知っているようで知らない小田原城の歴史

「小田原城」は、神奈川県小田原市にあります。戦国時代の武将「北条氏」の本拠地としてとても有名です。戦国時代は北条氏に始まり、北条氏の滅亡によって終わったといわれています。その舞台となった小田原城は難攻不落の城として知られています。
しかし、小田原城の歴史は北条氏の時代だけではなく、歴史はもっと古く、そして江戸時代も重要な城として存続されています。この有名なお城はいつできて、どんな歴史をたどっていったのでしょうか? 国の史跡にも指定されている、ロマンあふれる小田原城を知ってみたいと思いませんか?

小田原城っていつできたんでしょうか?

小田原城っていつできたんでしょうか?

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北条氏のお城になるまでの小田原城は、ほとんど知られていません。
どのような人か住んで、どのような歴史を歩んできたのか調べてみましょう。

平安時代か鎌倉時代

元となったお城は「平安時代」の末に、「相模の国(今の神奈川県の小田原市・海老名市・平塚市など大部分)」の豪族「土肥氏一族」の「小早川遠平」の居城だったといわれています。

この人は「源頼朝」が「平家打倒」のために伊豆で挙兵して以来からの味方をしていた人で、旗揚げしたものの敗退して「安房国(千葉県)」へ逃げた時に、奥さんの「北条政子」に無事だと知らせたという話が残っています。
安房から巻き返して「源平合戦」で平家を滅ぼした戦いでは「源義経」と一緒に西国までいきました。
小早川というと「関ヶ原の戦い」で「徳川家康」の味方について「豊臣軍」の負けのきっかけになった「小早川秀秋」の小早川家の祖といわれています。

室町時代

「室町時代」の1416年に、室町幕府の関東を治めるため「鎌倉」にあった出先機関だった「鎌倉公方(かまくらくぼう)」を補佐する長官が起こした「上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)」が起きました。

この反乱を収めたのが「駿河国駿東郡(すんとうぐん。
今の静岡県の清水町・長泉町・小山町)」の領主だった「大森頼春(おおもりよりはる)」。
この反乱で鎌倉を追われた第四代鎌倉公方の「足利持氏(あしかがもちうじ)」を、駿河国の「守護」の「今川氏」に届けて鎮圧した功績を認められて箱根一帯を支配する権利を与えられました。
上杉禅秀の味方をしたために、土肥氏は大森氏に滅ぼされてしまいました。
そこで小田原城を築城したといわれています。

戦国大名北条氏のはじまり

戦国大名北条氏のはじまり

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よく間違えられてますが、鎌倉時代の鎌倉幕府「執権(将軍を補佐して、政治を行う)」だった「北条氏」と、この北条氏は「桓武天皇」を祖にした遠い親戚という話もありますが、別の一族です。
区別させるために、この北条氏は「後北条」と呼ばれています。

小田原城を一躍有名にした、この北条氏とはどういう人たちだったのでしょうか? まずは北条氏を興した北条早雲を知りたいとは思いませんか?

「北条早雲」ってなにもの?

「北条早雲」は、伝説では一介の主君を持たない素浪人から大名にのし上がる「下克上」の典型といわれています。
歴史好きには「戦国時代は北条氏から始まって、北条氏の滅亡で終わる」といわれていて、戦国時代を作った人として有名です。

しかし、実際には桓武平氏の流れの「伊勢氏」の出で、伊勢氏の中でも「備中国(岡山の西部)」に居住していた一族で、「備中荏原荘(現在の井原市)」の生まれだという説が有力になっています。
その説によると半分の領主だったといわれています。
井原市神代町にある高越城址に「北条早雲生誕の地」という碑が立っています。
その証拠に、ここからは「後北条」になってからの重臣たちが出ています。

当時の名前は「伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)」。
父親の「伊勢盛定」は「室町幕府」の八大将軍「足利義政」の「申次衆(天皇や院に奏聞を取次ぐ役目)」のひとりだったといわれています。
この役目は「伊勢氏』『上野氏」「大舘氏」「畠山氏」という4つの家出身でしかなれなかったといわれて、家格としては重要な位置だったといわれているので、伝説にあるような一介の素浪人ではなかったのですね。

