観光前に知っておきたいエルサレムの歴史。なぜ3宗教の聖地なの?

中東の都市、聖地エルサレム。イスラエルが首都と主張していますが、各国の大使館は置かれていません。そしてエルサレムには、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の遺跡がたちならび、おおくの信者と観光客を呼びよせています。なぜエルサレムは3宗教の聖地となったのでしょうか?その歴史を、各宗教の特徴もふまえながら、ひもといてみましょう。

エルサレムとユダヤ教はこうして生まれた

エルサレムとユダヤ教はこうして生まれた

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「エルサレム」の語源

地中海と死海とヨルダン川にはさまれた地域は、パレスチナ地方と呼ばれ、はるか昔からいろいろな部族といろいろな人々が住んでいました。

そのうちのひとり、アブラハムという初老の男はある日、神から呼びかけられて、幼い息子を生贄にささげるようにと言われました。
アブラハムは神のお告げどおり、神の指定したサラムという地の丘の上に祭壇をつくり、息子に向かって刀をふりおろそうとしました。
そのとき神がアブラハムに呼びかけて、「いまこそわたしは、君が神を畏れる者であることを知った」と言い、息子の代わりに、生贄用の羊をアブラハムに渡しました。
そして神はアブラハムに、お前とお前の子孫にこの地を与えると告げました。

やがてアブラハムの子孫たちがユダヤ人となりました。
ユダヤ人たちの聖典によれば、このアブラハムこそ、唯一神ヤハウェと最初に契約した人間です。
そしてユダヤ人たちは、アブラハムが息子をささげようとした地を「(神が)準備したサラム」、かれらの言葉で「イルエ・サラム」と呼びました。
これがエルサレムの語源です。
なお、語源には諸説あって、「サラム神の礎」の意味で「エル・サラム」から来たのだという説もあります。

ちなみに、古代ユダヤの言葉には子音しかないので、かれらの神の名は「YHVH」が正しい表記です。
母音のつけ方によって「ヤハウェ」と呼んだり「エホバ」になったりします。

ダビデ・ソロモン王と神殿の丘

時代がくだると、ユダヤ人たちはエジプト王朝の支配をうけ、エジプトで奴隷生活を送っていました。
紀元前13世紀、ユダヤ人たちはモーセという指導者にひきいられて、エジプト脱出をこころみます。
途中モーセは海を割ったり神のお告げを聞いたりしながら、ユダヤ人たちをみちびいて、ついに神がアブラハムの子孫に与えた約束の土地、パレスチナに到着します。

ユダヤ人たちはパレスチナにいた人々を平定して、定住します。
そして紀元前1000年ころ、ダビデという英雄があらわれて、12部族にわかれていたユダヤ人たちを統一し、パレスチナ一帯に王国をつくりあげました。
ダビデ王は首都をエルサレムにさだめ、エルサレムは王国の首都として繁栄しました。
この時代の遺跡は「ダビデの町国立公園」としていまものこっています。
またダビデ王の墓はシオン山にあります。

つづくソロモン王の時代に、王国は最盛期をむかえます。
ソロモン王は、アブラハムが息子を神にささげようとした丘の上に神殿を築きました。
この場所がエルサレムの「神殿の丘」です。
しかしソロモン王が死ぬと、王国は南北に分裂します。
北の王国は前722年に滅亡、そして南のユダ王国も前586年、バビロニアによってほろぼされます。

バビロニア国王のネブカドネザル2世は、ユダヤ人たちをバビロニアの首都バビロンに連行します。
異国の地で捕らわれの身となったユダヤ人たちは、たとえ異国に住もうともみずからのアイデンティティをたもつため、自分たちの宗教を見直し、改革します。
こうして、ユダヤ教が誕生しました。

エルサレムがユダヤ教の聖地となったワケ

エルサレムがユダヤ教の聖地となったワケ

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ユダヤ教の特徴、オリーブ山、ハスモン朝

ユダヤ教を整備するにあたって、ユダヤ人たちはまず「タナハ」とよばれる聖典をつくりました。
アブラハムやモーセなど神と契約した者を預言者と呼び、かれらの言行を記したり、ユダヤ人のルーツを書いたりしました。

