いまさらきけないアテネの歴史…成り立ちから現在まで

ギリシアの首都アテネにはたくさんの古代遺跡があって、世界中から観光客が訪れます。でも古代アテネの歴史って、学校で習ったけど忘れちゃった、それに古代のあとはどうなるの?なんて方もおおいはず。そこでこの記事では3千年以上にわたるアテネの歴史を、成り立ちから現在までわかりやすく紹介します。じつはアテネの遺跡は古代だけじゃないんです。

ギリシア文明のただなかに、古代アテネの街がうまれた

ギリシア文明のただなかに、古代アテネの街がうまれた

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クレタ文明のかたすみに誕生したアテネの街

地中海の東、エーゲ海沿岸のいわゆる「ギリシア地方」はむかしから起伏のはげしい土地で、エジプトやメソポタミアとちがって農耕には向きません。
ギリシアの人々はわずかな平原に散らばって暮らし、ブドウやオリーブを育てたり、羊を飼ったり、船で貿易をおこなったりしていました。

紀元前2000年ころ、エーゲ海の南にあるクレタ島を中心として、ギリシア地方はじめての文明が栄えました。
クレタ文明(またはミノア文明)とよばれるこの文明はとても開放的で、たとえばクレタ島にあるクノッソス宮殿には城壁がなく、イルカの絵などが描かれています。
ほかにもギリシアの各地にちいさな王国がつくられ、たがいに交易していました。
このころに、アテネの街もつくられたと言われています。

ちなみに、このクレタ文明時代の有名な神話がミノタウロス伝説です。
クノッソス宮殿に住むミノス王の后は一匹の雄牛に恋をしてしまい、雌牛の模型に入って雄牛を誘惑し、思いをとげます。
しかし産まれた子どもは頭が牛、体が人の怪物で、ミノタウロスと名付けられました。
ミノタウロスは成長するにつれて凶暴になっていき、ミノス王は彼を迷宮に閉じこめます。
そして少年少女を生贄として彼にささげていました。

そこにアテネの英雄テセウスがあらわれます。
テセウスはみずから迷宮に入ってミノタウロスと決闘、これを倒します。
その後テセウスはミノス王の娘から渡された糸をたどって、無事に迷宮を抜け出すことができました。
いまでもクノッソス宮殿には迷宮のような複雑な回路がのこされています。
訪れる際は、ミノタウロスと出会わないようにご用心。

トロイ戦争と、人間くさいギリシアの神々たち

紀元前1600年ころから、クレタ文明にかわって、ミケーネ文明がギリシア地方に栄えます。
ギリシア本土の南を中心としたこの文明はクレタ文明よりも戦闘的で、ミケーネやアテネをはじめ各地に王国が栄え、城塞も築かれました。
前1500年ころにはクレタ島も支配し、さらにその勢力はエーゲ海の対岸、いまのトルコ西岸にまで及ぶようになりました。

トルコ西岸にはトロイという都市がありました。
トロイの王子パリスはあるとき、ヘラ、アフロディテ、アテナの三人の女神で誰がいちばん美しいかと問われ、アフロディテをえらびました。
アフロディテはお返しに、人間世界でいちばん美しい女、スパルタ国の王妃をパリスに与えました。
妻をうばわれたスパルタ王はかんかんに怒り、周辺の国々に声をかけ、トロイへ大軍をさしむけます。
これが有名な「トロイ戦争」のはじまりでした。

パリスから軽視されたヘラとアテナはギリシア側につき、10年目にようやく決着をむかえます。
ギリシア軍が巨大な木馬をつくって戦場にのこしたのです。
トロイ側はラオコーンという祭司がワナだと気づきますが、アテナの放った大蛇によって殺されます。
それでトロイは城内に木馬を引き入れてしまいました。
夜半、木馬から抜けでた兵士たちの手で、トロイの街は落とされました。