伊勢新九郎としての活躍

1467年に「応仁の乱(おうにんのらん)」という、室町幕府の八代将軍の後継問題も含んだ幕府の官僚と有力大名たちの、10年以上も続く勢力争いがありました。
その時に「駿河守護今川義忠(織田信長に倒される今川義元の祖父)」が上洛して、室町幕府の官僚側に味方になります。
その連絡係を早雲の父親がしていました。
その縁で早雲の姉の「北川殿」と、今川義忠が結婚したのでした。
そして1473年に「龍王丸」という子供が生まれます。

早雲は九代将軍の「足利義尚」に仕えて、その時に「建仁寺」「大徳寺」で禅を学んだといわれています。

1476年に、今川義忠が「遠江国(今の静岡県の磐田市)」で、この地の守護の「斯波義廉(しば・よしかど)」との間に起きた「塩買坂の戦い」で討ち死にしました。
息子の龍王丸は子供だったために、家来の一部が義忠の従兄弟の「小鹿範満(おしか のりみつ)」を擁立して、家督争いが起きてしまいました。
そこへ関東の室町幕府の出張所である「堀越公方」と「扇谷上杉家」が介入してきました。
しかし上杉家は小鹿範満と親戚だったために、龍王丸たちは大変な窮地に陥ってしまいます。

そこへやってきたのが早雲でした。
彼は両方に「和議に反対する方を上杉たちが攻撃する」とだまして争いを収めて、龍王丸が成人するまで範満を家督代行とするとしました。
そして家督を代行した範満が駿河館に入り、龍王丸は母の北川殿と小川の「法永長者(長谷川政宣)」の「小川城(焼津市)」に住むことになりました。

伊豆へ

伊豆へ

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伝説によると、『北条記』には「御由緒六家」と後に呼ばれる「大道寺太郎(重時)」「荒木兵庫」「多目権兵衛」「山中才四郎」「荒川又次郎」「在竹兵衛」の仲間6人と、伊勢で神水を飲みながら「ひとりが大名になったら、他の者たちは家来になろう」と誓い合ったという話。
『公方両将記』には、駿河にある薩埵峠で盗賊にあって丸裸になって困っていたのを、通りかかった守護の奥方と会い衣服もらいました。
それが「叔母」の北川殿だったということで、その縁で今川氏の家来になったという、いかにも立身出世という話になっています。

しかし実際の話によると、京都に帰っていた1479年。
前将軍の足利義政が「龍王丸は成人したのだから家督を継がせるように」という命令を出しても、範満は無視をして譲ろうとしませんでした。
そこで早雲は1487年に駿河に入って龍王丸を助け「石脇城(焼津市)」で仲間を集め兵を起こして、駿河館を襲撃して範満とその弟を殺しました。
そして龍王丸は駿河館に入って2年後に元服し「氏親」となって、正式に今川家当主になったのでした。
その褒美に伊豆国との国境に近い「興国寺城」をもらいます。
そこで早雲は今川家の家来になったといわれています。

戦国時代の始まり

1493年、幕府管領(官僚)の「細川政元(ほそかわ まさもと)」が十代将軍「足利義稙」を廃嫡して自分が政治権力を握るために「足利義澄」をたてるという「明応の政変」を起こしました。
足利義澄は将軍になるやいなや、異母兄である堀越公方の「茶々丸」を討つようにと近くにいた早雲に命令しました。
なぜかというと、この茶々丸は、義澄の父である堀越公方だった「足利政知(八代将軍足利義政の異母兄)」が亡くなった時に、正室で義澄の母である「円満院」と、兄の「潤童子」を殺して跡目を継いだからです。

茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の豪族の「鈴木繁宗」「松下三郎右衛門尉」は、即座に早雲の味方に馳せ参じて一緒に攻撃しました。
これを「伊豆討ち入り」といいます。
これが戦国時代の始まりだといわれています。

これによって早雲は「韮山城」を居城として伊豆国を統治し始めました。
早雲は「味方になれば領地はそのままだが、敵になるならば作物を荒らして家を壊す」と宣言。
そして自軍の兵には乱暴や強奪などを厳しく禁じて、病人を手厚く看護するとかの善政をしたので、領民たちは喜んで従って「30日で平定した」といわれています。
逃げ出した茶々丸は「武田氏」などを味方にして数年間抵抗したものの徐々に追い詰められていきます。

