今なお混沌とする聖地…三大宗教の聖地「エルサレム」とパレスチナの歴史

キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の三つの宗教で聖地とされるエルサレムを中心としたパレスチナ。20世紀中盤以降この地域は混乱を極め、中東問題、特に「パレスチナ問題」といわれる対立を繰り返してきました。このパレスチナの問題の原点はどこにあるのでしょうか?どうしてこの地域がこれほど混乱してしまったのでしょう?
パレスチナの歴史を振り返り、今もなお混沌としているパレスチナ問題のルーツを探ってみたいと思います。

「カナン」と呼ばれた土地

イスラエル人の登場以前のパレスチナ

地中海を西の境界としてヨルダン川と死海に囲まれた地域、現在パレスチナと呼ばれる地域は古くは「カナン」と呼ばれていました。
「カナン」という地名は非常に古く、すでに紀元前3000年ころの文献から見られます。

イスラエル人がこの地にやってくる以前にもいくつかの民族が定住していたと考えられています。

紀元前15世紀にエジプトのファラオ・トトメス3世とカナンの連合軍が戦った「メギドの戦い」(この時代では珍しいほど記録が残った戦いですが)で勝利したエジプトがカナンを支配しました。

その後、「ペリシテ人」と呼ばれる民族の「ペリシテ文明」がこの地で栄えていたとされています。
「パレスチナ」という地名は「ペリシテ人の土地」という意味です。
しかし現在のパレスチナに住むアラブ人とは直接関係していないようで、「旧約聖書」などの文献や考古学的研究では「ミケーネ文明」を担った“海の民”と呼ばれる人々に起源をもつと考えられています。

「旧約聖書」にはさらに「カナン人」という民族についても記録があります。
イスラエルに追われた7つの民族のうちのひとつで、地中海東岸地域に居住していたとされます。
イスラエル人はこのカナン人から「ヘブライ語」を学んだようです。

神がユダヤ人に与えた「約束の地」

イスラエルの民、ユダヤ人がこの地にやって来たのは紀元前13世紀ごろです。

ユダヤ教の聖典、「旧約聖書」によるとユダヤ人の始祖・アブラハムの孫・ヤコブは、神から彼の子孫にカナンの地を与えると約束されたといいます。
この時、彼は「イスラエル」に改名しました。
ちなみにこれは「神に勝つ者」を意味するヘブライ語で、「天使と格闘して勝利」したヤコブに与えられた名前だということになっています。

その後ユダヤ人はエジプトに移り住みますが、モーセによってエジプトを脱出してカナンの地にやって来たことになっています。
これがほぼ紀元前13世紀ごろのようです。
旧約聖書に書かれている通りにモーセという伝説的な指導者に導かれたのかどうかは別としても、この時期に何らかの指導的な立場にある者たちによってユダヤ人がカナンの地にやって来て征服したことは事実であると考えられます。

旧約聖書に記されている事柄は「伝説的」な色彩が濃いのですが、ユダヤ人が現在のパレスチナにやって来てこの地を征服するまでの流れを概ね正確にたどっていると考えられています。
考古学的な検証でもそれは証明されつつあります。

イスラエル王国の建国と興亡

イスラエル王国 成立と分裂

こうして「カナンの地」に定住したユダヤ人は「イスラエル王国」を建国し、この地を支配します。
中心都市はエルサレムで2代目のダビデ王の時に王都とされました。
当時は周辺の強国が衰退期にあったことも手伝って、イスラエル王国は繁栄します。
ダビデの子、ソロモンの頃には最盛期を迎えました。
周辺国家と外交、交易を行い、特にエジプトとは強く結びついていました。
妻をエジプトのファラオの娘とするなど、エジプトに従属した関係を築いたようです。

こうして最盛期を迎える一方で、イスラエル王国の中ではいくつかの矛盾が国民の不満となって行きました。
ソロモン王はその国家事業を行うために国民に重税を課しましたし、いくつかの部族が平等に、緩やかに結びついていたイスラエル王国において自分の出身部族を優遇する姿勢は不満として蓄積されていきました。

ソロモン王の死後、王国は北の「イスラエル王国」と南の「ユダ王国」のふたつに分裂します。
分裂後の両王国は新興国家・アッシリアの侵攻にさらされます。
まずイスラエル王国が紀元前7世紀に滅ぼされてしまいます。