このようにトロイ戦争には、古代ギリシアのいろいろな神々が登場してきます。
そして女神アテナを祭る崇拝の中心地が、アテネなのです。

ポリス国家アテネの誕生と、そこでの生活ぶり

ポリス国家アテネの誕生と、そこでの生活ぶり

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ポリスの誕生と、アテネの繁栄

紀元前1200年ころ、ミケーネ文明はとつぜん終わりをむかえます。
ギリシア各地の王国は崩壊し、人々は各地に分散し、経済もおとろえ、以後400年間ギリシア地方は暗黒時代をむかえます。
この間にアテネの街も崩壊したかどうかは、いまもわかっていません。

前800年ころから、ギリシア各地ではふたたびいくつかの集落があつまって、都市ができていきました。
アクロポリスという小高い丘に城壁を築いて神殿を祭り、丘の周囲には家屋が建てられ、その中心にはアゴラという広場ができて市や集会が開かれました。
こうした小規模の都市国家を、王国などと区別する意味で「ポリス」とよびます。

ポリスはギリシアの各地につくられていきました。
アポロン神殿で神託がおこなわれるデルフォイ。
4年にいちど競技会が開催されるオリンピア。
強力な軍国主義ときびしい教育制度のスパルタ。
社会が安定し、貿易もさかんになったので、地中海や黒海の沿岸各地にも植民都市としてのポリスがたくさんつくられました。
イタリア南部のネオポリス(現ナポリ)などもそのひとつです。
そして、こうしたポリスのなかでやがてもっとも繁栄していくのが、貿易都市国家アテネでした。

この時代の先進地域はオリエントとよばれる中近東やエジプトだったので、沿岸部にあるアテネはオリエントとの貿易で力をつけました。
またこのころにはアルファベットもつくられ、船乗りや商人たちは共通の文字のおかげで商売がスムーズになり、アテネの街はますます発展していきました。

アテネ市民たちはどんな生活をしていた?

このころのアテネ市民たちの生活を見てみましょう。

アテネ市民は少数の貴族と大多数の平民に分かれていました。
貴族は政治や祭りごとをおこない、平民は漁業や商業、そして農業をいとなんでいました。
かれらは一家に1人か2人、家内奴隷をやとい、家事や農作業をさせていました。
ちなみに奴隷制度は古代ギリシア・ローマ社会の土台で、哲学者アリストテレスも奴隷制度を肯定しています。

アテネ市民たちの暮らしのなかには、ギリシアの神々がふかく関わっていました。
とくにゼウスや、その妻ヘラ、海と大地の神ポセイドン、太陽神アポロン、そして知恵の女神アテナなどはオリンポス12神としてあがめられ、尊敬されていました。

ほかのポリスとの戦争があると、武具をもつ平民だけが歩兵として参加しました。
もちろん奴隷も一緒についていきます。
そしてそれらを指揮するのが馬にのった貴族たちでした。
ポリス間の戦争はしょっちゅう起こりましたが、4年に1度はかならず休戦して、オリンピアで祭典をひらいていました。
こうしてアテネはじめギリシアの人々は、ポリスはちがってもおなじギリシア人としての共通意識をたもちました。

前700年ころになると、平民のなかにもゆたかな者が増え、重装備の武具をもつ平民が多くなったので、アテネ軍の主力は騎兵から重装歩兵に変わりました。
戦争でおおきな役割を果たすようになった平民たちはやがて、参政権をもとめて貴族と対立していきます。

史上はじめて民主政を達成したアテネのあゆみ

史上はじめて民主政を達成したアテネのあゆみ

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貴族政治、財産政治、独裁政治を経験するアテネ

紀元前620年ころ、アテネではじめて法律が成文化されます。
それまでの法律は文書として書かれていなかったので、貴族が自由に平民を処罰したりできたのでした。
この改革に平民はよろこびましたが、しかしこれだけでは納得しませんでした。

そこで前594年から、名門貴族出身のソロンによる改革がはじまります。
ソロンはまず、平民すべての借金を帳消しにしました。
そしてこれ以降、借金が返済できなくても奴隷に落ちなくてよい、という法律をつくりました。
いままで借金返済のできない者は奴隷として売られていたので、平民たちはこれを歓迎しました。

そしてソロンは、身分や血統でなく、財産の大小によって参政権をあたえるとしました。
こうして平民のなかでも、商人や投資家など裕福な者は政治に参加できるようになりました。
しかしソロンが引退すると、アテネの政治と社会は混乱します。
そして人々が混乱をおさめるために望むのはいつも、独裁者なのでした。