1495年に「茶々丸討伐」を名目に、小田原の「大森藤頼(おおもり ふじより)」を討ち取って「小田原城」を自分のものにしました。
これが北条と小田原城の運命のであいでした。

1498年に茶々丸を討ち取って「深根城(下田市)」を落城させて伊豆を平定したといわれています。
その後も今川の家来のまま力をあわせて領地を広げていき、1516年に「三浦半島」の「新井城」で「三浦義同」を滅ぼして「相模」も手に入れます。

小田原城と北条氏

小田原城と北条氏

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北条早雲は亡くなるまで韮山城に住んでいたといわれています。
小田原城は、息子の「北条氏綱(ほうじょううじつな)」が早雲が亡くなってから拠点として移したといわれています。
これより、早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直の五代の100年にわたる小田原城を中心とした戦国大名の活躍が始まります。

「勝って兜の緒を締めよ」の二代目氏綱

このことわざは、二代目の「北条氏綱(ほうじょううじつな)」がいったといわれています。
早雲の隠居によって家督を継いだ彼は、相模・武蔵(東京都・神奈川県の一部・埼玉県)・下総(千葉県北部・茨城県南西部・埼玉県東一部・東京都東一部)へと領地を広げていった勇将と知られています。
しかしそれに奢ることなく「勝っても思い上がらずに、謙虚になることを心がけろ」という意味です。
なんだか近頃は間違って「勝っても次の戦いの準備をしろ」というように使われることがあるみたいですね。
元々は「孫子(そんし)」の兵法から出た言葉だそうですが、氏綱がいったのを「東郷平八郎(とうごうへいはちろう)」という「日露戦争」で元帥をした人が引用したのですが、これもまた東郷平八郎がいった言葉と間違って伝わっているようですね。

他にも氏綱は亡くなる時に『五箇条の訓戒』「大将から侍まで義を大切にすること」「侍から農民まで、みんなに慈しみの心で接すること。
いらない人などいないのだ」「奢らずへつらわず、自分の分をしっかり守ること」「倹約をすること」「いつも勝っているからと奢って、敵を馬鹿にしたり不義理なことはしないこと」というものを残しています。
本当に名君だったのですね。

伊勢から北条へ

この氏綱の時に「伊勢」から「北条」に姓を改めました。
それは幕府の了解を得て伊豆・相模平定して領地として認められていたのですが、従来の山内・扇谷の領主の「上杉氏」をはじめとする人たちから「他国からきた侵略者」と呼ばれて反発されていたからといわれています。
領地支配を正当とするために、先祖が一緒だった鎌倉幕府の「執権北条氏」の後継者だと宣言するためだったといわれています。
姓を変えてから朝廷から数年後、執権北条氏が任じられていた「左京太夫」となって、家の格は今川氏・武田氏・上杉氏と同等になりました。

最初の頃は、早雲の頃からの今川氏との主従関係を大事にした「駿相同盟」をしていましたが、今川氏の家督が「今川義元(いまがわよしもと)」になり、甲斐の「武田信虎(たけだのぶとら)」と同盟をしたために関係がつぶれて、今川氏と敵対するようになったのでした。

この頃に、古河公方と婚姻を関係を結んで「関東管領(公方の長官)」となり、古河公方を後ろ盾にして勢力を伸ばしています。

難攻不落の城になる小田原城

難攻不落の城になる小田原城

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1541年に氏綱が亡くなり、三代目に「北条氏康(ほうじょううじやす)」がなりました。

1546年、関東管領の山内上杉・扇谷上杉・古河公方の連合軍が侵攻してきますが、それを打ち破ります。
それで扇谷上杉家は滅亡し、関東管領の山内上杉は上野に逃げ、古河公方は下総に逃げ、関東は完全に北条が主導権を持つことになりました。

1553年、甲斐の「武田信玄」の娘を次男の「氏政(うじまさ)の正室にむかえて、駿河の今川義元の嫡男に娘を嫁がせて、「甲相駿の三国同盟」が成立します。
甲斐の武田氏とは「山内上杉氏」「越後(今の新潟県)長尾氏」という共に敵対する相手がいたために協力して、北関東と上野に領地を広げていきました。

