なんでアムステルダムは首都なのに首都機能がないの?オランダ・アムステルダムの歴史

オランダの都市といえばだれもが思い浮かべるのがアムステルダム。人口は82万人。もちろんオランダ最大の都市であり、オランダの首都です。ただし、首都機能と呼べるものはほとんど、この国の第3の都市「デン・ハーグ」にあります。どうしてこんなことになったのでしょうか?
並みいるヨーロッパの大国の都市を押しのけるように、小国オランダの都市がここまで有名になったのは、いったいどういった経緯だったのでしょうか?
ヨーロッパの中心都市としてあまりにも有名な商業・観光都市アムステルダムが現在の姿になった歴史を見て行きましょう。

始まりは『アムステル川に築かれた「堤防」』だった

未開の土地 古代からヴァイキングの時代まで

わたしたちが「オランダ」と呼んでいる国は実は「ネーデルラント」というのが正式名称。
ネーデルラント(Neder₋landen)は“低い土地”という意味で、他の地域に比べて海抜よりも低い土地なのです。
このネーデルラント、ローマ帝国の時代にはすでにフランク人やフリース(フリジア)人の住むゲルマン人の土地でしたが、カエサルのガリア征服によりライン川より南の地域はローマ帝国領となっています。
それより北の地域はローマの勢力の及ばない地域でした。
特に西ネーデルラント(現在の南北ホラント州、アムステルダムを含みます)は12世紀に至るまで「未開の土地」であったといいます。

アムステルダムの近くには「フレヴォ湖」と呼ばれる湖がありましたが、この時代を通じて拡大しており、後に海水の侵入で海とつながります。
浸食を受けやすい泥炭地だったのです。

ゲルマン民族の大移動の時期にはその通過点となり、フランク王国の成立後はフランク領、王国の分裂後は中フランク王国から東フランク王国に帰属が変わり、9世紀から11世紀のヴァイキングの活躍した時代はヴァイキングの征服を受けました。

11世紀以降、フランドルなどの農民が西ネーデルラントに入植、泥炭地を排水して開墾するようになります。
この地域がホラントと呼ばれるようになったのはこの頃で、私たちが「オランダ」と呼んでいるのはこの「ホラント」に由来します。

アムステルダム建設の伝説と名前の由来

アムステルダムの建設は遅く、13世紀のことです。
伝説では犬を連れてボートに乗ったふたりの漁師がアムステル川の川岸に上陸して築いたといわれています。
始まりは漁村だったのです。
このアムステル川を堰き止める堤防(ダム)が1270年ころに建設され、結ばれた川の両岸の周辺に人々が集住するようになりました。
「アムステル川を堰き止めるダム」…これがそのまま町の名前、「アムステルダム」になったのです。

こうして誕生したアムステルダムは次第に拡大していきます。
船着場近くには魚市場が立つようになり、これがのちの商業都市への第一歩となったのです。

この地域の土壌は浸食を受けやすいもろい土地で、ローマ時代にはフレヴォ湖と呼ばれる湖だったものが、その頃は「ゾイデル海」と呼ばれる入り江になっていました。

このゾイデル海に1287年12月14日、嵐により北海から大量の海水が流れ込み、5万人とも8万人とも言われる死者を出す惨事となりました。
この洪水の後も海水は引かずにゾイデル海が北海とつながったことが、アムステルダムを交易都市とするきっかけとなりました。
入り江の一番奥に位置するアムステルダムは北海からバルト海へとつながる航路を確保し、バルト海交易路が開かれたのです。

商業都市・アムステルダムの萌芽

バルト海交易の中心地となったアムステルダム

こうして海の交易路を得たアムステルダムは1300年には自由都市となり、ちょうどその頃、北ドイツで隆盛を誇っていたハンザ同盟と交易を始めます。
ハンザ同盟は北ドイツの都市・リューベックを盟主とする商業都市の同盟です。
12世紀以降、人口が増大し商業が復活するとともに発展し、バルト海沿岸の交易を牛耳っていました。
アムステルダムを含むネーデルラントは14世紀後半にはブルゴーニュ公国の一部として政治的にも統一されつつあり、特に南部で毛織物を中心とした商業が発展していました。
バルト海交易においてハンザ同盟とネーデルラントの間に利害の衝突はなく、むしろ当時の共通の脅威はデンマークでした。