前546年、独裁者となったペイシストラトスは貴族よりも平民に支持基盤をおきます。
とくに裕福な商工業者を優遇して経済を活性化させ、また中小農民は農業に専念させて収穫を増やさせました。
こうしてペイシストラトスの治めた20年間で、アテネはふたたび繁栄します。
しかしペイシストラトスが死ぬと、彼の息子は貴族たちによって倒されてしまいます。

クレイステネスの大改革

前508年、あらたな権力者となった貴族クレイステネスは貴族制度をぶっこわしはじめます。
アテネ経済の中心はもう完全に土地から商工業に移っていたので、土地収入を基盤とする貴族たちはもうアテネの中心ではないと考えたからです。

まずクレイステネスはアテネの土地を行政区画によってこまかく分けました。
そして区画ごとの長がその土地を管理し、市民も名のるときには一族名でなく行政区画名を名のるとしました。
こうして貴族は力を失いました。
鎌倉を治める人物が源頼朝から鎌倉市長に変わり、「われは源の一門、山田太郎」と名のるのが「神奈川県鎌倉市の山田太郎です」と名のるとなったようなものです。

つぎにクレイステネスは市民集会を強化しました。
法律をきめたり戦争をはじめたりする場合、市民集会にあつまった18歳以上の市民全員が投票で決めるようにしました。
またストラテゴスという行政機関をつくり、ストラテゴスの10人メンバー、いまでいう大臣も市民集会での選挙でえらばれるとしました。
ちなみにこのストラテゴスが「ストラテジー(戦略)」の語源です。

最後にクレイステネスは「陶片追放」とよばれるシステムをつくりました。
独裁者のおそれありと思う人物の名前を陶器のカケラに書いて投票し、最多得票の者が10年間アテネから追放されるのです。
このシステムによって、アテネは二度と独裁政治にはもどりませんでした。

クレイステネスがおこなったこれらの改革によって、アテネは市民が主役となる政治、つまり民主政へと移りました。

ギリシア滅亡の危機、ペルシア戦争

ギリシア滅亡の危機、ペルシア戦争

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アテネが大帝国にまさかの勝利

さて、アテネが民主政へと移っていたころ、東方ではアケメネス朝ペルシアという強大な帝国が誕生していました。
イランを中心としたこの帝国は、東はインダス川まで、西はエジプトまでを領土におさめ、そしてトルコ西岸にもせまっていました。

トルコ西岸にもギリシア人のポリスがいくつもあって、エーゲ海の貿易で栄えていました。
アケメネス朝ペルシアはこのエーゲ海の富に目をつけ、まずトルコ西岸のギリシア諸ポリスを征服します。
征服されたポリスはすぐに反乱をおこし、同時にギリシア最強の二大ポリス、アテネとスパルタに援軍をもとめます。
これにアテネが応え、紀元前499年、ペルシア戦争がはじまりました。

反乱とアテネの援軍をけちらしたアケメネス朝ペルシアは、ギリシアの全ポリスに服従を命じます。
アテネとスパルタをのぞくほとんどのポリスがこれに従いました。
そしてペルシア王は従わないポリスを制圧するため、軍をおこします。
アテネのすぐ北にまでせまったペルシア軍を、アテネ軍はマラトンの平原で迎えうちます。
ペルシアの圧倒的軍勢に対し、アテネの重装歩兵は密集して突撃し、これをうちやぶります。
史上はじめて、ギリシアのポリスが大帝国相手に勝利をおさめたのでした。

ちなみにこのマラトンの戦いの結果を知らせるため、一人の兵士がマラトンからアテネまで42kmを走りました。
これがマラソンの起源になっています。

強敵をまえにして、ギリシアが一致団結する

しかしアケメネス朝ペルシアは一度くらいの敗北であきらめませんでした。
100万人ともいわれる大軍をおこし、陸と海の両方からふたたびギリシアにせまります。
ここにいたってはじめて、経済大国アテネと軍事大国スパルタはたがいに手を組み、ほかのポリスも参加して、ギリシアがひとつにまとまりました。