バビロン捕囚とローマ帝国による支配

ユダ王国はその後もアッシリアやエジプトに服属しながらも独立を保っていましたが、バビロニアによって紀元前586年に滅ぼされました。
この時に王都エルサレムとエルサレム神殿は破壊され、ユダ王国の王族・貴族はバビロニアの首都・バビロンへ連れ去られました。
これが「バビロン捕囚」と呼ばれる事件です。

ユダ王国の滅亡後、3つの大陸の結びつくところであったこの地域にはいくつかの大国が進出し、興亡を繰り返します。
紀元前2世紀には再びユダヤ人の国家が建国されましたが、まもなくローマの干渉を受けるようになります。

はじめはユダヤ人の王を支援することでこの地域に干渉していたローマは、紀元6年にユダヤ人の王を廃し「属州」とします。
以後はローマから派遣された総督がユダヤ属州を支配するようになりました。
「新約聖書」に登場し、イエス・キリストの処刑にかかわったとされるピラトは有名です。

その後、ローマの支配に対してユダヤ人は数度に渡って大規模な抵抗を繰り返します。
ローマの皇帝・ハドリアヌスの時に起こった反乱後、ハドリアヌスはこの地域のユダヤ色を一掃するため、『ユダヤ』という属州名をやめ「パレスチナ」と呼ぶようにしたのです。
ユダヤ人は「カナンの地」を追われ、離散してしまいます。
これを「ディアスポラ」と呼びます。

三大宗教の聖地「エルサレム」

ユダヤ教とキリスト教の聖地

ここで、少しユダヤ教とキリスト教のふたつの宗教について説明したいと思います。
このふたつの宗教と、この後に登場するイスラム教、この3つの宗教はいずれも「エルサレム」を聖地としていて、そのことが以降、パレスチナという地域の歴史を複雑にしてゆくのです。

「ユダヤ教」はその名の通り、「ユダヤ人の宗教」で、ユダヤ人が神に選ばれた民族であって、神との契約により「カナン(=パレスチナ)」を与えられ、繁栄を約束されたと考えています。

ちなみに私たちが「旧約聖書」と呼んでいる経典はユダヤ教徒にとっては単に「聖書」と呼ばれます。
“旧約”というのは後のキリスト教の「(新約)聖書」に対して使う言葉です。
キリスト教の「新しい契約」に対し、「古い契約」という意味を持っています。

ユダヤ属州時代、この地に登場したのがイエス・キリスト。
彼は人々に教えを説きましたが、自らを『ユダヤ人の王』と称したとしてユダヤ人によって裁かれ、ローマの総督・ピラトに引き渡されたうえで十字架の磔刑に処されます。
彼の死後、彼の弟子たちによって広められたのが「キリスト教」です。

キリスト教徒にとってユダヤ人は“イエスを磔刑に処させた民族”として、この後長く忌み嫌われることになりました。

キリスト教は当初、ローマ帝国によって迫害されましたが、コンスタンティヌス帝の時代に公認され、その後テオドシウス帝の時代には国教となって、その後のヨーロッパ世界に広まり、大きな影響を与えました。
エルサレムがキリスト教の聖地とされたのは、“ゴルゴダの丘でイエスが磔刑になった”ということに加え、コンスタンティヌス帝の母・聖ヘレナが巡礼してイエス磔刑の地を訪れたからです。

イスラム教の勃興とエルサレム

ローマ帝国が東西に分裂し、5世紀には西ローマ帝国が崩壊しました。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はその後もパレスチナを領有していましたが、7世紀になるとアラビア半島に起こった「イスラム教」により情勢が変化してゆきます。

イスラム教はユダヤ教やキリスト教と同様に「一神教」で、さらに始祖のムハンマドはモーセやイエス(・キリスト)らと同じ預言者であり、最後の預言者であるとしています。
また、「旧約・新約聖書」をコーランと同様に経典として認めています。
もちろん、現実的にはそれぞれの宗教は対立関係にあり、コーランこそが最後の、そして最も優れた預言であるということですが、あくまでも教義の上ではユダヤ教徒、キリスト教徒も「経典の民」であり、完全に相手を否定していたわけではなかったのです。

イスラム教はムハンマドの生誕の地・メッカを第1番目の聖地、メッカを追われたムハンマドがイスラム教の共同体をつくり、そして亡くなったメディナを第2の聖地、さらにエルサレムを第3の聖地としました。
このことがこの後のエルサレムとパレスチナの歴史に大きな影響を与えることになるのです。

