五稜郭は城だった!箱館戦争を経て特別遺跡に指定されるまで

日本国内最後の内戦といわれている戊辰戦争。その舞台となった場所は北海道函館市にある五稜郭です。元々は江戸時代後期に箱館奉行所の移転先に建てられた城郭(じょうかく)ですが、その役割はたった2年間で終わってしまいました。江戸幕府の役所の一つとして使われていた奉行所が、なぜ戦争の舞台になってしまったのでしょうか。今回は五稜郭の建築から戊辰戦争、そして国の特別遺跡に指定されるまでの歴史について、分かりやすく説明したいと思います。

五稜郭の基礎知識

五稜郭の基礎知識

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今は桜の名所「五稜郭公園」

現代の五稜郭は公園となっていて、桜の名所や観光地としてもその名を聞くことがあります。
しかしその穏やかな場所が、ほんの150年前は戦地だったのです。
旧幕府軍と新政府軍が繰り広げた戊辰戦争、その最後の場所が五稜郭でした。
そのほぼ中央にあるのが箱館奉行所ですが、実はこの奉行所を海外の脅威から守るために、日本で最初に作られた西洋式の城郭が五稜郭なのです。

城郭とは、城や町を敵から守るための施設や囲いのことを言います。
そして、箱館奉行所を囲んでいる城郭は、日本で初めての西洋式の城郭でした。
同時期に作られていた長野県佐久市の龍岡城も函館の五稜郭と同じ様式で、どちらも五稜郭と呼ばれますが一般的に五稜郭と言うと、函館の城郭をさしていることが多いです。

また、五稜郭は別名・亀田役所土塁(かめだやくしょどるい)又は柳野城(やなぎのじょう)と呼ばれることがあります。
実は五稜郭が建てられた当時、箱館周辺は水はけが悪く湿地でした。
そのため、ネコヤナギがたくさん生えていたために、土地の名前も別名「柳野(やなぎの)」と呼ばれていたのです。

箱館奉行所はお裁きの場所ではない

奉行所というと、悪人や罪人の裁きをする場というイメージが強いですが、実際箱館奉行所はお役所でした。
江戸時代末期ごろ、外国の艦隊が日本沿岸に近づいてきて、当時鎖国をしていた日本に開国を求めることが頻繁に起き、有名なペリー提督もその一人です。
その状況が暫く続いた後、日本は開国をする決意をします。

1854年3月、日米和親条約を結び、下田と箱館の開港が決まりました。
そして、その翌月にペリー提督が箱館にやってきます。
幕府はペリー提督が去ると箱館奉行所を復活させることにしました。
実は、箱館奉行所は当時なかったのです。
34年前に役目を終えたとして、奉行所はそのまま使われていませんでした。
幕府は開港後の諸外国との交渉や蝦夷地(えぞち)の海岸の防備、またその統治をおこなう場として、箱館奉行所を再度設置したのです。
また、開かれた数少ない港の街として、箱館には諸外国の領事館が次々と置かれるようになり、箱館奉行所は外国との窓口となりました。

しかし、問題がありました。
それは箱館奉行所のその場所にあったのです。

箱館奉行所を外国から狙われないように

箱館奉行所を外国から狙われないように

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最初の箱館奉行所の場所は不安だらけ

元々箱館奉行所は、現在の元町公園がある場所に建てられていました。
そこは見晴らしがとても良い場所で、奉行所から街並みや港が一望できたと言われています。
しかし、それは言い換えれば「港からもよく見える」ということ。

日米和親条約により箱館港が開港し、外国の艦隊が出入りをするようになりました。
当時の外国の大砲技術は、箱館港から奉行所までは射程距離の範囲内で、その為奉行所は格好の標的になり得る可能性があったのです。
また背後にある箱館山は外国人遊歩地の一部で山頂付近から、奉行所がよく見渡せるという不安がありました。

外国からの脅威を心配した初代奉行の竹内保徳と2代目堀利煕は、奉行所の場所を移動させることを江戸幕府に提案します。
幕府はこれを受理し、早速場所の候補地を探し始めました。