陸で迎えうったスパルタ中心のギリシア軍は、ペルシアのあまりの軍勢にびびって後退します。
そこでスパルタの司令官はほかの兵を退却させ、スパルタ兵300人だけで、最後のひとりになるまで戦いました。
あの軍事的で閉鎖的なスパルタまでがギリシアのために死をかけて戦ったことに、アテネの人々も奮い立ちます。
そしてアテネ中心のギリシア海軍は圧倒的劣勢をくつがえしてペルシア海軍をやぶります。
船をうしなったペルシア軍はそそくさと逃げ帰りました。

1年後にふたたびペルシアは攻めてきますが、今度は陸でもスパルタ中心のギリシア軍が勝ち、海ではアテネ海軍がふたたび活躍して、ペルシア戦争はギリシア側の勝利におわります。
ギリシアは独立を守りました。
そしてこの勝利いちばんの立役者であるアテネの地位はギリシア内でますます高まります。

アテネを中心とした多くのポリスはペルシアの再攻撃にそなえて同盟をむすびます。
軍事費をまかなうために各ポリスがお金を出しあい、その金庫がエーゲ海のデロス島におかれたので、デロス同盟とよばれました。
アテネはこのデロス同盟の盟主となり、そしてここから最盛期をむかえます。

アテネの全盛期と、それを支えたペリクレスの政治力

アテネの全盛期と、それを支えたペリクレスの政治力

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民主政が完成し、アクロポリスが再建される

紀元前460年ころからの約30年間に、アテネはもっとも栄えます。

まず民主政がさらに徹底されました。
役人や裁判官といった公務員は、軍事や財務などの専門職以外はすべて抽選でえらばれるようになりました。
またそれまで無給だった公務員職に給料が支払われるようになり、貧しい人々でも役人としてアテネの政治に関わることができるようになりました。

また、ペルシア戦争で破壊されたアクロポリスも再建されました。
女神アテナを祭ったパルテノン神殿、女神アテナの勝利(ニケ)を祈ったアテナ=ニケ神殿、少女像の彫刻があるエレクテイオンなど、いまにのこるギリシア建築の数々も、この時代につくられました。

これらの建築費用は市民の負担と、そしてデロス島の金庫からこっそり流用することでまかないました。
そしてアテネは金庫の金をさらに流用して、海軍をますます拡大し、エーゲ海はじめ地中海の東を完全に支配しました。
アテネ海軍にまもられて、アテネの商人たちはいっそう交易をさかんにおこない、経済でもアテネは絶頂期をむかえました。

アテネ市民たちは平和と繁栄を謳歌し、政治参加できることに誇りと責任を感じ、たまの休みには劇場にでかけて演劇を鑑賞したり、祭りの日にはワインを飲みあかしたりしました。

そして、こうしたアテネ全盛を演出したのが、たったひとりの政治家ペリクレスでした。

アテネの民主政を支えた政治家ペリクレス

ペリクレスは30代半ばで政治の表舞台に立ってから、約30年間、ほぼ毎年ストラテゴス(アテネの最高行政機関)にえらばれ、そしてそのほとんどでストラテゴスの議長をつとめました。
上に述べたような政策をしたのもすべてペリクレスです。

ペリクレスは抜群のバランス感覚をもち、権力をもちつづける方法を知っており、決断力に富み、外交もたくみで、そして市民から支持を得る方法も知っていました。
たとえば劇場を無料開放すると決めたのもペリクレスです。
またパルテノン神殿の建設費用を一部市民の負担とすると決めた際も、反対の声にたいして「ではすべてわたしの私財でまかなう。
その代わり神殿には『ペリクレス』と彫らせるが、よいか」と言ってだまらせたのも彼です。

ペリクレスは演説もたくみで、彼の演説は同時代の歴史家によって記録されています。
その一部を紹介しましょう。
「われわれの政体は他国の政体をマネするものではない。
ひとの理想を追うのではなく、ひとをして、われわれのマネをさせるものだ。
少数の独占を排除し、多数の公平を守ることを旨として、この政体の名はデモクラティアと呼ばれる」。
ちなみにこのデモクラティアが「デモクラシー(民主主義)」の語源です。