ハンザ同盟はデンマークと戦争状態に入ります。
この時のハンザ会議にアムステルダムは代表を送っています。
すでにこの頃、商業都市としての地位を確立しつつあったのです。
この後、15世紀に入るとハンザ同盟のヨーロッパ貿易における地位が徐々に、相対的に低下していくと同時にネーデルラントの諸都市、そしてアムステルダムがハンザ都市を上回ることになります。

スペイン=ハプスブルクの支配

ネーデルラントを支配していたブルゴーニュ公、ヴァロワ=ブルゴーニュ家の家系はマリー・ド・ブルゴーニュで絶え、長男のフィリップ4世がネーデルラントを継承します。
彼の父はハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世でこの後のネーデルラントはハプスブルク家の支配下となります。
フィリップ4世の子・シャルルが神聖ローマ皇帝カール5世として即位すると、ネーデルラントはカール5世の専制支配のもとで徐々に経済的自由を失います。
さらに折からの宗教改革の波がネーデルラントにも押し寄せており、とくにアムステルダムを含む北部ではプロテスタントが普及していきました。
「神聖ローマ皇帝」であるカール5世はカトリックの擁護者、必然的に緊張関係が生じます。

そうした情勢の中でカール5世は退位し、ヨーロッパ全土に及んだ家領をオーストリアとスペインのふたつのハプスブルクに分けて相続させます。
ネーデルラントはスペイン=ハプスブルク家の支配下に入れられました。

スペインを継承したフェリペ2世はカルヴァン派のプロテスタントを異端審問で弾圧、さらに課税を強化するなどの強硬的な姿勢で統治をおこないました。
カルヴァン派はもちろん、南部に多かったカトリックの商人もフェリペ2世に反発したため、緊張関係はさらに強くなります。
そしてついにはネーデルラント全体を巻き込む反乱がおこったのです。

成長するアムステルダム

オランダの独立とアムステルダムの発展

スペインとネーデルラントの争いは「80年戦争」と呼ばれます。
もちろん、80年の間絶え間なく戦闘状態が続いていたわけではないのですが、1568年から1648年までの期間、一時の休戦期間を除いて争いは続きました。
当時、ネーデルラントは17の州で構成されていました。
これらの諸州はオラニエ公ウィレム1世を先頭にスペインの統治に対して反旗を翻しました。

南部はカトリック勢力が根強く残っていました。
スペインはこの南部を徐々に制圧し、ついには中心都市であるアントウェルペンを陥落させます。
これに対して北部の7つの州は「ユトレヒト同盟」を結成して抵抗し、1600年ころにはスペインの統治から独立の状態となります。

この後もスペインとの抗争は続きますが、最終的にドイツ30年戦争後のヴェストファーレン条約で北部7州の独立は承認されたのです。
南部は引き続きスペイン統治下に残留し、後のベルギー・ルクセンブルクとなります。

アントウェルペン陥落後、スペインの統治を嫌ったアントウェルペンのプロテスタントはアムステルダムに移住します。
このプロテスタント商人がアムステルダムのさらなる発展に貢献したのです。

アムステルダムの商業圏の拡大

アントウェルペンから逃れてきた商人によって、アムステルダムの商業圏はそれまでのバルト海沿岸の交易から地中海交易を含む全ヨーロッパ的なものとなります。
さらにその頃すでに始まっていた新大陸・アジアとの交易にもアムステルダムが乗り出す契機となったのです。
独立を獲得した「オランダ共和国」、そしてアムステルダムはプロテスタント勢力でしたが、宗教的には寛容な態度をとりました。
このことがさらにアントウェルペンの豪商の移住を誘い、さらにはフランスのユグノーやスペイン・ポルトガルのユダヤ人らも移住してきます。

ユダヤ人はカトリックのスペインにおいては「異教徒」、レコンキスタの対象とされていました。
ユダヤ人はこの地でダイヤモンドの加工を営みました。

1609年にはアムステルダム銀行が設立されます。
ヴェネツィアの銀行をモデルとしたこの銀行は、それまで民間金融業者によって行われていた振替業務を行う公立銀行でした。
そして、その出資者731人の中には25人のユダヤ人が含まれていたのです。

また、この頃フランドルから移住してきた人々によって現在の「オランダ語」の基礎が作られました。
これによって言語が洗練・統一され、商業に寄与しました。

黄金時代を迎えるアムステルダム

なぜ、アムステルダムが世界商業の中心になれたのか?