しかし、奉行所を移転させたところで、箱館港に外国の艦隊が出入りするのは変わりませんし、守るべきものがないと移転させる意味がありません。
そこで、箱館港周辺の防衛対策に港湾を取り囲む台場(砲台)を作る計画も同時に勧められました。

奉行所の守りを固めるために

竹内と堀は奉行所の移転と同時に、その周辺の防衛対策に四方を土塁(どるい)で巡らせることを併せて提案していました。
土塁とは、敵の侵入を防ぐための土でできた堤防状の壁です。
箱館港周辺を固め、砲撃の射程外に奉行所を移転し、更にその周囲にも壁を作ることで、外国からの攻撃があったとしても守ると考えた結果でした。

その提案を受け設計を考えたのが、箱館奉行所支配の諸術長所教授役で蘭学者・武田斐三郎。
そして、五稜郭を現在の星型の土塁にしたのも武田です。

1855年(安政2年)7月、フランスの軍艦・コンスタンティーヌ号が、箱館港に入港しました。
その時、日本に対しヨーロッパで考案された大砲や小銃を使った戦闘の土木技術を教え、また築城術が書かれている本を箱館奉行所に贈呈してくれたのです。
武田はその本から設計図などを写し取り、西洋式の築城術を勉強して五稜郭の構造の参考にしました。

また箱館奉行所が幕府に提出した文書にこう書かれています。
「箱館に入港する外国の軍艦はいずれも大砲が充実していて、それに対応するには西洋の各国で使われている築城術を参考にして、西洋式の土塁を作る方法で役所を築造したい。」と。
日本がいかにして諸外国から国を守ろうとしたかが、伝わってきますね。

五稜郭と台場の建設が始まる

移転先の決定と工事着手まで

箱館奉行所の移転先に選ばれたのは柳野という場所でした。
ここは箱館の隣、亀田村にある場所で緩やかな丘陵地です。
港からは約3キロ離れた場所で、当時の諸外国の大砲技術で海から狙われてもその射程距離から外れています。
また、箱館の市中からも離れていませんし、近くを流れる亀田川から清流を引き込むこともできました。
そして、周囲にある泥沼や曲がりくねっている道がいざという時の防衛上役に立つと判断したことから、ここに新しく箱館奉行所を建て、またその四方を土塁で囲むことが決まります。
その奉行所を囲む土塁こそ、五稜郭なのです。

そして、台場の建設もほぼ同時に着手となります。
しかし、候補に挙がった矢不来(やぎらい)、押付、山背泊(やませどまり)、弁天岬、立待岬、築島、沖の口番所の7か所を同時に建設するのは難しいことから、まずは弁天岬と築島の2か所を作る計画になりました。

五稜郭と弁天岬、築島、沖の口台場の築造だけでも、工事期間が20年と計画されていましたが、松前藩、津軽藩、南部藩、仙台藩の各陣屋が既に完成していた為に、五稜郭や各台場の工事が遅れてしまうと箱館市民や外国人に対して、江戸幕府としての権威を失墜しかねないということから、先に五稜郭と弁天岬のみ建設することになったのです。

弁天岬と五稜郭の建設開始

1856年(安政3年)、五稜郭より一足早く弁天岬の工事が始まります。
そして、翌年(安政4年)春、五稜郭の工事が開始されました。
この時はまだ五稜郭とは呼ばれておらず「亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)」が最初の名とされています。

順調にいくかと思いきや、工事の途中で予算不足になってしまい縮小せざるを得なくなりました。
半月堡(はんげつほ)を当初は5か所に作る予定でしたが、それを1か所に減らしたのです。