このように、アテネの民主政は影でペリクレスが支えつづけることで、全盛期をむかえることができました。
アテネの繁栄はほかのポリスにも伝えられ、哲学者や劇作家などおおくの有能な人々がアテネに集まってきました。
こうしてアテネは文化面でも最盛期をむかえます。

理性的で、人間くさい、ギリシア文化がアテネで花開く

理性的で、人間くさい、ギリシア文化がアテネで花開く

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アテネで活躍した哲学者たち

ギリシア文化は最初、トルコ西岸で花開いていました。
数学の大家ピタゴラスが活躍したのも、史上最初の歴史書を書いたヘロドトスが生まれたのも、トルコ西岸です。
しかしペルシア戦争後、アテネの民主政が全盛期となり、アテネでは言論の自由が保障されると聞くと、おおくの人々がアテネへ移り住みました。

アテネで生まれ育ったソクラテスは「無知の知」、つまり何も知らないということを自覚せよと説き、あらゆる人々と対話をくりかえすことで人間の無知をあばいていきました。
しかしソクラテスから無知を自覚させられた人々はとうぜん腹が立つので、ついにソクラテスは死刑になります。

ソクラテスの死後、弟子のプラトンは師の教えを発展させ、現実の背後にある真実(イデア)こそ実在だと説き、また人間教育のための学園アカデメイアをアテネ郊外に開きました。
これが「アカデミー」の語源です。
ちなみにアカデメイアで最初に学ぶ教科は数学で、学園の入口には「幾何学を知らぬもの、くぐるべからず」と書いてありました。

アカデメイアの学生のひとりアリストテレスはやがてすべての学問に通じ、論理、政治、歴史、宇宙、物理、生物、気象、言語、心理、演劇までありとあらゆる著作をのこしました。
アリストテレスは「知を愛する」ことこそ重要だと説き、このギリシア語「フィロソフィア」がのちに「フィロソフィー(哲学)」の語源となりました。

こんなに人間くさかった、古代ギリシア演劇

アテネではまた、おおくの劇作家も活躍しました。
これは当時のアテネでは演劇がおもな娯楽だったからです。
とくに、豊穣と酒の神ディオニソスにささげられた祭りの最後には、ディオニソス劇場においてさまざまな劇が上演されるしきたりでした。

最初は悲劇がおおく上演されました。
なかでも評判のよい劇作家は三大悲劇詩人とよばれ、もてはやされました。
そのうちのひとり、アイスキュロスの名作「アガメムノン」のあらすじを紹介しましょう。

アガメムノンはトロイ戦争時代のギリシア軍総大将です。
彼が王国からトロイへと出征しようとしたとき、大嵐がおそいました。
そこで神託をすると、娘を生贄にささげれば解決すると出たため、アガメムノンは苦悩したのちに、娘をささげました。

10年ののち、アガメムノンが戦争に勝利して帰ってくると、妻のクリュタイムネストラはアガメムノンの寝室にしのびこみ、短剣で夫を殺します。
そして周囲にこう告げます。
「トロイ戦争のとき、自分の娘を、この腹を痛めたかわいいわが子を、生贄にささげた、この人こそ、追放されるべきだ」。
そしてクリュタイムネストラは夫の代わりに、浮気相手の男を王として城に招きいれるのです。

やがて劇場では、喜劇も上演されるようになりました。
アリストファネス作「女の平和」では、戦をやめない男たちに対し、女が団結してセックス・ストライキをおこない、我慢しきれなくなった男たちがついに戦争をやめるというお話が描かれています。

あれだけ繁栄したアテネが地方の片田舎に

あれだけ繁栄したアテネが地方の片田舎に

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スパルタにやぶれ、マケドニアに征服される

栄華をほこったアテネも、やがてすこしずつ衰退していきます。

デロス同盟の金をアテネが流用したり、ほかのポリスに上から目線で支配したりするようになると、同盟から離れるポリスがあいつぎます。
また、ペルシア戦争のもうひとつの立役者だったスパルタもアテネへの警戒をつよめ、離反したポリスをとりこんであらたな同盟をむすび、アテネと対抗します。