イスラム帝国の時代と十字軍



イスラム帝国の勃興

7世紀に興ったイスラム帝国は当初、ムハンマドの正統な後継者(カリフ)に率いられて次第に版図を拡大していきました。
すでにこの「正統カリフ時代」にパレスチナはイスラム帝国の中に組み込まれます。

その後もウマイヤ朝・アッバース朝やエジプト・シリアを支配するイスラム系国家によって支配されることになりました。

はじめはイスラム教徒の平等な共同体として機能していたはずでしたが、ウマイヤ朝の頃になると「アラブ人」が力を持ち、税金などの面で優遇されるようになっていきます。
ウマイヤ朝を倒したアッバース朝はこれをやめ、イスラム教徒となればそれまでのアラブ系住民と同等の権利を得られるように改めました。
このことがイスラム教とイスラム帝国の拡大に寄与したことは言うまでもありません。

アッバース朝が衰えた後もエジプトやシリアはイスラム系の王朝が興っては滅びますが、パレスチナはそういった国々に支配され続けました。
ヨーロッパとアジア、そしてアフリカを結ぶ点に位置するパレスチナは、やがてキリスト教・イスラム教、そしてユダヤ教の3つの宗教がこの地をめぐり争うようになります。

十字軍の時代

聖地・エルサレムとパレスチナをめぐり、まずキリスト教徒イスラム教が激突します。
十字軍の時代がやって来ました。

東ローマ帝国皇帝・アレクシオス1世コムネノスの要請によりローマ教皇ウルバン2世が呼びかけ、聖地エルサレムの奪回を目指して十字軍が組織されます。
当時のエルサレムは遊牧系のセルジューク朝とエジプトに本拠を置くファーティマ朝とが領有を争っていましたが、アレクシオス1世はファーティマ朝と結んでセルジューク朝を攻めていました。

東ローマ帝国としてはさしあたっての脅威となっているイスラム勢力・セルジューク朝を撃退することが目的でしたが、要請を受けてパレスチナにやって来たカトリック(西ヨーロッパ)世界の十字軍の目的は「聖地・エルサレムの奪回」以外の何物でもありませんでした。

セルジューク朝が弱体化したチャンスにエルサレムを占領していたファーティマ朝は、今度は自らがっ十字軍によって包囲され、占領されることになりました。
この時、十字軍はエルサレムの市民を、イスラム教徒・ユダヤ教徒のみならずギリシャ正教徒など“非カトリックのキリスト教徒”に及ぶまで大量に虐殺したといいます。

オスマン帝国の時代

十字軍後のパレスチナ

第1回十字軍により、エルサレムとパレスチナには「エルサレム王国」が建国されます。
同じようにその周辺には「十字軍国家」と呼ばれるキリスト教国が誕生しましたが、互いに対立していました。
さらに各国家は次第に現地に溶け込んでいくうちに異教徒に対して寛容になりましたが、キリスト教会関係者と新たに送り込まれてくる十字軍は異教徒との戦闘を求めましたので、必ずしも安定してはいませんでした。

特にエジプトのイスラム国家とは対立関係にあり、ファーティマ朝と争っていました。
ファーティマ朝が弱体化すると、その後はアイユーブ朝と争い、エルサレム王国は敗れてエルサレムを失います。

その後、エルサレムは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世により一時的に変換されます。
それも「戦闘」ではなく「外交交渉」によって。
フリードリッヒ2世はシチリア島出身で、イタリアでは“フェデリコ2世”として有名ですが、数か国語を操り、当時としては学識豊かな君主でした。
アイユーブ朝のスルタンとの交渉により、聖地を血を流すことなく奪還したのです。

しかしそれもほんの一時のことでした。
再びエルサレムを追われた王国はパレスチナの海岸部・アッコン周辺に追い込まれ、その後も存続しましたが、13世紀の末にはマムルーク朝により完全に駆逐され、パレスチナは再びイスラム勢力の土地となったのです。

オスマン帝国の進出

パレスチナを支配するマムルーク朝は13世紀中ごろから16世紀にわたってパレスチナを支配しましたが、1517年にオスマン帝国に滅ぼされます。

オスマン帝国は13世紀末に小アジアで興った国家です。
「イェニチェリ」と呼ばれる常備歩兵軍を擁し、東ローマやヨーロッパの国々に侵攻するなど勢力を拡大しましたが、一時、ティムールに「アンカラの戦い」で敗れて後退していました。

