厳島神社の鳥居はなぜ海上に?なぜ世界遺産になれたの?観光前に知っておきたい厳島神社の歴史

厳島神社は、世界遺産にも登録されている広島県廿日市市の宮島にある神社です。まるで海の上に浮かんでいるように見えるという、他では見ることのないデザインです。この不思議な神社はなんのために作られたのか、誰のために作られたのか知りたいとは思いませんか? たぶん皆さんのほとんどの方が思っているのではないかと思われる「平清盛」ではないのですよ。

さあ、厳島神社に行ってみよう

さあ、厳島神社に行ってみよう

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厳島神社がある宮島に行くには、車やタクシーで宮島口に行きフェリーで行くというのもありますが、せっかく広島に行ったのならば、広島駅から路面電車で原爆ドームの前を通って宮島駅まで行き、宮島口からフェリーで宮島桟橋へ行くというコースがおすすめです。
桟橋を降りると島の守り神の化身ともいえる鹿が迎えてくれます。
さあ、日本三景・世界遺産の厳島神社へ行ってみましょう!

アキの宮島はやっぱり秋?

アキの宮島はやっぱり秋?

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こんな話があります。
友人たちと広島に行った時に「どうせならば厳島神社に行こう」という話になりました。
すると友人のひとりが「やっぱり宮島は秋だよね」と嬉しそうに言いました。
確かに厳島神社の絵葉書とかポスターは紅葉に彩られた写真が多いので「そうですね」と答えると「ほら、やっぱりアキの宮島って言うじゃない。
行くとしたらやっぱり秋だよね。
いい時に来たなあ」と戻ってきました。

これは冗談なのかと思ったのですが、友人の様子からもしかしてと「『アキの宮島』って季節の秋だと思ってます?」と恐る恐る聞くと「え、違うの?」と真剣な顔。
「このアキというのは、昔ここは安芸国と言いまして『安芸の宮島』が正しいんですよ」と説明すると、なんと同行のほとんどの人が「えー?」と反応しました。
聞けば観光協会のポスターなどにも『秋の宮島』というものもあるらしく、サブリミナル効果というか刷り込みというものは怖いものだと実感しました。
あちこちで聞くと同じ反応が返ってきたのでこれは大変なことだと思いました。
どうか秋だと思っていた方はこれを機会に覚えてくださいね。

厳島神社を創建した人

まず誰が作ったのかを知りたいですね。
平清盛だと思っている人も多いようですが、神社の言い伝えでは歴史はもっと古くて推古元年(593年)。
推古といえば推古天皇の時代で、聖徳太子の時代というものでした。
安芸の豪族の「佐伯鞍職(さえきのくらもと)」という人で、宮島に住んでいた人といわれてます。
この人が神様から「神社をつくるように」と神託を受けて、天皇から許しをもらって御笠浜に「市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)」を祀る社を作ったといいます。
このイチキシマがイツクシマとなったといわれてます。

この人は亡くなった後に、三翁神社と金刀比羅神社で神様として祀られているそうです。

宮島は元々厳島ともいわれていて「神様に仕える島」という意味で、神社ができる前から島自体が元々信仰の対象になっていたという話があります。

文献として初めて出てくるのは弘仁2年(811年)に『日本後紀』という書物に「伊都岐島神(漢字が違うだけで読み方は同じイチキシマヒメノミコト)」が霊験あらたかな神様をさす名神として認められて、平安中期には安芸国一宮とされたと書かれているそうです。
その時に佐伯氏が神職を掌握したといいます。

厳島神社のご神様ってどんなかた?

厳島神社は前に書きましたように島自体もご神体です。
そして厳島神社の語源となった「市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)」だけでなく、「田心姫命(タゴリヒメノミコト)」と「湍津姫命(タキツヒメノミコト)」という3柱(神様は柱が単位)の女神様となっています。

「アマテラスオオミカミ」と「スサノオノミコト」制約した時に、スサノオノミコトの剣から生まれた五男三女神の中の3人の神様といわれてます。

この神様たちは九州の宗像神社と同じで、中でも市杵島姫命は美人といわれていて、神様と仏様が習合していた時代には弁財天と同じとなっています。
宮島には厳島神社の隣に大願寺というのがあって「日本三大弁財天(あと2つは近江・竹生島と江島の弁財天)」のひとつといわれてました。