1558年、関東管領の「上杉憲政」は、越後に逃げ込み「長尾景虎(上杉謙信)」を頼ります。
それ以降、北条氏と上杉氏は長い間対立することになったのでした。

この間の時代に小田原城は、上杉氏と武田氏の攻撃に備えて改築が進んで「難攻不落の城」として完成していったといわれています。
史料によると、居館には会所・寝殿があって、1558年に小田原に来た古河公方の「足利義氏」が宿舎としていたことが知られています。

上杉謙信と武田信玄を撃退した小田原城

1559年、氏康は(長男が早くに亡くなったため)次男の「氏政」に家督を譲りますが、小田原城で政治と軍事を差配していたといわれています。

1560年、今川義元が「織田信長」に「桶狭間の戦い」で討たれて、今川の力は衰退します。
それに乗じて上杉謙信が攻めてきますが、小田原城が堅固なために引き上げていきました。

1568年、武田氏が駿河今川領地に侵攻したために三国同盟は破綻してしまいます。

1569年、氏康は武田信玄に対抗するために、上杉謙信と「越相同盟」を結ぶことになりました。
それで関東管領は上杉謙信を山内上杉家の後継者と認めることになって北条管領は消滅してしまいました。

同じ年に、武田信玄が小田原城を攻めてきます。
しかし徹底した「籠城戦(お城にこもって敵と戦う)」のために、4日で武田軍は引き上げていきました。

1570年、越相同盟の盟約のために氏政の七男が上杉謙信の養子となり「上杉景虎」となります。

1571年、氏康が亡くなります。
その死を聞いて領民すべてが泣き崩れたと伝わっています。

北条氏の滅亡と小田原城開城

北条氏の滅亡と小田原城開城

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武田信玄・上杉謙信・織田信長が亡くなり、織田信長の後継者として政権を持った豊臣秀吉にとって、北条は脅威ととられます。
確執の後に「小田原合戦」がはじまり、この巨大になった北条氏は滅びていまいます。
その終末を見ていきましょう。

北条氏政はバカ殿?

四代目の「北条氏政(ほうじょううじまさ)」は、歴史小説やドラマでは「バカ殿」として書かれていることが多いですね。

それは逸話で「2度汁かけ」というものが有名だからです。
それは氏政がご飯に汁をかけて、足らないからともう一度かけたのを見て、父親の氏康が「毎日食べているのに汁の量がわからないとは、こんな奴に国や家臣を率いていけるのか?」と行く末を嘆いたといわれています。

他にも領地を見回っている時に、農民たちが麦を刈っているのを見て「あの麦を昼ご飯にしよう」と言って、家臣たちが「今収穫したばかりの麦を、すぐ食べられると思っているのか?」とあきれたというエピソードもあるからといわれています。
しかし、この麦の話は武田氏の書いた作り話という説もあります。
巨大な北条氏をつぶしたのは無能だからと、おとしめられている感じでかわいそうですね。

織田信長と武田氏の滅亡

四代目の北条氏政は、氏康が亡くなると遺言の通りに武田信玄との同盟を復活させました。

しかし1573年に、武田信玄は織田信長討伐に行った途中で亡くなってしまいます。
そして1575年、信玄の息子の「武田勝頼(たけだかつより)」は「長篠の戦い」で、織田信長と「徳川家康」の連合軍に大敗してしてしまいました。
氏康は武田との同盟を強くするために妹を勝頼の正室にします。

1578年、上杉謙信が亡くなります。
謙信の甥の「上杉景勝(うえすぎかげかつ)」と、弟で謙信の養子に入っていた上杉景虎とが「御館の乱」という後継者争いが起きます。
氏政は弟を助けるために勝頼に味方をするように要請します。
しかし勝頼は途中で景勝の味方になってしまいました。
結果は景勝の勝利で、弟の景虎は自害してしまいました。
そこで武田との同盟を破棄することになりました。

1580年、勢いづいている織田信長に氏政は家来になることを申し出ました。
そして父親と同じように家督を息子の「北条氏直(ほうじょううじなお)」に家督を譲って、息子に信長の娘と婚姻させました。