紀元前538年、バビロンから解放されたユダヤ人たちはパレスチナにもどり、破壊されていたエルサレムの神殿を再建します。
この神殿を中心として、ユダヤ教団がつくられました。
教団はユダヤ人が守るべき戒律をこまかく定めたり、神殿に奉納をおさめるよう義務づけたりしました。
そして神ヤハウェを信じ戒律を守る人だけが、最後の審判の日に救われると説きました。
ヤハウェはその日、エルサレムのちかくにあるオリーブ山に降り立つと信じられたため、この山にはユダヤ人墓地がつくられました。

その後、ユダヤ人たちはいろいろな王朝に支配されますが、自分たちのアイデンティティをまもるため、かたくなにユダヤ教を信じました。
またユダヤ人は商売上手だったため、地中海各地の都市に移り住んで、商工業や金融業で成功する者もおおくあらわれました。
かれらもまた、異国の地には染まらず、ユダヤ教を信じ、ユダヤ人だけのコミュニティをつくって暮らしました。

前167年には、当時の支配者だったセレウコス朝シリアの王がエルサレムの神殿で異教の神を祭ったため、ユダヤ人たちは反乱をおこします。
21年後に独立を勝ちとったユダヤ人たちはパレスチナ一帯にハスモン朝という王国をつくりました。
しかしそこに、地中海の覇者になりつつあったローマがせまってきます。

ヘロデ王、離散、「嘆きの壁」

前63年、ローマはハスモン朝をほろぼし、ここからパレスチナもローマの属州となります。
ローマは他民族に対してとても寛容で、ユダヤ人にもユダヤ教の信仰や、ローマ法よりもユダヤ教の戒律を優先することや、軍務の免除までゆるしました。
こうしてローマ支配のもと、エルサレムはユダヤ教の中心地として発展します。

とくに前37年からユダヤ社会のトップになったヘロデ王のもとで、エルサレムはますます繁栄します。
神殿を大改修して壁もつくったり、ダビデの塔をつくったりと、いまにのこるおおくの建造物がつくられました。
しかしユダヤ人たちはローマ社会にもやはり溶けこみませんでした。
異質なユダヤ人たちを差別する風潮がしだいに高まり、ユダヤ人たちもまた、ローマ社会に対して反発をつよめていきます。

66年、ユダヤ教徒の過激派が反乱をおこすと、ローマは大軍をおこして鎮圧します。
この戦闘のさい、エルサレムの神殿は西壁をのこして全焼しました。
その後もユダヤ教徒はたびたび反乱をおこしますが、134年に最後の反乱を鎮圧したローマ皇帝ハドリアヌスは、これ以降、ユダヤ教徒のエルサレム立入禁止を命じます。
こうしてユダヤ人たちは世界中に離散させられました。

3世紀にはエルサレム立入がゆるされますが、神殿の丘へは出入り禁止でした。
ユダヤ人たちはかつての神殿をしのび、唯一のこった西壁の前で祈りをささげました。
これが「嘆きの壁」で、いまでもユダヤ信仰の中心となっています。

キリスト教の誕生と、エルサレムがやはり聖地となったワケ

キリスト教の誕生と、エルサレムがやはり聖地となったワケ

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聖アンナ教会、ゲッセマネの園、鶏鳴教会

時をすこしさかのぼった、紀元前1世紀のエルサレム。
ここに暮らすアンナというユダヤ人から、娘マリアが生まれました。
やがて成長したマリアはある青年と婚約しますが、マリアは処女のまま子を宿します。
そして生まれた子どもはイエスと、名づけられました。

イエスは成長すると、パレスチナ一帯で伝道をはじめ、それまでのユダヤ教を批判していきます。
とくにユダヤ教団のエリート層をつよく非難し、逆に身体障害者や貧しい人々こそ救われると説きました。
またイエスは病を治すなど数々の奇跡もおこないました。
イエスの祖母アンナをまつった「聖アンナ教会」には、イエスが病人を癒したとされる池ものこっています。

やがてイエスはおおくの人々から慕われるようになり、「救世主(キリスト)」と呼ばれます。
しかしイエスをよくおもわないユダヤ教団は、彼を死刑にすると決めます。
死期を悟ったイエスはエルサレムで弟子たちと最後の晩餐をし、それからオリーブ山のふもと、ゲッセマネの園で最後の夜をすごします。
ちなみにこの園には、イエスが座ったとされる岩をまつった「万国民の教会」があります。

