犬山城の観光の前に知りたい歴史。白き最古の名城はなぜ生き残ったのか?

現在、国宝に指定されているお城は5つありますが、その中でもちょっと地味な印象があるかもしれない「犬山城」。江戸時代初期までに建てられて現存する天守閣の中では最古といわれ、木曽川沿いの丘に建つ白く美しい姿に荻生徂徠が唐の詩人・李白の詩に登場する城にちなんで「白帝城」と呼んだ美しいお城です。

もちろん、その美しい姿とは裏腹に血なまぐさい戦国の時代を生き抜き、さらには第二次世界大戦の戦果をくぐり抜けて今もその姿をとどめる犬山城からは、歴史の重みとオーラが感じられます。

さらに戦国の三英傑、信長・秀吉・家康とも関りの深いその歴史を、それぞれの時代でかかわった人々とともに振り返ってみたいと思います。

まずは「犬山城とはどんなお城か」を知りましょう

まずは「犬山城とはどんなお城か」を知りましょう

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犬山城はどこにある?

犬山城は現在の地名で言うと「愛知県犬山市」にあります。
現在でも岐阜県との境に位置する犬山市は室町時代、尾張国と美濃国の境界でした。
尾張・美濃といえば戦国時代、織田氏と斎藤氏の領地です。
この地は尾張を支配する織田氏にとっては重要な土地であったと思われます。
織田氏が築いた砦が後に城として整備されたのです。

ちなみにこの「犬山」の地名の語源には「犬を使った狩りに最適だったので“いぬやま”と呼ばれた」、「平安時代のこの地域、丹羽郡小野郷が山間部であり、“おのやま(小野山)”が転じて“いぬやま”になった」、「大縣神社の祭神「大荒田命」が犬山の針綱神社の祭神の一人玉姫命の父にあたり、大縣神社から見て犬山が戌亥の方角に当ることから、「いぬいやま」が転じて「いぬやま」になった」の3説があります。

さらにちなみに、「犬山」の表記での一番古い文献は14世紀中ごろから存在しているようです。

木曽川のほとりの小高い丘陵地帯に犬山城はあります。
周辺の城下町は今でも古き時代の名残を残しており、美しいその町並みは「尾張の小京都」と称されるのも納得です。

犬山城をのぞいてみましょう

名鉄犬山駅または犬山遊園駅から徒歩で15分ほど、小高い山の上の城門をくぐると犬山城の美しい天守閣が姿を現します。
しかし、その他に大きな建築物は残っていません。
明治になって廃城になった際にほとんどが取り壊されたのです。
矢来門、黒門など一部の門は寺院などに払い下げられて移築され、現存しています。

城の分類としては「平山城」に分類され、天守の外観は三重ですが内部は4階、地下には踊場を含む2階があります。
天守台の石垣は自然石をそのまま積み上げる「野面積」で5メートル、天守の高さは19メートルあります。
天守の南面と西面に平屋が付属する複合型の構造です(総面積698.775㎡)。

現在、天守閣内部はお城を管理する公益財団法人犬山城白帝文庫所蔵の美術品などが展示されています。
戦国時代を生き抜いたお城にふさわしく、お世辞にも登りやすいとは言いにくい階段を登って行くと最上階から城の北側には木曽川が流れ、天守閣最上階からは城下の街並みと共に木曽川の雄大な流れを望めます。
ちなみにこの最上階、床がじゅうたん張りになっているのが特徴です。

犬山城のはじまり

犬山城のはじまり

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織田氏が美濃・斎藤氏への備えに築いた「砦」

室町時代、尾張を治める守護は足利将軍家の一門、幕府の管領職を務める斯波氏でした。
当時は守護職の大名が支配地に在住しない場合は「守護代」と呼ばれる代理人を置きましたが、管領職を務め、さらに尾張の他にも越前・遠江などの守護職も兼ねていた斯波氏も当然、尾張に守護代を置いていました。
この守護代を務めていたのが織田氏です。

織田氏はいくつかの支流(分家)に分かれていて、応仁の乱の際には主家である斯波氏の内紛に応じて「伊勢守家」と「大和守家」が対立、その後は斯波氏の弱体化に乗じて主家を凌いで「戦国大名」として大和守家が清州城を本拠に尾張下4郡を(清州織田氏)、そして大和守家が岩倉城を本拠に犬山城のある丹羽郡を含む尾張上4郡を支配(岩倉織田氏)し、互いに争うようになりました。