堀を作ることと土を盛り上げ土塁にする工事は、越後の松川弁之助が中心となり、1858年(安政5年)に五稜郭の周囲を一周する堀と土塁がほぼ出来上がりました。

しかし、ここでも予想外の事態が起こります。
蝦夷地の冬はとても寒く堀などの壁が凍って崩れ落ちてしまうほどでした。
そのため、崩れた堀の壁や土塁を抑えなくてはならず、1859年(安政6年)石垣を積んでいく工事が始まります。
この石垣の工事は、備前の井上喜三郎が中心となりました。
箱館山の立待岬や神山、赤川などの山々から切り出した石(主に安山岩)を運んできたと言われています。

完成した五稜郭とその大きさ

完成した五稜郭とその大きさ

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五稜郭と弁天岬台場の完成

五稜郭の土塁、堀割、石垣に関する工事は1860年(万延元年)に全て終了しました。
そして、その頃から五稜郭の北側で住宅の建設工事が始まりました。
これは奉行所に勤める役人たちのものです。
近くを流れる亀田川から水を引き、木製の管を使った水道管としました。
これが蝦夷地で作られた最初の上水道と言われています。

1862年(文久2年)からは、五稜郭内部で奉行所の建築が開始し、1864年(元治元年)完成となりました。
また同年、弁天岬台場も完成しています。
工事が始まってから7年が経過していました。

同年6月15日、9代目奉行・小出大和守秀実(こいでやまとのかみひでざね)の命のもと、箱館山ふもとから五稜郭へと移転し、新しい場所での仕事が始まります。
箱館奉行所の正式な名称は箱館御役所です。
こうして、蝦夷地の開拓、諸外国の船の取り締まりなど政治的役割を担う中心的な存在となりました。

しかし、その後も防風林(ぼうふうりん)やアカマツなど庭木の植樹、五稜郭内に作られた付帯施設などの工事が行われたため、全ての工事が終わったのは更に2年後の1866年(慶応2年)のことです。

五稜郭は、何もかもが桁違い

実はこの五稜郭、当初の設計書には現在のような5つの角がありませんでした。
設計者の武田は、模写した図面を見て自分の考えと工夫を加えて、設計図を完成させたといわれています。
西洋に対抗するための工夫がなければ、また違った形になっていたかもしれません。

五稜郭の大きさを説明しますと、堀の内側が約125,500平方メートルもあり、東京ドームの約3倍の広さにもなります。
それだけでも十分の広さを感じますね。
ですが、水堀部分だけで約56,400平方メートル。
堀の外側の史跡指定のところもいれると約69,000平方メートルもの広さがあります。
水堀の幅は最大で約30メートル、深さは約5メートルです。
堀の外回りは約1.8キロメートルもあります。

これだけの規模の城郭を作るには、相応の人手が必要となるのは必然です。
この工事の最盛期では箱館に5000~6000人の作業員がいたと言われています。
また建設費用も莫大な額となりました。
全体の予算額は当初143,000両でしたが、実際にかかった額は104,090両と少し減額されています。
現代の額に換算するのはなかなか難しいのですが、米が一升(約1.5キログラム)あたり50文ほどだった時代です。
また一両は4000文となりますので、この予算額がいかに莫大な大金であったかがよくわかりますよね。

五稜郭の特徴を形作るものの名称

五稜郭の特徴を形作るものの名称

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正面付近の特徴

五稜郭の正面は、どこだかご存知ですか?上空から見れば星型ですし、どこから見ても同じように見えるかもしれませんが、一ヵ所だけ他のところと違うものがあるのです。
出入り口にあたるのが正面、つまり南西側になります。
中に入るには一の橋、二の橋の2つの橋を渡って中へと行くのです。
また、そのまま五稜郭の中を進み、北側の裏門橋を渡ると五稜郭の外に通じています。
しかし、五稜郭建築当時の図面では、橋は合計5か所あったようです。
現在残っているのは3か所のみ。
他の2か所に関しては1869年(明治2年)の箱館戦争の時に外されてしまったようです。

五稜郭の南西側、つまり出入り口にあたる部分には、外側から中の様子を見えにくくする為に見隠塁(みかくし塁)があります。
出入り口付近に3か所あり、正面と左右には石垣が積んであります。
長さ約44メートル、幅約14メートル、高さ約4メートルもあり、3か所ともほぼ同じ形をしています。