その後勢力を回復したオスマン帝国は1453年、皇帝メフメト2世がコンスタンティノープルを陥落させ、東ローマ帝国を滅ぼします。
そして皇帝セリム1世の時代にさらに勢力を拡大しようとするオスマン帝国によってマムルーク朝は滅ぼされ、パレスチナはオスマン帝国の支配するところとなりました。
オスマン帝国ではパレスチナは「シリア」と呼ばれました。
このセリム1世とその息子のスレイマン1世の時代がオスマン帝国の最盛期であるといわれています。
ちなみに、スレイマン1世の名前の“スレイマン”はかつてイスラエル王国のもっとも繁栄した時代の王であった“ソロモン”のトルコ語での読み方です。

帝国主義時代のパレスチナ

オスマン帝国の弱体化と民族主義

スレイマン1世の時代に最盛期を迎えたオスマン帝国の繁栄も長くは続きませんでした。
17世紀以降、ヨーロッパ諸国がそれぞれの体制を安定させ、そのエネルギーを外に向け始めると、その矛先はオスマン帝国の支配地域にも向けられることになります。

まずハプスブルク家に支配されるオーストリアがオスマン帝国の領土に野心を向けます。
16世紀から続くハプスブルク帝国との対立は、当初はオスマン帝国の攻勢でヨーロッパに領土拡大に結び付きました。
しかし17世紀末、オーストリアの反撃により敗れたオスマン帝国はハンガリーなどのヨーロッパ大陸の領土を失いました。

さらに18世紀末にはロシアが南下を始め、2度にわたる対ロシア戦争でオスマン帝国は黒海沿岸・クリミア半島を失います。

こうして軍事的な弱体化が露呈する一方で、国内的には地方に半独立的な政権が台頭することとなり、さらにヨーロッパで興った革命の影響を受けた民族主義的な運動も活発化します。
特にバルカン半島のキリスト教民族のナショナリズムの機運はギリシャ独立戦争に結びつき、ギリシャは独立を果たします。

オスマン帝国は「瀕死の病人」と呼ばれるようになったのです。

エジプトをめぐる情勢とパレスチナ

こうした情勢の中、ナポレオンのエジプト遠征をきっかけにシリア、パレスチナ地域にも混乱が生まれます。
ナポレオンのフランス軍により占領されたエジプトを奪還するため、オスマン帝国はイギリスと協力してフランスを撃退しました。
この時に傭兵として戦いに参加したアルバニア人・ムハンマド・アリーは混乱に乗じて実力でエジプトを支配、さらにシリアを領有しようと2度にわたりオスマン帝国と戦いました。
一時的にシリアを支配したものの、宗教間の対立の根強い中でキリスト教・ユダヤ教の地位向上を図り、アラブ人を重用し、さらには伝統的に傭兵制によってきたこの地域で強制的に徴兵を行おうとするなど、シリア住民の反発を招き、そこに乗じたオスマン帝国とヨーロッパ列強に敗れてシリアの領有を諦めざるを得なくなりました。

一方で、19世紀になるとユダヤ人がパレスチナ地域に入植を始めます。
これは単一の民族による主権国家をつくろうとする「国民国家」という考え方に基づくものです。
これが後に「シオニズム」運動と呼ばれるユダヤ人の文化も含めた復権運動につながることになるのですが、さらには現代に続くパレスチナ地域の混乱の引き金にもなるのでした。

第一次世界大戦とパレスチナ



第一次世界大戦とイギリスの「三重外交」

19世紀末から20世紀初頭にかけて、“瀕死の病人”となったオスマン帝国の支配地域を含めて、ヨーロッパ各国の植民地獲得競争、帝国主義的な対立と緊張関係は頂点を迎えます。

イギリス・フランス・ロシアを中心とした「協商国」と、ドイツ・オーストリア・イタリアを中心とした「同盟国」に分かれての対立は、後にイタリアが同盟国側から離脱はするものの、そのまま第一次世界大戦へと向かって行きました。

オスマン帝国は、イギリス、ロシアとの対抗関係から同盟国側で参戦しました。
これに対してイギリス・フランス・ロシアは戦後のオスマン帝国の領土分割について「サイクス・ピコ協定」と呼ばれる秘密協定を締結します。