翌朝、イエスはユダヤ祭司のもとへ連行されて、裁判をうけます。
弟子たちもついていきましたが、そのなかのひとりペテロは、自分にまで罪がおよぶことをおそれ、イエスなど知らないと三度ウソをつきます。
その直後、鶏が鳴きました。
イエスが裁判をうけた祭司の邸宅はいま「鶏鳴教会」としてエルサレム市内にのこっています。

ヴィア=ドロローサ(苦難の道)と「聖墳墓教会」

死刑判決をうけたイエスは、ローマの刑法にしたがい、処刑場所まで十字架を背負って歩かされました。
ゴルゴタの丘という処刑場所につくと、イエスは十字架に張りつけにされ、長い苦しみの果てに殺されました。
このイエスが歩いた道は「ヴィア=ドロローサ(苦難の道)」とよばれ、エルサレムの中心にのこっています。

イエスの死後は、かれの弟子たちがイエスの教えを伝えていきます。
とくにユダヤ人の離散以後には、イエスの教えを信じる者たちが地中海各地で教えを広めたため、しだいに浸透していきます。
こうして、ユダヤ教からわかれたイエスの教えは、キリスト教として成立したのです。

キリスト教徒はユダヤ教徒とおなじく、ローマ社会に染まらなかったので、たびたび迫害をうけました。
ネロやディオクレティアヌスといったローマ皇帝たちもキリスト教徒を追いつめ、拷問し、殺したりしました。
それでもキリスト教徒は信仰をすてず、地道に布教活動をおこなったため、4世紀には地中海中にキリスト教徒がいるようになりました。

301年、黒海の南東にあるアルメニア王国が史上はじめてキリスト教を国教とします。
そして313年には、ローマ皇帝コンスタンティヌスが帝国内でのキリスト教を公認しました。
このコンスタンティヌスの母は熱心なキリスト教徒だったらしく、320年にはエルサレムを訪れて、イエスの墓を見つけだしたといわれています。
この場所に「聖墳墓教会」が建てられました。
そしてこれ以降エルサレムは、キリスト教にとっても聖地となったのでした。

キリスト教の特徴と、ユダヤ教との関係

キリスト教の特徴と、ユダヤ教との関係

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新約聖書の成立、死海文書

キリスト教はユダヤ教とちがって、戒律もゆるやかで、布教にも熱心、なにより身分や民族に関係なくだれでも入信することができました。
それでキリスト教は地域や民族をこえて広がりました。
キリスト教が「世界宗教」といわれる理由もここにあります。

ただ、いろいろな人々がキリスト教を信じるようになると、教義をまとめるための聖典が必要になりました。
そこで生まれたのが「新約聖書」。
「新約」とはイエス=キリストが神と新たに契約した、という意味です。
そしてアブラハムやモーセたちの契約を記した「タナハ」は、イエス以前の契約という意味で「旧約聖書」と、キリスト教徒からは呼ばれるようになりました。

はじめのうちは、いろいろな説や記録が新約聖書に載っていましたが、会議をかさねるうちに一本化されていきました。
たとえば、イエスは神か人間かが議論され、多数決で神と決まりました。
またイエスは神と人間の両性をもっているかどうかが議論され、多数決でもってると決まりました。
否決された少数派にはアルメニア教会などがあります。

ちなみに、旧約聖書でもこうした議論はあったようで、1947年に死海近郊で発見された「死海文書」には、いまにのこる旧約聖書とはちがった記述がたくさんみられます。
死海文書はエルサレムのイスラエル博物館で見ることができます。

争いのたえない聖地エルサレム

395年にローマ帝国が東西に分裂すると、パレスチナ一帯は東ローマ帝国の管轄になりました。
この間もエルサレムはキリスト教の聖地として、おおくのキリスト教徒がおとずれました。