五稜郭の標高は13~16メートルです。
殆ど平らな地面ですが、建設前は湿地だった為に少しですが傾きがあります。
北側が少し高くて、南側にかけ少しだけ傾いているのです。
また、正面側に低めの土手がありますが、これは建築中に堀を掘った時の土を盛ったもので長者坂(ちょうじゃざか)と呼ばれています。

土塁の名称とその特徴

五稜郭の特徴でもある5つの角。
この5つの角は稜堡(りょうほ)と呼ばれるもので、上に土塁が造られ更に石垣が積まれています。
五角形の土塁と石垣の周囲には水堀、更に南西側に半月堡(はんげつほ)と言われている菱形状の土塁があり、その周囲は水掘です。
この半月堡が予算削減のために、5か所中1か所しか作られませんでした。

五稜郭を形作る土塁は本塁(ほんるい)と言い、土塁は幅が約27~30メートル、高さ約5~7メートルもあり、出入り口となる正面や通路となるところには石垣が積んであります。
この石垣のなかで、正面側(南西側)の一番上では医師が一列飛び出している箇所があるのですが、これは失敗などではなく「はね出し」「武者返し(むしゃがえし)」「しのび返し」と呼ばれるもので、五稜郭の石垣の特徴です。
そして、上部の塁道は砲台としても使用されていました。

また本塁と水堀の間には、低塁(ているい)があります。
これは幅約10メートル、高さ約2メートルの土塁です。

土塁は堀を掘った土で作られたものですが、堀を作る際に出る土の有効活用ともいえるかもしれません。

奉行所の暮らしが分かる品々

奉行所の暮らしが分かる品々

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箱館奉行所周辺から出てきた物で分かること

五稜郭内に多数のゴミ捨て場が存在していたと言われています。
そこから発見された物から当時の暮らしの様子が少しずつ分かってきました。

奉行所庁舎は五稜郭内北西側の隅にあり、そのゴミ捨て場からは瀬戸美濃産の湯のみ茶碗や信楽産の土瓶などが見つかっています。
どれも生活に必要なものばかりで、湯のみ茶碗を復元したものだけでもその数は100を超えました。

湯のみ茶碗ほどではありませんが、土瓶も数多く発見されています。
また、この土瓶の中に特徴があるものがありました。
それは、蓋の内側に「元治元年甲子訴所十月一日」「元治二年訴所正月」と書かれていたものが2点あったのです。
先述のように元治元年に五稜郭がほぼ完成し、箱館奉行所は引っ越しをしました。
その頃に使われていたものと推測することができます。
他にも瀬戸美濃産の湯のみ茶碗では「文久年製」と書かれているものもありますが、これらも奉行所時代に使われていたものです。

これらに関して共通しているのはいずれも江戸時代後期、特に幕末の文久~慶応年間に作られた物であり、奉行所庁舎内にて下級の役人たちが執務室や休憩室で使われていた可能性が高いと推測されます。
他にも水滴や硯など、奉行所の事務的な仕事状況が分かる物も多く発見されました。

人々の暮らしと外交の中心的立場の奉行所

五稜郭内、箱館奉行所庁舎の東側には奥向(おくむき)や奉行家来が住んでいたと言われる長屋跡周辺では、肥前産の陶磁器が多く発見されています。
他にも行灯(あんどん)に使われる物、化粧道具も少し見つかりました。
奥向とは奉行役の家のことを言います。
その為、出土してくる物も少し高価な物や、女性が使っていた化粧道具も見つかっているのです。

一般的な生活道具類は、主に瀬戸美濃、信楽、肥前、関西系など本州で作られていた物が半数をしめています。
箱館産の物も発見されていますが、その数は本州産より格段に少ないです。
奉行所が行っていた殖産興業の一環として、箱館の谷地頭で陶磁器を生産していましたが、その期間は1858年(安政5年)~1862年(文久2年)までとわずか4年と短期間であったことが要因の一つかもしれません。