オランダが事実上の独立を果たした17世紀初頭はアムステルダムが「黄金時代」を迎えた時でもあります。
おそらくその時代の都市の中で「最も裕福な都市」だったでしょう。
アムステルダムが世界商業の中心地として栄えた理由はその恵まれた地理条件にあります。
バルト海に通じるゾイデル海(現在は堤防によってバルト海と遮られた湖として「アイセル湖・マルケル湖」と呼ばれています)に面した港は水深こそ浅いものの広く、交易の結節点としての役割には十分すぎるほどでした。

宗教的に寛容な姿勢をとっていたことも、世界貿易の仲では有利に働いたと考えられます。
大航海時代が始まるとまず先頭を切って世界進出を果たしたのはスペインやポルトガルといった「カトリック」の国々でした。
彼らが新大陸やアジアを目指した動機は交易だけではありません。
キリスト教、特にカトリックの世界を拡大するための「布教活動」はむしろ、交易よりも大切な事柄でした。

これに対してオランダ、アムステルダムは「布教」を目的とはせず、純粋に「交易」・「商業」を主な動機として世界の海に漕ぎ出したのです。
キリスト教以外の宗教を信じる人々の地域で、信仰を強要しない姿勢は、ある意味で受け入れやすかったと思われます。

東インド会社の成立とイギリスとの争い

アジアとの貿易が始まると、アムステルダムの商人たちは競って船を出し、次々とアジアの珍しい品々をアムステルダムにもたらします。
当時は香辛料が主な品物でしたが、多くの商人が東南アジアで買付をしたため現地での価格が高騰します。
一方でアムステルダムでは品物がだぶつき、値段が下がってしまうという悪循環を生み出してしまったのでした。
この悪循環を解決するために設立されたのが、独占的にアジア貿易を行う「東インド会社」です。
同様に新大陸での貿易を独占的に行う「西インド会社」も設立され、どちらの組織でもアムステルダムの商人が主要な位置を占めていました。

このような「特許会社」を設立していたのはオランダだけではありません。
同じく新教の国、イギリスではオランダよりも少し早く「東インド会社」が設立されていました。
スペインとポルトガルが優勢なうちはオランダとイギリスは協力関係にありました。
しかしスペイン・ポルトガルが没落すると両国の競争になり、オランダの東インド会社が、先輩格のイギリス東インド会社を上回るようになると対立が深まります。
オランダがアンボイナのイギリス商館を襲った「アンボイナ事件」以降、イギリスは香辛料貿易から撤退を余儀なくされます。
こうした対立がのちに「英蘭戦争」へとつながっていきました。

ヨーロッパの中心都市・アムステルダム

世界初の株式会社と証券取引所

1609年にアムステルダムに銀行が設立される以前の1602年、世界で初めての常設の証券取引所がアムステルダムに設立されます。
目的は「オランダ東インド会社」の発行する株式の売買、これも世界で初めての株式会社です。
これより前からフランスでは農村の債権を銀行が取引して管理するシステムは存在していました。
イタリアでも政府の証券を銀行が取引していたことは知られています。
しかし、「証券取引所」としてこれを設立したのはアムステルダムが「世界初」でした。

アムステルダムは交易の中心であるだけでなく、このように当時の世界のフィナンシャル・センターとしても発達してゆきます。

“北のベネツィア”と称されるように、アムステルダムは「運河の街」です。
アムステルダムの運河網もこの時代に作られました。
増加する人口に対応するため、宅地造成を目的として「ヘーレン運河」・「プリンセン運河」・「ケイザー運河」といった運河が同心円状に整備されます。
さらに運河は流入する移民から街を防衛する目的も持っていました。
アムステルダムの人口は17世紀の100年間で3倍以上に増加していたのです。

世界初のバブル?“チューリップ・バブル”