ご利益は、海上交通の安全、そこからくる交通安全、豊漁、子育て、治水の守護などですが、弁財天のご利益もあわさって、知恵、財産が増える、戦いに勝つ、子孫繁栄に、音楽の神様と多岐にわたっています。

ただ女性の神様なので、恋人同士でお参りをすると嫉妬されて別れるという話もあります。
これはけっこう女性の神様の神社ではよく聞く話ですね。

平清盛と厳島神社

平清盛と厳島神社

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現在の厳島神社の原形を作ったのは『平家物語』で有名な「平清盛」です。
宋との貿易を盛んに行って海上交通の無事を祈願するために厳島神社を信仰していた清盛が、安芸守になった時に当時の神主だった「佐伯景弘」が平家の援助を得て作ったといいます。
ではこの平安後期に平家の一大勢力を築いた清盛という人はどういう人だったのでしょうか? 興味が出てきますよね。

平清盛と瀬戸内海

1118年に清盛は「平忠盛(たいらのただもり)」の長男として生まれます。
1153年に父の忠盛が亡くなって後を継ぎ平家一門の頭領となります。

当時の武士は朝廷や貴族に仕える仕事をしていました。
平安時代は天皇家と藤原家を中心とした貴族たちのみが人間として認められていて、武士も民衆も動物並みの扱いを受けていました。
特に武士たちは力があっても道具としか扱われず不満がくすぶっていたといいます。

1146年に武士の中でも有力な勢力をもつ清盛は安芸守に任じられて、瀬戸内海での権力を持ち交易を行って次第に財を増やしていきます。
同時に海上の守り神である厳島神社を信仰しだしました。
しかしまだ建築するには時間がかかります。

1156年に「保元の乱」が起こります。
これは天皇家の後白河天皇(後の法皇)と崇徳上皇の権力争いで摂関家である藤原家も真っ二つに分かれてての戦いでした。
しかし戦争をするのは当事者ではなく武士なのです。
平家も源氏もそれぞれに仕えたために親兄弟で戦いました。
そして後白河天皇についていた清盛と「源義朝(みなもとのよしとも・頼朝や義経の父)」が勝ちました。
これを機に平家と源氏は貴族にかわって政治に参加するようになります。
播磨守と大宰大弐という瀬戸内海を完全に手中に収めたのでした。

平清盛は本当に悪い人だったのでしょうか?

保元の乱の後後白河天皇の政治を主だって行っていたのは「信西(しんぜい)」という貴族で学者で僧侶だった人です。
彼は清盛の力を利用して改革に取り組んでいました。
しかし信西を面白く思わない勢力が生まれてきて、源義朝はそちらの勢力と組んでしまいました。
1159年にその対立が戦争となり反信西派は壊滅し、源義朝ら源氏も滅亡してしまいました。
そこで清盛は軍事・警察の力を一手に握って太政大臣となり、武家政権の基礎を作ったのでした。

平家の権力が盤石なった1168年に清盛は病気で倒れます。
病が癒えた清盛は出家して、今の神戸の福原に別荘を建て、そしてようやく夢に見たという信仰していた厳島神社の整備に取りかかったのでした。

その後は、貴族社会をつぶし武家政治をうちたてたものの、清盛自身が武士なのに貴族となっていってしまったことで、他の武士たちを失望させて反感をかっていってしまったことです。
それが命を助けてやった源義朝の息子たち源氏の再興となって、平家は滅ぶのですが、完全に滅亡する4年前に前に熱病で亡くなってしまいました。

学校で古典の時間に習う『平家物語』は源氏側から書かれているので、どうしても清盛は極悪人のように書かれています。
でも本当に悪い人だったのでしょうか? 史料などに書かれているのは温厚で情けの深い人で、人が失敗をしても笑ってすませてあげる人だったといいます。
それで頼朝を伊豆に流し、義経を仏門にいれるのですが、それが仇になって一族が滅んでしまったというのは皮肉なものですね。

現在厳島神社の北西には、島の人たちが清盛への敬意をこめて霊を祀った「清盛神社」という社が作られています。

平家滅亡してからの厳島神社

平家滅亡してからの厳島神社

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鎌倉時代になってからも、厳島神社は源氏だけでなくたくさんの有力者たちからも崇拝を受けていました。