岩倉織田氏の当主・織田敏広の弟、広近は斯波氏の命令で美濃の斎藤氏の備えとして丹羽郡の犬山に赴きました。
1469年、広近は木ノ下城を築城、さらに乾山に砦を築きます。
この砦が現在の犬山城のはじまりなのです。

その後、美濃の内紛の時には岩倉織田氏は斎藤妙純に味方し彼を後ろ盾としますが、その斎藤妙純が近江で戦死した後は後援をなくして衰えてしまいます。

織田弾正忠家と犬山城の誕生

こうした岩倉織田氏の混乱の一方で、清州織田氏の側でも状況は変化していました。
もともとは家臣であった「清州三奉行」と呼ばれる織田分派のうちのひとつ、後に織田信長を輩出した「織田弾正忠家」が力をつけて急速に台頭してきたのです。

織田信長の父・信秀の時代、弾正忠家は守護代の家臣の立場でありながら、実力では主である清州織田氏、さらにはその主家にあたる斯波氏をも上回るようになります。
信秀は尾張の各地に一門・家臣を配置します。

1537年、信秀の弟・信康が犬山城の城主となりました。
信康は木ノ下城を廃城として、砦に過ぎなかった現在の場所に犬山城を造営しました。
現在の天守の2階まではこの時代につくられたと考えられています。

織田信康は兄の信秀をよく支え、今川氏との戦いでも武功をあげるなど活躍しました。
また、主家の清州織田氏と対立してきた岩倉織田氏の後見も務めるなど、政治面でも信秀を支え、その勢力拡大に貢献します。
犬山城に配されたのはこの岩倉織田氏との関係からであると思われます。

しかし、この信康が美濃の斎藤道三との戦で戦死、跡を継いだ信清が城主の時代には弾正忠家の当主となった信長と敵対する関係となってしまいました。

織田信長の尾張統一と犬山城

織田信長の尾張統一と犬山城

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犬山城主・織田信清と信長の対立

織田信清は、父である信康が岩倉織田氏の後見を務めていた関係から、はじめは岩倉織田氏に従属していました。
その後、叔父・信秀(信長の父)が死ぬと、信清は犬山城を本拠地に独自勢力として行動するようになります。

信秀が実力はありながらも主家を越えることはなく、あくまでも守護代・清州織田氏の家臣であり続けたのに対して、跡を継いだ信長は積極的に尾張統一に乗り出しました。
まず手始めに主家である清州織田氏の当主・信友と対立します。
信友は信長を謀殺しようと図りますが、尾張の守護・斯波義統はこれを信長に密告します。
信友は怒り、義統を殺害、その子の義銀が信長を頼りました。
これを利用して信長は謀反人として信友を殺害、清州織田氏を滅ぼしたのです。

信長と信清の関係は、信清が信長の領地を押領したために険悪でしたが、信長の姉を妻としてもらい受けてから一時的には信長に臣従するようになります。
しかし信長が岩倉織田氏との戦いに勝利し、当主・信賢が追放された旧領地をめぐって再び信長と対立、信長に攻められた犬山城は1564年に陥落して信清は甲斐に逃れました。
ちなみに、武田氏に仕えた信清はその後「犬山鉄斎」と名乗ったとのことです。

信長の尾張統一、犬山城主は池田恒興に

信長はその後、守護である斯波義銀を追放し、ついに尾張の国主となります。

犬山城は、母親が信長の乳母を務め、自らも幼いころから小姓として仕えた家臣・池田恒興に姉川の合戦の功労として与えられます(1570年)。
恒興はその後も織田家中で活躍、その後12年にわたって犬山城主を務めました。
「本能寺の変」で信長が明智光秀に討たれ、その光秀を羽柴(豊臣)秀吉が討伐したのちに開かれた「清須会議」には織田家重臣のひとりとして参加しています。

ちなみに池田恒興は一度犬山城を離れたのちにもう一度、犬山城主として城に入りました。
1584年の「小牧・長久手の戦い」に秀吉の側で参戦した恒興は緒戦で犬山城を攻略したのです。
城主を務めた城を攻めるのですから「地の利」もあったことでしょう。
一方で複雑な心境だったのかもしれません…。