この頃、「チューリップ・バブル」という珍しい現象も起きています。
チューリップは元々、オスマン=トルコで非常に親しまれた花で16世紀にヨーロッパに伝えられます。
ライデン大学でチューリップの研究が行われ品種改良が進んだ結果、様々な品種のチューリップが生み出されました。
愛好家が登場してチューリップのブームが起きますが、チューリップは短期間に増やすことの難しい花だったため品薄となり、価格が高騰します。
一攫千金を目論む投機家がこれに目を付けて取引を行うようになり、転売や先物取引も行われるようになりました。
そしてまもなく価格が暴落します。

この「チューリップ・バブル」、原因はいまだに不明なうえ実際の経済に影響を与えなかったことから、あまり注目されてきませんでした。
今でも裕福な人々が高価な植物や動物などを求めることはありますが、この頃のアムステルダムはそれだけ裕福な都市だったということかもしれません。
こんな逸話も残っています。

『あるイギリス人が、オランダの友人宅を訪ねましたが、友人は外出中でした。
そのイギリス人は友人の家の中で、変わったタマネギを見つけます。
友人が帰ってくると、イギリス人がその球根を切って、中を調べていました。
彼は「これは何というタマネギなの?」と尋ねました。
「それは“アドミラル・フォン・デル・アイク”と言うのだ」「なるほど。
これはオランダではよくある品種なの?」友人はイギリス人の襟首を引っつかみ「俺と一緒に、役人のところに行けばわかるさ」と答えました。
イギリス人は監獄に入れられた挙句、弁償に金貨2,000枚を支払わされました…。』

アムステルダムの知識人・文化人

この時代、オランダは世界で一番自由が保障された国でした。
宗教的に寛容な姿勢だったことはすでに触れましたが、言論や思想、出版の自由も保証されていました。
そのためヨーロッパ各国から当時の文化人たちが最大の都市であるアムステルダムに移住(亡命)して来ます。
中でも有名なのは「近代哲学の父」とされるデカルトでしょう。
彼はフランス人でしたが、「孤独な隠れた生活」を求めて32歳の時にアムステルダムに移り住み、本格的に哲学に取り掛かります。
デカルトは招かれたスウェーデンで息を引き取りますが、多くの著作をこのアムステルダム時代に書き残しました。

画家のレンブラントもアムステルダムで活躍した文化人のひとりです。
当時の画家が大成するにはイタリアへ行くのが常でしたが、レンブラントは生まれ育ったライデンからアムステルダムに移り住みました。
彼はズワネンブルグワル運河の傍にある豪邸で創作活動を行いました。
現在は「レンブラントの家」として保存されています。

同じくズワネンブルグワル運河に住んだ著名人としてユダヤ人の哲学者・スピノザがいます。
彼はオランダ生まれですが、両親はポルトガルでの迫害を逃れてアムステルダムにやってきました。
スピノザは後にユダヤ教に批判的な態度をとったため、アムステルダムのユダヤ人社会から追放され、ハーグに移り住み、そこで亡くなりました。

「無総督時代」とアムステルダム

オラニエ=ナッサウ家の総督

オランダの政治体制はオラニエ公マウリッツの時代にほぼ固まりました。
閑話休題。
ここでオラニエ公、そしてこのマウリッツについて少し脱線しようと思います。

オランダの現国王家は「オラニエ=ナッサウ家」です。
これはオランダ独立の際の「オラニエ公」の時代から変わらず続いています。
元はドイツ・ナッサウ伯から始まるドイツ諸侯でしたが14~15世紀にかけてネーデルラントに勢力を伸ばしました。
さらにウィレム1世は従兄から相続した南フランスのオランジュ公国(オランダ語でオラニエ)を相続したため以降、「オラニエ公」を名乗り、オランジュ公国がフランスに併合された後も名目上、用いられてきました。
後にネーデルラント王国が出来てからは「オラニエ公」の称号は王太子のものとなります。

さて、オラニエ公ウィレム1世は共和国の総督となりましたが暗殺されてしまいます。
跡を継いだのがマウリッツでした。
このマウリッツが実は日本と関りを持つことになります。
日本でキリスト教が禁じられ、スペインやポルトガルなどの勢力が締め出されたこの時代、オランダはヨーロッパで唯一徳川幕府から朱印状を獲得していました。
オランダ東インド会社は大御所・徳川家康にマウリッツを「国王」とした書簡を提出し、認められたのです。
ただ、この「国王」というのはあくまでフィクション。
東インド会社は便宜上こうしたのですが、これ以降、このフィクションを通し続けます。