紀元前431年、アテネ対スパルタの戦争がはじまります。
はじめはアテネ有利でしたが、伝染病によってペリクレスが亡くなると政治が混乱し、やがてアテネは敗北します。
スパルタに覇権をうばわれたアテネはその後、いちじ力を回復させますが、ペリクレスのような指導者がいないため民主政がうまくはたらかなくなります。
ギリシア内での影響力も低下していきました。

そのころギリシアの北では、マケドニアという王国が力をつけはじめていました。
前338年、アテネなどの諸ポリスはマケドニアに戦いをいどみましたが、こてんぱんにやられます。
こうしてアテネはマケドニア王国の影響下に入りました。
2年後にマケドニア王となったアレクサンドロス大王が東方遠征にでかけたあとも、彼のつくった大帝国が3つに分裂したあとも、アテネはずっとマケドニアの影響下にありました。

ローマ時代のアテネは上がったり下がったり

前200年ころ、地中海の西で力をつけていたローマがマケドニアとの戦争に勝利し、ローマはギリシア諸都市の開放を宣言します。
しかしその後ローマが完全にマケドニアを征服すると、アテネをはじめとしたギリシア地方はやがてローマの属州となります。

ローマ時代前半のアテネは、貧乏くじを引きつづけます。
黒海沿岸のポントス王国がローマと戦ったときはポントス側につきましたが、やぶれます。
カエサル対ポンペイウスというローマ内戦時にはポンペイウス側につきましたが、やぶれます。
その後またオクタウィアヌス対アントニウスという内戦時にも、アントニウス側について、またやぶれます。

それでもローマの人々はギリシア文化を尊敬していたため、アテネの街はギリシア文化の中心地として尊敬されました。
とくに紀元117年に即位したローマ皇帝ハドリアヌスはギリシア文化を愛好し、オリンポスの最高神ゼウスに捧げるためのオリンピア=ゼウス神殿を建てたりしました。
ローマ時代後半のアテネはこうして文化的な繁栄をとりもどします。

395年にローマ帝国が東西に分裂すると、アテネは東ローマ帝国に編入されます。
そしてこのころにキリスト教が帝国内の国教とされ、ギリシアの神々への信仰は徐々に排除されていきます。
神殿も教会として利用されるようになり、529年にはプラトンのつくったアカデメイア学園も異端として廃校になりました。
そしておなじころ、北からスラブ人の侵略をうけて、アテネの街はさらに衰退します。

時代がくだるにつれて、ギリシア信仰も完全に忘れさられ、最盛期には20万以上だった人口が1万人以下にまで減少します。
アテネはギリシア地方における片田舎となってしまいました。

長すぎる停滞、アテネに復興はおとずれるのか?

長すぎる停滞、アテネに復興はおとずれるのか?

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キリスト教につづいてイスラム教も入ってくる

11世紀末から、西ヨーロッパのキリスト教国家は東へむかって十字軍の遠征をはじめます。
1202年からの第4回十字軍では、そのほこさきが東ローマ帝国へ向けられ、帝国を解体して、さまざまな十字軍国家がつくられました。
そのひとつがアテネ公国です。

アテネ公国はちいさな国でした。
支配者も西ヨーロッパの有力国からの分家ばかりでした。
またエーゲ海の覇権はこのころイタリアの有力都市ヴェネツィアがにぎっていたので、アテネはやはり、古代遺跡めあてに観光客が訪れるだけの、地方都市のままでした。

1458年、イスラムの巨大国家であるオスマン帝国がギリシア地方にせまり、アテネ公国はほろぼされます。
ここから約400年間、アテネはイスラム教の支配下となりました。
オスマン帝国の寛容政策によってキリスト教もゆるされましたが、キリスト教徒はイスラム教徒よりも重い税をおさめなくてはなりませんでした。
各地にイスラム教の施設がつくられ、アクロポリスの丘は要塞として使われるようになりました。

こうしてアテネは、古代ギリシアの遺跡と、中世キリスト教の教会や修道院と、イスラムのモスクが混在するへんてこな街になりました。
いまでもアテネの中心にあるモナスティラキ広場に立つと、ハドリアヌス図書館と、パンタナサ聖堂と、ツィスタラキス=モスクをすべて見ることができます。