他にもビール瓶やワインの瓶なども発見されています。
これらは主にヨーロッパ産の物でしたが、他にも長崎波佐見産のコンプラ瓶も見つかりました。
コンプラ瓶とは醤油を輸出するときに使われていたもので、樽以外で送るときの容器です。
このことからも、箱館奉行所が外交の中心的立場としての役割を、しっかりと果たしていたことが伺えます。

箱館奉行所の役割が終わり、箱館府へ

箱館奉行所の役割が終わり、箱館府へ

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大政奉還により、奉行所も返還へ

箱館奉行所の役割は思いのほかあっという間にやってきたのです。
1867年(慶応3年)の大政奉還により、江戸幕府15代将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返還しました。
ここに江戸幕府が崩壊したのです。
それは箱館奉行所が五稜郭に移転して、たった4年後のことでした。

翌年、箱館奉行所の最後の奉行だった杉浦誠は、大政奉還の翌年に明治政府の命で総督となった清水谷公孝(しみずだにきんなる)と対面します。
そして、蝦夷地の全域を新政府に引き継ぐことを決め、箱館奉行所及び五稜郭を明け渡すことになりました。
数日後には、奉行所は箱館裁判所と改名し、明治新政府の行政機関となります。
その後、箱館府と更に改称され蝦夷地の開拓を担う場所となりました。
また、引き継ぎの際旧幕府の役人から希望者を募り、その人達を下僚(かりょう)にしたと言われています。
下僚とは、役所などでその人よりも地位の低い人をさします。
清水谷はごく少数の人しか連れていなかったので、大半の旧箱館奉行所の役人を下級官吏として採用したのです。
つまり、この場合は現代で言うところの転職や再就職にあたりますね。

箱館府の役割を果たす前に

箱館府は当初箱館裁判所という名称でしたが、これは現在の裁判所とは意味合いが違います。
新政府の地方行政機関として、蝦夷地の統治のために作られた機関でした。
その後すぐに箱館府と改称され、府知事には清水谷が就きました。

箱館府はまず、米の確保にあたります。
蝦夷地では本州からの移入に頼っていたために、米問題はかなり切実でした。
しかし、当時は既に情勢が不穏で米の流入が滞っていたのです。
また同年6月、北蝦夷地(樺太)に公議所(こうぎしょ)を設置しました。
公議所とは、明治初期に開設された明治政府の議事機関のことです。
公議人は各藩から1名ずつ任命されます。
清水谷は権判事の岡本監輔を派遣し、久春古丹(くしゅんこたん)に公議所を置きました。

ようやく軌道に乗り始めた箱館府ですが、本格的に政策を行う前に戊辰戦争に巻き込まれます。
蝦夷地に当時領地を持っていた諸藩が奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結成しており、また周辺警備も諸藩が行っていました。
兵力がない清水谷ら箱館府にとっては脅威となる存在でしたが攻撃を受けずに済み、また夏頃には諸藩が次々と任地を放棄していきます。

箱館戦争勃発、そして五稜郭降伏

箱館戦争勃発、そして五稜郭降伏

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箱館戦争が始まる

1868年10月21日、榎本武揚(えのもとたけあき)が率いる旧幕府軍が鷲ノ木(現・森町)に上陸します。
当然、箱館府はこれに対抗し迎撃しますが各地で敗北し、10月25日清水谷知事らが青森へ逃走しました。
そして、翌日26日に無人となった五稜郭を旧幕府軍が占領したのです。
そして冬の間に、旧幕府軍は五稜郭内の修繕を行います。
堤の修復、大砲の設置などをして戦いに備えました。
また、同年12月15日に選挙を行い、榎本を総裁とする蝦夷地仮政権が樹立されたのです。

旧幕府軍が五稜郭やその周辺地域をほぼ制圧したと、新政府軍に知らせが入ったのは1868年10月末頃だったと言われています。
すぐに反撃の準備を始めますが、箱館周辺の冬は戦いどころではありません。
その為、戦いが始まったのは翌年の3月のことでした。