総督がいない時代のアムステルダム

さて本題に戻ります。
マウリッツの時代で確立した政体は法律の上では7州が平等な議決権を持つことになっていました。
しかし、アムステルダムを含むホラント州が人口の半分を占め、政府予算の6割弱を負担していたのです。
そのホラント州の議会に予算の44%を支弁していたのがアムステルダムでした。
この状況はホラント州の議会をアムステルダムが牛耳っていたことを意味します。
アムステルダムの市政はレヘントと呼ばれる特権的豪商に事実上、支配されていましたから、アムステルダムの豪商が国政にまで干渉しているような状況だったのです。

1650年、総督のオラニエ公ウィレム2世が急死します。
親英派の総督と議会は対立していました。
総督はアムステルダムを包囲するなど、優勢でしたが、総督の急死で事態は変わり、議会反オラニエ派が実権を掌握します。
これ以降、総督を置かないことを決めてしまったのです。

その頃には豪商たちは運河沿いに新たに造成された地域に豪邸を建ててそこで暮らすようになっていました。
汚職が蔓延し、参事会もまともに開かれなくなっていました。

ウィレム2世の跡を継いだウィレム3世が勢力を挽回して総督となりますが、ウィレム3世が亡くなった後は再び豪商の勢力が台頭して無政府状態になってしまいます。

ちなみにこのウィレム3世がイギリスの名誉革命後、妻のメアリーと共同統治ではありますがイギリス国王・ウイリアム3世として即位することになります。

アムステルダムの斜陽

イギリスの台頭と英蘭戦争

オランダとアムステルダムが黄金時代を迎えたころ、イギリスが海上王国として台頭してきます。
2度の市民革命(「清教徒革命」・「名誉革命」)という政治的な混乱はありましたが、その間も着々と海外へ進出し、オランダと覇権を争うまでになっていました。
すでに触れたアンボイナ事件でアジアから事実上の撤退を余儀なくされましたが、新大陸において徐々にその勢力を伸ばしつつあったイギリスは、制海権をめぐってオランダと対立します。
さらに金融の分野でもアムステルダム銀行とシティ・オブ・ロンドンの競争が激化します。

その上、オランダ総督家のオラニエ=ナッサウ家とイングランド王家とは姻戚関係にあったため、オランダ国内ではイギリス(王家)に友好的な総督派と金融・貿易の面で反発する豪商たちの間で対立し、先に触れた無総督時代につながります。

英蘭両国の覇権争いは「英蘭戦争」に発展します。
3次にわたる戦争はオランダ、イギリス双方ともに大きな成果もないままでしたが、戦費の調達などオランダ経済は打撃を受け、その多くを担うアムステルダムの繁栄にも影を落とし始めます。

イギリスとの同君連合がもたらしたもの

英蘭戦争で対立した両国ですが、オラニエ公ウィレム3世が「ウイリアム3世」としてイギリス王を兼ねるようになると一時的に協調関係になります。
一方、オランダの商人が拠点をロンドンに移すようになり、ウイリアム3世の意向でオランダの海軍力が抑えられるようになると、オランダの経済成長は鈍くなっていきました。
この経済成長の鈍化はオランダ、そしてアムステルダムの商人たちにとって打撃となり、ウィレム3世の死後、同君連合が解消されると再びイギリスと対立するようになります。

新大陸・アメリカで「独立戦争」が始まると、オランダは表面上「中立」としながらアメリカ植民地側を支援したため、イギリスと再び戦争状態となります。
しかし当時のオランダ海軍はウィレム3世の時代に軍事力をおさえられた結果、20隻程度の軍艦しか保有しておらず艦隊とは言えない状況でした。

17世紀後半の25年間に95隻の軍艦を建造して対抗しますが、それでもイギリス海軍との差は埋められず、大きな戦果も挙げられないまま、さらにオランダとアムステルダムの経済を疲弊させてしまいました。
さらにこのイギリスとの対立がフランスからの侵攻を許すことになります。