しかし鎌倉時代に入ってから起きた承久の乱の時に、神主の佐伯氏は「後鳥羽上皇」の味方をしたために、創建以来ずっと神主を世襲されてきた神主の座を降りて神官となりました。
かわりに神主になったのが藤原氏でした。
しかしその藤原氏も戦国時代に滅亡してしまい、その後は佐伯氏が復権して現在まで続いているそうです。
聖徳太子の時代からずっと同じ一族の人が神主を続けていくというのはすごいことですね。

清盛が作った建物は1207年と1223年の2回の火災で焼失してしまいました。
そしてそのまま復元されたのは1240年以降になります。
他にも土砂災害などの被害を受けたことはたくさんありますが、その都度鎌倉幕府や室町幕府によって再建されていきました。

鎌倉時代までの宮島は、島自体が神様の住むところといわれていて、足を踏み込んではいけないという意味の「禁足地」でしたが、室町時から南北朝になっていくと僧侶や神社の人たちが住むようになってしまいました。

戦国時代の厳島神社

戦国時代に入ると、世の中が不安定なせいで厳島神社は寂れていってしまいました。
それに追い打ちをかけるように、この神様の島があろうことか戦場になったのです。
それを「厳島の戦い」といいます。

室町時代に中国地方に小京都を作ったという大内氏。
それが「陶晴賢(すえはるかた)」という家臣がクーデターを起こして殿様を形だけのものとして実権を持ちました。
それに対するのが『三本の矢』という息子3人に1本ずつ矢を持たせて折らせ、3本の矢になると折れない。
3人で力を合わせろと言ったというので有名な「毛利元就(もうりもとなり)」でした。
この毛利元就という人は、元々は大内氏の家臣でしたが、陶晴賢が実権をもつや大内・陶軍と別れ4つの城を攻略して厳島(宮島)を占領します。

しかし陶軍が厳島に上陸してきました。
この軍は中国地方ではじめて鉄砲を配備したという装備で毛利軍と比べるとかなりの差がありました。
結局毛利元就は手も足も出ず厳島を荒らされ略奪されていくままでした。
その時に瀬戸内海三大水軍といわれる村上水軍が助けに来ました。
村上水軍は200から300艘の大軍で陶軍に襲いかかり、陶軍は全滅してしまいました。

毛利元就はその戦いに勝ったことから厳島周辺を支配して、厳島神社を崇拝し荒れた社を大修復行い、厳島神社は再び栄えることができたのです。

「豊臣秀吉」は戦争で亡くなった人の供養のために大経堂を建立するように家来であり僧侶の「安国寺恵瓊(あんこくじえけい・関ヶ原で西軍についたため石田三成と同じく処刑される)」に命令しました。
秀吉は大規模で豪華な建物をかんがえていたようですが、途中で亡くなってしまったので、御神坐の上以外は天助がなくて板壁もないというままの姿が今も残っています。
この建物の大きさは857畳もあって通称「千畳閣」と呼ばれています。

江戸時代の厳島神社

江戸時代の厳島神社

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江戸時代になると「福島正則」から「浅野家」が広島藩主になります。
広島藩は城下・三原城下・尾道・厳島として町制の一つとして統治されてしました。
厳島はこの頃から宮島とも表記されていき、宮島奉行のもとで瀬戸内海の廻船業や商業の要として保護されて厳島神社を中心の観光地として発展していったのです。

厳島神社では平清盛以来の舞楽の奉納があり、毛利元就も能を奉納したことがはじまりとして観世太夫や歌舞伎や大相撲の興行で盛り上がります。
そのうち西国三大芝居どころといわれて「井原西鶴」の『浮世草子』には金比羅神社・吉備津島神社と並び称されることとなりました。

しかし宮島の人たちにしてみれば、参拝客とか興業とかで盛り上がるのはいいものの島には産業がないというのが悩みの種でした。
そこで宮島の中にある光明院の僧侶の「誓真」という人が、弁財天の琵琶から発想をして「願掛けのしゃもじ」を売り出しました。
それが大いに当たって、しゃもじのことを「みやじま」と呼ばれるようになりました。
この人は他にも水不足解消のために井戸を掘ったり、小舟がつけられる桟橋を作ったりして「宮島の大恩人」と慕われていました。