新政府軍の艦隊が宮古湾に入るとの知らせを受け、1869年(明治2年)3月20日、旧幕府軍は荒井郁之助を指揮官とし土方歳三以下陸兵100名を乗せ出航します。
25日夜明け頃、宮古湾へ突入し奇襲に成功するものの、その後は圧倒的不利な戦況により、旧幕府軍は宮古湾を離れます。
この宮古湾での戦いを皮切りに、これ以降陸戦も始まったのです。

五稜郭ついに降伏へ

同年4月9日、新政府軍は乙部(おとべ)へ上陸し箱館に向かいます。
旧幕府軍は各地で反撃するも、当時日本最強と言われていた軍艦・海陽丸を前年に座礁、沈没させ戦力に欠けていたこともあり、各地で敗北を続けます。
新政府軍は4月末には箱館以外の道南各地を制圧しました。
しかし、その後も旧幕府軍は五稜郭に立て籠もり戦い続けます。

そして同年5月11日、新政府軍が箱館総攻撃をついに仕掛けました。
箱館市街を制圧し、元新撰組副長土方歳三が戦死、箱館港にいた旧幕府軍の艦隊は全滅します。
この時、五稜郭から土塁上に設置した24ポンドカノン砲を、箱館港や七重浜方面に向かって発射していますが、殆どの砲弾が港に届きませんでした。
翌日箱館港から新政府軍が五稜郭に向かって艦砲射撃を行い、砲弾は五稜郭内の役所の太鼓櫓に命中するなど、その戦力の差が明確となりました。
そもそも箱館奉行所が移転した理由は、諸外国の軍艦からの砲撃を避ける為だったはずです。
しかし、五稜郭の築造からわずか10年の間に大砲の性能が格段に上がっていました。

その後、15日に弁天岬台場が降伏します。
18日には榎本以下旧幕府軍が降伏し、箱館戦争が終わりました。
そして、五稜郭は再び新政府に引き渡されます。

五稜郭のその後と遺跡に指定されるまで

五稜郭のその後と遺跡に指定されるまで

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箱館県設置と箱館奉行所解体

1869年(明治2年)5月17日、清水谷府知事は箱館に入ります。
府務の再開を触れるためでした。
その後、箱館府は戦後処理にあたります。
焼失してしまった町や村、またけが人などへ米や金の配給、困窮者に対しては免税、また榎本政権が発行していた通貨の回収などでした。
そのまま箱館府が蝦夷地の統治をするかと思いきや、同年7月8日明治政府は開拓使(かいたくし)をいう役所を新しく設置し、それと同時に箱館府を廃止とします。
また、蝦夷地を北海道と改称し、更には箱館も函館に変更となりました。

しかし、実際は人事面で難航してしまい、開拓使が始動するのが7月24日からとなり、更には新しい職員の着任が9月となりました。
また7月17日~7月24日までの間、箱館府は一時箱館県と改称していたのです。

箱館戦争後、五稜郭は明治政府の兵部省(ひょうぶしょう)が管理していました。
しかし、役所として使われることはなかったのです。
1871年(明治4年)、開拓使は札幌へ移転します。
新庁舎の建設に必要ということで、奉行所庁舎や付属の建物の大半が解体されました。
しかしその資材が札幌へ輸送されることはなく、民間の工事に払い下げられてしまいました。
こうして、箱館奉行所はわずか7年でその姿を消すことになったのです。

五稜郭は練兵場、公園そして史跡に

奉行所解体後も五稜郭自体は特に手を加えられることはなく、そのまま練兵場として使われました。
この時に、積極的な利用や開発を明治政府が行わなかったために、五稜郭の土塁、石垣などが、築造当時の姿を現在も見ることができるのです。
1873年(明治6年)~1897年(明治30年)まで、陸軍省(前・兵部省)の練兵場となっていましたが、1913年(大正2年)函館区長北守政直が、五稜郭を公園として貸してほしいとの請願を陸軍大臣にします。
いくつかの条件付で使用許可を貰い、翌年から五稜郭公園として一般開放されました。