フランスの進出 共和国の崩壊と王国の成立

フランス勢力のネーデルラント進出

フランスはすでにルイ14世の頃からオランダに対して反感と領土的野心を持っていました。
ウィレム3世のイギリスとの同君連合はこの点ではフランスへの対抗策という一面も持っていました。
アムステルダムはオランダの中心都市として財政的にも国を支えていましたから、相次いでイギリス・フランスと戦争をした結果、疲弊してゆきます。
フランス革命が勃発し、周辺国との「フランス革命戦争」が始まると次第にフランス軍は「防衛」のためよりはむしろ「侵略」的な性格を強め、周辺国に侵攻します。
オランダもその財力と海軍力に目をつけられて侵略されて、共和国は崩壊しフランスの衛星国家とされてしまったのです。

ナポレオン戦争の時代はアムステルダムの経済はどん底でした。
ナポレオンは弟のルイ・ボナパルトを国王とする衛星国家を樹立させましたが、国王のルイはオランダ人の利益に配慮して兄のナポレオンが発した「大陸封鎖令」に反対し、さらに徴兵も行わず、兄の傀儡とはなりませんでした。
ルイは廃位され、侵攻を再び受けたオランダは完全に併合されてしまいました。

ナポレオン没落後のネーデルラントとベルギーの独立

ナポレオンが失脚し、列強がウィーン会議で戦後の処理を定めた中でオランダはかつて宗教上の違いから分かれた現在のベルギー・ルクセンブルクを含む南ネーデルラントと共に「ネーデルラント連合王国」とされます。
国王にはオランダ総督家のオラニエ=ナッサウ家がなることとなりました。
アムステルダムはこの時期から次第に復興してゆきます。
ただ、このネーデルラント王国の時代の首都はアムステルダムではなくデン・ハーグとブリュッセルで2年ごとに持ち回りとされ、政府の機関はデン・ハーグにおかれました。

列強の意図はこの地域にフランスの野心が再び向けられた時、「北の防壁」となることを期待してのことでした。
しかし数世紀にわたって別々の国として存在し、宗教的にも違いのある南ネーデルラントとオランダはひとつの国として機能することは困難でした。
さらに経済的にも商工業が発達した北のオランダと、未発達で農業中心の南では格差がありすぎたのです。

フランス7月革命の起きた1830年、南ネーデルラントの一部はベルギー王国として独立を宣言します。
この時にオランダは首都をアムステルダムに定めました。
しかし、政府機能は依然としてデン・ハーグにおかれ続けました。
これが現在もオランダの首都機能のほとんどがアムステルダムではなくデン・ハーグにある理由なのです。

2度目の黄金時代と近代アムステルダム

産業革命と市街地の整備

19世紀を通じて次第に繁栄を取り戻しつつあったアムステルダムはその終わりごろに2度目の黄金時代といわれる時期を迎えます。
産業革命がこの地にも到達し、人口も増え始めました。
1度目の黄金時代には市内に同心円状の運河を建設しましたが、その後の衰退期には運河の建設はされても工事が遅延するなど、順調には進みませんでした。
黄金時代に立案された都市計画では運河の用地であった所が公園など、別用途に利用されることもありました。

この時代には再び運河の整備が始まりますが、それは主にヨーロッパの内陸部と外部との通商を活発にする大規模なものです。
アムステルダム=ライン運河はライン川への直通ルートとなり、内陸部への水上輸送を容易にしました。
また、北海運河は当時、砂の堆積が進んでいたゾイデル海を経由せずに北海へと抜けるルートとして外部との接続を容易にしたのです。

一度は衰退したアムステルダムは、混乱の数世紀を乗り越えて、世界経済の一中心地としての役割を担い続けました。
そして新たな建築物も建てられ、現在のアムステルダムの風景を獲得しつつあったのです。

この頃建てられた公共の建築物

この時期に新たに建てられて、現在にも伝わる有名な建物のひとつは「アムステルダム国立美術館」です。
17世紀の黄金時代のオランダ絵画が数多く収蔵されたこの美術館は元々、1800年にフランス支配下のオランダ総督ルブラン(フランス人)によってデン・ハーグで開かれた展覧会が基礎となっています。
ナポレオンの命により1808年にアムステルダムに移転、1885年に現在の場所に移動しました。
世界有数のコンサートホールである「コンセルトヘボウ」もこの時期に建てられました。
ボストンのシンフォニー・ホール、ウィーンのウィーン楽友協会と並び戦前からの姿をそのまま伝える優れたコンサートホールとして有名なコンセルトヘボウは1888年にこけら落とし、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の本拠地です。