一方でイギリスは、オスマン帝国からの独立を画策するアラブ人に対し「フサイン・マクマホン協定」によって戦後のアラブ人国家の独立支持を約束する代わりに、オスマンに対して反乱を起こし戦争に協力することを求めました。

さらにユダヤ人の戦争協力を獲得するためにシオニズム運動を支持し、「バルフォア宣言」によってパレスチナをユダヤ人居住地(ナショナル・ホーム)とすることを約束したのです。

「三重外交」の実態とシリア・パレスチナ作戦

この“三重外交”の矛盾がこの後のパレスチナ問題のひとつの原因となった、といわれましたが、それぞれがすべての面で矛盾していたわけではありません。
バルフォア宣言によりユダヤ人の居住地とするとされたパレスチナはアラブ人との協定で約束されたアラブ人国家の地域には含まれておらず、サイクス・ピコ協定によって取り決められたイギリス・フランス・ロシアの勢力範囲の中でパレスチナはイギリスの勢力下にありそこにユダヤ人居住地を作るという意味では矛盾はないのです。

しかし、サイクス・ピコ協定は秘密協定であり、ロシアの革命の混乱により内容が暴露され、これがアラブ人の反発を引き起こしたことは間違いありません。
さらにユダヤ人居住地≒ユダヤ人国家と考えたシオニストから見ても、戦後の結果は不満の残るものであったことに違いはありません。
問題はむしろ、戦後からのイギリスの姿勢にありました。
この後の対応がパレスチナに大きな禍根を残すことになります。

ともあれ、大戦中はアラブ人もユダヤ人も積極的にイギリスに協力します。
イギリスの高等弁務官マクマホンと協定を結んだフサイン・イブン・アリーは、「アラビアのロレンス」で有名なトーマス・エドワード・ロレンスと共に「アラブの反乱」を組織し、ユダヤ人もアメリカやロシアなど各国から集結してユダヤ人軍団をつくり、ともにイギリス側で戦いました。

こうしてシリア・パレスチナでの作戦はイギリス側が勝利し、パレスチナのオスマン帝国による支配は終わりをつげたのです。

戦後と「イギリス委任統治領パレスチナ」

第一次世界大戦が終わると、パレスチナは一時的にイギリスの軍政下におかれます。
その後、国際連盟によりイギリスの委任統治が決まると“パレスチナ”としてイギリスの軍政下におかれていた地域からヨルダン川東岸のトランスヨルダンが分離されアラブ人の国家とされ、ヨルダン川から西の地域をパレスチナとしてイギリスが委任統治することとなりました。

当初は移住するユダヤ人は少なかったのですが、ヨーロッパで反ユダヤ人感情が高まるようになるとヨーロッパからのユダヤ人入植が増加し始めました。
彼らが政治・経済に影響を及ぼすようになると、パレスチナに住む「パレスチナ人」との間に軋轢が生じます。
「嘆きの壁事件」など、パレスチナ人がユダヤ人を襲撃する事件が発生するようになりました。

バルフォア宣言はもちろん、シオニストたちも初めはパレスチナ人の自治と彼らとの共存を掲げていました。
しかし、時と共にシオニストたちの要求はパレスチナ人の自治に対して制限を求めるようになり、さらには単なる居住地としての“ナショナル・ホーム”ではなくユダヤ人の「国家」を認めさせようとする方向へと変容して行きました。

パレスチナ人のうち、アラブ人は大規模な反乱を起こします。
これを契機にイギリスもユダヤ人の入植を制限し、パレスチナを分割の上でユダヤ人国家を創設し、パレスチナ人との対立を鎮めようと考え始めました。
しかしこのパレスチナ分割案はユダヤ、アラブ双方から拒絶されました。

この頃すでにヨーロッパでは戦争の足音が聞こえ始めていました。
イギリスは戦時下での協力を確保するためにアラブ側に配慮するようになり、シオニストたちとは距離を置くようになりました。
最終的にイギリスはユダヤ人の国家をつくるためにパレスチナを分割することも放棄し、さらに移住を制限するなど、その政策を方向転換したのです。
この後、シオニストはその協力者をアメリカに求めてゆくようになりました。

第二次世界大戦とパレスチナ

大戦下のパレスチナとホロコースト

第二次世界大戦がはじまると、ナチス=ドイツによって迫害を受けたユダヤ人がパレスチナに向かいます。
一方でイギリスによる移民の制限は続いており、非合法な形での移民者はイギリスによって捕らえられました。