池田恒興はこの後、長久手の合戦の最中に討死してしまいます。
嫡男もその時討死していたため、池田家の家督は次男の輝政に引き継がれました。

なお、この池田輝政は後に、犬山城と同じく国宝として指定されている姫路城主となりました。
現在の姫路城はこの輝政の頃に造られたものです。

本能寺の変と犬山城

本能寺の変と犬山城

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信長の秘蔵っ子? 犬山城主・織田信房

池田恒興の後に犬山城の城主となったのは信長の子供(四男とも五男とも言われます)の織田信房です。
生年は不詳、名前も「信房」とされたり、武田家に近い資料ででは「勝長」とされたりします。

彼は生まれて後に美濃の遠山氏に養子に出されました。
遠山氏は織田氏と武田氏の双方に服属していたため、織田氏を支持する家臣たちの申し入れもあったようです。

武田信玄が西上作戦を開始すると、美濃は武田家家臣の秋山虎繁の侵攻にさらされます。
遠山氏の武田支持の家臣により遠山氏は降伏、養子であった信房は甲府へ送られ人質となりました。

信玄が西上の途中で死去し、跡を継いだ武田勝頼が長篠の戦で信長に敗れると、その和睦交渉で信房の身柄の返還が決まります。
こうして織田家に戻った信房は安土城で信長と対面、信長は彼と彼の家臣にたくさんの祝いの品々を送り、彼を犬山城主としました。
1582年のことでした。

織田家に復帰した信房はその後、兄である信忠と行動を共にすることが多かったようです。
武田家を滅ぼした甲州征伐でも信忠に従って参陣しています。
そして1582年6月、織田信長が本能寺で最期を迎えた時も信房は信忠と共に京都の二条城にいました。
明智の軍勢に囲まれた信忠と信房は奮戦するも討死してしまったのです。

小牧・長久手の戦いと犬山城

本能寺の変後、織田家中の後継者争いがおこります。
嫡子の信忠はすでにこの世になく、生き残ったのは次男の信雄、三男の信孝、そして信忠の遺児・三法師でしたが、清須会議の結果跡目は三法師となりその後見として信孝、信雄は後継者となれませんでしたが、遺領のうち尾張などを相続しました。

信雄の所領となった犬山城の城主とされたのが「中川定成」という人物です。
この定成、あまり華々しい記録はありません。
ただ、彼が城主の時に「小牧・長久手の戦い」があって、定成は北伊勢に出兵していたこと、居城である犬山城がわずか一日で陥落したとの報を聞き帰る途中で討死したとの記録が残っています。
ただし、この記録に疑問を持つ人もいます。
小牧・長久手の合戦後、定成に知行地が与えられている記録も残っているのです。

この合戦の時、犬山城を守備していたのは「中川重政」。
そして、この時の攻め手は信雄に従っていたはずの池田恒興。
恒興は羽柴秀吉側に寝返り、かつて城主を務めた犬山城の守りの盲点となる「北側」、木曽川を渡って城の北から侵入し、わずか一日で陥落させたというのです。
その後の重政の行方は知れません。
犬山城は秀吉方の本陣となり、池田恒興が城主となりますが、恒興はその後三河へ攻め入ろうとして失敗、討死してしまいました。

秀吉政権下の犬山城

秀吉政権下の犬山城

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豊臣英次の父であり、犬山城主となった三好吉房とは?

小牧・長久手の合戦後、秀吉と信雄は和睦して尾張は信雄の領地となり犬山城も返還されます。
この間、城主は度々変わりました。
信雄自身も秀吉からの転封(三河・遠江)の命令に従わず、ついには改易されてしまうのです。

信雄の改易後、尾張は秀吉の養子・秀次の所領とされました。
犬山城は秀次の父親である三好吉房が城代を務めます。
この三好吉房は秀吉の姉の夫、義理の兄にあたる人物ですが、不明なところの多い人物です。
はじめは木下藤吉郎、つまりは秀吉の一族として「木下弥助」を名乗っていたようですが、秀次が阿波の「三好一族」に養子に出されたころから自らも「三好」を名乗りました。
阿波の三好一族といえば、源氏の流れを受け継ぐ名門で、一時は機内一円を勢力下として室町幕府の政権を左右するほどの戦国大名として名高い一族です。
しかし、この吉房は息子・秀次が三好氏に養子に行ったという理由だけで三好を名乗っており、全く関係ありません。