近世の厳島神社

1868年の明治元年に「神仏分離令」が発令されると廃仏毀釈という運動が日本中に起こります。
宮島も主だった7ヵ寺を残して他は廃寺となってしまいます。
厳島神社にあった千畳閣も安置されていた仏像などが他の寺に移転されたり行方不明となってしまいました。

1876年に海上にあった大鳥居が老朽してきたことから立て替えになりました。
これが現在ある厳島神社を象徴している鳥居です。

第二次世界大戦の時は広島の呉市に軍港があり、江田島に兵学校があったことから、神の島であるということもあり天皇と同一視するような学校をあげての信仰の象徴となります。
厳島周辺は軍の重要な場所だったこともあって、戦後にはGHQの管理下におかれるということがありました。

1952年に「昭和の大修理」が行われ、度重なる台風の被害を受けながらも厳島神社は復旧されていき、1996年に世界遺産として登録されたのでした。

世界遺産になった厳島神社

世界遺産として登録された厳島神社の社殿の紹介をしていきましょう。
社殿は宮島の北部にある大野瀬戸に面した有浦(ありのうら)と呼ばれる湾の奥にあります。
数ある建物の中で、いくたびかの高潮や台風の被害を受けたのは能舞台や楽房などで、実は本殿はそれほどの被害は受けていないということです。
平清盛以来の厳島神社、実は清盛が作った建物は被害を受けていないというのがすごいですね。

本社

本社

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本社は、ご神体の宗像三女神を祀っている「本殿」と手前にある「拝殿」と、その間をつないでいる「幣殿」をあわせた全体を1つとする形になっています。

本殿の屋根は「切妻造」という正面と背面を長く伸ばした形で「両流造」という屋根の種類です。
柱の間口は正面が8間柱10本、背面が9間で奥行きが4間とで、正面は1間減らして柱をわざと1本減らして中央を広くとっています。

内陣は6つの宝殿があって、中央を広くとっている正面の3つはご神体の三女神を祀って、残りは他の相殿神と呼ばれる神様を祀っています。
そのために社殿の中心が右にずれています。

「幣殿」は本殿と拝殿をつなぐ廊下に屋根をつけたものです。
別の建物につくので屋根の三角の形のことをいう妻面がありません。

「拝殿」は「入母屋造」となっています。
普通神社の柱の間は奇数になるのが普通ですが、ここは10間という珍しい建物です。
本殿を拝むところなので、本殿が左右非対称なのでここも非対称な形となっています。
中央部分の屋根には天井を張らないで構造をそのまま見せるという「化粧屋根裏」となっているので、拝殿から本殿まで前後につながって見えるという「三棟造」というこった形になっています。
それで1つといわれているのですね。

その前に「祓殿」があります。
これも同じような入母屋造・妻入のつくりです。
柱はありますが壁や建具がまったくない開放的な建物になっています。

舞楽が奉納される舞台はここ

毛利元就が寄進したという、浅い海の上に置かれた石柱(潮の満潮の時に柱が海中に沈むために水圧を逃す役割をするもの)に、その上に建てた建物「平舞台」があり、その中心に一段高くして高欄をめぐらしたところを「高舞台」といいます。

はじまりは1170年に、平家一門がそろって参拝して1000人の僧侶を集めて供養した場所ということです。
最初は仮のものだったそうですが、江戸時代になって常設となりました。

「高舞台」は清盛が四天王寺から舞楽を呼んで演じられた場所で、能舞台としては一番小さいといわれています。

「平舞台」は左右に分かれていて、それぞれに楽房があります。
楽房とは舞楽を演じる場所のことをいいます。
「左楽房」はインドや中国の舞楽を演じて、「右楽房」は朝鮮半島から伝わった舞楽を演じわけているとのことです。

台風の被害を受けて修繕されるところは、ほとんどここだといわれています。
位置的に一番受けやすい場所であり構造だからなのかもしれませんね。
その楽房の内側には「門客神社」という建物が、これも左右2つあります。

厳島神社といったら大鳥居ですよね

厳島神社といったら大鳥居ですよね

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安芸の宮島・厳島神社のシンボルといえば「大鳥居」ですよね。
この海中からそそり立つ鳥居を見ただけで厳島神社だとわかります。

この鳥居に掲げられている扁額といわれる看板のような物がどこの神社でも見ることがあると思います。
ところがこの厳島神社には扁額が海側と神社側と2つあって、それぞれ書かれている文字が違うことを知っていますか?