アラブ人の側もイギリスに対する不満が募りました。
イギリスはパレスチナを分割することは取りやめたものの、パレスチナをユダヤ人とそれ以外の民族が共存するひとつの国家として独立させようとしたのです。
このようなイギリスの姿勢と、大戦緒戦のドイツの躍進を見たアラブ人はドイツ側に協力する姿勢を見せました。
ナチスもアラブの反英感情を利用します。

パレスチナのユダヤ人は一部に反英的な者もいましたが、それでも多くはイギリス側の立場で戦争に参加しました。
特にドイツが北アフリカを侵攻するとパレスチナにもナチスの力が及ぶようになることを恐れ、それに対抗するためにイギリスの援助を受けて常備兵部隊を編成したのです。
イギリス政府も彼らをユダヤ人旅団として編成して前線に送りました。
この旅団が後にイスラエル軍の中核となるのは戦後の話です。

イギリス統治の終了とパレスチナ分割決議

こうして戦後を迎えたパレスチナにホロコーストから逃れたユダヤ人が押し寄せようとしましたが、イギリスは移民の制限をやめようとはしませんでした。
ヨーロッパには45万人ものユダヤ人難民がいましたし、ホロコーストに同情的なアメリカなどの難民受け入れの要望にも拘らず、イギリス政府は移民制限を継続したのです。

こうしたイギリスの姿勢に対してユダヤ人の反英感情はさらに高まります。
そしてユダヤ人による武装蜂起がおこるようになると、イギリスの世論はパレスチナの委任統治継続に消極的な意見が大勢を占めるようになりました。
相次ぐテロの中で、イギリスは委任統治を終了、パレスチナから撤退することとなったのです。

新設された国際連合にイギリスの委任統治終了の提案がなされると、パレスチナの問題は国連の場で協議されることになりました。
国連はパレスチナ問題に関する特別委員会を設置し、パレスチナ地域の状況を調査したうえで、パレスチナを分割したうえでユダヤ人国家とアラブ人国家を創設、エルサレムを国際管理の下に置くことを勧告します。
1947年11月29日、国連総会においてこのパレスチナ分割決議案は採択されるのです。

中東戦争とイスラエルの拡大

中東戦争の勃発

パレスチナ分割決議の翌日からパレスチナは内戦状態に突入します。
ユダヤ人にとって決議は、エルサレムの管理に関する問題を除き、概ね歓迎されるものでした。
しかしアラブ人側にとっては受け入れられるものではなく、パレスチナ問題の武力解決を目指したのです。
緒戦ではアラブ側が優勢でしたが、ユダヤ側も巻き返し、内戦が続きました。

そのさなかの1948年5月14日、イギリスはパレスチナの委任統治を終了、同日にユダヤ側はイスラエルの建国を宣言したのです。

イスラエルの建国はアメリカやソ連などからは支持されましたが、アラブ諸国からは当然、認められませんでした。
アラブ諸国は建国間もないイスラエルに対して宣戦布告、第一次中東戦争が勃発します。

国連により軍事力の保有を禁止されていたイスラエルはエジプト・ヨルダンの精鋭部隊に攻め込まれ、エルサレムの旧市街を手放しますが、新市街は保持し続けました。
国連による決議による停戦中に戦力を整え、停戦後はアラブ側を圧倒します。
1949年7月までに各国は停戦に合意しますが、これによってイスラエルはパレスチナの大半を領有することとなる一方、東エルサレム(旧市街)を含むヨルダン川西岸地区をヨルダンが、ガザ地区をエジプトが領有することとなりました。
「嘆きの壁」を含むエルサレムの旧市街がヨルダンの手に渡ったことは、イスラエルのユダヤ人にとっては不満が残りました。

イスラエルの拡大と対立の変化

その後も緊張関係が続くイスラエルとアラブ諸国の間では戦闘が断続的に続きます。
特にゴラン高原でのユダヤ人入植地をめぐり緊張が高まった結果、第三次中東戦争が勃発してイスラエル軍はわずか6日間でヨルダン川西岸とガザ地区、東エルサレムといった旧パレスチナ地域を占領しました。
さらにゴラン高原とシナイ半島をおさえるなど、アラブ諸国に対して「完勝」をおさめるのです。