1582年、「天目山の戦い」で勝頼は氏政の妹と自刃して、武田氏は滅亡します。
そして同じ年に「本能寺の変」で、織田信長が死んでしまいました。

織田信長の家臣で関東をおさめにきていた「滝川一益(たきがわかずます)」に、氏政は一方的に同盟の破棄を伝え、46000の軍勢で襲いかかり駆逐しました。
そうなると信濃・甲斐・上野という広大な土地が空白となって、北条氏政・氏直と徳川家康と上杉景勝の争奪戦が始まったのです。

織田信長の死から、豊臣秀吉との確執のはじまり

織田信長の死から、豊臣秀吉との確執のはじまり

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氏政が「隠居様」となりながら政務をとっていましたが、家督は五代目の「北条氏直」も北条家家長としてがんばります。
この頃の北条は最大の領地(伊豆・相模・武蔵・下総・上総の北半分・上野と、下野・駿河・甲斐・常陸の一部)を持って、二百四十万石となります。

1582年、信長が亡くなると氏直は大軍を率いて「神流川の戦い」で織田家臣の滝川一益を駆逐して信濃に入り、「若神子の戦い」で甲斐に侵攻してきた「徳川家康」と対峙します。
氏直は「甲斐は祖父(武田信玄)の土地なのだから、自分が支配する権利がある」と主張しますが、甲斐と信濃は徳川、上野を北条ということで和睦することになりました。
その同盟の証として、氏直は徳川家康の娘を妻として迎えました。

1585年、豊臣秀吉が「関白」となり、太政大臣に就任しました。
これで「豊臣政権」ができあがりました。

1588年、秀吉は「聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだいとも」という、平安京の内内裏跡の現在の京都市上京区に政治を行いながらの邸宅を作りました。
そこで「後陽成天皇」を迎えて饗宴を行ったり、徳川家康や上杉景勝や「織田信雄(織田信長の息子)」などの有力大名を上洛させて、忠誠を誓わせていました。
北条氏政と氏直親子も列席するように言われたのですが、氏直が強烈に拒否してしまいました。

それによって「北条討つべし」という噂が立って戦闘態勢をとりますが、徳川家康の仲介で一時的に収まりました。

小田原攻めのはじまり

1589年、北条の家臣「猪俣邦憲(いのまたくにのり)」が、上野国にある「真田昌幸(さなだまさゆき)」の持城の「名胡桃城(なぐるみじょう)」を攻めて奪うということをしました。
秀吉は大名同士が勝手に戦をしないようにと取り決めていた「惣無事令」の違反だと、北条を糾弾しました。
北条は家康に仲介を頼みましたが、秀吉からすでに北条を攻めるための軍議に呼ばれていました。

1590年、秀吉による「小田原攻め(小田原征伐・小田原合戦とも)」がはじまります。
それまでに秀吉との最悪の事態を考えて、氏政と氏直親子は小田原城をより強固に改築したり、八王子城、山中城、韮山城などを築城したり、箱根山に砦の整備をしていっていました。

秀吉軍は海からは「長宗我部元親」「宇喜多秀家」「九鬼嘉隆」という水軍を配備して食料の運送をさせました。
この戦いには秀吉も参加していたので、京には「毛利輝元」を京都守護として留守番をさせました。
陸からは軍を2つにわけて「東海道」は豊臣の本隊と徳川家康などの主力20万、「東山道」は「前田」「上杉」「真田」などの3万5000といわれています。
そこに関東勢の秀吉に恭順した1万8000が合流しました。

それに対しての北条は圧倒的な秀吉軍に対して小田原城に5万あまりの精鋭部隊を集めて、山中城・忍城・足柄城に配置しました。
そして韮山城・松井田城・鉢形城などで固めました。

小田原城開城

小田原城開城

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秀吉軍は、源頼朝が平家打倒のために兵を集めた「黄瀬川」に集めて進軍をはじめました。
そして小田原城に行く道中をはばむ城を圧倒的な力で攻め落としていきます。
小説・映画で有名になった『のぼうの城』の忍城だけが、小田原城がおちても持ちこたえました。

小田原城はといえば、難攻不落だとのことで秀吉は無理に攻めずに包囲する作戦に出ます。
その間に北条と同盟を結んでいた「伊達政宗」が、秀吉の元に向かい恭順しました。
それをもって秀吉は「小田原城開城」を勧告しはじめます。
その交渉には名だたる大名たちが、それぞれに入れ替わりながらしましたが、氏政は断固としてそれを拒み続けました。