海側に書かれているのは「嚴嶋神社」。
これは普通の神社と同じ。
しかし神社側に書かれているのは「伊都岐島神社」とご神体の名前なのですよ。
元々は「伊都岐島神社」だったものを、なんと平清盛が変えてしまったんだといいます。
厳というのが神様が宿るという意味なのは前に書きましたが、清盛は平家の氏神としたことから平家の守り神として変えてしまったのではないかといわれています。
まさか、そのせいで平家は滅んだのではないかと疑ってしまいました。

大鳥居の秘密ってなに?

鳥居の形も他の神社と違っています。
通常ならば柱は2本で下は土の中に埋まっていますが、この厳島神社の柱は6本の柱でできています。
そしてそれは海底に立っているだけで埋まっていません。
それは嵐が来ようとも、海が荒れようとも倒れることがないよう考えられているからです。
それどころか浮くこともあるといわれています。
すごい安定感と思いませんか?

さて、宮島に着くと「今日の満潮と干潮」と書かれている立て札が立っています。
満潮の時は皆さんご存知のように厳島神社は海に浮かんでいるように見えます。
そして干潮になると、なんとこの鳥居まで歩いて行けるのですよ! 見る見る間に潮が引いて、大勢の人が鳥居にさわろうとかなりの距離ですが歩いて行きます。
下から見上げた鳥居の壮大さは一度経験されたら忘れられない思い出となります。

ここで厳島神社が困っていることがひとつあります。
なんと、この鳥居の亀裂のところにお賽銭のように小銭を突っ込む人が多いということ。
気持ちもわからなくもないですが、そんなことをすると柱が痛んで腐っていくので本当にやめてほしいと「ご利益ではなく、バチが当たります」と言われてますので、これから行かれる方はやめてくださいね。

忘れてはいけないのは回廊です

忘れてはいけないのは回廊です

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厳島神社の社を彩るのが回廊です。
ある意味社のシンボルといってもいいかもしれません。
本来の神社やお寺の回廊というのは建物を四角く区切るものですが、ここは違います。
海の上の各社と陸地を結ぶ渡り廊下というより橋のような役割になっています。

回廊は西と東に分かれていて幅は4メートル、長さは全部つなぎ合わせると約262メートルにもなる壮大なものです。
昔は西回廊側が入り口だったのではないといわれています。
262メートルといえば10間、その1間1間に釣り提燈が下げられています。

この回廊は潮の干満や台風にも耐えられるようにした工夫がされているといわれます。
それは1間に8枚しいてある床板に「目透し」という隙間を作っているのです。
それが海水が満ちてくる力を弱めるといいます。
この海の上という他には見ない場所で、いかに建物を維時できて、なおかつ美しいものを作るかという、当時の職人さんたちの技術と心意気に感動しますね。

現在の回廊は本当ならば土足厳禁だったのを土足でも歩けるようにと、本来の床板の上に保護板がはられて2枚重ねとなっています。

神社なのになぜ五重塔があるの?

神社なのになぜ五重塔があるの?

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厳島神社の中に国宝である五重塔があります。
五重塔といったら京都駅の南にある五重塔みたいにお寺にあるものだと思いますよね? なぜ神社にあるのでしょうか?

実は明治まで五重塔は「大聖院」というお寺ののなかにある「金剛院」というお寺のものでした。
明治の「神仏分離令(しんぶつぶんりれい)」の廃仏毀釈運動のために厳島神社の管理になったといわれています。
しかし正式には「厳島神社の末社である豊国神社の五重塔」というのが本当だそうですね。
末社というのは何? と思われるかもしれませんが、読んで字の如しで厳島神社に縁がある子供のような感じといったらわかるかもしれません。

五重塔ができたのは室町時代の終わりだといわれています。
今まで何度も修理をしながらもできたばかりと同じ姿というのは厳島神社の中でも数少ないひとつとなっています。
日本国内にある五重塔の中でも7番目に古いといわれています。
建築様式は鎌倉時代に臨済宗をひらいた「栄西(えいさい)」が中国で習って伝えたという「禅宗様(ぜんしゅうよう)」と日本古来の様式が混ざったという珍しいものといわれています。