この戦争で多くの「パレスチナ難民」が生まれた一方で、イスラエルの領土拡大は国際社会からは認められませんでした。
国連もイスラエルの領土は建国当初のままとして、領土拡大を承認しなかったのです。

イスラエルとアラブ諸国、特にエジプトはその後も散発的に衝突を続けますが、1970年代になるとエジプトの政権が反イスラエル政策を方向転換、その他のアラブ諸国とイスラエルの国家間の大規模な衝突は影をひそめるようになります。
アラブ諸国側は1979年にイランで起こった「イスラム革命」が波及することを警戒するようになり、パレスチナ問題に集中している状況ではなくなっていたのです。

パレスチナの問題は「イスラエル対アラブ諸国」という対立の構図から「イスラエル対パレスチナ解放機構(PLO)」へと変わって行きます。

中東和平から現在



国際的なイスラエル批判とパレスチナ側の変容

1982年のイスラエルのレバノン侵攻はイスラエル国民にも変化を及ぼします。
それまでの軍事行動は「自衛のための戦争」と認識されていました。
しかしレバノンの侵攻は自衛とはいえず、イスラエルの国民にとっても違和感のあるものだったのです。

さらにガザ地区をめぐる武力衝突は「第一次インティファーダ」と呼ばれますが、最新鋭の武器を擁するイスラエル軍が満足な武装もないパレスチナの人々を攻撃する様が世界に衝撃を与えます。
パレスチナ側は当初は石を投げる「投石」、後には火炎瓶や手りゅう弾なども用いられましたが概ね粗末な武器であったのに対して、イスラエル側は催涙ガスやゴム弾、時には実弾を以てこれに対抗したのです。

戦闘が激しくなり、メディアによってその模様が全世界に伝えられるようになると国際世論もイスラエルに対して批判的になりました。
さらにイスラエル国内でも政府と軍のやり方に疑念が生まれるようになるのです。

一方でパレスチナ勢力の中でもこの後の歴史に大きな影響を与える出来事がこのインティファーダの中で起こります。
ひとつは現在のイスラム過激派勢力「ハマス」の誕生です。
ハマスはPLOの影響力を排除した民衆レベルでの対イスラエル抵抗組織としてこの時代に生まれました。

他方、PLOもこの時期は苦境に立たされていました。
PLOは湾岸戦争でイラク寄りの態度を示したため、周辺のアラブ諸国からの支援を打ち切られたのです。

中東和平への道のり

イラクのクウェート侵攻に端を発する湾岸戦争を経て、1991年に中東和平会議が開催されます。
インティファーダの中でPLOが苦境に立たされ、イスラエルでは和平派のラビン率いる労働党連合が圧勝しラビンが首相となりました。
アメリカでは中東和平に積極的なクリントンが大統領に就任し、この機会を利用して中東全体、特にパレスチナ問題の解決に向けて乗り出す姿勢を示したのです。
PLOとイスラエルは暫定自治協定に調印し、PLOを主体とするパレスチナ自治政府が発足しました。

しかし、イスラエル・パレスチナ双方ともすべての勢力がこの合意に納得していたわけではありません。
ハマスなどの過激派勢力はイスラエルを認めたPLOに対して不満を持っていましたし、イスラエルでも極右勢力はラビンの和平路線を支持せず、ラビン首相を暗殺する事態となります。

イスラエルでは右派の勢力が台頭して、後に首相も務めるアリエル・シャロンがエルサレムのイスラム教の聖地「岩のドーム」を訪れ、イスラム側を刺激して「第二次インティファーダ」と呼ばれる武力衝突のきっかけを作ります。

右派政権が成立したイスラエルに対して、パレスチナ自治政府の側もPLOのリーダーだったアラファトなどの主流派とハマスなどの過激派が対立、過激派側は反イスラエル路線を継続、イスラエル右派政権の挑発もあって衝突を続けました。
パレスチナの和平は暗礁に乗り上げ、今なお対立は続いているのです。

今なお混沌とする聖地…

キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の聖地とされるエルサレムを中心として、エジプト文明、メソポタミア文明とギリシャ・ローマ文明の接点として古代から様々な民族が暮らし、支配してきたパレスチナ。

民族、国家の利害をめぐって今世紀に至ってもなお、混乱を続けるこの地域に「真の平和」が訪れるのはいつになるのでしょうか?

パレスチナに暮らすそれぞれの民族が人種、宗教の違いを乗り越え、一日も早い平和の到来を願ってやみません。