このころにはキリスト教も教義のちがいによって、いくつかの宗派にわかれていました。
西ヨーロッパのローマ=カトリック教会、東ヨーロッパのギリシア正教会、アルメニアのアルメニア教会などです。
しかしどんな宗派も、キリストの墓である聖墳墓教会は崇めていたので、いろいろな宗派のキリスト教徒が教会を訪れ、そこで争いがおこることもありました。
いまでも宗派間の争いは絶えず、2008年にはギリシア正教会の司祭とアルメニア人とが聖墳墓教会のなかで乱闘をおこしています。

また、キリスト教徒とユダヤ教徒とのあいだでも争いはたえませんでした。
キリスト教徒はユダヤ教徒を、イエスを殺した敵と思っていましたし、ユダヤ教徒のほうでも、キリスト教は本当の教えを誤解したニセモノだと思っていました。
ただキリスト教のほうが帝国の後ろ盾をもっていたので、ユダヤ教徒たちはさまざまな場面で迫害を受けました。
ユダヤへの迫害がナチス・ドイツだけでないことは、エルサレムの「ヤド=ヴァシェム」、通称ホロコースト記念館の展示をみればわかります。

そして、この聖地エルサレムにイスラム教もせまってきます。

イスラム教の誕生と、エルサレムがまたも聖地となったワケ

イスラム教の誕生と、エルサレムがまたも聖地となったワケ

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イスラム教はこうして生まれた

アラビア半島は大部分が砂漠におおわれています。
そこに暮らすアラブ人たちは昔から、遊牧生活をしたり、オアシスで農作物を育てたり、隊商をくんで貿易をしたりしていました。
とくに紅海沿岸の都市メッカは、西と東をむすぶ中継貿易で栄えていました。

570年ころ、メッカの裕福な部族のもとにムハンマドという子どもが産まれます。
ムハンマドは生まれてすぐに父、母、祖父を亡くし、叔父にひきとられて育ちました。
成長したムハンマドは25歳のとき、ハディージャという大金持ちの未亡人と結婚します。
気高く献身的な年上女房をもらって、気の弱かったムハンマドはそれから商人として活躍し、しあわせな生活を送っていました。

ところが40歳のとき、ムハンマドは異様なビジョンを見はじめます。
そこでメッカ近郊の洞窟にこもって禁欲生活をおくっていたところ、ある夜、ムハンマドのもとに天使があらわれます。
天使はムハンマドを暴力的におさえつけ、そして「お前は神の使徒である」と告げました。
はじめはおびえていたムハンマドも、妻ハディージャの励ましもあって、しだいに自分を預言者だと自覚します。
そして、神からの教えを周囲に伝えていきました。
これがイスラム教のはじまりです。

当時のアラブ人たちは多神教を信じていたので、ムハンマドの教えは理解されず、無視され、反発され、圧力をかけられ、迫害されました。
621年には育ての親である叔父と、最愛の妻ハディージャをあいついで亡くし、ムハンマドはどん底にありました。

岩のドームとアル=アクサー=モスク

そこにふたたび天使があらわれ、ムハンマドに天馬を与えます。
天馬は一瞬にしてムハンマドを、メッカからエルサレムへとはこびました。
エルサレムの神殿の丘に降りたったムハンマドは、丘からさらに天へと昇ります。
天にはアブラハムやモーセ、イエスなどの預言者が待っており、さらに進むと神アッラーのもとへたどりつきました。
そこでムハンマドはアッラーからさらなる啓示を受け、また1日に5回礼拝することをゆるされました。

この昇天体験の翌年、ムハンマドはメッカをすてて北の都市メディナへ移り住み、そこでイスラム共同体をつくりあげます。
政治と宗教が一体となったイスラム共同体はやがてメディナの街を支配し、630年にはメッカも征服します。
その後イスラムはアラビア半島の大部分を支配していきました。

ムハンマドが死ぬと、彼の親戚たちが跡をつぎ、支配をさらに広げていきます。
そして638年に、エルサレムを攻めおとしました。
こうしてエルサレムはキリスト教から、イスラム教の街へと変わりました。

イスラム教徒たちはエルサレムを、ムハンマドの昇天体験の地として崇めていました。
そこでムハンマドが天に昇った場所、かつてユダヤの神殿があった丘に「岩のドーム」という会堂を築きました。
また「岩のドーム」の近くには、昇天を記念してアル=アクサー=モスクも建てました。
こうしてエルサレムは、イスラム教にとっても聖地となったのです。