五重塔の中に納められていた御本尊は釈迦如来座像(しゃかにょらいざぞう)と文殊菩薩(もんじゅぼさつ)と普賢菩薩(ふげんぼさつ)でした。
明治になり厳島神社の管理下になったために、現在は宮島にある「宮島・大願寺(だいがんじ)」に安置されています。

世界遺産と国宝・重要文化財

世界遺産に登録された厳島神社の代表的な建物を紹介してきました。
それらは日本の国宝・重要文化財にも登録されています。

国宝になっている建造物は、厳島神社の1件6棟。
本社の本殿・弊殿・拝殿・祓殿・東回廊・西回廊(高舞台・平舞台・左右楽房・左右門客神社本殿と棟札4枚・回廊の棟札19枚)。
美術工芸品は、平家納経(法華経・阿弥陀経・般若心経・平清の盛願文・金銀荘雲龍文銅製経箱・蔦蒔絵唐櫃)・金銅密教法具・厳島神社古神宝類(太刀など)・紺絲威鎧(こんいとおどしよろい) 兜と大袖・小桜韋黄返威鎧(こざくらがわきがえしおどしよろい) 兜と大袖・浅黄綾威鎧 兜、大袖・黒韋威胴丸(くろかわおどしどうまる) 兜、大袖・太刀(銘友成作)・梨子地桐文螺鈿腰刀・彩絵桧扇・平清盛と頼盛が書いた紺紙金字法華経と観普賢経。

重要文化財は、朝座屋・能舞台・揚水橋・長橋・反橋・大鳥居(棟札2枚)・摂社大国神社本殿・摂社天神社本殿・摂社大元神社本殿・宝蔵・五重塔・多宝塔・末社荒胡子神社本殿・末社豊国神社本殿。
美術津工芸品は太刀や書・舞楽のお面・能面・能装束・写経・楽器・甲冑や具足など45品。

他にも国の有形文化財になっている宝物館や、島自体が国の特別史跡・特別名勝になっていて、それ以外にも県の指定の文化財と、長い歴史の中で大事に保護されて残っているのは素晴らしいことですね。

観光地としての厳島神社

観光地としての厳島神社

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現在の厳島神社は観光地として大勢の人たちが訪れています。
結婚式を挙げる人たちや、原爆ドームで戦争の勉強を修学旅行に行く学生たちが、宮島の旅館に泊まって厳島神社を見学したり、外国からの観光客もたくさんやってきます。

今も引き継がれていく祭事や行事

厳島神社には引き継がれている年間行事があります。
有名なところで4月の「桃花祭御神能」、5月に推古天皇から建てることを許されたといういわれから「推古天皇祭遙拝式」、6月には平清盛がはじめたという日本三大船神事といわれる「管絃祭(かんげんさい)」などです。
管絃祭とは都の管絃遊びを神事にしたもので、管絃船が対岸の地御前神社へ行き戻ってくるというもの。
厳島が室町時代まで禁足地だった時は、逆に地御前神社から厳島神社に行き管絃を合奏していたといわれています

近年になってから千畳閣で、日蓮宗によって「嚴島神社千畳閣千僧供養成就 法華経読誦施餓鬼大法要」という法要が営まれています。
前にも書きましたが、千畳閣は豊臣秀吉が朝鮮出兵での戦没者慰霊につくったところで、千人の僧侶を集めて法要したところです。
日蓮宗は平家納経で法華経が納経されているという縁で、毎年11月の紅葉のきれいな時に約千人の僧侶が集まり戦没者の供養と、観世流の謡曲の奉納が行われています。

厳島神社の大事な人たちである推古天皇からはじまって平清盛、豊臣秀吉を偲んで行われる行事を見てみたいと思いませんか?

1度といわず何度でも行きたい厳島神社

いかがでしたか? 静かなたたずまいで心を癒してくれる厳島神社は、知らないことばかりでしたね。
この不思議な島へ行って、近づいても動じない、奈良公園とはちょっと雰囲気の違う鹿さんたちに出迎えられたら、もうあなたは虜となることでしょう。
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