アムステルダムで最大の公園「フォンデル公園」は1865年に開設されました。
17世紀オランダの作家、ヨースト・ファン・デン・フォンデルにちなんで名づけられましたが、当時は「新公園」と呼ばれていました。
市の南西部、高級住宅の立ち並ぶ地域にあります。

アムステルダム中央駅もこの時代に建設されたものです。
こうして現在の街並みが整備されたのが2度目の黄金時代でした。

両大戦とアムステルダム

荒廃するアムステルダム

第一次世界大戦前には市街地が拡張されます。
第2次世界大戦前の100年間で人口はそれ以前の4倍にも増えており、新市街の建設が必要となったのです。
オランダは第1次世界大戦では中立の立場をとりました。
しかしアムステルダムは物資が不足し、特に食料と暖房用の燃料が不足したことから市民の暴動が発生、数名の犠牲者が出ました。

オランダは第2次世界大戦でも中立を宣言していました。
しかし、1940年5月にはドイツ軍がフランス侵攻にあたり重要な地域であったベネルクス3国に侵攻、オランダはたったの5日間で制圧されてしまいます。
王室・政府がロンドンに亡命する中、ナチス・ドイツはオランダにおける友党的存在、オランダ・ナチスによる政権をアムステルダムに樹立させ、占領政策を実施させました。

戦争の最後の1か月間は通信手段も閉ざされ、食料も燃料も枯渇しました。
市民は食料を得るために農村に向かい、犬や猫、砂糖大根などを食料とするありさまでした。
アムステルダムの木は切り倒され、燃料とされました。
また、収容所に送られたユダヤ人の家屋を壊してその木を薪としたこともあったのです。
このような状況はドイツが連合国に敗北し、解放されるまで続きました。

アンネ・フランク ユダヤ人迫害の歴史

ナチス占領下の国々ではユダヤ人が次々と迫害を受けましたが、オランダ、アムステルダムも例外ではありません。
先にも触れたとおり、強制収容所に送られたユダヤ人の家を燃料としたことも記録されています。
アムステルダムには多くのユダヤ人が暮らしていました。
アムステルダムの成長期から黄金時代(15~17世紀)にかけてヨーロッパの各国で迫害を受けたユダヤ人の商人が自由を求めてアムステルダムにやって来ていました。
黄金時代の発展を支えたのはユダヤ人の商人といっても過言ではないかもしれません。
アムステルダム銀行の設立にあたって出資したユダヤ人もいましたし、ユダヤ系の知識人もこの地で暮らしたものも少なくありません。

ナチス・ドイツの占領後、アムステルダムのユダヤ人もその迫害の対象となります。
その中にアンネ・フランクがいました。
彼女は元々アムステルダムに住んでいたわけではありません。
ドイツに住んでいたアンネは家族とともにナチスの迫害から逃れるため、中立国・オランダのアムステルダムに移住したのです。
父親はアムステルダムで事業を営むなどしており、平和な暮らしがあるはずでした。

しかし、ナチスによる占領後はアムステルダムもナチスによる監視と迫害が家族に降りかかります。
現在も「アンネ・フランクの家」として保存され博物館となっている「隠れ家」でおよそ2年の間暮らしていた彼女は、ついにゲシュタポに発見され、アウシュビッツ=ビルケナウ収容所に送られてしまいました。

今もヨーロッパの中心都市であり続けるアムステルダム

第2次大戦後、アムステルダムは復興を遂げ、再びヨーロッパの主要都市となりました。
世界遺産になっている運河や、かつての繁栄を今に伝える建築物など、“北のヴェネツィア”と呼ばれるその景観は今も訪れる人を魅了します。

世界中の富を集めた黄金期の映画の残り香、一時代を築いた絵画の数々、そしてアンネの生涯に見る人類の哀しみの歴史…。

これからもアムステルダムは世界中の人々を惹きつけ続けることでしょう。

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