イスラム教の特徴と、ほかとの関係

イスラム教の特徴と、ほかとの関係

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コーランに見るイスラム教の特徴

「イスラム」とはもともと「ゆだねる」という言葉です。
つまりイスラム教とは、神にすべてをゆだね絶対的に服従するという宗教になります。
ですから、どんな幸福も神のおかげとして感謝し、どんな苦難も神の思し召しとして耐えしのびます。

イスラム教の神は「アッラー」とよばれますが、正確には「アル・イラーハ」、英語では「The God」に相当します。
この神はもともとアラブ人たちのあいだで信仰されていた神のひとつでしたが、ムハンマドによって唯一絶対の神となりました。

このアッラーがムハンマドに語った言葉が「コーラン」とされています。
コーランはイスラム教の聖典で、ぜんぶで114章もありますが、その一部だけちょっと紹介しましょう。
「お前たちみんな、アッラーの綱をしっかりとにぎり、けっして仲間割れしてはならぬぞ。
お前たちにたいするアッラーの恩寵を心に銘じておくがよい。
お前たちがはじめ互いに敵であった頃、アッラーはお前たちの心を結び合わせてくださった。
そのおかげで、お前たちは兄弟になれたのではないか」。

ここに抜粋したように、イスラム教において、アッラーのもとではみんな仲間でした。
この考え方がイスラム教をまた世界宗教にしていきます。
はじめはアラブ人だけが信じていましたが、やがてペルシア人(イラン人)はじめ多くの民族がイスラム教徒になりました。
そしてかれらの多くが、メッカやメディナにつぐ聖地として、エルサレムを訪れました。

キリスト教の反撃「十字軍」

イスラム教はまた、みずからを、ユダヤ教やキリスト教の後継者だと考えていました。
ムハンマドによると、モーセもイエスも唯一神アッラーから啓示を受けた預言者だけど、その教えがまちがって伝わっている、ムハンマドもまた神から使命をうけた預言者であり、最後の預言者である、だからコーランこそ、いちばん正しい教えを伝えているのだ、と。

じっさい、コーランには天地創造や最後の審判についての記述も載っています。
しかし、これにユダヤ教徒やキリスト教徒は反発しました。
とくにキリスト教徒はユダヤ教徒とちがって、エルサレムへの立入を禁止されていたため、よけいに反発を強めていました。
ヨーロッパの各地で、イスラム教徒から聖地を奪い返そうという空気が高まっていきます。

1099年、第1回十字軍がエルサレムになだれこみます。
そして十字軍は市内のイスラム教徒とユダヤ教徒を虐殺します。
ダビデ・ソロモン王時代の遺跡、嘆きの壁、ヴィア=ドロローサ、聖墳墓教会、岩のドーム、アル=アクサー=モスクなど、エルサレムのあらゆる場所が血で染まりました。
そして十字軍はこの地にエルサレム王国をつくり、イスラム教徒とユダヤ教徒を市内から追放しました。

しかし1187年、イスラムの武将サラディンによって、エルサレムはふたたびイスラムのものとなります。
市内を占領したサラディンはキリスト教徒を殺さずに退去を命じ、捕虜となったキリスト教徒たちもみずから買い上げて解放してやりました。
ここから700年あまり、エルサレムの街はイスラム支配下で安定します。

イスラム王朝が衰退し、ユダヤ人が帰ってくる

イスラム王朝が衰退し、ユダヤ人が帰ってくる

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オスマン帝国時代のエルサレム城壁

16世紀には、オスマン帝国というイスラム王朝がパレスチナ一帯を支配していました。
エルサレム市街をぐるりとかこむ城壁がつくられたのも、この時代です。
ちなみにこの城壁は観光客でも登ることができるので、城壁の上からながめるエルサレムの景色もまた、かくれた観光スポットになっています。

巨大な領土をもったオスマン帝国も、17世紀ころから徐々に衰退していきます。
オスマン帝国の支配者はイスラム教徒となったトルコ人たちでしたが、ふるくからイスラム教徒であるアラブ人たちはこのトルコ支配に反発し、しだいに独立の気持ちを高めていきます。
また外からはヨーロッパ諸国もオスマン帝国を圧迫しはじめました。