ギリシア独立のわけ、そしてアテネは首都になる

アテネが400年間のイスラム支配に甘んじているあいだに、時代は中世から近世、そして近代へとうつっていました。
ヨーロッパの国々はこの間、大航海によって富をたくわえ、中央集権的な強い国家となり、たびかさなる戦争で武器も進歩させ、そして産業革命によってさらに力をつけていました。
反対にオスマン帝国はヨーロッパの国々におされて、徐々に弱くなっていました。

ヨーロッパの人々はルネサンスをへて、自分たちは古代ギリシア文化の後継者だと思っていました。
だからこそ、その発祥の地であるギリシアが他国に支配されていることに、我慢できませんでした。
またヨーロッパではフランス革命とナポレオンの征服をへて、ナショナリズムが高まり、民族はじぶんたちだけの国をもつべきだという主張が広まりました。

こうしたヨーロッパの声がギリシアにも伝わり、しだいにギリシアに住む人々は、ギリシア人としての自覚と、独立の精神をもつようになっていきます。

1821年、国内外のギリシア人たちがいっせいに立ちあがり、ギリシア独立戦争がはじまりました。
独立の火はギリシア全土にひろまりましたが、オスマン帝国軍の反撃によって壊滅の危機に立たされます。
ここでイギリス、フランス、ロシアがとつぜん介入。
ギリシアを支援して、オスマン軍をやぶり、1829年にギリシアは独立を果たしました。

ギリシアの独立は国際会議でも正式に認められ、ギリシア王国が誕生します。
そしてその首都にえらばれたのがアテネでした。
ずっとただの片田舎だったアテネは、ここからようやく復興していくのです。

近代国家の首都としてアテネはふたたび繁栄する

近代国家の首都としてアテネはふたたび繁栄する

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アテネの近代化、でもお金がない……

ギリシア王国の首都となったアテネは急速に近代化していきます。
アクロポリスと、国王の王宮(いまの国会議事堂)と、ケラメイコスの古代墓地とを頂点とする三角形の近代都市としてデザインされ、国内外のおおくの建築家が腕をふるいました。
ちなみにケラメイコスとは古代アテネの陶工たちが活躍した場所で、セラミックの語源にもなっています。
また博物館のおおくもこの時期に建てられました。

1896年にはアテネで第1回近代オリンピックが開かれます。
参加国は14のみでしたが、古代オリンピアを近代にアレンジして盛大な大会となり、アテネの復興を内外につよく印象づけました。
このオリンピック跡地はいまもアテネにのこり、4年ごとの開催都市名が石碑に刻まれています。
ちなみにオリンピックではいまでも、発祥の地ギリシアをたたえ、選手入場の最初はギリシア選手団となっています。
また閉会式ではギリシア国家の斉唱もおこなわれます。

しかしこうしたアテネへの投資で、ギリシア王国は外国からたくさん借金をしてしまい、財政破綻します。
金がなくて、オリンピックのメダルも優勝者には銀メダルをわたしていました。
フランスから追加の借金ができてなんとか経済は安定しましたが、アテネの人口は10万人ていどにとどまります。
これがしかし、二度の世界大戦をはさんで、爆発的に増えていくのです。

2つの世界大戦をはさみ、成長をつづけるアテネ

第一次大戦後の1919年、ギリシア王国はトルコと戦争します。
トルコはこのころオスマン帝国が崩壊して近代化をはたしており、ギリシアは敗北します。
その講和条約で、ギリシア人とイスラム教徒との交換がおこなわれました。
こうしてアテネには、トルコから大量のギリシア人が流れてきます。
市街地には人があふれ、市域も拡大し、さまざまな近代建築もつくられました。

第二次大戦中は一時的に人口が減少します。
とくに1941年からドイツ軍がアテネを占領すると、ドイツは占領費として莫大なお金とたくさんの食糧を要求します。
ふたたび経済危機におちいったギリシアでは、インフレーションがおこり、そこに冬の寒さもあわさって、大飢饉がおこります。
アテネだけで5万人以上の人々が亡くなりました。
ほかにも多くの人々がナチス=ドイツに殺されました。