そういった持久戦の中で、北条の中から秀吉軍に寝返る者が増えていきます。
降伏するか降伏するかの重役会議は全く結論が出ないまま時間ばかりが過ぎていきます。
それで、この全く結論の出ない会議のことを「小田原評定」といわれ今も故事として残っています。

籠城は3ヶ月にもなり、ようやく氏直は和議をすることを決意しました。
その条件として「自分が切腹するから、他の兵たちは助けてくれ」ということでした。
秀吉はその言葉に感動したものの、父親の氏政に切腹を命令しました。
氏直は妻の父である徳川家康の助命嘆願によって、高野山に入ることで助命されました。
小田原城は、ほぼ無血開城ということになったのでした。

これで「戦国時代」は終わり、秀吉の「天下統一」が完成したのでした。

江戸時代から現在までの小田原城

江戸時代から現在までの小田原城

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豊臣秀吉によって、北条の領地は徳川家康のものになります。
北条氏によって堅固になった小田原城は、地元にこのような大規模の城があるのを警戒した家康によって、総構えを撤去されます。
しかし完全には撤去されなかったために現在も遺構が残っていて、それが明治初期に小田原町の境界になったといわれています。

江戸時代の小田原城

小田原城は徳川家康の配下におかれることになりました。
一時期は「江戸幕府」の二代将軍「徳川秀忠」が隠居して「大御所」になった時に住む城と考えられていたようですが、その話は流れました。
実際その話になっていたとしても隠居しなかったので実現しませんでしたね。

城主になったのは、家康の腹心である大久保氏でした。
時代劇が好きな人だと『一心太助』などに出てくる「天下のご意見番」といわれる「大久保彦左衛門」も、この一族です。
二代目に政争に負けて大久保氏は改易(身分を平民に落として、財産や屋敷を没収すること)されてしまいます。

その後は「阿部氏」や、「春日局」の血を引いている「稲葉氏」が入りましたが、家を復興した大久保氏が戻ってきました。

小田原藩は有名な「箱根の関所」があり、「入り鉄砲と出女」といわれるくらい厳しく規制を任されていていました。

小田原城は、江戸時代の1633年に「寛永の地震」と1703年に「元禄の地震」という大変な被害を受けました。
元禄の地震では天守閣などが倒壊したといわれています。
それが再建されたのは1706年でした。
それは明治に解体されるまで存続していました。

現在までの小田原城

現在までの小田原城

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明治3年の1870年から1872年の間に、小田原城内の建物はほぼ壊されてしまいます。
天守閣跡に「大久保神社」が建てられました。

1901年、旧城内に「小田原御用邸」ができました。

1923年の「関東大震災」で、御用邸が壊れて廃止されました。
残っていた建物の「二の丸平櫓」や石垣などの大部分が崩壊しました。
その後に石垣が積み直されましたが以前より低いので威厳がなくなったといわれているそうですね。
そして平櫓も復興しましたが、予算のかげんで規模が半分になったといわれています。

1950年、天守台が整備されて城跡は「小田原城城址公園」となりました。

1960年、天守閣がRC構造によって復元されました。
しかし小田原市の要望で忠実に再現されたものではないようですね。
しかし、天守から眺められる太平洋や「石垣城」がとてもよく見えるとのことです。

2006年に「日本100名城」に選定されました。

2015年から2016年まで耐震工事や壁の修復が行われてましたが、今は工事が終わって再公開されているそうです。

完全復元されていく小田原城に期待しましょう

小田原市では、現在城の中心部を江戸末期の形に復元する計画が進んでいるそうです。
今現在は天守閣に続いて、1971年「常盤木門(ときわぎもん)」の外観、1997年「銅門(あかがねもん)」、2009年馬出門が復元されました。
天守閣も元に戻したいという要望が高まって、2013年に木造復元を目指すNPO法人「みんなでお城をつくる会」が設立されたといわれています。
完全に復興された小田原城って、どのようなものなのでしょうか? 今から期待がふくらみますね。
ぜひ行ってみたいと思いませんか?
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