また同年からソメイヨシノの植樹が始まります。
これは、函館毎日新聞発行1万号を記念したもので10年かけて数千本の植樹をしました。
現在でも約1600本の桜が残っていて、花見の名所となっています。

1925年(大正11年)、所管が内務省に変わると同時に、五稜郭公園は史跡名勝天然記念物保存法に基づき、史跡に指定されました。
また、郭外にあった長斜坂も1929年(昭和4年)追加で指定され、文部省の所管となります。
文化財保護法が制定された後、1952年(昭和27年)北海道唯一の国指定特別史跡に指定されました。

現代の五稜郭と箱館奉行所

奉行所の復元に着工

2006年(平成18年)7月から函館市は、箱館奉行所を復元する工事を始めます。
この工事には4年の歳月、また総工費が28億円かかりました。
完成した2010年(平成22年)から一般公開されました。
函館市の博物館、図書館などに多くの資料や文献があり、その中には箱館奉行所設計当時の平面図、また建てられた直後の写真もあったのです。
また、文献の調査と同時に五稜郭内の発掘調査が始まりました。
奉行所庁舎の遺構が予想以上に良好な上程で、保存されていたことを確認でき、また資料の正確さを確かめることにも繋がりました。
それらのおかげで建物の位置、大きさ、部屋の間取り、名前などがわかり、復元が実現できたのです。
しかし、五稜郭は特別遺跡。
遺跡を壊すことは絶対に許されません。
そのため、奉行所の遺構の上に乗せる特殊工法での復元となったのです。
消防法や建築基準法などにより全ての復元はできませんが、古い写真に写っていた建物の正面を中心とした範囲で、全体の約3分の1程度の規模で復元されました。
遺構の上に建っているので、現在の箱館奉行所はかつての奉行所と同じ場所に建てられています。

また、復元された奉行所の周りを囲むように立っているアカマツは、五稜郭が建てられた当時に植樹されたもので、その樹齢は150年を超えました。

現在は函館随一の観光地に

1964年(昭和34年)、五稜郭が築城100年を迎えました。
それを記念して、五稜郭の南側に五稜郭タワー(高さ60メートル)を開業します。
そして、2006年(平成18年)には、高さ107メートルの新タワーが完成し、五稜郭タワーは解体されました。

1970年(昭和54年)からは毎年5月に箱館五稜郭祭が開催されるようになり、箱館戦争の旧幕府軍と新政府軍に扮したパレードや、土方歳三のものまねを競うコンテストなども開催されています。
冬の間だけですが、1989年(平成元年)からは夜間に五稜郭のライトアップが行われています。

五稜郭自体は「五稜郭と箱館戦争の遺構」として、2004年(平成16年)に北海道遺産に選定されました。
また、ミシュラン・グリーンガイド・ジャパンでは「五稜郭跡」と「眺望(五稜郭跡)」が観光地としての評価を受け二つ星を獲得しています。

五稜郭内の中央の広場では、市内の小学校や幼稚園の運動会などが長い間開催されてきました。
また、五稜郭北側に建っていた役宅は、箱館戦争時に旧幕府軍によって焼き払われてしまいましたが、現在では住宅街が広がっています。

一時は戦争の舞台になった五稜郭ですが、今では人々に親しまれる場所となっているのです。

日本の分岐点の場所となった五稜郭に行きませんか?

五稜郭の歴史を追ってみましたが、いかがでしたか?現在は日本有数の桜の名所にもなっている五稜郭公園ですが、その歴史を見てみると意外なことが多くあったと思います。
そんなに昔のことではありませんが、現在の日本がこのような姿になっているのは、箱館戦争が一つの分岐点であったのは確かです。
もし、あの時…という考えは歴史には付き物ですが、現在の日本を作るに至った大きな分岐点となった五稜郭に立ってみてはいかがでしょうか。
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