旧ソ連が中国側の要求をのむ形で合意しました。
河川の国境については主要航路を中心線とし、かつて武力闘争が起こったダマンスキー島を始め河川国境上にある数百の島のほぼ全部が中国側に入ることになりました。

1991年に極東の大部分の国境がソ連崩壊後の1994年には中央アジア地域の国境、2004年には残っていたい部分が両国によって承認され解決の運びとなりました。
2004年10月14日に最終的な中露国境協定が結ばれ、2005年6月2日に批准書が完成し双方外相が署名を行い、2国間における国境問題は全て解決したと宣言しています。
かつて核戦争の危機にまで陥った両国の関係ですが、現在は「呉越同舟」ともいわれていますが結びつきを強めています。

ヨーロッパとアジアの国境を巡り、長きにわたり壮絶な争いを続けたロシアと中国

現在も悠々と流れる両国の国境争いの証人であるアムール川は、長さ4000km以上もあり世界で8番目に長い川です。
夏場は設けられた遊泳場で川水浴、遊覧船観光も行われています。
冬には凍結してしまいますが、氷に穴を開けて釣りをする人やのんびり散策をする人が集う憩いの場になっています。