ヨーロッパの人々はあいかわらずキリスト教徒でしたが、ルネサンスや啓蒙思想をへて、宗教にたよらない合理的な考え方をもつようになりました。
また16世紀の大航海時代や、18世紀の産業革命をへて、強大な国家が誕生していました。
とくに19世紀にはイギリス、フランス、ロシアの3国が強くなり、オスマン帝国の領土をすこしずつ奪っていきました。

19世紀も後半になると、オスマン帝国はすっかり弱くなり、パレスチナ地方を支配しつづけるのもむずかしくなってきました。
そこをねらって、ユダヤ人たちが帰ってきます。

シオニズムの指導者ヘルツル、エルサレムの拡大

ユダヤ人たちは134年の離散からずっと、世界各地に散らばって、コミュニティをつくって暮らしていました。
コミュニティの中心はシナゴーグとよばれる会堂で、ユダヤ人たちはシナゴーグで聖書を読んだり、礼拝したり、結婚式を挙げたりしました。
異国に染まらないユダヤ人は各地でやはり迫害をうけましたが、それにも耐え、商売や科学分野で活躍する人も出ました。

それがしかし19世紀後半から、パレスチナの地にふたたび祖国をつくろうという運動がおこります。
この背景には、民族はじぶんたちだけの国をつくるべきだという民族主義が高まってきたこと、そして人間には人種があり人種ごとの優劣もあるという人種主義が広まり、ユダヤ「人種」に対する差別がいっそう強くなったことがあります。

1896年、ハンガリーの新聞記者だったヘルツルというユダヤ人が『ユダヤ人国家』という本を出版して、祖国をつくろうと呼びかけます。
これに応じて、何十万人というユダヤ人がパレスチナへと移住しました。
聖地エルサレムも人口が増えましたが、もともと1キロメートル四方のちいさな街だったため、せまくなりました。
そこで市街地が西へおおきく拡大されました。
いま、昔のエルサレムは旧市街地として、エルサレムの東端につきだすように位置しています。

こうしたユダヤ人の帰還は「シオニズム」とよばれました。
これは旧約聖書でパレスチナの地がシオンと書かれていることに由来します。
シオニズムの提唱者ヘルツルは祖国誕生を見ずに亡くなりますが、彼の意志はユダヤ人たちに引き継がれました。
また彼を記念したヘルツルの丘には、ユダヤ人の共同墓地がつくられました。

パレスチナ問題のはじまりと経緯

パレスチナ問題のきっかけはイギリスの二枚舌

1914年から第一次世界大戦がはじまります。
オスマン帝国の敵国だったイギリスは、帝国を崩壊させるため、外交戦略にでます。
パレスチナのアラブ人たちにたいしては、オスマン帝国に反乱をおこしたら、戦後、アラブ人国家をつくっていいと約束しました。
そしてユダヤ人にたいしては、イギリスに協力したら、戦後、ユダヤ人国家をつくっていいと約束しました。
こうしたイギリスの二枚舌が、アラブ人とユダヤ人との対立を引きおこします。

戦後、イギリスはけっきょくパレスチナをイギリス領としました。
これに反発したアラブ人とユダヤ人両方が、主権を主張して争います。
イギリスはなんとか争いをおさめようとしますが、第二次世界大戦も経験すると、イギリスは力がおとろえて、パレスチナから手をひきます。

第二次大戦後、国際連合はパレスチナを、アラブ人とユダヤ人で分割し、聖地エルサレムは国際管轄するという案をだします。
ユダヤ人たちはこれを受け入れて、1948年、イスラエルの建国を宣言します。
ローマ皇帝ハドリアヌスに離散させられてから、じつに1800年ぶりの祖国誕生でした。

しかし、アラブ人たちは国連案に反発します。
人口ではアラブ人のほうが2倍も多いのに、土地の面積はユダヤのほうが上、しかもアラブ側には飛び地があったからです。
エジプトやヨルダン、シリアといった周辺のアラブ国家もこれに同調し、イスラエル建国の翌日から、イスラエル対アラブ国家の戦争がはじまります。
中東戦争です。