秀次は後に秀吉の跡を継いで関白となり、領地を不在にすることも多く、その間の所領経営はこの三好吉房が行っていました。
しかし、息子の秀次も能力的には秀吉に及ばないと言われますが、父親の吉房も凡庸であったようです。

秀次が高野山で切腹した後、吉房も改易されました。

犬山城と石川貞清に纏わる二題

秀次切腹、吉房改易後は石川貞清が犬山城主となります。
石川貞清は秀吉の「使番」、いわば線上での伝令の役割を務めた人物で、小田原攻めで敵の北条氏政・氏輝兄弟の切腹の際の検視役を務めた功績で大名となった人物です。
秀吉の死後は豊臣秀頼の側近に列せられました。

石川義貞には犬山城と関連するお話がふたつ残されています。

ひとつは、義貞が美濃金山城を城主の森氏が転封されたのをきっかけに譲り受け、その天守などの古材を犬山城に移築した、というものです。
ただしこの話は、昭和36年に犬山城の解体修理を行った際の調査で、「移築の痕跡が見当たらない」とされ、現在は否定されています。

もうひとつ、石川貞清に関連するのは関ケ原の合戦に纏わるものです。

犬山城は岐阜城などとともに、関ケ原の合戦では西軍の拠点となっていました。
もちろん貞清も西軍に与していましたが、その時に人質をとっていた木曽の国人衆がそれにもかかわらず東軍に参加したのです。
通例であれば人質は処断される、殺されても仕方のない状況。
しかし貞清はこの人質を解放したのです。
自らは西軍にとどまり、関ケ原に向かったにも拘らず…。

ちなみに西軍の拠点となった犬山城には稲葉・竹中といった有力武将が附属されていましたが、彼らは戦が始まると東軍に寝返りました。
ひとり西軍にとどまった貞清は戦後、木曽国人衆の人質を解放したことが評価され、敗れはしましたが助命され、後には江戸幕府の御家人になったのです。

最も重要な親藩・その家老が住まう城

最も重要な親藩・その家老が住まう城

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尾張藩付家老の居城・犬山城

江戸時代に入ると、尾張国には家康の四男で松平氏の養子となっていた松平忠吉を藩主とする「清州藩」が出来ました。
忠吉は関ケ原の合戦で井伊直政とともに先鋒で働き、その武功を評価されてのことでした。
その付家老として家康の命を受けたのが小笠原吉次です。
彼は忠吉の父の時代から松平氏の家臣でした。

小笠原吉次は清州藩主・松平忠吉の付家老として犬山城に入って城主となります。
清州藩は後、政庁を名古屋に移してからは「尾張藩」となりますが、それ以降も犬山城は藩付家老の居城となりました。

小笠原吉次は犬山城とその城下町を整備し、城は彼の時に現在残っている天守を含む、いわゆる「近世城郭」の形になったと考えられています。

松平忠吉は28歳の若さでこの世を去ります。
付家老の吉次は江戸に呼び戻され、その後下総佐倉、常陸笠間の藩主となります。
しかし、清州藩を離れる際の不正が発覚して改易されてしまいました。

忠吉には後継ぎがいなかったため、弟の徳川義直が変わって清州藩主となります。
そして家康の命により中心を名古屋に移しました。
こうして親藩・徳川御三家の一角「尾張藩」が誕生、犬山城は尾張藩主の付家老の居城となるのです。

犬山城主となった家康股肱の家臣・平岩親吉

初代尾張藩主・徳川義直の付家老として、次に犬山城主となったのは平岩親吉です。
彼は家康と同い年、家康が今川氏の人質となっていたころから付き従ったと言われる人物。

平岩親吉は家康に長く仕えたというだけではなく、非常に信頼されていました。
それは親吉が正直で私欲のない人物だったからです。
多少脱線しますが、ふたつほどそのエピソードをご紹介します。

親吉には弟がおりましたが、この弟が、後に徳川四天王の一人に数えられる若き日の榊原康政と口論になり、負傷させられたことがありました。
これを聞いた親吉は、自らはすでに宿老であり、康政はまだ若く身分も低かったにもかかわらず康政を「将来、主君を支える有望な者」であるとして以後、事あるごとに康政を取り立てたのです。
反対に自らの弟は「人に斬られてしまう程度の役立たず」として武道をやめさせてしまいました。