1945年にドイツ軍が撤退すると、ギリシアは内戦に突入しましたが、まもなくおさまります。
その後の冷戦のなか、ギリシアは東ヨーロッパでただひとつの資本主義国として、成長をつづけます。
とくに1950年代から60年代にかけては高度経済成長を達成し、アテネは80万人をこえる人々が住むギリシア第一の都市となりました。

アテネでは各地に工場がつくられ、インフラが整備され、音楽堂や劇場なども多くつくられました。
とくにアクロポリスにある古代ローマ時代のヘロディス=アッティコス音楽堂は大改修され、いまでも10月のアテネ祭のたびにコンサートがおこなわれています。

そして現在のアテネは……

そして現在のアテネは……

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二度目のオリンピック開催

1960年代から70年代にかけて、ギリシアは王政から軍事政権、そして共和政へとうつります。
この間アテネはつねに首都としていちばんの繁栄をたもちました。
また旅客機の運賃が安くなったことで海外からの観光客も増え、アクロポリスや古代アゴラ、教会や博物館などにおおくの人が訪れるようになりました。

しかし人が増え、工場が建ちならび、たくさんの自動車が走るようになると、アテネの人々は公害に悩まされるようになります。
そこでアテネ市では汚染対策をすすめ、高速道路の整備をおこないました。
またバスの便を増やし、地下鉄も拡充されました。

そして二度目のオリンピック開催がきまると、郊外もふくめてアテネはさらに整備されていきます。
街並みが再開発され、あらたな国際空港がつくられ、オリンピックスタジアムも建設されました。
また観光省が設置され、観光警察が街をパトロールするようになりました。
もしアテネの街で困ったことがあれば、自転車をこいでいる警察官に声をかけてみてもいいでしょう。
かれらの胸には話せる言語の国旗がつけてあります。

2004年のアテネオリンピックは大盛況のうちに終わりました。
その後のギリシアはふたたび経済危機におちいり、アテネの街も人口、経済ともに落ちこみましたが、いまでも観光業はさかんです。
2009年には新アクロポリス博物館もオープンしました。
またアテネでは、土木工事をするたびに古代や中世の遺跡がたくさん発見されるので、展示品や遺跡の数はいまも増えつづけています。

観光、移動、食事、世界遺産

現在、アテネには約65万人が暮らし、郊外の都市圏もふくめると300万人以上が暮らす都市となっています。
市内にはいくつかの大企業が本社をおき、多国籍企業のギリシア本部もおかれています。
アテネのおもな産業は観光で、毎年おおくの観光客が訪れます。
金融危機以降は落ちこんでいましたが、2015年にはギリシア全体で2600万人となるなど、観光客の数は回復傾向にあります。

市内にはバスや地下鉄が発達しているので、移動に便利です。
またオリンピックにむけた再開発で歩道が広げられるなど、以前にくらべて歩きやすい街となっています。
また自転車のレンタルもはじまっています。

アテネで食べる料理の特徴はその多様さです。
オリーブオイルやチーズ、パンや魚介類などは古代からの伝統。
中世キリスト教時代には肉食が禁止されたので、野菜の使い方にもバリエーションがあります。
トルコ風の肉料理はオスマン帝国時代の遺産です。
新大陸の発見後にはトマトやポテトも多用されるようになりました。

最後に、アテネの世界遺産を2つ紹介します。
1つは「アテネのアクロポリス」。
丘にのぼると、パルテノン神殿やエレクテイオン、アテナ=ニケ神殿やディオニソス劇場など、さまざまな遺跡がむかえてくれます。
もう1つはアテネ近郊にある「ダフニ修道院」。
南ギリシアでいちばん美しい修道院といわれ、中世キリスト教時代のアテネをしのばせます。
聖堂内にはりっぱなモザイク画がのこされています。

まだまだ紹介しきれない遺跡がいっぱい!

いかがでしたか。
ほかにもアテネにはたくさんの遺跡があります。
ローマ=アゴラにある風の塔にのぼったり、無名戦士の墓で衛兵の交代式を見学したり、プラカ地区を散策したり、リカヴィトスの丘からアテネの夕日をながめたり。
楽しみ方はいろいろです、3千年以上にわたるアテネの歴史をぜひ満喫してください。
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