エルサレムの東西分断と、大使館が置かれないワケ

第1次中東戦争とよばれるこの戦争はイスラエル側が勝利します。
イスラエルはパレスチナの8割以上を占領し、エルサレムの西半分を支配しました。
東半分はヨルダンの支配となったため、エルサレムは東西に分かれました。
またこの戦争で200以上のアラブ人の村が焼かれ、70万人以上のパレスチナ難民が発生しました。

この後もイスラエル対アラブの戦いはつづいていきます。
1956年にはイスラエル対エジプトの第2次中東戦争がおこりました。

1967年にはイスラエル対アラブ諸国の第3次中東戦争がおこり、イスラエルの電撃作戦によって、わずか6日間で終結します。
この戦争によって、イスラエルは飛び地だったガザ地区と、シリアのゴラン高原と、エジプトのシナイ半島と、ヨルダン川西岸と、そして東エルサレムを占領します。
それからイスラエルは、エルサレムを首都と宣言します。

しかし国際社会はこの占領を認めませんでした。
いまでも各国の大使館がエルサレムでなくテルアビブに置かれているのはこういうわけです。
それにもかかわらず、イスラエルは占領した地域にたくさんのユダヤ人を移り住ませ、既成事実にしようとしました。

また東エルサレムを手にしたイスラエルは、旧市街地の発掘調査もすすめました。
嘆きの壁も調査され、その大部分が地下にかくれていることもわかりました。
発掘調査跡のトンネルはいま公開されていて、壁の地下部分を見学することができます。
トンネルの出口はヴィア=ドロローサにつながっています。

そして現在のエルサレムは……

そして現在のエルサレムは……

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神殿の丘には武器も十字架も持ちこみ禁止です

1973年の第4次中東戦争では、イスラエルを支援するアメリカなどに打撃をあたえるため、アラブ諸国は石油の値段をつり上げました。
これがオイルショックのきっかけです。
日本をはじめ、おおくの先進国で高度経済成長が終わりました。

その後、イスラエルはヨルダン川西岸やガザ地区などから撤退しましたが、東エルサレムの実効支配はいまでもつづけています。
そしてアラブ側はこれ以降、国家でなく、パレスチナ内のアラブ人組織がイスラエルと対決するようになりました。
パレスチナ解放機構(PLO)やガザ地区のハマースと、イスラエルとのあいだで、戦闘したり和平したりをいまでもくりかえしています。

2000年9月には、のちのイスラエル首相シャロンが護衛1000人をひきつれてエルサレムの岩のドームに入り、「エルサレムはすべてイスラエルのものだ」と宣言します。
これにアラブ人たちが怒って、武装蜂起しました。
このように、エルサレムはいまでも民族対立、宗教対立の舞台となっています。

ちなみに、岩のドームをふくむ神殿の丘はヨルダンのイスラム団体が管理しているので、いまでもイスラム教以外の宗教的持ち物は持ちこみ禁止です。
お土産用に十字架やユダヤの帽子を持っていたら注意されますので気をつけてください。

意外と安全?エルサレムの治安

現在、エルサレムは約100万人が暮らす、中東有数の都市になっています。
このうち6割がユダヤ人、4割がアラブ人で、ユダヤ人の半分は超正統派といわれるユダヤ教徒です。
街をあるけば、黒い帽子に黒いスーツのかれらをたくさん見かけるでしょう。

エルサレムでもっとも観光客がおとずれる旧市街地は、4つの地区にわかれています。
南東のユダヤ人地区、南西のアルメニア人地区、北西のキリスト教徒地区、北東のイスラム教徒地区です。
またユダヤ人地区とイスラム教徒地区をまたがるようにして、神殿の丘もあります。
わずか1キロメートル四方のこの旧市街地に、たくさんの遺跡があつまり、またユダヤ人のシナゴーグ、キリスト教徒の教会、イスラム教徒のモスクも点在しています。

エルサレムのおもな産業は政府系の仕事と、観光業です。
とくに旧市街地にはおおくの観光客と信者がおとずれます。
現地の情勢によって変動はありますが、毎年100万人から300万人がエルサレムを訪問しています。