さらに後年、秀吉が井伊直政・本多忠勝・榊原康政、そして平岩親吉に家康に内緒で黄金を与えようとしたことがありました。
井伊・本多は家康に黙って受け取り、榊原は家康に報告して許しを得て受け取りましたが、平岩親吉はただ一人、「すでに(家康から賜っている)禄で十分であるので受け取れない」と断ったといいます。

このような親吉の人柄を知る家康は、わが子義直の後見として、さらに重要な尾張の付家老として親吉を犬山城に住まわせたのです。

「いま」につながる城主・成瀬氏の登場

「いま」につながる城主・成瀬氏の登場

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成瀬氏が犬山城のあるじに

平岩親吉には後継ぎがいませんでした。
家康は平岩氏が断絶することは避けたいと考えて、自分の八男を後継ぎとするように養子にとして与えていましたが、この子も早くに亡くなってしまいます。
その後、親吉が慶長16年に亡くなって平岩氏は断絶しました。
犬山城の城主は親吉の甥が6年間務めたようです。

その後の元和3年から犬山の城主となったのは成瀬正成。
幼い頃から小姓として家康に仕えた正成は小牧・長久手の戦いや関ケ原の戦いで活躍、江戸幕府が出来てからは幕政にも参加し家康の家老も務めました。

家康と家臣との絆の強さを伝えるエピソードはかなりありますが、この成瀬正成にも残されています。

ひとつは豊臣秀吉がこの正成を気に入って召し抱えようとした時のことです。
正成は「二君に仕えず」と涙ながらに固辞し、「どうしてもというのであれば腹を切る」と言ったといいます。

さらに正成は死に臨み、「大御所(家康)の眠る日光に行く」と言ってきかなかったため、家臣らは籠を担いで日光へ向かっている振りをしたとも言われています。

そんな正成ですが、家康に特に頼まれて尾張藩付家老となった際に「藩主・義直に逆心があるときは伝えるように」と命じられます。
これに対して正成は「自分は義直直属の家老になるのだから自分のあるじは義直一人。
そのあるじが謀反を起こすとなれば家来である自分はそれに従う」と家康の命令を断ったのです。

この後、幕末に至るまで成瀬氏は城主として犬山城のあるじとなります。

成瀬正虎ともう一人の家老・竹腰氏との関係

成瀬正成の後、犬山城主・そして尾張藩家老の地位はその後継ぎである成瀬正虎が受け継ぎました。

成瀬正虎は徳川秀忠の小姓を務め、豊臣家を滅ぼした大阪の駅にも従軍、その後、義直に仕えてともに尾張藩にやって来ました。

妻は家康の側室・相応院の養女ですが、この相応院は尾張藩主・義直の母です。
彼女は家康の側室となる前に竹腰氏という武家に嫁ぎましたが死別、その後、奥勤めをしていたところを家康に見初められて側室となりました。

相応院には竹腰氏との間に男子がいました。
その子が竹腰正信、彼女が後の尾張藩主・義直を生むと家康に召し出され側近となり、その後成瀬正信とともに義直の側近として尾張藩に入ります。
竹腰氏は成瀬氏と対立することもありましたが、ともに尾張藩家老として幕末を迎えます。

2代藩主・光友にも仕えた正虎はともに3代将軍・家光に拝謁し刀を拝領するなど、格別の地位にありました。
長男の正親が跡を継ぎ隠居した正虎に藩主・光友は隠居料5,000石を与えようとしましたが、正虎は固く断ったといいます。
この5,000石は正親が拝領することとなり、犬山成瀬家は35,000石に石高を増やしました。

尾張藩の最大勢力

尾張藩の最大勢力

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“犬山藩主”(?)成瀬氏の三代目・成瀬正親

3代当主・成瀬正親の時に父が固辞した隠居料を加えて35,000石の知行高となった成瀬氏は、尾張藩内では最高の知行高徒なります。
さらに(同じ藩付家老の竹腰氏もそうでしたが)重要事項以外の雑務を免じられた上に、藩主が江戸にいて不在の時、重要事項の決済にあたって書類に連署する(加判)必要もないといった別格待遇でした。

このように知行高も高く、重要事項の決済についても藩主に代わって判断する特権も認められて、まるで独立した大名のような立場に見える犬山成瀬家ですが、あくまでも幕藩体制の下での立場は「藩付家老」でした。
これも幕末まで変わることはありません。

「犬山藩」という呼び名を見かけることもあると思われますが、実際には江戸時代を通じて「犬山藩」という藩は存在しなかったのです。
多少不可解な艦もあるかもしれませんが、実は明治新政府の時代になって“藩”として認められたため、「犬山藩」と言い表されることが今はありますが…。

話題を正親に戻しますと、正親は世によく言われる「3代目」のごたぶんにもれず、父の代までに蓄えてきた財を浪費した挙句、譜代の家臣に暇を出して佞臣を重んじ、家中で騒動が起きたとも言われます。

正親は65歳で亡くなり、跡を長男の成瀬正幸が継ぎました。

開明的藩主・徳川宗春と成瀬正泰

成瀬正幸の跡を継いだ5代目の成瀬正泰は犬山城に「白帝城」の名前を与えた人物です。
また、絵がうまかったとも言われています。

正泰が仕えた徳川宗春は当時の大名の中では特異な存在だったかもしれません。
時代は江戸の中頃、華やかだったと言われる「元禄時代」も終わり、徐々に質素倹約が求められる時代へと移り変わりつつありました。
米将軍と言われ、質素倹約を重んじた徳川吉宗が8代将軍となり、様々な規制が強化された時代です。

その中にあって宗春は尾張藩内の規制を反対に「緩和」していきます。
幕府の法令は守りつつ、ある部分では先取りするような宗春の政策で尾張藩、名古屋は当時にはないような賑わいを見せました。

一方でこの宗春の政策は吉宗との対立を生み、さらに朝廷と幕府の緊張関係がそこに拍車をかけます。
尾張藩は代々、朝廷との関係を第一に尊び、良好な間柄を築いてきました。
そこに幕府・朝廷間の諍いが影響を与えたのです。

成瀬正泰は藩主・宗春に良く仕えたと言われます。
もう一方の竹腰正武は、実の弟が幕府の中枢にいました。
彼は幕府からの圧力で宗春の失脚を画策、参勤交代で宗春と成瀬正泰が江戸にいる隙を狙って実権を握ると、宗春の政策を無効にしてしまいます。
そして宗春は蟄居謹慎に追い込まれたのです。

成瀬正泰はこの時、「幕府と一戦交えるべき」と強硬な姿勢だったと言われます。
竹腰正武とも対立しました。
ただ、竹腰正武自身は彼も宗春に良く仕えた家臣であったようです。
謹慎中の宗春が不自由のないように取り計らいました。

「犬山藩」の野望と明治維新

「犬山藩」の野望と明治維新

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成瀬正壽の野望と天守の「絨毯」

正泰の跡は成瀬正典が継ぎました。
彼は父と同じく絵画の才能があり、特に彼の高の絵には定評があったようです。
正典には嫡子・正賢がいたのですが、若くしてこの世を去ってしまいます。
跡を継いだのは4男の正壽でした。

第7代藩主となる成瀬正壽には「尾張藩から独立して“大名”になりたい」という野望があったと言われています。
尾張藩から離脱して幕臣に戻り、藩主として独立しようと試みましたが失敗に終わりました。
藩内でも最大・最有力の成瀬氏がこれくらいのことを企てても不思議はなかったでしょう。
正壽の企てが失敗したことで、徳川政権下での「犬山藩独立」は水泡に帰したのです。

ちなみに、現在の犬山城を訪れると天守最上階の床が「絨毯張り」であることに違和感を覚える人も少なくないかもしれません。
「“最古の城”の床になぜ絨毯?」と思われるでしょうが、これにはこの成瀬正壽が関わっています。
彼はオランダ商館長と親しかったため、その誼で絨毯を取り寄せて天守の最上階に敷かせました。
現在の絨毯は昭和に入ってからの改修工事でそれを再現したものです。

正壽の死後、家督は長男の成瀬正住が継ぎます。
この正住も絵画が巧みであったことで有名です。
正住には男子がいましたが早くに亡くし、また彼自身も若くしてこの世を去ったため、娘婿の成瀬正肥が跡を継ぎました。

幕末維新と犬山“藩主”成瀬正肥

成瀬正肥が城主となった頃、時代はすでに幕末・維新の潮流が迫って来ていました。
尾張藩主・徳川徳川慶勝は幕府が天皇の許しを得ないまま外国との条約を結んだことを批判し、いわゆる安政の大獄に巻き込まれて大老・井伊直弼により隠居・謹慎に追い込まれます。