気になる治安ですが、2016年10月現在、外務省によるエルサレムの危険度は5段階のうち「レベル1」。
これはインドやフィリピン、ブラジルのリオデジャネイロなどとおなじレベルです。
報道機関はどうしてもパレスチナ関連のニュースをよく取りあげるので、心配になりますが、紛争のおきていないときのエルサレムは安心して歩けます。
盗難もすくなく、入国審査もきびしいので、おちついて観光できるでしょう。
ただ最新の情報には十分に注意してください。

まだまだある!エルサレムの魅力的な観光スポット

8つの門、ヒゼキヤ=トンネル、園の墓

8つの門、ヒゼキヤ=トンネル、園の墓

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最後に、ここまで紹介しきれなかったエルサレムの遺跡をまとめてみましょう。

まず、旧市街地をとりかこむ8つの門です。
それぞれシオン門、ダマスクス門などと名前がついていて、旧市街を出入りするときに見ることができます。
たとえば苦難の道ヴィア=ドロローサは北東のライオン門から入り、イスラム教徒地区をとおって北西の聖墳墓教会まで歩きます。
なお、神殿の丘にある黄金門だけは閉じられています。
これは最後の審判の日、神がはじめて開けるためだといわれています。

旧市街の南の外側には、ダビデの町国立公園がありますが、ここの地下には「ヒゼキヤ=トンネル」という水道がとおっています。
紀元前700年ころ、ユダ王国の王ヒゼキヤがつくりました。
入口はギボンの泉で、ソロモンが王になる儀式をうけた場所です。
そこから500メートル以上、水深70センチメートルの地下水道をあるきます。
そして水道をぬけると、イエスが盲人を治した場所、シロアムの池に出ます。
水に濡れるのがイヤな人と、閉所恐怖症の人はやめておいたほうがいいでしょう。

旧市街の北のはずれには、イエスの墓とされる「園の墓」があります。
イエスの墓として有名なのは旧市街内にある「聖墳墓教会」ですが、19世紀以降、プロテスタントが中心となって発掘調査がすすみ、この園の墓も可能性があるとされました。
旧市街の喧騒とちがって、とても静かでおちついた場所となっています。

聖書動物園、マーケット、世界遺産

聖書動物園、マーケット、世界遺産

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旧市街以外の観光スポットも紹介しましょう。

エルサレムの南には聖書動物園があります。
旧約聖書に登場する250種以上の動物たちが飼育されていて、ヒョウやライオン、クマやガゼルなどを見ることができます。
この動物園にはイスラム教徒もおおく訪れるので、豚の代わりにペッカリーというよく似た動物もいます。
また動物園の管理はユダヤ人とアラブ人が共同でおこなっており、対立よりも平和を象徴する、エルサレムでもめずらしい施設となっています。

エルサレムの中心部には、いくつかマーケットもあります。
いちばん人気はマハネ=イェフダ市場という路上マーケット。
生鮮食品や、チーズ、ドライフルーツ、ナッツなど多種多様な食べ物が売られています。
レストランやバーもあり、その華やかさと香りにさそわれて、おおくの観光客が訪れます。
店の人たちはきさくに味見をすすめてくれるので、ツマミ食いだけでもじゅうぶんに楽しめる場所です。

また、ベン=イェフダ通りという歩行者天国のマーケットもあります。
ちなみにマーケットにかぎらず、エルサレムでは金曜の夜から土曜の夜にかけて安息日です。
祈るほかは何もしてはならない日なので、ほとんどのお店や交通機関がお休みになります、ご用心。

なお、2016年現在でエルサレムにある世界遺産は「エルサレムの旧市街とその城壁群」です。
嘆きの壁やダビデの塔、聖墳墓教会やヴィア=ドロローサ、岩のドームやアル=アクサー=モスク、旧市街をかこむ城壁と8つの門などがふくまれます。

地球上にこんな聖地があるなら、行かなきゃもったいない!

このように、聖地エルサレムは壮大な歴史と数々の伝説をいまに伝えています。
それぞれの教徒でも、またそうでなくても、エルサレムに行けばきっと心打たれるものがあるでしょう。
またエルサレムでは近年、各種ツアーが充実し、英語の案内板も増え、よりくわしい説明を知ることができます。
歴史と伝説の息吹にふれて、心洗われるよい旅を!
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