成瀬正肥は、もう一人の家老で幕府寄りの竹腰氏の一派により藩政から遠ざけられましたが、後に慶勝が復権しその子・義宜が藩主となってからは正肥の一派(尾張派)が政権を掌握します。
代々が朝廷寄りの尾張藩は朝廷と幕府の間の調整を行いました。

その後、長州藩を朝敵として征討する際(長州征伐)には慶勝・義宜親子に従い征長軍に参加しますが、尾張藩はあくまでも「朝敵」と戦うために参加していました。
第2次長州征伐には基本的に反対で、結果として尾張藩と成瀬正肥は鳥羽・伏見の戦いでは御所を警護し、二条城を接収する役割を担うなど、朝廷、すなわち新政府の一員として働くことになったのです。

「王政復古の大号令」の際に、正肥は「犬山藩主」と認められます。
ここでようやく成瀬氏は大名となりました。
版籍奉還にともない犬山藩知事となり、廃藩置県までのわずか3年間でしたが、犬山城の城主がそれまで認めてもらえなかった大名の地位に就いたのです。

廃城から現在へ

廃城から現在へ

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廃城と成瀬氏の城主再登板

廃藩置県により犬山藩は「犬山県」となり、数か月で「名古屋県」、後の愛知県に合併されます。

犬山城は廃藩置県後に「廃城」となり、天守をのぞいてその構造物のほとんどが取り壊されました。
取り壊しとなった構造物のいくつかは払い下げられ、矢来門が専修院東門に、黒門が徳林寺、松ノ丸門が浄蓮寺、内田門と伝わる城門が瑞泉寺にそれぞれ移築され現存しています。
旧城門と伝わる門も運善寺他に移築されて今も残っていると言われますが、どれがそうなのかははっきりしていません。

廃城となった犬山城を明治24年に「濃尾地震」が襲います。
残されていた天守の東南の角にある付櫓がこの地震で壊れてしまい、修復の必要がありましたが、それには費用が掛かります。
もちろん廃城後ですから城主はいません。
このままでは政府がその費用を負担しなくてはならない…という状況でした。

そこで政府は城主であった成瀬氏に白羽の矢を立てます。
犬山城は先の城主・成瀬正肥に城の修復を行うことを条件に“無償”で譲渡されました。
廃藩置県での廃城から二十数年、再び犬山城のあるじは成瀬氏となったのです。

国宝に指定、解体修理とその後…

昭和10年、戦前の法律「国宝保存法」で当時の国宝に指定された犬山城。
ただしこの法律での“国宝”は現在で言う「重要文化財」に相当するものです。
戦後、昭和27年に「文化財保護法」に基づく“国宝”にあらためて指定されました。

太平洋戦争の戦果をくぐり抜けた犬山城ですが、昭和34年の「伊勢湾台風」によって被害をうけます。
そのため昭和36年から昭和40年にかけて解体修理が行われました。
この解体修理により犬山城は詳細に調査され、美濃金山錠が移築されたという説が否定されます。
さらに犬山城は初めに2階部分までの主屋が建てられ、その後3・4階が増築されたことなどが明らかになり、城主で言えば小笠原吉次から成瀬正成の時代、江戸時代初期に現在の形に整備されたことなどがわかっています。

犬山城は平成16年3月まで成瀬氏が個人所有していました。
その時点で日本の城で個人の所有となっていたのは犬山城だけでしたが、平成16年4月に「財団法人犬山城白帝文庫(現在は公益財団法人)」に移管されました。
文化財を個人で所有するとなるとその維持管理には莫大な費用が掛かるのでしょう。

平成18年には「日本の百名城」のひとつに指定されています。

歴史の中で戦国の三英傑が集う美しき「白帝城」

信長・秀吉・家康の「三英傑」が直接・間接的に関りを持った犬山城は、戦国時代を通じて「ポイント」となる城でした。
尾張と美濃の境界にあり、さらには東国と西国の結節点にあったことが、犬山城をその美しさのみならず、歴史的にも重要な城として、その存在価値を高めているのです。

江戸幕府の太平の世になってもこの最古の城は、最高の家格の親藩・尾張徳川家の家老の住む城として、時には名サポート役として、また時には大名を狙う野望の拠点として歴史の流れを見つめ続けてきました。

天守のみの、一見地味な姿となったその白き美しさと歴史の深さが今でも人々を惹きつけるのではないでしょうか…。

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